第八幕


 第八幕



 ようやく雪融けの季節となった初春の晴れ渡る青空に、真っ白な噴煙を棚引たなびかせながら、無数の砲弾が縦横無尽に飛び交った。

「着弾後突撃! 着弾後、ラッパに合わせて総員突撃せよ! 繰り返す! 着弾後、ラッパに合わせて総員突撃せよ!」

 大隊長付きの副官である少尉がナサニコフ大尉の命令を大声でもって叫びながら伝えるが、まるで雨霰あめあられの様に降り注ぐ数多の砲弾が爆発した際の凄まじい轟音と震動に、彼の声も殆ど掻き消されてしまって満足に聞き取る事が出来ない。

「総員突撃! 総員突撃!」

 やがて両軍の砲声が一段落したところで突撃ラッパが鳴り響き、各小隊長や分隊長、それに中隊長や大隊長の副官の命令を背中で聞きながら、俺ら六百人余りからなる大隊所属の兵卒達はボルトアクション式の小銃を手に手に一斉に塹壕から飛び出した。この世界では未だニトロセルロースを主成分とした無煙火薬が普及していないので、砲撃戦後の戦場は黒色火薬が燃え尽きる際に発生する白煙でもって真っ白にけぶり、なんであれば10m先の人影が果たして敵なのか味方なのかの判別もつかない有様である。

「!」

 すると次の瞬間、前方の白煙の中からひゅんひゅんと幾千発もの銃弾が飛び来たったかと思えば、俺の隣を駆けていた友軍の兵卒の頭部が熟れ過ぎたザクロの様にぐちゃぐちゃに砕け散った。生まれ変わる以前の世界とは違ってヘルメットもボディアーマーも支給されてはいないのだから、運の良し悪し以外に銃弾から身を守る術は無い。そしてよく見れば名も知らぬ一介の兵卒に過ぎなかった彼以外にも、何人もの兵卒達が飛び交う銃弾の雨に倒れ、その若い命を無暗に散らしている。

「怯むな! 総員突撃! 総員突撃せよ!」

 やはりそう言って兵卒達を鼓舞する尉官や下士官達の命令を背中で聞きながら、真っ白にけぶる戦場を駆け足でもって走り抜けた俺は、遂にオーノスタ大公国の兵士達と会敵した。

「一つ!」

 もうもうと大地をけぶらせる白煙の中から不意に姿を現した、くすんだ野鼠色の戦闘服を身に纏ったオーノスタ大公国軍の兵卒達は、互いの眼球の白眼も確認出来るような近距離でもって敵兵と鉢合わせした事に慌てふためく。そして急いで小銃を構え直そうと試みるものの、彼らが体勢を整えるより早く、慣れた手付きでもって照準を合わせ終えた俺は自分の小銃の引き金を引き絞った。そして小銃の銃口から射出された銃弾が最寄りの敵兵の胸に穴を穿って瞬時に絶命させると、素早くボルトを引き戻して二発目の銃弾を薬室に装填し、両軍相見りょうぐんあいまみえる大混戦となった戦場で次の獲物を探す。

「二つ!」

 決して立ち止まる事無く常に移動し続けながら、俺は次の獲物である敵兵の一人に照準を合わせると一切躊躇う事無く引き金を引き絞り、これもまた銃弾でもって胸に穴を穿つ事によって絶命させた。

「三つ!」

 やはり小銃のボルトを引き戻して銃弾を薬室に装填し、素早く照準を合わせてから引き金を引き絞って、三人目の敵兵を絶命させる。

「四つ! 五つ!」

 そのまま一切の反撃を許さないような一気呵成の怒涛の勢いでもって、流れるように四人目と五人目の敵兵を一撃の下に絶命させると、遂に弾倉内の銃弾を全て打ち尽くしてしまった。

