第十三幕


 第十三幕



 やがて雨期も明け切らぬ初夏の内に、我が大隊を含む第二師団全体に大規模な渡河作戦の詳細が下達された。普段は後方の参謀本部に詰めている中将閣下の指揮の下、師団総出でもって作戦を遂行するのは実に八か月ぶり、つまりこの戦争が始まった直後の緒戦以来の出来事である。そしてその渡河作戦の概要によれば、俺ら兵卒達は最新兵器を積んだ汽船でもってドードリエ河の対岸へと侵攻し、銃剣突撃を含む総攻撃によって敵陣の塹壕を制圧すべしとの事であった。

「なあアルル、最新兵器だってよ。お前、その最新兵器とやらがどんなものなのか、知ってるか?」

 渡河作戦の決行を明朝に控えた夕暮れ時、束の間の晴れ間を飾る真っ赤な夕焼け空を仰ぎ見ながらノッシュはそう言うが、カーキ色の戦闘服に身を包んだ俺は首を横に振って彼の問い掛けを否定する。

「いいや、知らないね。お前は知ってるか、インジー?」

 俺がそう言って問い掛けても、やはりそばかす面のインジーもまた首を横に振らざるを得ない。

「先任のアルルもノッシュも知らないものを、後任であるあたしが知っている筈が無いでしょう?」

「ああ、確かにその通りだ」

 早めの晩飯を食い終えた俺ら三人がそう言って談笑し合っていると、やがて塹壕を真っ赤に染めていた太陽が地平線の彼方へと姿を消し、今宵もまたドードリエ河の河畔に夜のとばりが下りるのだった。

「さあ、明日は早いし、もう寝るか」

 食後の談笑を終えた俺らはそう言うと、兵站部から支給された灯油ランプの灯りを頼りにしながら塹壕内に掘られた自分らの横穴へと取って返し、各自のベッドに横になって就寝の体勢へと移行する。

「お休み」

 誰に言うともなしに就寝の言葉を口にした俺はランプの灯を消すと、真っ暗な横穴の片隅で身体を丸めつつ、そっと眼を閉じた。そしてそのままゆっくりと意識が混濁し、やがてすっかり寝入ってしまってからどれほどの時間が経過したのか、不意に人の気配を察知した俺は眼を覚ます。

「?」

 目覚めた俺がついと顔を上げてみれば、ちょうど誰かが横穴から出て行くところであって、ひるがえった天幕の隙間から差し込んだ月明かりでもって小柄な人影が浮かび上がった。

「インジー?」

 やはり天幕の隙間から差し込む月明かりだけを頼りにしながらベッドから抜け出し、周囲を見渡してみれば、インジーが寝ていた筈のベッドの上に人影が見当たらない。そこで俺もまた天幕を潜って横穴を後にすると、泥と埃にまみれた塹壕の地面を軍靴でもって踏み締めつつ、姿を消した彼女の後を追う。

「どこだ、インジー?」

 月明かりに浮かぶ塹壕内を初夏の夜風に頬を撫でられながら探索してみれば、果たして我が中隊唯一の女性兵士であるインジーは、弾除けのために積み上げられた土嚢の陰にうずくまっていた。

「おいインジー、お前、そんな所で何をしてるんだ?」

 俺がそう言って問い掛けると、うずくまっていたインジーはついと顔を上げる。

「アルル? どうしてあなたがここに?」

「お前が壕から出て行くのが見えたから、心配して後を追って来たんだ」

「心配って、何が心配なの?」

「例のゴンツの一件以来、お前を一人きりにしておくとどうにも不安で仕方無くてね。だから俺もノッシュも、出来るだけ俺達の眼の届く範囲にお前を留めておきたいのさ」

 俺がそう言って解説すれば、インジーは肩を竦め、そばかすが浮いた顔に少しばかり呆れたような表情を浮かべながら微笑んだ。

「何それ? 二人とも、あたしの保護者でも気取っているつもりなの? 第一あたしの後を追って来ておいて、もし仮にトイレに用を足しに行っているところだったとしたら、どうするつもりだったのかしら?」

