第六幕


 第六幕



 それはラハルアハル村を取り囲むような格好でもってそびえ立つ山々の頂が真っ白な初雪を冠し、今年もまた冬将軍の足音が耳に届き始めたばかりの、初冬の頃の出来事であった。

「それでは、本日の授業はここまでとします。明日もまた、皆さんが健やかに登校出来ます事を、神に祈りましょう」

 度の強い銀縁眼鏡を掛けた担任の女性教師がそう言って立ち去れば、俺ら生徒達は荷物を纏め終えた者から順に席を立ち、古めかしい薪ストーブでもって温められた放課後の教室を後にする。

「アルル、スラーラ、一緒に帰ろうぜ!」

 授業で使う教科書やノートの類を詰め込んだ鞄を逸早く背負ったノッシュがそう言って、俺とスラーラに帰宅を促した。そこで俺ら三人は揃って教室を退出すると、そのまま煉瓦造りの校舎を後にする。

「なあアルル、今年もまた、冬の猟に僕らも連れて行ってもらえるかな?」

 帰り道の村道で、褐色の肌の腕白少年であるノッシュが歩きながらそう言った。

「連れて行ってもらえるに決まってるさ。なんなら今年は、僕らが猟銃を使って獲物を狩る事だって考えられるよ」

「僕らが獲物を狩るのか……冬の山に行くのは好きだけど、狩った獲物にとどめを刺すのだけは苦手だな、僕は」

 溜息交じりにそう言ったノッシュは、今度はスラーラに眼を向ける。

「なあスラーラ、スラーラも僕らと一緒に、冬の猟に連れて行ってもらわない?」

「え? でもあたし……きっとパパが許してくれないと思うから……」

「そっか。スラーラんちの父ちゃん、おっかないからな」

「うん、ごめんねノッシュ」

 申し訳無さそうにそう言って謝罪したスラーラは、そばかすが浮いた顔こそ可愛らしいものの、小柄なその身体は服の上からでも分かるほど痩せ細ってしまっていた。きっと彼女は今も尚、日々の食事も満足に与えられていないに違いない。それにしても、晩秋の収穫祭の日にあんな事件を目の当たりにしたと言うのに、ノッシュの中でのユグニルスの評価が『おっかない父ちゃん』に留まっている事には驚きだ。どうにもこの人の好い従弟は、能天気に過ぎる。

「それじゃあアルル、スラーラ、また明日!」

 やがて学校から続く村道を歩き続けた末に、俺とスラーラの自宅とノッシュの自宅との分岐点となる三叉路に辿り着いたので、元気良く手を振りながらそう言って別れを告げたノッシュは俺らとは別方向へと走り去った。ここから更に100mばかりも歩けば、今度は俺の自宅とスラーラの自宅との分岐点に辿り着く。

「じゃあねアルル、また明日」

 小高い丘の上に建つ俺の自宅とスラーラの自宅とのちょうど中間地点に位置する村道の分岐点に辿り着いたところで、そう言ったスラーラはくるりと踵を返し、自宅の方角へと足を向けた。しかしながらそんな彼女を、俺は背後から呼び止める。

「なあスラーラ、ちょっといい?」

「ん? 何?」

「うちに帰る前に、ちょっと川の方に行ってみるのはどうかな?」

「え? 川に? どうして?」

 唐突に川へ行こうと誘う俺の言葉に、この世界では決して珍しくない安物の毛皮のコートを着込んだスラーラは、少しばかり不審げな視線を投げ掛けた。

「特に理由は無いけどさ、そろそろ川面に氷が張る頃じゃないかと思って、それを一緒に確認しに行かない?」

「……」

 スラーラは無言のままうつむきながら、暫し逡巡した後に、ついと顔を上げて俺の提案に同意する。

「うん、いいよ、アルル。一緒に川の方まで行ってみましょ」

「じゃあ、こっちにおいでよ!」

 そう言った俺とスラーラは並んで村道を歩きつつ、そよそよと心地良く吹き付ける風に冬の匂いを感じ取りながら、村外れの山裾を流れる川の方角へと足を向けた。そして川へと向かう道すがら、今度は彼女が提案する。

「……ねえ、アルル?」

「ん?」

「あのさ、寒いからアルルと手を繋いでもいいかな?」

「ああ、勿論いいよ」

 急に手を繋ごうと言い出したスラーラの提案を快諾した俺は、毛皮のコートの袖から覗く彼女の小さくか細い手を取り、その手をぎゅっと固く握り締めた。

「アルルの手、温かいね」

 そう言ったスラーラは、俺と手を繋いで互いの体温を感じ取り合いながら、そばかすが浮いた頬をほんのりと赤らめる。晴れ渡る冬空の下ではにかむようにして微笑む彼女は可憐で清楚で、ややもすれば痩せぎすである事さえ除けは、まるで天使の様に美しくも可愛らしい。