「■■■■■、■■■■■■■!」

 すると白煙の中から姿を現した新たな敵兵が、俺には理解出来ないオーノスタ語でもって罵声を浴びせ掛けつつも、こちらへと接近して来るなり手にした小銃の引き金を引き絞る。ぱんと言う乾いた銃声と共に射出された銃弾が、無防備な俺の頭部目掛けて飛び来たるものの、ほんの数十㎝ばかり狙いを違えて命中する事は無い。敵兵を中心にしながら絶えず弧を描くように移動し続ける俺は彼らからしてみたら極めて狙い難く、余程の手練れた射手でもない限り、その動きを捉える事は不可能だろう。

「六つ!」

 俺は眼の前の敵兵が小銃のボルトを引き戻す際の隙を突いて、前世で体得した剣道の摺り足の技術を生かしつつ素早く接近すると、己の小銃の先端に取り付けられた銃剣でもって彼の喉を刺し貫いた。そして喉に刺さった銃剣を引き抜く際に刃先を薙ぎ、気道だけでなく頸動脈をも切断すれば、致命傷を負った敵兵はごぼごぼとおびただしい量の血のあぶくを噴きながらその場に昏倒する。勿論これら一連の刺突の流れに、剣道の突き技の技術が生かされている事は言うまでもない。

「!」

 そうこうしている内に、やがてもうもうとけぶっていた白煙が風に流され、ドードリエ河の河畔から程近い戦場の様子が露になった。そして視界が開けてみれば俺の予想通り、敵も味方も一歩も退かぬまま至近距離から突撃し合う、まさに前世に於ける関が原もかくやと言うほどの大混戦である。

「■■■■■!」

 すると休む間も無くオーノスタ語でもって何事かを叫びつつ新たな敵兵が襲い掛かって来たので、小銃の弾倉を交換している暇は無いと判断した俺は、再びの銃剣の刺突によってその敵兵の喉をも刺し貫いた。そしてそのまま勢いに乗って手近な敵兵を発見するや銃剣突撃を敢行し、彼らの喉や胸を刺し貫いて、死体の山を築き上げる。

「総員撤退! 総員撤退せよ!」

 しかしながら、いくらこの俺が敵兵の死体の山を築き上げたとしても、たった一人の兵卒が一国の軍隊同士の戦争の勝敗を左右出来得る筈もない。そこで総合的かつ俯瞰的に戦局を判断した結果、突撃は失敗したと見做みなした大隊長以下の尉官や下士官達が集合ラッパの音色と共に撤退命令を下したので、俺もまた渋々ながら自分が元居た塹壕へと引き返す。

「各部隊の小隊長と中隊長は生き残った部下の点呼を行え! 衛生兵は負傷者の治療と救護を! それ以外の者は敵兵の動向に注意を払いつつ、銃弾の補給を受け、別命あるまで待機せよ!」

 元居た塹壕へと引き返してみれば、やはり大隊長付きの副官である少尉が声を張り上げながらそう言って、ちょうど大人の背の高さくらいの深さの塹壕を埋め尽くす疲弊し切った兵卒達に補給と待機を命じていた。

「突撃はまた失敗だってよ、アルル」

 ロンヌ帝国とオーノスタ大公国との国境線でもある、水量豊かな大河としても知られるドードリエ河。そんな大河の帝国側の河畔に掘られた塹壕に身を隠していれば、こちらへと歩み寄って来た一人の青年が俺の名を口にしながらそう言って、そこらに転がっていた断薬運搬用の木箱に腰掛ける。突撃が失敗した事がよほど気に入らないのか、その表情は冴えない。そしてカーキ色の戦闘服に身を包み、ボルトアクション式の小銃を手にした褐色の肌のこの青年こそ、俺の従弟であると同時に戦友ともなったノッシュバル・グルカノフである。