「その時は、見て見ぬふりをしながら元居た壕に引き返すさ」

 そう言った俺のとぼけぶりが面白かったのか、インジーはうずくまったままくすくすと笑う。

「それで、一体お前はこんな所で何をしてるんだ?」

 俺は重ねて問い掛けながら、うずくまる彼女の隣に腰掛けた。するとインジーは思い詰めたような表情をその顔に浮かべつつ、ゆっくりと口を開く。

「明日は、遂に渡河作戦が決行されるでしょう? それでね、アルル。こんな事言ったら頭がおかしくなったと思われるかもしれないけど、あたし、今度の作戦で自分が死んでしまう気がして仕方が無いの。虫の知らせって言うのかな? とにかく死ぬのが怖くて怖くて、残された家族の事を思うと涙が止まらなくて……」

 そう言ったインジーの両の瞳からは大粒の涙が溢れ出し、頬を伝ってぽろぽろと零れ落ちた。そこで俺は無言のまま、嗚咽に合わせて小刻みに震える彼女の肩をそっと抱き寄せる。

「ねえ、アルル?」

「ん?」

「聞いた話だとアルルは『死神アルル』とか言った二つ名で呼ばれていて、死を恐れずに敵陣に突撃するって噂だけど、どうしてあなたは死ぬのが怖くないの? 死んじゃったら、もう二度と家族とも再会出来ないんだよ?」

「死ぬのが怖くない、か……」

 俺はそう言って、インジーの疑問に対してどのように返答すべきか、暫し逡巡した。そしてゆっくりと口を開き、言葉を選びながら彼女を説き伏せる。

「その『死神アルル』とか言う中二病の黒歴史丸出しの二つ名とやらは正直言ってどうかと思うが、俺は人が死んでしまった後も、来世でもって人生は続くものだと固く信じている。いや、信じているのではなく、むしろ知っていると表現した方が正しいのかな? とにかく人は死んでしまったからって、それで人生が終わってしまう訳じゃないんだ。むしろ、そこからが新たなスタートと言っていい。前世での家族とは二度と会えないかもしれないが、その分だけ、来世での新たな家族とも出会える。そう思えば、自然と死ぬのが怖くなくなる筈さ」

 そう言って彼女を説き伏せようと試みたものの、俺の言葉がいまいち理解し切れていないのか、頬を伝う涙を戦闘服の袖でもって拭ったインジーは首を傾げながらきょとんと呆けるばかりだ。

「アルル、あなたが言うところの『らいせ』とか『ぜんせ』とかが何を意味しているのかはよく分からないけれど、とにかくあなたは自分が信じた死生観に疑問を抱いていないから、死ぬのが怖くないのね?」

「ああ、まあ、そんなところかな」

 彼女の肩を抱き寄せながらそう言えば、インジーは俺の肩に丸くて形の良い自身の頭をそっと乗せる。

「やっぱり強いな、アルルは。死ぬのが怖くて夜中に泣き出しちゃうようなあたしなんかとは違って、自分が信じた道を真っ直ぐに突き進むだけの心の強さを持ち合わせているんだもん」

「心の強さか……まあ確かに、死ぬ事に対しても殺す事に対しても、覚悟は決まっているのかもしれないな」

 俺はそう言って、首を縦に振りながら得心した。すると死に対する恐怖心と共に、もう一つの懸案事項をインジーは口にする。

「それにね、アルル」

「ん?」

「戦場で死んでしまうのも怖いけど、負傷したまま死ぬに死に切れないのも怖いの。たとえば手足を失ったり眼や耳に障害を負って除隊させられたら、その後のあたしの人生はどうなっちゃうんだろうって。そうなったらきっと誰もお嫁に貰ってくれないだろうし、子供も産めないまま一人寂しく年老いて死んでしまうんだと思うと、眼の前が真っ暗になって気が遠くなっちゃう」

 泥と埃にまみれた塹壕内で肩を寄せ合いながらそう言ったインジーの両の瞳からは、再び大粒のぽろぽろと涙が溢れ出した。するとそんな彼女を力付けるために、俺は励ましの言葉を口にする。

「大丈夫だ、インジー。心配するな。その時はこの俺が、責任持ってお前の人生を幸福なものにしてやるからな」

 俺はそう言いながら、より一層強い力でもって彼女の肩を抱き寄せた。すると俺の言葉を耳にしたインジーはきょとんと呆けていたものの、一拍の間を置いた後に、びっしりとそばかすが浮いた頬をやにわに赤らめる。

「ちょっと、何それ? プロポーズのつもり?」

「え? いや、そうじゃなくて……」

 そう言って弁明しようとする俺が口を開く間も無いままに、積み上げられた土嚢の陰でうずくまっていたインジーはいきおい立ち上がると、俺らのねぐらである横穴の方角へと足を向けた。

