第2話 泣く女

 私の胸が高鳴るのを感じる。鼓動の一つ一つが、私の体に刻み込まれていく。これはきっと、とんでもなく面白い。


 退屈さとは程遠い景色だ。





 あの紀伊野 亜香里きいの あかりが、今にも死にそうな顔で雨に打たれている。私の方を向いてはいるが、その目は虚空を見つめ、心ここにあらずといった感じだ。肉体からは歩く以外の力が失われ、さながらゾンビのごとき様相で佇んでいる。チャームポイントのお団子ヘアも無い。私は彼女の腕を掴んだまま近づき、傘の中に入れてやる。他人の不幸に心躍らせる腐った性根と、流石に可哀そうだという良心とがせめぎ合い、何も言葉を発せずにいた。


 するといい加減私のことを認識したようで、彼女の目が徐々に見開かれていった。ここに来るまでに散々泣いたのであろう。目の周りは赤く腫れ、眼球も充血している。たとえ涙が枯れようとも、降りしきる雨が代わりを務めていたらしい。


 そして私の傘の中に入った今、彼女は顔をくしゃくしゃにして再び泣き始めた。


「うぅっ……うっ……ううぅぅぅ………華ちゃぁん」


 華ちゃん?一瞬誰のことかと思ったが、おそらく私の名前だと考えてよい。両親からもらった名前、武田 華たけだ はな。それが私の名前だ。その名前を呼ぶ人など久しく居なかったため、呼ばれることに違和感を覚えてしまった。


 紀伊野は私の方に向き直り、抱きしめてと言わんばかりに、胸に体を預けてきた。ずぶ濡れの彼女を抱きしめることで自分の服も濡れてしまうが、仕方なしに抱き寄せてやる。すると彼女の嗚咽は治まるどころか激しさを増した。

 それに呼応するかのように雨は一層強く打ち付け、アスファルトに跳ね返った水が私の足を濡らす。


「華ちゃん……うっ…私ね………私…………ううぅぅぅっ……振られちゃったあ」


 声を絞り出した途端、堰を切ったように声を張り上げて泣き始めた。彼女の泣き声と雨の音とが頭の中で反響し、次いで聞こえる音の一切を耳鳴りが支配した。


 どうしてそんなことを私に言うのだろう。紀伊野が誰かに思いを寄せていたことなど知らなかったし、クラスが違うとはいえ風の噂の一つも耳に入ってはいない。そもそも孤軍の私に回って来る情報などほとんどありはしないのだ。それなのにこの女は、平気でこちらが何かを知っている前提で話してくる。二条にじょうの隣に立てるからと言って、周りの人間がみんな揃って自分に興味を持っていると勘違いしている。自分が世界の中心だと思っているからだ。そしてそのことを他人に無意識に押し付けている。だけど周りが気にしているのは、突き詰めれば二条のことであって、紀伊野じゃない。


 誰かが誰かに恋をしているなんて話が出れば、途端に周囲は色めきたち、「〇〇ちゃんなら大丈夫だよ、応援してる!」「〇〇のこと振るなんてほんと見る目無い、調子乗ってんだろ」とかなんとか言いながら、恋愛っぽいことに興じている。恋をしている自分にも、仲間の恋を後押ししている自分にも酔っている。いや、酔うしかないのだ。一緒に酔って仲間であることを確認し続けていないと怖いからだ。シラフではきっと耐えられない。少しでも隙を見せれば裏切り者として扱われ、集団から追い出される。それを肌で感じているのは、自分もまた周りと一緒になって追い出すであろうことがわかっているからだ。だから必死に酔う。ただ酔って、酔うことに酔って、「今が楽しければそれでいいよね」と、楽しくない今を肯定し続けている。


 私にはできなかったことだ。


「私の家ここから近いから来なよ。そのままだと風邪ひいちゃうからさ」


 紀伊野は泣きながら何度もうなずき、私にくっついたまま歩き出した。道中「ごめんね」と「ありがとう」と「華ちゃん」以外の語彙を失ってしまった彼女と、家に招いてしまった自分にうんざりしていた。ついさっきまでは、本当に面白いことが始まる直感のようなものがあった。だが蓋を開けてみれば何のことはない。年頃に相応しく、愛だの恋だのといったつまらない話だった。寧ろどんな展開を期待していたのかと聞かれても、特に思いつくわけではない。それがわかるんだったら初めから他人に期待なんてしない。自分ではどうにもならないこの退屈な人生を、誰かにぶっ壊して欲しい。そんな風にしか考えられないから、きっと何も変わらないんだということも分かっている。でも、どうにもならない。


 さらに悪いことに、ここからは彼女の失恋話に共感と慰めの気持ちを表現しながら聞き入る、という苦行が待っている。自業自得と言われれば確かにその通りではあるが、あの場面で「じゃあまた」とは言えなかった。自分の優しさが体に突き刺さる。いや、これは優しさではなく弱さか。


 ポジティブな見方をすれば、私と紀伊野の間には関係を構築するきっかけが生まれたことになる。彼女を起点として繋がりを広げていけば、行きつく先は二条 玲子だ。この夏休みを使って交友を深める分には、クラスの奴らを気にする必要はないはずだ。二条のグループの末座にでもいられれば、私もまた有象無象に紛れる安心感を得られるのかもしれない。そうすれば、少なくとも夏休み以前よりは過ごしやすい学校生活になるのではないだろうか。これはやり直すチャンスなのではないか。


 嫌だ!!なんで!!