「ああ、そうだなノッシュ。また失敗だってな」

 俺もまたそう言いながら周囲を見渡し、手近な木箱に腰掛けた。

「これで一体、何度目の失敗だ? いつになったらオーノスタの奴らを河向こうまで押し返せるんだ?」

「そんな事、俺に聞かないでくれよ。俺らみたいな一介の兵卒に出来る事と言えば、命令に従って突撃を繰り返す事だけなんだからさ」

 彼と同じくカーキ色の戦闘服に身を包んだ俺が溜息交じりにそう言えば、ノッシュもまた溜息を吐いて気を取り直し、今度は俺を称賛し始める。

「しかしアルル、結局突撃は失敗しちまったが、お前の活躍ぶりは今回もまた凄まじかったな! 後ろから一部始終を見ていたが、行く手を遮る敵兵どもを手当たり次第に討ち倒して行く様は、本当に爽快だったぜ? それに最近ではお前の勇名が、ナサニコフ大尉の耳にまで届いてるって噂だからな!」

「お世辞はよせよ、ノッシュ。幾ら褒めちぎったところで、こんな最前線の塹壕の中じゃ何も出ないからな?」

 俺はそう言って彼の言葉を否定し、照れ隠しついでにかぶりを振りながらはにかんだ。

「そんな事無いさ、アルル。大隊の皆も陰で噂してるぜ? 戦場に於いて死をも恐れず勇猛果敢に先陣を切り、躊躇う事無く敵兵に死をもたらす、ナサニコフ大隊きっての『死神アルル』だってな!」

「おいおい、死神って、何だよそれ? 中二病の黒歴史かよ」

「ちゅうにびょう? くろれきし? 何だそりゃ?」

 前世での知識を披露した俺の言葉に、ノッシュはきょとんと首を傾げながら呆ける。

「なんでもない、忘れてくれ。そんな事より、突撃が失敗したと聞いたら無性に腹が減って来たな」

 そう言った俺の腹の虫が、タイミングよくぐうと鳴いた。

「ああ、言われてみればそろそろ飯の時間だ。炊事場に急ごう」

 俺はそう言ったノッシュと共に腰を上げ、炊飯ラッパの音を聞きつつ水筒と飯盒を手にしながら塹壕の炊事場の方角へと足を向けると、飢えた兵卒達によって形成された長蛇の列の最後尾に並ぶ。

「次! 次! はい次! 配給を受けた者は立ち止まるな! 一人一杯のみ、階級の上下にかかわらず、お代わりは無しだ! そこ、二度並ぼうとするな! 顔を覚えているから、今度やったら飯抜きだぞ!」

 そう言って兵卒達を叱責する炊事兵の曹長に捌かれながら、俺とノッシュの二人もまた今日の昼餉を受け取った。受け取った昼餉の献立は相も変わらずのヒダパンと、僅かながらのハババ豚の干し肉、それにサラツ菜とヒライ鶏の肉の欠片が浮いたヒダ豆のスープである。

「糞、またヒダパンにヒダのスープかよ! たまにはカレーライスくらい食わせろってんだ!」

「かれーらいす? アルル、お前、一体何を言ってるんだ?」

 前世での大好物の名を口にした俺に不審な眼を向けながら、そう言ったノッシュが首を傾げた。

「何でもないよ、ちょっとした世迷よまい事さ。気にするなって」

 俺は深い深い溜息交じりにそう言ってかぶりを振ると、さほど美味くもないヒダパンをヒダ豆のスープに浸しながらむしゃむしゃと頬張り、空きっ腹を満たす事に専念する。

「グルカノフ一等兵! どこだ、グルカノフ一等兵! 第一中隊所属のアルルケネス・グルカノフ一等兵は居るか!」

 するとヒダパンの最後の一欠片を胃の腑に納め終えたちょうどその時、大隊長付きの副官である少尉が俺の名を呼んだので、俺は使い終えた水筒と飯盒を背嚢に仕舞い直しながら立ち上がった。