「ああ、なんだか胸の奥底でもやもやしていたものを思い切って吐き出したら、すっきりしちゃった。ねえアルル、明日も早いんだし、もう寝ましょ?」

 照れ隠しのつもりなのか、それとも自分自身に発破を掛けて奮い立たせようとしているのか、殊更ことさら快活な表情と口調でもってそう言ったインジーは横穴目指して歩き始める。

「プロポーズのつもりなんかじゃないんだけどなあ……」

 彼女に遅れて立ち上がった俺はそう言って独り言ちながら、前を歩くインジーの背中を追い掛けるような格好でもって、泥と埃にまみれた塹壕内を月明かりだけを頼りに歩き続けた。仰ぎ見た夜空に浮かぶ月は仄白く、明朝決行される激戦の様相などどこ吹く風である。


   ●


 翌朝、各自のねぐらでもって熟睡していた俺ら兵卒達は、ぐらぐらと大地が揺れる震動でもって眼を覚ました。

「地震? いや、砲撃か?」

 前世に於ける日本列島と違ってこのロンヌ帝国では滅多に地震は発生しないし、オーノスタ大公国陸軍による砲撃だとしたら爆風や爆音が轟かない筈が無いので、これらの可能性はどちらも否定される。ましてやこの世界では航空機が実用化されていないので、遥か上空からの空爆と言う事もあり得ない。そこでベッドから飛び起きた俺らが横穴から飛び出すと、そこには巨大な鋼鉄の塊が、ごうごうと唸り声を上げながら塹壕の上を縦断する姿が見て取れる。

「戦車か……」

 そう言った俺の言葉通り、前世ではキャタピラとも呼ばれていた無限軌道の駆動音と共に大地を揺るがしながら眼の前を走る鋼鉄の塊は、武骨なシルエットが威圧的な戦車そのものであった。

「おいおいおい、一体全体、何なんだよあれは? あれが大隊長が言っていた、例の最新兵器って奴なのか?」

 俺と一緒に横穴から飛び出したノッシュが声高らかにそう言って、やはり純粋で純朴な腕白少年らしく、その興奮ぶりを隠そうともしない。そして俺ら兵卒達が眼を剥いて驚いている間にも、後方の街道の方角から姿を現した数多の戦車達は塹壕を縦断し、ドードリエ河の河畔に集結し始める。

「上陸用舟艇を回せ! 歩兵より先に蒸気戦車を積み込むんだ! 第二師団の各小隊は装備を整えた上で河岸に整列し、上官の指示に従え! もたもたしている暇は無いぞ! 急げ急げ!」

 声を張り上げながらそう言った大隊長付きの副官である少尉の指示に従いつつ、俺ら兵卒達は背嚢を背負い、各自に支給された小銃を手に手に河岸へと集結した。そして対岸に侵攻するための箱か桶の様な構造の軍用の艦船、つまり上陸用舟艇に乗り込むと、俺らに次いで蒸気機関でもって稼働する戦車もまた積載する。一隻の上陸用舟艇毎に、兵卒が一小隊と、蒸気戦車が一輛の割合だ。

「よう、アルル」

 するとその時、不意に上陸用舟艇に乗り込もうとした俺の背後から何者かが声を掛けて来たので、足を止めた俺はその場で振り返る。

「ゴンツ……」

 果たしてそこに立っていたのは、婦女暴行未遂の嫌疑でもって営倉送りになったまま軍法会議を待つ身であった筈の、肥満体のゴンツことゴンツルヌイ・ドミトニスク二等兵であった。

「どうしてお前がここに? 営倉から脱獄でもしたのか?」

「おいおいおい、随分な言いぐさじゃないか。まあ勿論、俺様は本来ならば営倉から出られなかった筈だが、ちょっとばかり事情が変わってね? 今回の総攻撃を前にして、一人でも多くの兵卒が必要だって理由から、親切でお優しい大隊長殿の特命でもって一時的に釈放されたって訳よ」

「……」

 あまりにも想定外の事態に際して俺は立ち尽くし、背嚢を背負って小銃を手にしたまま言葉を失う。

「さあ、俺様もその上陸用舟艇とやらに乗せてくれよ! なんと言っても俺様は、これからお前らと一緒に戦う戦友なんだからな! そうだろ? 違うか? ん?」

 ぶよぶよにたるんだその顔に下卑た笑みを張り付かせながら、故意に俺の肩に自身の肩を衝突させつつすれ違うと、小銃を手にしたゴンツは俺に先んじて上陸用舟艇に乗り込んだ。彼の蛮行の詳細を知り得る立場に居る同じ小隊の兵卒達が、眼の前の醜く肥え太った婦女暴行未遂犯に、侮蔑と軽蔑の眼を向ける。しかしながら人から嫌われ慣れているゴンツは彼らの眼差しを気にする素振りも無いままに、上陸用舟艇の中央に堂々と鎮座するのだった。

