第十幕


 第十幕



 頑なに心を開こうとしないインジット・サラルスキー一等兵が最前線に配備されてから数日後、ナサニコフ大尉が指揮する我らが大隊に、新たな突撃命令が下された。

「総員、着剣! 繰り返す、総員、着剣! 突撃に備えよ!」

 大隊長付きの副官である少尉が塹壕内を巡回しながらそう命じた直後、敵味方双方の砲撃戦が始まり、頭上を飛び交う砲弾が地面に落着すると同時に凄まじいまでの爆音と爆炎、それに大地を揺らす震動が俺ら兵卒達の五感を蹂躙する。

「また突撃だってよ」

「ああ、今度こそ成功するかな?」

 そう言った俺とノッシュは同じ大隊に所属する兵卒達と共に塹壕内で身構えつつ、少尉の命令通り、各自の小銃の先端に銃剣を取り付けた。ロンヌ帝国陸軍が正式採用している銃剣は刺突に特化したスパイク型ではなく、側面の刃でもって敵を切り付ける事も出来る、鋭利なナイフ型である。

「着弾後突撃! 着弾後、ラッパに合わせて総員突撃せよ! 繰り返す! 着弾後、ラッパに合わせて総員突撃せよ!」

 そうこうしている内に副官である少尉が再び塹壕内を巡回しながらナサニコフ大尉の命令を伝えるが、まるで雨霰あめあられの様に絶え間無く降り注ぐ数多の砲弾が爆発した際の凄まじい轟音と震動に、彼の声も殆ど掻き消されてしまって満足に聞き取る事が出来ない。

「!」

 するとその時、後は突撃の瞬間を待つばかりだった俺は、塹壕の壁にぴったり身を寄せながら小刻みに震える小柄な人影を視界に捉えた。そこで俺はその人影の元へと歩み寄り、彼女の身を案じる。

「おい、サラルスキー一等兵、大丈夫か?」

 壁に身を寄せながら小刻みに震えていたのは、誰あろう、我が中隊唯一の女性兵士であるサラルスキー一等兵その人であった。

「だ、だだだ大丈夫であります! もももも問題ありません!

 小柄でそばかす面のサラルスキー一等兵は震える声でもってそう言うが、すっかり血の気が引いてしまった彼女の顔面はまるで水死体の様に蒼白で、乾き切った唇はかさかさである。

「だったら早く着剣しろ! もうすぐ突撃だぞ!」

 上官である俺に命じられたサラルスキー一等兵は、頭上を飛び交う砲弾がそこかしこで爆発し、万が一にでもその砲弾が塹壕内に落着すれば爆死は免れ得ない状況下で銃剣を取り付けようと試みた。しかしながら銃剣を手にした彼女の手はがたがたと震えており、小銃の先端にそれを取り付ける事はおろか、今にも小銃ごと取り落としてしまいそうな有様である。

「おい、しっかりしろ、サラルスキー一等兵! これから突撃だってのに、こんな事で怖気付いてしまっていてどうするんだ!」

「も、ももも、もう、申し訳ありません、グググググルカノフ兵長殿! い、いいい、今、今すぐ着剣いたします!」

 しかしながら恐怖と緊張でもって声を震わせながらそう言ったサラルスキー一等兵の眼は泳ぎ、根が合わなくなった歯はがちがちと鳴るばかりで、もはや突撃どころの話ではない。

「もういい、俺に貸せ!」

 痺れを切らした俺はそう言って、耳をつんざく砲撃戦の爆音に動じる事無く、サラルスキー一等兵の震える手から小銃と銃剣を取り上げた。そして慣れた手付きでもっててきぱきと着剣し終えると、それを手渡してから、今にも卒倒してしまいそうな彼女の肩をぽんぽんと数回叩く。

「なんだなんだ、どうした、サラルスキー一等兵! いつもの威勢の良さはどこに行ったんだ? そんな初夜を前にした生娘みたいなへっぴり腰のままじゃ、敵を一人も殺せないまま死んじまうぞ!」

