第12話 羽ばたく女
無事県大会に駒を進めた真友は上機嫌だった。遠征用のバスで帰って来たテニス部の面々を、陽向と愛と一緒に眺めながら、私は校門脇の花壇に腰かけている。
チームメイトと互いを労い合う真友の顔は、私が今まで見てきた彼女の顔のどれにも当てはまらない。
舌打ちが聞こえた。
肩に黒と白のストライプが入った赤いユニフォームを着て、テニスラケットの入った袋とエナメルバッグを肩にかけた真友が駆け寄ってくる。その笑顔からは疲労の色を感じさせない。頭の後ろのポニーテールがまるで犬のしっぽの様に揺れている。
真友が近づいてくると、私たちのいる空間が制汗剤の匂いで包まれる。その強烈な匂いは、爽やかさを通り越して鼻が痛い。
「三人とも待っててくれたの?ごめんね」
真友を中心にして、三人で取り囲むように円を作る。でも、陽向だけは一歩下がった位置にいた。
「おつかれ、真友」
「美月ちゃん!私、県大会行けるよ!」
その体から湯気を発していないのが不思議なほど、未だ興奮冷めやらぬといった様子の彼女は、輝くような瞳を私に向けてくる。愛の「おめでとう真友ちゃん」と言う言葉にも、大げさなくらい喜んで手を握り合う。「私、県大会でも勝つからね」と、私に挑むような視線を送ってくる。その誇らしげな表情に対して抱いた薄暗い感情は、きっと表に出すべきものではない。その代わりに私は「すげーな」と言いながら、真友の髪の毛をわしゃわしゃとかき回す。そんな子ども扱いを受けたことが気に入らないのか、わざとらしく脹れて見せる彼女が可愛らしくて、声を上げて笑ってしまった。
突然、視界の端からぬっと水色の物体が入り込む。それは、青いラベルに黄色のロゴが入ったスポーツドリンクだった。差し出されたそれの持ち主は陽向だ。表情は相変わらず静かなままで、真友がスポーツドリンクを受け取ると、「おめでとう、真友さん」と一言残して立ち去ろうとする。
「おい、陽向」
彼女を呼び止めながら、私の口角が上がる。自分でも驚くくらい、喜びという感情が心に湧き上がってくる。とても些細な出来事ではある。しかし陽向がそれをするということが、どれだけ私たちの間に存在していなかったか。無頓着な陽向が、やっとこの四人組の一部になったのだと感じた。「友情」という言葉は、もしかしたらこの感情の為にあるのかもしれない。その気持ちがどこか恥ずかしくて、誤魔化すかのように陽向を背中から強く抱きしめる。
「陽向!どうしたんだよ急に!」
「ちょっと、触らないで」
嫌そうな声で、しかし強く抵抗はしない。それを見た真友も愛も笑っている。
日の沈み出した校門前が、私たちの周りだけ青く輝いていた。
県大会は翌週の土曜日に開催された。場所は県内の総合公園。サッカーグラウンドに陸上競技場、体育館が二つにテニスコートが十六面、野球場と水泳場、そして子供が駆け回る芝生の広場がある。幼い頃「公園」と言えば、それは遊具があちこちに設置されている場所だけを指すのだと思っていた。だから初めてここを訪れた時は、これのどこが公園なのだろうかと思った。だがそれが自然の景観の為や、地域の交流の場として存在していることを知ってからは、その押しつけがましさにうんざりした。
かつてとは対照的な印象になってしまったその場所に、愛と二人でやって来た。陽向のことも誘ったが、「予定がある」の一言で断られた。先週の地区大会の日に彼女が見せた、友情めいたものがあったとは言え、そこから突然付き合いが良くなるということも無く、相変わらず霧の様に静かな女だった。
片側に八面ずつあるテニスコートに、挟まれるように設置されているスタンド席に腰かける。五月にしては強い日差しが、屋根の無いスタンド席に降り注ぐ。愛が持って来た日傘に入る。
「愛、それ暑くねえの?」
この気怠い気温の中でも、肌の露出を抑えてるその姿は、見ている方が暑く感じる。顔を赤くしながら「うん、大丈夫」と答えた愛の額に、外の自販機で買ったミネラルウォーターを押し付ける。
「それ飲んでろ」
見下ろしたテニスコートに見慣れた背中が現れる。真友が振り返って私たちを認めると、手を振ってはにかむ。彼女の緊張が私の鼓動を速くする。
熱くなった体を風が吹き抜ける。ボールを弾く軽快な音が四方から聞こえてきた。試合が始まった。
その日の真友の動きは、私が見た中で最も力強かった。先週の真友の活躍を見れていないことが悔やまれる。右へ左へ駆け回るその足に迷いは無く、ボールを追いかけていると言うよりも、ボールがラケットへ吸い込まれているかのように見えた。真友に点数が入るたびに小さくガッツポーズをする。逆に相手に点が入ると、真後ろの席からいくつかの歓声が上がった。十中八九相手選手の関係者だ。謎の対抗意識に襲われて、私も負けじと真友の名前を叫ぶ。すると、私も一緒に彼女と戦っているかのような高揚感があった。
取って取られの接戦の末、真友が試合を制した。その瞬間私は立ち上がって拳を振り上げる。まだ一回戦を突破しただけで、まるで優勝したかのような喜びように、自分で恥ずかしくなった。隣で愛が小さく笑っている。
「やっぱり真友ちゃんすごいね」
「なんてったってウチらの真友だからな」