「発進!」

 すると小隊に配属された兵卒全員と蒸気戦車一輛が乗り込み終えたところで、最後尾の操縦席の傍らに立つ准尉がそう言って操舵手に命じ、いよいよ上陸用舟艇は対岸目指してドードリエ河を渡り始める。

「なあ、アルル。どうして営倉送りになった筈のゴンツが、よりにもよってこの船に乗ってんだ?」

 かつてロンヌ帝国とオーノスタ大公国との国境線であった大河、つまり滔々と水を湛えるドードリエ河を渡る途上、ノッシュがそう言って俺に耳打ちした。

「大隊長の特命で、一時的に釈放されたんだとよ」

「マジかよ! あんな豚野郎に小銃を持たせて戦場に解き放つなんて、正気の沙汰じゃないぜ!」

 ノッシュはそう言って呆れながらかぶりを振るが、たとえ一時的にとは言えゴンツを釈放するのが大隊長直々の特命とあっては、一介の兵卒に過ぎない俺らがその決定に抗う術は無い。そして俺ら兵卒達と蒸気戦車を乗せた上陸用舟艇が河の流れの中央辺りを超えたところで、晴れ渡る初夏の青空にどおんどおんと言う砲声が轟き渡り、遂に敵陣からの砲撃が開始された。耳をつんざく凄まじい爆音と衝撃と共に河向こうから飛んで来た砲弾がドードリエ河の水面に着弾し、天にも届くような水柱があちらこちらでもって屹立する。

「前進! 怯むな、前進せよ! 盲撃めくらうちの砲弾など、直撃しなければどうと言う事は無い!」

 准尉がそう言って発破を掛けた、まさにその直後。俺らの小隊の上陸用舟艇のすぐ隣を航行していた別の小隊の上陸用舟艇に砲弾が直撃したかと思えば、それに乗せられていた兵卒達が蒸気戦車もろとも砕け散ってしまった。ばらばらになった兵卒達の肉片が宙を舞い、真っ赤な鮮血の飛沫と共に人肉のシャワーとなって、俺らの頭上からぼとぼとと降り注ぐ。

「怯むんじゃない! 前進あるのみだ!」

 だがしかし、友軍の兵卒達が幾ら肉片に成り果てたとしても、対岸目指して河を渡り始めた上陸用舟艇が撤退行動へと移行する事は無い。

「前進! 繰り返す、前進!」

 そして離岸した艦船の一割から二割ばかりが河底へと沈んだ頃になってから、ようやく上陸用舟艇はドードリエ河の西岸へと辿り着くと、ハッチも兼ねた船首の渡し板を踏みながら俺ら兵卒達は上陸する。

「総員突撃! 総員突撃!」

 上陸と同時に友軍の突撃ラッパが鳴り響き、そのラッパの軽快であると同時に力強い音色に鼓舞されながら、師団一丸となった突撃が敢行された。

「繰り返す! 総員突撃せよ!」

 たとえ小隊長である准尉から命令されずとも、ここまで来たからには後退も撤退も許されず、しかも障害物の無い河畔では逃げようにも逃げ場が無い。そこで銃剣が装着されたボルトアクション式の小銃を手にした俺は先陣切って河畔を横断すると、そこに待ち受けていた敵軍の塹壕に飛び込み、得意とする柔剣道の技術を生かした接近戦でもって決着を付けんとする。

「一つ!」

 俺は塹壕に飛び込むなり、手近な敵の兵卒の胸の中央に照準を合わせながら、小銃の引き金を引き絞った。するとくすんだ野鼠色の戦闘服に身を包んだその敵兵の胸に拳大の穴が穿たれ、苦しむ間も無く絶命する。

「二つ! 三つ!」

 そして素早くボルトを引き戻して二発目の銃弾を薬室に装填すると、慌てふためく二人目の敵の兵卒の頭部を撃ち抜き、更に返す刀でもって三人目の喉元を銃剣でもって刺し貫いた。