 俺がほくそ笑みながらそう言えば、彼女はそれを侮辱の言葉と解釈したのか、蒼白だった顔を今度は真っ赤に紅潮させた。

「グルカノフ兵長殿、見縊みくびらないでいただきたい! 自分はロンヌ帝国陸軍の軍人として、見事に突撃してご覧に入れます!」

「よし、いいぞ、その意気だ!」

 どうやら敢えて挑発する事によって彼女の緊張を解きほぐしてやろうと言う俺の作戦は、功を奏したらしい。

「総員突撃! 総員突撃!」

 するとあれだけ苛烈で熾烈だった砲撃戦の轟音と震動が一段落したかと思えば、各中隊や小隊の指揮官である尉官や下士官達の命令と同時に、突撃ラッパの軽快な音色が戦場に鳴り響く。

「行くぞ、サラルスキー一等兵! 俺の後について来い!」

 俺はそう言いながら塹壕から飛び出し、およそ五百人余りからなる大隊の兵卒達の先陣切って、敵陣目掛けて突撃を敢行した。敵味方両陣営の塹壕に挟まれた戦場は、やはり黒色火薬が燃え尽きる際に発生する白煙でもって真っ白にけぶり、相変わらず10m先の人影が果たして敵なのか味方なのかの判別もつかない。

「!」

 しかしながら、どうやら敵方であるオーノスタ大公国陸軍もまたこちらに向かって突撃を敢行したらしく、戦場を覆う白煙の向こうから大群が津波の様に迫り来る際の音と気配をびりびりと肌で感じ取る。

「一つ!」

 白煙の向こうから『万歳』を意味する唸り声を上げながら姿を現した敵軍の兵卒の胸のど真ん中を、俺は躊躇う事無く小銃の一撃でもって撃ち抜いた。前世に於ける最新の用兵論とは違って、この世界では未だ未だ銃弾の小型化の必要性は議論されておらず、俺が手にした小銃もまた結構な大口径である。そしてそんな大口径の小銃によって胸を撃ち抜かれた敵兵は苦しむ間も無く絶命し、真っ赤な鮮血と泥にまみれながら地面を転がると、もはや立ち上がる事は無い。

「二つ!」

 俺は走りながらボルトを引き戻し、小銃の薬室に二発目の銃弾を装填すると、やはり白煙の向こうから姿を現した二人目の敵兵の胸を撃ち抜いた。するとその敵兵の生死を確認する間も無く三人目が姿を現し、俺の頭部に照準を合わせつつ小銃を構えると、彼もまた躊躇い無く引き金を引き絞る。

「おっと」

 しかしながら、俺はこちらに向かって飛び来たる銃弾を、すんでのところで回避してみせた。勿論回避してみせたと言っても、この俺が漫画や映画のヒーローの様に、飛び交う銃弾以上の速度でもって動ける訳ではない。柔剣道でもって鍛えた反射神経と動体視力をフル活用し、敵兵が引き金を引き絞るまさにその瞬間、狙われているであろう体幹を左右どちらかに逸らしているだけの事である。

「■■! ■■■、■■■■■■■■■!」

 オーノスタ語でもって何事かを叫びながら恐れおののく敵兵に、俺は素早く駆け寄った。

「三つ!」

 そしてその敵兵の無防備な喉元に鋭利な銃剣の切っ先を突き刺し、更にそのまま引き金を引き絞れば、やはり眼の前の兵卒の頭部が熟れ過ぎたザクロの様にぐちゃぐちゃに砕け散る。

「■■■■!」

 そうこうしている内に河畔とその周囲をけぶらせていた白煙が風に流され、敵味方入り乱れた大混戦の様相を呈する戦場の惨状が次第に露になり始めると、オーノスタ語の唸り声と共に数名の敵兵が襲い掛かって来た。

「四つ! 五つ! 六つ!」

 しかしながら、俺は一歩も退かないし、怯みもしない。剣道の突き技の要領でもって襲い来る敵兵の喉笛を次々に切り裂くと、一歩一歩着実に進軍する俺の背後に、無数の死体の山が築かれる。

「おいおい、すげえなアルル! またしても大活躍じゃないか!」

 すると俺の後を追って来たノッシュがそう言って、俺の活躍ぶりを手放しでもって褒め称えた。

「ああ、そうだなノッシュ! このまま上手く行けば、今日こそ河まで辿り着けるかもしれないぞ!」

 そう言った俺の言葉通り、ナサニコフ大尉率いる我らが大隊の目標は、かつてロンヌ帝国とオーノスタ大公国との国境であったドードリエ河の奪還に他ならない。開戦当初にはこの河を越えてオーノスタ大公国の領土へと侵攻した我が軍も、その後の戦闘でもって押し戻され、その後は河のこちら側へと逆に侵攻されてしまっていたのだ。だからこそドードリエ河を再び取り戻す事はロンヌ帝国陸軍たっての悲願であり、また同時に、命に代えてでも達成すべき至上命題なのである。

「!」

 しかしその時、不意に竜虎相搏つ大混戦となった戦場に、その場の空気にそぐわない女性の悲鳴が響き渡った。そこでその悲鳴が聞こえて来た方角を見遣れば、今まさに、サラルスキー一等兵が敵兵の一人と鍔迫り合いを繰り広げている光景が眼に飛び込む。

「スラーラ、危ない!」

 俺は咄嗟に彼女の元へと駆け寄ると、思わず今は亡きスラーラの名を口にしながら銃剣を振るい、サラルスキー一等兵と鍔迫り合いを繰り広げている敵兵の喉元を背後から突き刺した。

「■■■!」

 喉元に突き刺さった銃剣を素早く引き抜けば、その敵兵はオーノスタ語でもって口汚い悪態を吐きながらごぼごぼと血のあぶくを噴き出し、まるで糸が切れた操り人形の様にその場に崩れ落ちる。

「無事か、スラーラ?」

 俺がそう言って彼女に問い掛ければ、九死に一生を得る格好になったサラルスキー一等兵もまた膝の力が抜けたのか、呆然自失とした表情のままその場にへなへなとひざまずいてしまった。

「どうした、早く立て! 立つんだスラーラ!」

「……スラーラ?」

 俺が彼女の名を呼び間違い続けながら急かせば急かすほど、サラルスキー一等兵は殊更ことさらに混乱し、ひどく不思議そうな眼差しをこちらに向ける。

「ああ、済まない。そうだ、そうだとも、キミはスラーラじゃなかったんだ……サラルスキー一等兵、今すぐ立つんだ!」

 改めて俺が命じれば、その場にひざまずいてしまっていたサラルスキー一等兵はがくがくと震えるばかりの足腰に必死で鞭打ち、どうにかこうにか立ち上がる事に成功した。そして立ち上がった彼女の足元では俺の手によって喉元を搔っ切られたオーノスタ大公国陸軍の兵卒が、血のあぶくを噴き出しながらも死ぬに死に切れず、重度の失血と呼吸困難によって藻掻き苦しみ続けている。

「サラルスキー一等兵、キミがとどめを刺すんだ。いいな?」

 俺がそう言えば、彼女は未だに呆然自失とした表情をこちらに向けながら「え?」と問い返した。

「この兵卒は苦しんでいる。その苦しみに終止符を打ち、幸せな来世へと送り届けてあげるためにも、今この場で殺すしかない。分かるな?」

 きっとサラルスキー一等兵もまた、ノッシュと同じく『来世』と言う単語の意味を得心してはいないものと思われたが、俺の言わんとしている事は大方理解出来ているに違いない。その証拠に、立ち上がった彼女は銃剣が装着された小銃を構え、足元で藻掻き苦しみ続ける敵兵の胸を刺し貫かんとする。

「……」

 しかしながら、サラルスキー一等兵は銃剣付きの小銃を構えたまま固まってしまい、とどめを刺す事が出来ない。

「どうした! やるんだ、サラルスキー一等兵! ロンヌ帝国陸軍の軍人として、見事に突撃してご覧に入れますと言ったキミの言葉は嘘だったのか!」

 上官である俺がそう言ってげきを飛ばしていると、両雄入り乱れる大混戦となった戦場の一角から、一人のオーノスタ大公国陸軍の兵卒が小銃を構えながら襲い掛かって来た。そこで俺は「邪魔するな!」とだけ吐き捨て、素早く身を翻して銃剣を振るい、その兵卒の喉元を気道と頸動脈ごと切り裂いて即死させる。

「よく見ろ、サラルスキー一等兵! これが突撃すると言う事、そして、戦場で戦う兵卒であると言う事だ! これが出来ないのであれば、今すぐ除隊し、故郷の花畑で花でも摘んで暮らすんだな!」

 俺が泥だらけの地面に転がる、たった今しがた俺が殺したばかりの敵兵の死体を指差しながらそう言えば、今度こそ侮辱されたと解釈した負けん気の強いサラルスキー一等兵は覚悟を決める。

「やります! やってやります! 今すぐあたしが、この手でとどめを刺してご覧に入れます!」

「そうだ、やれ! とどめを刺せ!」

 そう言った俺に鼓舞されながら、遂にサラルスキー一等兵は彼女の足元で藻搔き苦しみ続ける敵兵の胸に、銃剣の切っ先を突き刺した。そしてそのままずぶずぶと刀身を沈めると、最後にごぼっと一際大きな血のあぶくを噴き出しつつ、心臓を貫かれた敵兵は絶命する。

「よし、よくやったぞ、サラルスキー一等兵! しかしながら、キミは未だ未だ童貞を捨てたばかりの半人前の新兵だ! さあ、これから更に多くの、出来得る限り多くの敵を殺して一人前の兵士となれ!」

 自らの手によって人を殺めてしまった事に対するショックから、銃剣付きの小銃を手にしたままはあはあと荒い呼吸を繰り返すサラルスキー一等兵に、俺は重ねてげきを飛ばした。

「さあ、行くぞ! 俺について来い!」

 俺は声高らかにそう言って、銃剣が装着された小銃を構えつつ、敵陣目指して突撃を再開する。そして次々に襲い掛かって来るオーノスタ大公国陸軍の兵卒達をばったばったと薙ぎ倒し続ければ、遂に俺らロンヌ帝国陸軍の兵卒達は、敵の塹壕へと辿り着いた。

「■■■■■!」

 まず手始めに、俺には理解出来ないオーノスタ語でもって悪態を吐きながら機関銃を乱射する敵兵を銃剣突撃でもって屠り去り、塹壕によって支えられた敵の戦線に穴を穿つと同時に進軍の橋頭保を築く。

「ノッシュ、サラルスキー一等兵、機関銃を奪え!」

 河畔に掘られた塹壕内へと侵入した俺は、群がる敵兵どもを銃剣突撃でもって蹴散らしつつ、そう言ってノッシュとサラルスキー一等兵に命じた。すると彼ら二人は敵陣の突端に銃架でもって据え付けられていた機関銃を奪取し、混戦状態の戦場に於いて、敵兵が固まっている箇所に制圧射撃を行う。ちなみにこの世界での機関銃は前世のそれとは比べものにならないほど重く、大きく、嵩が張り、そこらの歩兵がおいそれと持ち運べる物ではない。

「よし、いいぞ! ロンヌ帝国陸軍の兵士達は俺に続け! ここから塹壕内に侵入出来るぞ!」

 俺が有らん限りの声を張り上げながらそう言って檄を飛ばし、発破を掛ければ、色めき立った友軍の兵卒達は堰を切ったように敵陣である塹壕内へと雪崩れ込んだ。こうなってしまっては形勢は確定したも同然であり、敵は塹壕を放棄せざるを得ない。

「総員突撃! 総員突撃! 総員突撃して塹壕を奪取せよ!」

 するとこれを勝機と捉えた尉官や下士官と言った指揮官達は再度突撃命令を下し、ラッパ兵による突撃ラッパの音が戦場に響き渡ると、そんな友軍とは対照的に敵であるオーノスタ大公国陸軍の兵卒達は撤退し始める。

「■■■■! ■■■■■■■■■■!」

 オーノスタ語でもって撤退命令を口にしながら、敵軍の将校も下士官も兵卒達も、こちらに背中を見せながらドードリエ河の方角目指して敗走し始めた。そこで俺らロンヌ帝国陸軍の兵卒達は彼らに追い討ちを掛け、敗残兵狩りに精を出し、戦意喪失した者は捕虜として囚える。

「動くな! 全員その場から一歩も動かずに、手を挙げろ!」

 やがて複雑に入り組んだ塹壕内を駆け抜け、その後方に張られていた将校用の野戦テントに突入した俺は、そこに居並ぶ敵軍の将校達に小銃の銃口を向けながら警告した。警告されたオーノスタ大公国陸軍の将校達は、苦虫を嚙み潰したような表情をこちらに向けつつも、渋々ながらも大人しく手を挙げる。