自分の事の様に誇らしい。振り返った真友に向かって、愛の肩を抱きながら手を振る。彼女も汗を飛ばしながら笑顔で答えた。試合前の緊張は見る影も無く、自らを縛るものから解放されたかのような清々しい顔をしている。今の真友に敵う者など居ないかのような万能感が、私たちを繋ぐ空気の中に混ざっていることを肌で感じた。
でもそれが只の幻想に過ぎないことは、初めからわかっていた。
二回戦の緊張感は、一回戦の比ではなかった。トーナメント表が発表されてから覚悟はしていた相手。今大会優勝候補の一人。天王寺 奈々美が立ちはだかった。
ボーイッシュな髪形に、引き締まった肉体。青色のシャツに白のパンツ姿のユニフォームが良く似合っている。全身から漏れ出す強さに対する自信が、奈々美の一挙手一投足に現れていた。彼女の瞳に、果たして真友は映っているのだろうかと思うと悔しかった。
どうせ当たるなら、もっと後の試合にして欲しい。もっと真友の試合を見て——―
私は自分の頬を両手で叩く。それに驚いた愛の体が跳ねた。
まるで真友がもう負けたかのような思考に鞭を入れた。相手のことで分かっているのは、天王寺 奈々美と言う名前だけだ。他のことは誇張された噂に過ぎない。真友が勝てる相手かどうかは、これから明らかになることだ。
いや、真友なら勝てる。私も一緒に戦う。
試合が始まると、スタンド席から黄色い声援が上がる。
「奈々美先輩ー!」「王子ー!」
奈々美の部活の仲間に限らず、同じ学校の生徒が何人も応援に来ていた。この試合の主役は奈々美だった。
舌打ちが聞こえた。
奈々美の動きは、真友のそれよりも力強く鋭かった。水が流れる様にコート内を自在に動き回り、刺すようなショットを繰り出してくる。真友は奈々美の動きに翻弄され、追いすがるのがやっとだった。奈々美の攻撃は全てが決定的で、真友の攻撃は軽くあしらわれる。奈々美が点を取る度に、歓声と拍手が巻き起こる。目に見える実力の差が、コートのネットの様に横たわっていた。
あっという間に一セット取られた。三セットマッチだから後一セット取られただけで試合は終わってしまう。黄色い声援が上がる。誰も真友のことなど見ていない。
私は声を張り上げて真友の名前を呼ぶ。愛もか細い声で懸命に応援していた。
肩で息をしている真友と違い、奈々美はウォーミングアップでもしているかのように涼しい顔をしている。殴り合ったら絶対私の方が強いと、的外れな妄想で悔しさを誤魔化した。
二セット目が始まった。奈々美の動きは更に鋭くなり、重力を感じさせないような軽快な足さばきに拍車がかかる。真友は泥臭くそれを追う。汗と砂埃に塗れながら、全てを出し切るようにラケットを振っている。最早出し惜しみをしている余裕など無い。後の試合の事を気にして戦える相手では無い。この試合が決勝戦。きっと真友も同じ気持ちだ。
奈々美の動きに引っ張られるように、真友の動きも鋭くなっているように見える。真友のショットが、少しづつ奈々美に食い込む。奈々美の顔から涼しさが消え、攻撃に容赦がなくなる。それにも真友は追いすがる。
真友の背中に翼が生えたかのようだった。ラリーが続く毎にその翼は大きくなり、ラケットを振る度に羽ばたく。風を味方につけたかのようだった。この一瞬だけは、力が拮抗していた。強い日差しと、会場の熱気で眩暈がする。
私の鼓動が速くなる。まるで肺が小さくなったかのように、息を吸っても吸っても苦しかった。唾を飲み込む音が、周囲の歓声よりも大きく聞こえる。うなじの辺りが、痺れているかのようにひりつく。私は祈るように指を組んでいた。
彼女の翼の輝きから目が離せない。翼はさらに大きく、力強く羽ばたき、彼女をどこまでも連れて行きそうなほどだった。私を地上に置き去りにして、どこまでも…。
私の呼吸が速くなる。心の中で真友の名を呼ぶ。可愛らしくて、泣き虫で、弱っちい真友。
私の真友。
彼女の背中で輝く翼に手を伸ばす。私よりもずっと大きなその翼に触れる。羽の一枚一枚が波打ち、私の手から逃れる様に躍動する。
私は、その羽を一枚毟った。羽は太陽の光を反射して、眩しいほどに綺麗だった。もう一枚、さらに一枚と毟っていく。私の呼吸は更に荒くなり、全身が熱を帯びながら脈打つ。私は彼女の翼に手を掛け、力任せに引き千切った。その途端、高く舞い上がるはずだった真友は地面に叩きつけられ、側に立つ私を見つめる。その瞳は暗く、私を呪い殺すかのように深く濁っていた。
耳をつんざくような歓声と拍手の嵐で我に返る。
真友の負けだった。
試合が終わってからしばらくして、スタンド席に真友が現れた。今にも決壊しそうなほどの涙を、その瞳一杯に溜めて、私の胸に崩れ落ちた。
「美月ちゃん、私、負けちゃった…」
嗚咽を漏らしながらそう言う彼女を抱きしめた。汗塗れの頭を撫でる。愛は優しく真友の背中を擦っていた。
「もっと、見て欲しかった。私だって、美月ちゃんと同じ位、強くなれたって、証明したかった…」
私のシャツを握りしめながら鼻を啜っている真友が、心底可哀そうに思える。
それなのに。
「真友の頑張り、十分見れたよ。あの奈々美相手にめっちゃ戦ってたじゃん。アンタはウチらの誇りだよ」
それなのに、真友の泣き顔を見た途端、私の体の奥が醜く疼くのを感じた。
舌打ちは聞こえなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます