第九幕
第九幕
今日もまた、荒野と化した戦場を挟んで睨み合う敵味方の両軍が互いの陣地に向かって、定期便を届け合う時間帯が到来した。
「総員、塹壕内に身を隠せ! 繰り返す、総員、塹壕内に身を隠せ! もうすぐ定期便が届くぞ!」
やはり大隊長付きの副官である少尉が塹壕内を巡回しながらそう言うが、彼から命令されずとも、俺ら大隊所属の五百人余りからなる兵卒達は塹壕内に掘られた横穴へと身を隠す。
「もう定期便の時間か」
「ああ、敵さんも毎日毎日飽きもせず、ホントに几帳面なこって」
そう言った俺とノッシュの二人もまた塹壕内の横穴へと身を隠すと、肩を寄せ合いながら身を屈めて
「来たぞ」
ノッシュがそう言い終えるのとほぼ同時に、どおんと言う爆音が轟いたかと思えば、前世での地震さながらにぐらぐらと大地が揺れた。そしてつい先日まで降り続けた雨によってどろどろの泥まみれになった塹壕内に点在する水溜まりに、池に小石を投げ込んだ際のそれの様な、小さな波紋が広がる。
「今日はまた、随分と入念に砲撃して来やがるな」
最初の一発目を皮切りにしながら、その後は間断無く数多の砲弾が俺らロンヌ帝国陸軍の兵卒達の頭上に降り注ぎ、いつ終わるとも知れない爆音と震動が狭く薄暗い塹壕を蹂躙し続けた。この砲撃がほぼ毎日の様に繰り返されるのだから、その真下で寝起きする人間は堪ったものではない。
「いつまで経っても、この音にだけは慣れねえなあ」
砲撃による爆音がどおんどおんと絶え間無く鳴り響き、足元の水溜まりが震動でもってぱちゃぱちゃと波打つ最中、俺の向かいに
「まったく、お前は繊細過ぎるんだよ。見てみろよ、こいつなんてこんな状況下でも寝てるんだぜ?」
すると他の兵卒の一人がそう言って隣を指差せば、そこに
「そいつは単に、無神経で鈍感なだけなんだよ。そんな奴とこの俺を、一緒にするなってんだ」
「ああ、違いねえ」
大地を震わせる爆音をBGMにしながらそう言って互いを茶化し合い、まるで暇を持て余した有閑マダムの様に談笑する兵卒達の姿に、人間と言うのはここまで環境に慣れ切ってしまえるものなのかと感心せざるを得ない。
「お? そろそろ止んだかな?」
やがて本日の定期便が届く前に淹れたお茶がすっかり冷め切ってしまった頃、やはり洗濯物を干すために小雨が降り止んだかどうかを確認する専業主婦の様な気安さでもってそう言った俺ら泥まみれの兵卒達は、塹壕内に掘られた横穴からぞろぞろと連れ立って退出した。
「ああ、また今日も生き残っちまったな」
「なあに、誰だっていつかは死ぬんだ。だから今日と言う日を生き延びた事を、素直に喜べよ」
そして背筋を伸ばして凝り固まった身体を解きほぐすついでについと顔を上げ、そう言いながら頭上を仰ぎ見れば、まるで
「第一中隊第三小隊は集合! 繰り返す、第一中隊第三小隊は集合せよ!」
すると俺やノッシュが所属する小隊の隊長を務める准尉がそう言いながら号令を掛けたので、俺ら四十人余りの兵卒達は肩と肩がぶつかり合うような狭い塹壕内の一角に集合し、それとなく整列した。
「よし、全員集合したな? それでは今日は貴様らに、新しい戦友を紹介する! サラルスキー一等兵、ここへ!」
勿体ぶったような表情と口調でもって小隊長がそう言えば、彼の背後に控えていた一人の兵卒がそれに応じ、自ら「インジット・サラルスキー一等兵であります!」と名乗りつつ一歩前へと進み出る。そしてカーキ色の戦闘服に身を包み、やや小柄な体格に見合わない大口径の小銃を手にしたその兵卒の姿を前にして、俺ら小隊の構成員達は互いの顔を見合わせながらざわざわとどよめいた。何故なら眼の前に立っているのがどこにでも居るような只の兵卒ではなく、髪を短く刈ってはいるが、端正な顔立ちの一人の女性だったからである。
「見ての通り、サラルスキー一等兵は我が小隊、いや、我が中隊始まって以来の女性兵士だ! しかしながら、男女同権と平等を謳う我らが帝国陸軍は、決して彼女を特別扱いはしない! 然るに貴様らもまた
小隊長が居並ぶ部下達の顔をじろじろと睨め回しながらそう言えば、その場に居合わせた兵卒達の何人かがへらへらと下卑た笑みをその顔に浮かべた。街の酒場で酔ったチンピラが若いウェイトレスの胸や尻に向けるような、下半身から湧き立つ肉欲を隠そうともしない笑みである。
「それでは、解散! 総員、各自の持ち場に戻れ!」
最後にそう言った小隊長の言葉に従い、俺ら兵卒達は、各自に割り当てられた塹壕へと帰還した。
「おいおい、女性兵士だってよ、アルル。珍しいな」
やがて泥と埃にまみれた塹壕へと帰還したノッシュがさも興味深そうに、そして如何にも色気付いた若者らしい少しばかりの下心を覗かせながらそう言ったので、俺は敢えて関心無さげに応える。
「ああ、確かに珍しいな。だけど確か、うちの大隊内の他の中隊や小隊には、既に何人かの女性兵士が配属されている筈だ。それに帝国議会の女性有権者に向けたプロパガンダだか何だかで、近年では軍隊に女性を送り込もうって機運が高まっている。だからうちの中隊に新たな女性兵士が配属されたとしても、何の不思議も無いだろう?」
「まあ、そう言われてみれば、確かにそうかもな」
そう言って相槌を打つノッシュと駄弁りながら時間を潰していると、先程号令を掛けた准尉が不意に姿を現したので、俺ら二人はいきおい姿勢を正した。
「グルカノフ兵長、貴様に用があって来た!」
「何でしょうか、小隊長殿!」
姿勢を正した俺が敬礼と共にそう言えば、やはり准尉の背後に立っていた人影が一歩前へと進み出る。つい今しがた紹介されたばかりの女性兵士、つまりインジット・サラルスキー一等兵だ。
「ここに居るサラルスキー一等兵を、貴様らの班でもって教育してやってくれ! 言っておくが、これは命令だ! 拒否する事は許されない!」
そう言った准尉の言葉に俺もノッシュも驚きを隠せないが、軍隊に於ける上官の命令は常に絶対であり、元より拒否するつもりも無い。
「了解いたしました、小隊長殿! 不肖グルカノフ兵長、責任持ってサラルスキー一等兵を教育させていただきます!」
「よし、良い返事だ! それでは後は任せたぞ、グルカノフ兵長! 貴様が職務を忠実に全うしてくれる事を期待する!」
准尉はそう言うとくるりと踵を返し、ややもすれば横柄そうな足取りでもって、さっさとその場を立ち去ってしまった。そして彼が立ち去った後の塹壕には俺とノッシュ、それに支給された装備や衣服一式が詰め込まれた大きな背嚢を背負ったサラルスキー一等兵の三人だけが取り残される。
「グルカノフ兵長殿、お初にお眼に掛かります! 自分はインジット・サラルスキー一等兵であります! それで、これから自分は、この塹壕内でもって何をすればよろしいのでしょうか?」
すると眼前に立つサラルスキー一等兵が、配属されたばかりで緊張しているのか、妙に気負った風な表情と口調でもってそう言った。至近距離で見る彼女の顔にはびっしりと無数のそばかすが浮き、男性兵士と同じように短く刈られた金色の髪と碧色の瞳が可愛らしくも美しい。
「あ、ああ、そうだな。取り敢えずそこの横穴の中に空いてるベッドがあるから、そこをキミの
「了解しました!」
やはり妙に気負った風な表情と口調でもってそう言ったサラルスキー一等兵は、俺が指し示した塹壕内の横穴へとその姿を消す。
「まさか、彼女がうちの班に配属されるとはな」
サラルスキー一等兵が天井に頭をぶつけないように身を屈めながら横穴の中へと姿を消すと、俺の隣に立つノッシュがそう言った。
「ああ、そうだな。俺にとっても予想外の事態だ。こいつは班員達が彼女に手を出さないように、これまで以上に襟を正さなきゃならないぞ。……ノッシュ、勿論お前も例外じゃないからな?」
俺がそう言って釘を刺せば、褐色の肌のノッシュは少しばかり感慨深げに、そして遠い眼をしながら口を開く。
「しかしアルル、お前、気付いているか?」
「気付く? 何に?」
「あのサラルスキーって女性兵士が、スラーラによく似てるって事にだよ」
「……」
ノッシュの言葉に、俺は無言のままはっと息を呑んだ。確かに言われてみれば、金髪碧眼でそばかす面であると言った分かり易い共通点を差し引いたとしても、彼女ら二人はその顔立ちや雰囲気が瓜二つである。
「もし仮に、今も未だスラーラが生きていたとしたら、彼女みたいないい女に成長していたのかな」
「……かもな」
俺は言葉少なにそう言いながら、かつて郷里の河畔で殺してあげたスラーラの姿を脳裏に思い浮かべた。幼馴染であった彼女と瓜二つの女性兵士が俺やノッシュと同じ班に配属されるだなんて、これは運命の悪戯か、もしくはひどく悪趣味な皮肉と言う他無い。すると件の女性兵士であるサラルスキー一等兵が、横穴の出入り口に扉代わりに掛けられた天幕を手で押し退けながら姿を現し、俺に尋ねる。
「グルカノフ兵長殿、別命あるまで待機と言う事ですが、その、具体的には何をしていればよろしいのでしょうか?」
どうやら彼女は、塹壕内での暇の潰し方を知らないらしい。
「何をしていればよろしいか……敵陣の塹壕を見張る歩哨や立番の任に就いていない時は、それが軍規に反する行為でない限り、基本的には何をしていても構わない。まあ、大抵の兵卒は仲間同士でのお喋りでもって暇を潰すか、小銭を賭けながらカードゲームやボードゲームに興じているよ」
「はあ……」
長い睫毛に覆われた眼をぱちくりさせながらそう言ったサラルスキー一等兵は、ひどく落胆すると同時に、この上無く拍子抜けした様子であった。きっと彼女が想像していた戦禍渦巻く最前線と、泥だらけの塹壕内で兵士達がお喋りやゲームに興じる現実の最前線とのギャップに、理解が追い付いていないに違いない。するとそんなサラルスキー一等兵に、俺の隣に立つノッシュが声を掛ける。
「やあ、確かキミの名前はインジットだったよな? 俺はノッシュバル。階級も同じ一等兵だし、同じ班に配属された者同士として仲良くしようぜ!」
真っ白な歯を見せながらの満面の笑顔でもってノッシュはそう言うが、サラルスキー一等兵はそんな彼をちらりと一瞥しただけで
「おいおい、サラルスキー一等兵、言っておくが僚軍の兵士達とはもっと仲良くしておいた方がいいぞ? それに、俺の事をいちいち「グルカノフ兵長殿!」なんて気張って呼ぶ必要は無い。階級だって一つか二つしか違わない一介の兵卒同士なんだから、もっと砕けた口調でもって語り合おうじゃないか。だからこれからは、俺の事を気軽にアルルって呼んでくれよ。俺もキミの事を、インジーって呼ぶからさ」
俺はそう言って、いずれ戦友となるべき仲間同士のコミュニケーションの重要性を訴え掛けるが、それは彼女が目指すべき女性兵士の理想像とは
「いいえ、自分はそう言った馴れ合いには、一切興味がありません! 兵長殿は兵長殿ですし、自分はサラルスキー一等兵であります!」
やはりサラルスキー一等兵は頑なにそう言って、取り付く島も無い。
「……そうか、そう言う事なら仕方が無いな。キミが俺の事を何と呼ぶかはキミの自由だし、キミが愛称ではなく階級でもって呼んでもらいと言うのなら、俺はキミの意思を尊重しよう」
「ありがとうございます、グルカノフ兵長殿! それでは兵長殿、自分は自分のやり方でもって、暇を潰させていただきます!」
そう言ったサラルスキー一等兵は、カーキ色の戦闘服に身を包んで彼女の小銃を手にしたまま、泥だらけの塹壕内を一人で行進し始めてしまった。周囲の兵卒達がお喋りやゲームに興じる中、一人で
「大丈夫かな、彼女?」
俺の隣に立つノッシュが、彼女に
「どうだろうな。あんなに肩肘張った態度だと仲間内でも孤立しかねないし、得てしてああ言う奴は早死にするんだ」
俺もまたそう言って、サラルスキー一等兵の身を案じる。
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