第4話 縋る女


 紀伊野 亜香里きいの あかりが壊れるほど想いを寄せていた相手は二条 玲子にじょう れいこだった。


 二条 玲子。山百合高校二年三組クラス委員長。美人でスタイルも良く、テストでは常に上位に食い込む。誰にでも優しく、誰よりも頼りになる。二年の中で最も人望を集める存在と言ってもいい。彼女は太陽だ。その暖かみと光とを求めて、近づけば近づくほどに、その比類の無さと自らの矮小さに打ちのめされることになる。これまでどれだけの人たちが、彼女に対する羨望と嫉妬でその身を焦がしたのだろうか。


 そんな彼女に対する憧れが、いつしか好意に変わってしまった。


 彼女に気に入られるために紀伊野は、服装から仕草の一つ、趣味や考え方に至るまで、彼女の好みに寄せていった。沢山いる友人たちの中で、唯一になるために、紀伊野は紀伊野そのものであることを捨てた。「自分を見て欲しい」と望みながら、結局は有象無象へ身を落とした。


 そして、その想いが届くことはなかった。


「気持ち悪い」、そう言われたということは、恐らく同性であることが大きい理由なのだろう。だとすると最早、紀伊野の努力云々の話ではない。彼女が「絶対に届かない相手だった」と言うのは、そうした絶望感の表れだった。


 今紀伊野の心には二条の形をした穴が空いている。二条の形に合うように、心の方を変形させ、自ら不完全な存在に成り果てた。彼女への憧れが、いつしか欲望へと変わり、心の穴を大きくしていった。だから、そこを埋められるのは二条しかいない。彼女以外の誰をそこに入れたとしても、歪に映るだけだろう。二条と言う柱を失った心は、今まさに内側へ向かって崩壊しようとしている。その不完全な心を満たそうとして手当たり次第に求めても、それはより一層、「二条の喪失」という耐えがたい渇きを増大させるだけだ。そしてさらに求めることになる。紀伊野には、またその心を変形させる以外に救いは無い。だけどそれは、もっと苦しいことであるだろう。


 私にこの子は救えない。



「ぎゅってして」


 紀伊野は、消え入りそうな声で呟いた。


はなちゃん、お願い。今だけ……今だけでいいから。」


 私にこの子は救えない。だからと言って見捨てることもできない。それができるんだったら、私はあの雨の中で紀伊野と別れていた。今彼女は私の中に、二条の代わりになるものが少しでもないかと必死になって探しているのだろう。真っ暗な空洞になってしまった心を少しでも照らすために。

 今は紀伊野の心が少しでも安らぐように、唯々望むままにしてやるべきかもしれない。一日でも早く立ち直るために、今だけは私がこの子の心を、決して満たされない心を慰めてあげたい。孤独の苦しみは、私にもわかる。


 彼女の縮こまった背中を抱きしめる。小さく震えるその背中は、今にも壊れてしまいそうなほど頼りなかった。


「もっと、ぎゅってして。」


 言うと同時に紀伊野も私の背中に手を回して抱きしめてくる。それはもう強く、強く抱きしめてきた。行き場のなくなった想いを、怒りを、虚しさを、私にぶつけているようだった。私も先ほどよりも腕に力を込める。


 鼓動と鼓動が重なり合う。


 もうどちらがどちらのものなのか分からない。私達が一つの大きな心臓の様だった。


「華ちゃん。ごめんね。」


 ふいに紀伊野が顔を上げた。潤んだ瞳で、真っ直ぐ私の瞳を見つめている。そしてゆっくりと、その顔が近づいてきた。


 。直感でそう思った。これ以上は引き返せなくなる。それでも私は動けないでいた。心臓は激しくその音を響かせ、考えるゆとりを与えようとはしない。徐々に近づいてくるその顔に、私はかつての友人を重ねていた。


 あいつのことを私は救えなかった。でも、他にどうすれば良かったのだろうか。あの時もし、私が選択を間違えなければ、こんな事にはきっとなっていない。東雲しののめたちとは変わらず友達で居られたし、何より、あいつを失わずに済んだ。だから、本当は東雲の気持ちがわかる。私が東雲の立場だったら、きっと同じように怒りを覚えるだろう。東雲にとってもあいつは大切な友人だったのだから。

 今度こそ間違えたくはない。紀伊野を救ってやりたい。


 醜い言い訳だった。今ここで紀伊野の劣情に応えたとしても、それは何の贖罪にもなりはしない。紀伊野が見つめているのは私ではなく、私に重ねた二条だ。そして私もまた、紀伊野にあいつを重ねることで救われようとしている。結局お互いに自分のことしか考えてはいないのだ。私も誰かに救って欲しいだけだった。


 お互いの吐息が混じり合うほどにまで、彼女の顔は近づいてきていた。彼女の手が私の頬に触れ、耳に触れ、うなじを撫でる。その間も変わらず視線だけは、私の瞳を捉えて離さなかった。頭の中は真っ白になり、呼吸が速くなる。私はただ、彼女の瞳の虹彩の美しさに呑まれるしかなかった。



 以外にも、理性を取り戻したのは紀伊野だった。何かに弾かれるようにして後ろに飛び退き、その反動で私も体勢を崩す。


「ごめんなさい!ごめんなさい!あちゃ~私何やってんだろ。」


 紀伊野は土下座に近いような体勢で、頭の前で手を合わせていた。


 私は呼吸を整えながら発する言葉を探していたが、正解はわからなかった。


「あのさ、プリン、食べる?」


 それが、唯一出てきた言葉だった。

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