「はい、少尉殿! 自分がアルルケネス・グルカノフ一等兵であります!」

 立ち上がりながら敬礼と共にそう言えば、少尉は俺の眼前で立ち止まり、やけに高圧的な態度でもって命令する。

「そうか、貴様がグルカノフ一等兵か! 大隊長殿が後方のテントでお呼びだ! 今すぐ俺について来い!」

「了解であります!」

 やはり敬礼と共にそう言った俺は、前を歩く少尉の背中を追うような格好でもって、塹壕内に縦横無尽に張り巡らされた通路を歩き始めた。通路の総延長は前世での距離の単位にして100㎞に及ぶとも言われ、その全貌を把握している者は、軍の内外にも全くと言っていいほど存在しない。

「ここだ! 入れ!」

 やがてそう言った少尉に命じられると、俺は後方の塹壕内に張られた一張りの大型野戦テントの内部へと足を踏み入れた。そこそこ広いテント内には折り畳み式のテーブルと数脚の椅子が設置されており、そのテーブルの向こうに、片眼に眼帯を当てて妙に厳めしい軍服を着た一人の中年男性が立っている。

「キミが、グルカノフ一等兵か?」

 ここが砲弾飛び交う最前線から程近い塹壕内でありながら、俺らと兵卒と同じカーキ色の戦闘服ではなく飾緒しょくちょ付きの濃紺色の礼装に身を包んだ眼の前の隻眼の中年男性こそ、我らが大隊指揮官たるバルカンスト・ナサニコフ大尉その人であった。そしてそんなナサニコフ大尉に問い質された俺は、再びの敬礼と共に「はい、自分がグルカノフ一等兵であります!」と大声でもって返答し、踵を揃えながらぴんと背筋を伸ばして居住まいを正す。

「グルカノフ一等兵、楽にしたまえ。そして、喜びたまえ。キミの事を一等兵と呼ぶ者は、もう居ない」

「と、仰いますと?」

「おめでとう、昇進だ。今日からキミは、グルカノフ兵長となる」

 礼装のナサニコフ大尉はそう言いながら腰を上げ、こちらへと歩み寄って来たかと思えば、小さな紙箱を俺に手渡した。そして手渡された紙箱を開けてみれば、そこには兵長の襟章や肩章などと言った徽章の類が入っており、自分が昇進したのだと言う実感がひしひしと湧き上がる。

「ありがとうございます、大隊長殿!」

「グルカノフ兵長、済まんが私に礼を言うのは筋違いと言うものだ。なにせキミは自分の実力でもって兵長の地位を勝ち取ったのだから、是非とも胸を張って、その地位を戦友達にひけらかすが良い」

 そう言って俺を労うナサニコフ大尉に、少しばかり恐縮しながら、俺は尋ねる。

「大隊長殿、一つうかがってもよろしいでしょうか?」

「何だね、兵長?」

「何故に自分はここまで呼び出され、畏れ多くも大隊長殿直々に、徽章を手渡されたのでしょうか? 自分は未だ未だ一介の兵卒に過ぎませんし、昇進の事実を伝えるだけであれば、下士官にでも任せておけばよろしいかと存じます!」

 俺がそう言って問い掛ければ、右眼に眼帯を当てた隻眼の大隊長であるナサニコフ大尉は礼装の飾緒しょくちょを指先でもってもてあそびながら、意味深そうにほくそ笑んだ。

「何の事は無い、実は個人的に、私はキミと言う人間に興味があってね。と言うのも第一中隊に突撃となれば怯む事無く先陣を切り、猪突猛進の勢いでもって敵陣に飛び込むや敵兵をばったばったと薙ぎ払う勇猛果敢な兵士が居ると聞いて、是非ともその兵士に会ってみたいと思っていた次第だよ」

「つまり……それが自分と言う事でありますか?」

「ああ、まさにその通りだ。そしてついでと言っては何だが、昇進するにあたって、キミの経歴も調べさせてもらったよ」

 そう言って俺の疑問に答えたナサニコフ大尉は椅子に腰掛け直し、テーブルの上に投げ出してあった書類鞄の中から束ねられた数枚の紙っぺらを取り出すと、そこに記載された内容を一部抜粋して読み上げる。