「■■■! ■■■■■■■■■■■■■■!」

 すると一人の将校、肩と襟の徽章からすると大尉らしき中年男性が、何事かを叫びながら腰のホルスターに手を伸ばした。しかしながらその大尉がホルスターから拳銃を抜く前に、彼の眉間に照準を合わせた俺は小銃の引き金を引き絞る。

「!」

 無慈悲にも、俺の手によって眉間を撃ち抜かれた大尉の頭部は壁に叩きつけた腐ったトマトの様に砕け散り、首から上を失った彼の身体がどうと地面に崩れ落ちた。

「動くなと言ってるんだ! たとえ将校であろうと、動けば容赦無く撃つぞ!」

 俺が再度警告すると、砕け散った大尉の頭部の欠片、つまり頭蓋骨の骨片や薄灰色の脳漿の一部を浴びる格好になった将校達は観念し、それ以上抵抗する事は無い。そして俺に遅れる事数分後、ようやく塹壕の後方にまで戦線が後退すれば、野戦テントの内部へと駆け付けた数人の新兵達にその場を任せる。

「おい、そこの二等兵と一等兵、こいつらを武装解除させた上で、友軍のテントまで護送しろ。貴重な将校の捕虜だから乱暴に扱ってはならないが、抵抗した場合は、その場で射殺してしまっても構わない」

 俺がそう言って名も知らぬ新兵達に命じれば、命じられた数人の新兵達は嬉々として将校達の武装解除と護送に取り掛かった。きっと武装解除の際に将校達から取り上げられた彼らの拳銃は、戦利品として新兵達の手に渡ってしまうに違いない。そこでこの俺もまた、俺が撃ち殺した大尉の元へと歩み寄ると、彼が抜こうとしていた拳銃をホルスターごと取り上げた。

「カシンか……なかなかいい拳銃だな」

 大尉の手から取り上げた拳銃は、オーノスタ大公国のカシン社が製造する自動装填式の拳銃であり、鋼鉄製のフレーム全体に彫金エングレーブによる豪華な装飾が施されている。ロンヌ帝国陸軍の一般的な兵卒には拳銃が支給されないので、兵卒でありながら拳銃を持っている事は敵の将校から奪い取った事を意味し、それはある種のステータスに他ならない。

「よし、後は任せたぞ」

 そう言った俺はオーノスタ大公国陸軍の将校用の野戦テントを後にすると、塹壕の上へとじ登り、ぐるりと周囲を見渡した。敵兵達が敗走したドードリエ河の方角から散発的な銃声が聞こえるものの、どうやら雌雄は決したらしく、戦闘行為はほぼほぼ終結しつつある。

「ノッシュ! ノッシュはどこだ! ノッシュ!」

 泥と埃にまみれた塹壕の上を歩きながら、俺は同じ小隊に配属された戦友であり、また同時に血が繋がった従弟でもあるノッシュの名を呼んだ。

「アルル! こっちだ! アルル!」

 すると塹壕の最前線の方角から俺の呼び掛けに応える者が居たので、そちらを見遣れば、サラルスキー一等兵を背後に従えながらこちらへと歩み寄るノッシュの姿が眼に留まる。

「ノッシュ! 生きてたか!」

「ああ、そうだな。俺もお前も、今回もまた生き延びちまったな! それにしてもアルル、お前、またしても凄い活躍ぶりじゃないか! 今回は一体、何人の敵兵をぶっ殺しちまったんだ?」

「さあな。十人から先は数えてないさ」

 銃剣突撃によって切り殺した敵兵の返り血でもって、すっかり血と泥にまみれてしまった俺とノッシュ。そんな俺ら二人はそう言って相手の肩を叩き、拳を重ね、互いの戦果を労い合った。

「サラルスキー一等兵!」

 ノッシュの無事を確認し終えた俺が、彼の背後に立つサラルスキー一等兵の名を呼べば、彼女はびくっと身を竦ませる。

「どうだった、サラルスキー一等兵? 初めての本物の戦場、それに初めての殺しを体験した感想は?」

 俺がそう言って問い掛ければ、そばかす面の女性兵士であるサラルスキー一等兵は口をつぐんだまま顔を伏せ、一言も言葉を発さない。しかしながらそのまま黙って待ち続けると、とうとう彼女の碧色の瞳からは大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、おずおずと口を開く。