「お?」

 すると背後からごうごうと言う蒸気エンジンの唸り声が聞こえて来たかと思えば、友軍の最新兵器である蒸気戦車が敵の機関銃を銃架や射手もろとも踏み潰しながら、河畔に掘られた塹壕を乗り越えるような格好でもって戦場を通過して行く。

「成程、こいつはちょうどいいや。ちょっとこいつを利用させてもらうとしようかな」

 そう言って独り言ちた俺は前進する蒸気戦車の背後に回り、その鋼鉄製の車体の陰に身を隠しながらも付かず離れずの一定の距離を保ちつつ、戦車に気を取られた敵の兵卒を狙い撃つ事に専念し始めた。

「六つ!」

 やがて六人目の敵兵を一撃のもとに射殺し終えると、俺は空になった小銃の薬室に五発一纏めの状態でクリップ留めされた新たな銃弾を装填し、一度は引いたボルトを戻してから次の標的を探す。

「七つ! 八つ!」

 俺は友軍の蒸気戦車を盾にしながら前進し続け、敵陣の塹壕の奥深くまで侵攻すると同時に、順調かつ支障無く戦果を上げつつあった。しかしながら周囲を見渡せば河畔の戦場は大混戦の様相を呈し、敵味方の双方合わせて数万人にも及ぶ兵卒達が、まさに文字通りの意味でもっての血みどろの殺し合いを繰り広げている。

「アルル!」

 その時、俺は銃弾飛び交い人間が肉片へと成り果てる戦場の真っ只中に於いて、俺の名を呼びながらこちらへと接近する小柄な人影に気が付いた。

「インジー!」

 言わずもがな、その小柄な人影とは我が中隊唯一の女性兵士であるインジー、つまりインジット・サラルスキー一等兵その人であった。

「どうしたんだ、インジー? 何か俺に報告する事があるのか?」

「ううん、違うの! あたしもロンヌ帝国陸軍の一兵卒として、アルルの戦友として、あなたと一緒に戦わせてほしいの!」

 どうやらインジーは俺と共に戦いたいがためだけの理由でもって、いつ何時死に果てるとも知れない戦禍の真っ只中を搔い潜りながら、こんな戦線の急先鋒に立つ俺の元へと馳せ参じたらしい。

「インジー……分かった、一緒に戦おう!」

 俺はそう言うと同時に彼女を抱き寄せ、黒色火薬が燃え尽きる際に発生する白煙でもって真っ白にけぶる戦場のど真ん中で、インジーと熱い口づけを交わした。突然口づけされたインジーは驚いた様子だったが、決して抵抗するような事は無く、俺の行為を素直に受け入れる。

「アルル……」

 口づけを交わし終えたインジーは、そばかすだらけのその顔に、熱に浮かされたような表情を浮かべた。

「さあ、ぼんやりしている暇は無いぞ」

 そう言った俺とインジーの二人は先行する蒸気戦車の鋼鉄製の車体を盾にしながら、どうにかしてその戦車を破壊しようと試みる敵軍の兵卒達を、まさにしらみ潰しと言う表現がしっくりくるような塩梅でもって一人残らず狩り殺す。

「十五! 十六! 十七!」

 順調に敵軍の兵卒達を狩り殺し続けながら、気付けば俺とインジーの二人は、敵陣の奥深くまで進攻してしまっていた。蒸気エンジンをごうごうと唸らせ、頑丈な鋼鉄製の車体をぶるぶると震わせつつも前進する事を止めない蒸気戦車の姿は、なんとも言えず頼もしい。そしてそんな蒸気戦車と、その蒸気戦車が撃ち漏らした敵を掃討する俺ら二人が通った後には、くすんだ野鼠色の戦闘服に身を包んだオーノスタ大公国陸軍の兵卒達の死体の山が築かれるのだった。

「二十二! 二十三!」

 敵陣の塹壕の上を縦断するような格好でもって前進しながら、俺は薬室が空になった小銃に新たな銃弾を装填すると、次の標的を探してそれを構え直す。

「インジー、弾は足りてるか?」

「こっちは足りてるけど、そっちはどう?」

「もう残りが心許無い! もし余っているなら、こっちに少しばかり分けてくれると助かる!」

 俺がそう言えば、インジーは腰のベルトに固定されたポーチから五発一纏めの状態でクリップ留めされた銃弾を二纏めばかり取り出し、それを俺に手渡した。

「無理するなよ、インジー!」

「あなたこそ!」

 そう言ったインジーと俺の二人は互いの背中を任せ合いながら、今回の渡河作戦の最終段階である敵の塹壕を制圧すべしとの命令を完遂するために、真っ赤な鮮血とどろどろの汚泥にまみれた戦場を前進し続ける。