「アルルケネス・イグリリス・グルカノフ。出身はロンヌ帝国北東部のスライツヴァ州ミルネラ群ラハルアハル村。父イグリリスと母ミシュライラの間に生まれ、臣民学校での成績は極めて優秀であり、素行もまた良好と評価される。戴冠式を終えた後に十五歳で臣民学校を卒業すると、ラハルアハル村の領主を務める父の勧めで村役場の職員となり、特にこれと言った問題も起こさぬまま半年前の開戦直後に従弟のノッシュバルと共に帝国陸軍に志願した。そして本日付でもって兵長へと昇進し、今に至る。……この経歴に、何か間違っている点はあるかね?」

「いいえ、大隊長殿! 大隊長殿が仰られた自分の経歴に、何も間違いはありません!」

 俺がそう言って彼の言葉を肯定すれば、ナサニコフ大尉は紙束に落としていた視線をついと上げ、続けて提案する。

「そこで物は相談なのだが、キミはいっその事、小隊長になる気は無いかね? キミの様に優秀な兵士が果たして指揮官としての才にも恵まれているのか否か、是非ともその資質を問い直してみたいと私は考えているのだよ。ああ、勿論この提案を受諾する意思があれば、それ相応の階級と待遇を用意しよう。そして行く行くは、私の側近の一人として中隊の指揮をも任せたいと考えている。……どうだね、グルカノフ兵長? キミにとっても私にとっても、悪い話じゃないだろう?」

「……」

 ナサニコフ大尉の突然の提案を耳にした俺は、居住まいを正して口をつぐんだまま逡巡するばかりで、どうにも即答する事が出来ない。確かに彼の提案は至極魅力的であるし、昇進が早いに越した事は無いが、果たして軍に骨をうずめる事が自分の理想なのかと問われれば答えに窮するからだ。そしてまた同時に、自分が為すべき事は最前線の兵卒でなければ為し得ないとも確信している。

「……大隊長殿、誠に申し訳ありませんが、その提案は受諾いたしかねます!」

「ほう、何故かね?」

「自分は一人でも多くの敵兵を、この手でもって討ち滅ぼしたいと考えております! そのためには後方で指揮を執る下士官や将校ではなく、最前線で一介の兵卒の地位に甘んじ続ける事こそ肝要ではないでしょうか! ですから畏れながらも、自分は小隊長の任には就けません!」

 俺がそう言えば、隻眼のナサニコフ大尉は残された左眼を真ん丸にしながら驚いた様子であった。そして一拍か二拍の間を置いてからうんうんと首を縦に振り、俺の返答を是認する。

「成程、ああ、成程。安全な後方に引き篭もる事無く、一介の兵卒として前線で戦い続けたいとは、聞きしに勝る勇兵ぶりだな。だがしかし、そう言う事なら仕方が無い。小隊長の件は、キミの気が変わるその日まで一旦保留とさせてもらおう。その代わり、私の提案を蹴ったからには、これまで以上の戦果を期待させてもらうぞ?」

「了解しました、大隊長殿! ご期待に沿えるべく、今後もより一層、勇往邁進ゆうおうまいしんする所存であります!」

「いい返事だ。それではグルカノフ兵長、下がりたまえ」

「はい、失礼いたします!」

 最後にそう言った俺はくるりと踵を返し、テントの入り口前で待機していた少尉の前を通過すると、ナサニコフ大尉の大型野戦テントを後にした。そしてそのまま自分の中隊が配備された塹壕に足を向ければ、テントの外で待っていたノッシュがこちらへと駆け寄って来るなり問い掛ける。

「おいアルル、待ってたぞ! あの大隊長から直々に呼び出されるなんて、お前、一体何をしでかしたんだ?」

 そこで俺は大隊長から手渡された紙箱を彼に差し出し、それを開けて中身を提示してみれば、先程までのナサニコフ大尉ではないがノッシュもまた眼を真ん丸にしながら驚きを隠せない。