 堪え切れずに叫びだしそうになった。頬から耳にかけて熱を発しているのがわかる。自分の弱さが恥ずかしい。どうしてそんなことを考えるんだ。どうしてそんなことに安心を得ようとしているんだ。私は一人でいられる。一人で平気だ。クラスの奴らも他のクラスの奴らも嫌いだ。どいつもこいつも怯えて見ているだけだ。そんなに自分がかわいいのか。


 紀伊野だって私の存在を知らないわけじゃない。当然のように名前を呼んでくるくらいだ。私がクラスでどんな扱いを受けているのか、何がきっかけなのか、誰のせいなのか知らないはずがない。周りと足並みを揃えるためにどんな噂でもかき集め、それについて来れない奴を生贄にして自分の立場を確立する。それがあいつらの生存戦略だ。お互いの誕生日を把握していることなんて当たり前だし、彼氏でも居ようもんなら、記念日を月単位で祝い合う。サプライズが当たり前になり、大げさすぎるくらい喜ぶのが暗黙の了解だ。情報はいつだって武器になる。そして自らを守る鎧にも。


 私はプレゼントが苦手だ。相手が本当に欲しがっている物を推察するのは神経が磨り減る。本人に直接聞ければどんなに楽かとも思うが、それはできない。なぜならそれは、プレゼントと言う名のだからだ。日ごろどれだけ相手のことを知ろうとしているのか、友情を出し惜しみしないのかが計られている。だからプレゼントを選ぶのはつらい。本当に大切な相手であるなら、悩めば悩むほど、喜ぶ相手の顔を想像して胸は高鳴り、そういう献身的な自分にも酔えるだろう。しかしそれが義務的なものに変わることで、どこまでも憂鬱なイベントに変わる。だから私は、プレゼントを貰うことも嬉しくない。貰うということは、返さなければならないからだ。結局私が選ぶ側になる。しかも下手に凝った演出でもされようもんならげんなりする。「これと同等のものを私に求めているのか」、そう思うと全く喜べない。友情を試され続ける関係が、友情だなんて私は信じない。


 いくら天然を売りにしている紀伊野であろうとも、その辺は心得ているに違いない。寧ろこういう子ほど目敏かったりするものだ。


 私と関わることを紀伊野はどう思っているのだろうか。心がズタズタのタイミングで現れたのが偶々私だった為に、まさしく藁にもすがる思いで一緒にいるのだろう。だから、一時の激情に任せてしまったことを後悔しているのではないだろうか。そうであれば話は変わってくる。この後私の自宅で介抱され、それとなく事情を説明した後、復活した紀伊野が私に対してどのような感情を抱くのかによって、今後の学校生活が左右されると言っても過言ではない。周囲の人間たちに何を言いふらされるか分かったもんじゃない。

 一番安全なパターンとしては、紀伊野が私の家に上がったことを恥だと思って無かったことにしてくれることだろう。私たちの関係は何の発展も見せず、私の日常がこれ以上悪化することもない。それなら私もきっぱり忘れられるだろう。これは夏休みのちょっとしたイベントに過ぎなかった。退屈しのぎにもならないつまらないことだったと思える。


 しかし紀伊野があることないこと言いふらすこともありうる。私服のセンスがないとか、部屋が汚かったとか、そういうことからより辛辣な悪意へと、加速度的に広がりを見せるだろう。初めから発言権のない私には、それに対抗する手段はない。夏休みが明けた時、傍観者よりも悪意を持った人間の方が多くなっているかもしれない。


 だから何としてもここは無難に乗り切るべきだろう。欲をかかず、何の感想も抱かないままに帰ってもらおう。紀伊野を助けながら、紀伊野に助けてもらえるなんて気持ちの悪い妄想はやめよう。


 私の退屈な人生はどうにもならないのだから。


 それに万が一にも、私がこれを機にやり直すことができたとして、東雲しののめがそれを許すはずがない。西川にしかわだってそうだ。北条ほうじょうは優しい子だけど、それ故に二人と対立するようなことはしないだろう。今更私が謝ったところで元の関係に戻ることは不可能だし、何より私が悪いとは、この現状に至ってもまだ思っていない。私が謝って、東雲に許されて、それが一体なんだと言うのだろうか。どうして私があいつに何かを許してもらわなければならないのか。私が何かをするのに、一々お伺いを立てろとでも言うのか?もう私たちは仲間じゃない。


 どうしようと私の勝手だ。


 そういう態度が余計に東雲の気持ちを逆なでするのだろう。私に対する敵意が治まる兆しは無い。加えてその感情はクラス全体に蔓延し、私は見事に孤立することになった。私一人がどうあがいても、やり直しがきく状態じゃない。


 私が下らない言い訳と悪態と自己嫌悪で目眩を起こしているうちに、いつも見慣れている建物の前へと辿り着いた。


 二階建ての木造建築に瓦屋根。申し訳程度にある庭には、ひいじいちゃんが植えたらしい松の木と、母親が趣味でやっている花壇がある。私の住む家。今や唯一と言ってもいい私の居場所。



 これからその聖域に、紀伊野 亜香里と言う名の爆弾を放り込む。

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