「二十九! 三十!」

 するとちょうど三十人目の敵兵を射殺し終えた、まさにその瞬間。俺とインジーの二人が盾にしていた蒸気戦車が突然の轟音と共に車体の前半分が爆発し、周囲一帯にばらばらと破片を巻き散らかしたかと思えば、ごうごうと業火を噴き上げながら炎上した。どうやら敵軍が放った砲弾か何かが直撃してしまったものと思われるが、車体の陰に身を隠していた俺は着弾の瞬間を目撃しておらず、その詳細は定かではない。そして燃え上がる蒸気戦車のハッチが開き、全身が炎に包まれた戦車兵がそこから転がり出ると、泥だらけの地面の上をのたうち回りつつも藻掻き苦しみ続ける。

「殺してくれ! 頼む、殺してくれ!」

 オレンジ色に輝く炎に包まれた戦車兵は藻掻き苦しみながらそう言って、彼から見て最も手近な箇所に立っていたインジーに、自らを射殺するよう懇願した。

「ひっ!」

 しかしながらインジーは声を詰まらせて狼狽するばかりで、敵の兵卒ならともかくとしても、未だ生きている友軍の兵士を殺すだけの覚悟が決まらない。すると眼の前の女性兵士が自分を殺してくれない事に痺れを切らした戦車兵は、胸元のホルスターから自身の回転式拳銃を抜くと、その銃身を口に咥えるなり躊躇無く引き金を引き絞った。ぱんと言う乾いた銃声と共に銃弾が戦車兵の頭部を破壊し、まるでスイカ割りでもって割られたスイカの様に、真っ赤な鮮血にまみれながらぐちゃぐちゃに砕け散る。

「インジー! 何を躊躇ってるんだ! 致命傷を負った兵士を殺してやる事も、兵士の務めだぞ!」

 たとえそれが人道にもとる行為だとしても、俺は地面に崩れ落ちた戦車兵の死体を指差しながらそう言って、彼を殺してあげなかったインジーを叱責せざるを得ない。

「ごめんなさい、でも、仲間を殺すだなんて……」

「甘ったれるな! いいか、ここは最前線の戦場であって、医療設備が整った後方とは違うんだぞ!」

 俺がインジーを叱責し続けていると、不意にくすんだ野鼠色の戦闘服に身を包んだオーノスタ大公国陸軍の兵卒が塹壕から飛び出して来るなり手斧を振りかぶり、俺に襲い掛かる。

「■■! ■■■■■■!」

 オーノスタ語による怒声と共に振り下ろされた手斧の凶刃を、俺は自身の小銃の銃身でもって受け止めた。受け止めた際の衝撃で、鋼鉄製の銃身が折れ曲がる。

「アルル、危ない!」

 すると俺の名を口にしながら、俺と鍔迫り合いを繰り広げている敵軍の兵卒の無防備な脇腹に、インジーが彼女の小銃の先端に装着された銃剣を突き刺した。そしてそのまま引き金を引き絞れば、銃口から射出された大口径の銃弾によって兵卒の腹が吹き飛び、泥と埃にまみれた戦場にピンク掛かった薄灰色の臓物がぶち撒けられる。

「大丈夫、アルル?」

 腹部を吹き飛ばされた敵軍の兵卒が苦しむ間も無く絶命し、地面に崩れ落ちると、インジーがそう言って俺の身を案じた。

「ああ、俺は大丈夫だ。だがしかし、これはもう使えないな」

 そう言った俺が銃身が折れ曲がってしまった小銃を見限り、それを泥まみれの塹壕の地面に放り捨てたところで、今度は別の何者かが俺の名を口にする。

「おい、アルル! 銃が使えなくなったのなら、ちょうどいいタイミングだ! そのまま一歩も動かずに、そこでジッとしてろよ?」

 その声が聞こえて来た方角を見遣れば、そこには縦にも横にも身体が大きいぶくぶくに肥え太った肥満体の友軍の兵卒、つまりゴンツことゴンツルヌイ・ドミトニスク二等兵が立っていた。そしてそのゴンツが構えた彼の小銃の銃口は、河畔の塹壕で友軍と死闘を繰り広げる敵軍ではなく、この俺に向けられている。

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