「……おい、これってまさか……」

「ああ、そうだ。兵長への昇進だ」

「やったなアルル、凄いじゃないか! 戦場に出てからたったの三か月かそこらでもって二等兵から一気に兵長まで昇進するなんて、大したもんだ! やっぱりお前は俺の自慢の従兄だな!」

 そう言って俺を称賛するノッシュと共に自分の塹壕目指して歩きながら、俺は彼に、ナサニコフ大尉から提案されたもう一つの事柄についても説明する。

「それともう一つ、大隊長から提案された」

「ん? 提案? どんな提案だ?」

「それ相応の階級を用意するから、小隊長に、そして行く行くは中隊長にもなってみないかって」

 俺が事も無げにそう言えば、ノッシュは益々をもって眼を真ん丸にしながら驚いた様子であった。

「小隊長に、それに中隊長だって? 本当かよアルル? 本当だとしたら、それこそ異例のスピード出世じゃないか! だったら俺もさ、お前の小隊の一員に加えてくれよ! そうすれば必ず、お前の指揮の下で活躍してみせるからさ!」

 彼は驚きつつも興奮を隠せない様子だったが、俺はそんなノッシュに対して、残念な結果を報告せざるを得ない。

「悪いがノッシュ、そう言う訳には行かないんだ。何故なら俺は、今言った大隊長の提案を蹴ったからだ」

「は? 提案を蹴った? つまりそれは、小隊長になってみないかって提案を断っちまったって事か?」

「ああ、そうだとも。今のところ、俺は下士官になる気は無いって事で、断らせてもらったよ」

 そう言った俺の言葉に、今度はノッシュの顔に落胆と失望の色が浮かぶ。

「おいおいおい、何だよそれ? せっかく小隊長になって、しかもそれ相応の階級も用意されるって話だったのに、それをそんな簡単に断っちまってどうすんだよ! ああ、もう、信じらんねえってば!」

 かぶりを振りながらそう言ったノッシュの表情と口調には、落胆や失望と言った感情と共に、僅かながらの怒りの色もまた見て取れた。

「まあ俺は、未だ未だ最前線で戦う兵卒でいたいって事さ」

 俺がそう言えば、ノッシュは尋ねる。

「なあアルル、前から聞こうと思ってたんだが、お前はどうしてそんなに兵卒にこだわるんだ?」

 縦横無尽かつ複雑に入り組んだ塹壕内の通路を並んで歩きながらノッシュがそう言って尋ねた、ちょうどその時。俺ら二人は、塹壕の一角に設けられた臨時の野戦病院の前を通り掛かった。勿論野戦病院とは言っても、こんな最前線にそれほど立派な施設がある筈も無く、単に並べて張られた幾張りもの大型テントの中で負傷した兵士達が治療を受けているだけに過ぎない。

「見てみろよ、ノッシュ」

 不意に立ち止まった俺は、そう言って野戦病院を構成するテントの中を指差した。テントの中では先程失敗した突撃によって負傷した兵士達が治療を受けており、ある者は腕を失い、ある者は脚を失い、中にはぱっくりと裂けた腹腔から薄桃色の内臓をまろび出させながら死に瀕している者も居る。そして血生臭い匂いと苦痛に満ちた呻き声が充満したテントの奥では、今まさに、幾人もの兵士達が麻酔も無いままに手足を切り落とされる際の絶望感に満ち満ちた悲鳴がこだましているのだ。

「酷いもんだな」

 しかもそれらの兵士達はここまで辿り着けたのだから未だ運が良い方で、今尚負傷して身動きが取れぬまま敵味方の塹壕に挟まれた戦場に取り残された者達の絶望感は、察するに余りある。