「……怖かった……です……」

 涙ながらにそう言って肩を震わせるサラルスキー一等兵は、もはや誇り高きロンヌ帝国陸軍の兵卒どころか、どこにでも居るような一人の少女でしかない。

「そうか、怖かったか。だがしかし、これが戦場に於ける揺るがぬ現実だ。ここでは常に生と死が隣り合わせであり、いつ死ぬとも、いつ殺すとも知れない地獄の様相が延々と繰り返される。そんな戦場で、キミは兵士としての職務を忠実に全うする覚悟が出来ているのか? 死を恐れず、人を殺せるのか?」

 俺が少しばかり底意地の悪い表情と口調でもってそう言えば、サラルスキー一等兵は涙を拭い、明言する。

「やれます! やってやります! 死を恐れず、殺す事を恐れず、必ずや兵士としての職務を忠実に全うしてみせます!」

「よし、いい返事だ!」

 俺ははにかんだような笑顔を見せながらそう言うと、眼前のサラルスキー一等兵のカーキ色の戦闘帽に包まれた小さな頭を、ぐしゃぐしゃと搔き回すような手付きでもって撫で回した。

「グルカノフ兵長殿! 自分を子供扱いしないでいただきたい!」

 すると俺の手を払い除けながら、不服そうにそう言ったサラルスキー一等兵に、俺は重ねて命令する。

「だったら、俺ら友軍の兵卒達と、もっと親密な関係になってみろ。そうすれば仲間として認めてやるし、なんであれば、大人扱いもしてやらない事も無い」

「それは……具体的に、何をすればよろしいのですか?」

「そうだな、だったらまず手始めに、互いの呼び名からだ。俺はこれからキミの事をインジーと呼ぶし、キミは俺の事をアルルと呼べ。いいな、インジー?」

 やはりはにかんだような笑顔を見せながらそう言って、俺は彼女に、眼前に立つこの俺を呼び捨てにするよう命じた。するとインジーことインジット・サラルスキー一等兵は暫しもごもごと口籠った末に、おずおずと俺の名を口にする。

「アルル……兵長殿?」

「兵長殿は要らない! 単にアルルと呼べ!」

「……アルル!」

 意を決してそう言ったインジーの顔は、同じ兵卒とは言え階級が二つも上の俺を呼び捨てにする気恥ずかしさ、そして禁忌を犯す際の緊張感と罪悪感がい交ぜになった感情でもって真っ赤に紅潮していた。

「そうだ、その意気だ! それじゃあインジー、次はこいつをノッシュと呼んでみろ!」

「……ノッシュ!」

 インジーがそう言えば、彼女から呼び捨てにされたノッシュは愉快そうに微笑み、インジーの肩や背中をばんばんと激しく叩いて親愛の情を露にする。

「ああ、そうだ、それでいいんだインジー! 俺はノッシュで、こいつはアルル! これからもよろしくな!」

 そう言ったノッシュが屈託無く笑えば、俺とインジーもまた釣られ笑いを漏らし、散発的に銃声が轟く塹壕の一角で俺ら三人は笑い合った。これだけ胸襟を開いて笑い合う事が出来れば、金輪際、気負い過ぎた彼女が同じ中隊や小隊の仲間達から孤立する事もあるまい。

「さあ、そろそろ行くぞ、二人とも。戦闘が終結すれば、小隊長が部下達を集結させている筈だからな」

 俺がそう言って号令を掛ければ、班を纏める俺と褐色の肌のノッシュ、それにそばかす面のインジーの三人は塹壕内を宛ても無く歩き始めた。そして俺らが所属する小隊の集結地点を探す道中、友軍の兵士達が忙しなく行き交う敵軍の塹壕内で、俺の腰のベルトに固定されたホルスターを指差しながらノッシュが問い掛ける。

「なあアルル、何だ、そのホルスターは? お前、そんなもん持ってたっけ?」

「ん? ああ、これか? これはさっき、敵の将校の野戦テントを襲撃した際に、戦利品として奪い取ったんだ」

「へえ、見せてくれよ」

 興味津々と言った様子でもってそう言ったノッシュに、俺はホルスターから抜いたカシン社製の自動拳銃を手渡した。

「なるほど、こいつはいい銃だ」

「ああ、いい銃だろ?」

 戦闘が終結した戦場を覆う青空から差し込む陽光に、彫金エングレーブによる豪華な装飾が施されたカシン拳銃のフレームがぎらりと輝く。

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