「ああ、そうだな。確かに酷いもんだ。……それで、その酷いのがどうかしたのか、アルル?」

「出征前にある程度想像していた事とは言え、戦場に出てみて初めて実感したが、はっきり言ってここは地獄だ。同じ人間同士でありながら敵味方に分かれた兵士達が上からの命令でもって殺し合い、おびただしい量の血が流れ、多くの負傷兵達が死んでも死に切れないような重篤な障害を負って後方へと移送されている。これら後方に移送された兵士達が除隊して故郷に帰ったとしても、その後の人生にどれほどの艱難辛苦が待ち受けているか、ノッシュ、お前は想像した事があるか?」

「ん? いや、特に想像した事は無いが?」

「俺は毎日毎夜、そう言った不幸な人間を一人でも減らす事ばかり考え続けている。もし仮に、俺が一国の国政を任された支配者なり指導者であったならば、政治的な方法でもって戦争を無くすべく尽力する事が出来ただろう。だが不幸にも、俺はそんな支配階級の家には生まれ落ちなかった。だから俺は一刻も早くこの悲惨な戦争を終わらせたいし、その最前線に送り込まれた兵士達を、敵味方問わずに一人でも多く殺して幸せな来世へと送り届けてやりたいんだ」

 俺が万感の思いを胸に秘め、決意を新たにしながらそう言えば、純粋で純朴な好青年であるノッシュは首を傾げた。

「らいせ? ……なあアルル、お前はたまに聞いた事も無いような不思議な単語を口にする事があるが、それは一体どう言った意味なんだ?」

 以前も言及したが、ノッシュも含めたロンヌ帝国の臣民のほぼ全員が信仰しているロンヌ正統派教会の教えには、輪廻転生の概念そのものが存在しない。だから死んだ人間の魂は神が御座おわす天国に召されるか、もしくは悪魔が跳梁跋扈する地獄に落ちると固く信じている彼らは、俺が口にする『来世』や『生まれ変わり』と言った単語の意味するところが理解出来ないのだ。いやむしろ、あまりに教義に反する発言を繰り返せば、異端のそしりも免れ得ない。

「ああ、何でもないよ、気にしないでくれ。そんな事よりも、今は一刻も早く俺達の塹壕に帰ろう。いつまでもこんな所でぐずぐずしていたら、またぞろ中隊長殿にどやされちまう」

 するとその時、そう言った俺とノッシュの脇を、二人の衛生兵達が担ぐ担架に乗せられた一人の兵士が通り掛かった。その兵士は砲弾が至近距離で爆発でもしたのか、両手両足が無残に千切れ飛び、裂けた腹からは真っ赤な血にまみれた臓物がでろでろとまろび出てしまっている。そして息も絶え絶えながらも虚ろな眼をこちらに向けたその兵士は、俺に向かって、まるで譫言うわごとの様に一言だけ呟く。

「……殺してくれ……」

 そう言って請われた俺は、達磨だるまの様に手足を失っても死に切れないその負傷兵を、今すぐにでもこの手でもって殺してあげたかった。いや、許される事ならば眼の前の野戦病院に駆け込んでそこに収容された全ての負傷兵達を一人残らず、決して苦しむ事の無い幸福な来世へと送り届けるために、殺して殺して殺し回ってしまいたい衝動にも駆られる。

「おい、どうしたんだ、アルル?」

 するとそんな俺の様子を不審に思ったノッシュに肩を叩かれて、胸の内にふつふつと湧き上がる殺人衝動を必死で抑え込んでいた俺は、はっと我に返った。

「え? あ、ああ。何でもない、ちょっと考え事をしていただけさ」

 俺は努めて平静を装いながらそう言うと、改めて自分達が配備された塹壕の方角へと足を向け、一歩一歩確かな足取りでもって歩き始めた。

「とにかく俺は、最前線に送り込まれた不幸な兵士達を、一人でも多く殺してあげたいだけなんだ」

 ノッシュの疑問に対する返答として、また同時に自分自身に言い聞かせるような表情と口調でもってそう独り言つと、俺は同じ大隊に所属する戦友達と共に次の突撃命令に備えて身体を休ませる。

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