「やっぱり、未だ氷は張ってないみたいね」

 家屋と家屋の間を縫うように走る村道を手を繋ぎながら駆け抜けた俺ら二人は、やがて川に架けられた石橋のたもとへと辿り着き、そこから川面を見下ろしたスラーラが少しばかり残念そうにそう言った。そこで俺は、いつも俺とノッシュとスラーラの三人が揃って水遊びに興じている、比較的水深が浅くて流れが緩やかな向こう岸のほとりを指差す。

「なあスラーラ、ちょっとあそこまで下りてみようよ」

 そう言った俺に先導されるような格好でもって、俺とスラーラの二人は石橋を渡り切ると、川岸の斜面を駆け下りてほとりへと辿り着いた。

「冷たっ!」

 ほとりに降り立ったスラーラは身を屈めると、せせらぎの様にさらさらと流れる川の水に手を浸しながらそう言って、やがて訪れるであろう永く厳しい冬の寒さに思いを馳せる。

「ねえ、スラーラ」

「ん? 何?」

「今も未だ、家でご飯を食べさせてもらえないでいるの? 未だユグニルスから殴られているの?」

 俺がそう言って彼女の背中越しに問い掛ければ、膝を折って身を屈めながら川面をちゃぷちゃぷともてあそんでいたスラーラの手が止まった。

「……どうしてそんな事を聞くの、アルル?」

「僕はね、スラーラ、キミの事が心配なんだ。前にキミがうちで解体していた肉を盗んで以来、いや、それ以前からずっと、あのユグニルスとミルライラのろくでなし夫婦がキミをちゃんと育てる事が出来ているのかどうか、心配で心配で堪らないんだよ」

 そう言った俺の返答に、今度はスラーラがこちらに背を向けたまま問い掛ける。

「どうしてアルルは、そんなにあたしの事を心配してくれるの? どうしてそんなに優しくしてくれるの? アルルは学校の先生でもないし、聖堂の司祭様でもないのに、どうして?」

 その問い掛けに対する俺の返答は、単純にして明快であり、異論を挟む余地も無い。

「スラーラ、僕はキミの事が好きなんだ。不幸な境遇に置かれたキミを、少しでも幸せにしてあげたいと願っている」

「……アルル……」

 するとこちらに背を向けていたスラーラが、俺の名を口にしながらゆっくりと振り返った。振り返った彼女の両の瞳には滔々と涙が湛えられ、その顔には満面の笑みが零れ落ちている。

「だからね、スラーラ」

 僕は彼女の元へと一歩一歩確かな足取りでもって歩み寄り、スラーラの両肩に手を乗せると、そのまま力任せに彼女を押し倒した。

「来世ではもっと幸せな人生を送るんだよ」

 そう言いながらスラーラを押し倒せば、彼女の上半身は背後を流れていた川面へとどぼんと水没し、つい今しがたまで満面の笑みを浮かべていたその顔は困惑と狼狽の色に染まる。

「苦しいだろう? だけど前世での僕がそうであったように、その苦しみを乗り越えて死んでしまえば、一から人生をやり直せるんだ」

 スラーラが起き上がれないように彼女の髪の毛を鷲掴みにした両腕に全体重を乗せながら、俺はそう言って、水没したスラーラが一刻も早く溺死する事を心から願って止まない。しかしながら水面下では息が出来ずに藻掻き苦しむ彼女の口や鼻の穴からごぼごぼと大量のあぶくが漏れ出し、死の淵に立たされたスラーラはばたばたと暴れ狂って、俺の両手を無我夢中で掻き毟り続ける。

「……」

 やがて前世での時間の単位にして一分から二分ほどが経過した頃、不意に俺の手を掻き毟っていたスラーラの指先から、ふっと力が抜けた。ごぼごぼと川面に浮かんでは弾けて消えていたあぶくも止まり、水没したままぴくりとも動かなくなった彼女の両の瞳からは、命ある生者特有の光が失われてしまっている。

「良かったね、スラーラ。これでもう、キミは苦しむ事も無いんだから」

 慈愛に満ち満ちた表情と口調でもってそう言った俺は、もう数分ばかりスラーラの上半身を水没させて確実に息の根を止めてから、彼女の髪の毛を鷲掴みにしていた両手を川面から引き揚げた。初冬の川の水は冷たく、そこに浸かっていた両手はすっかり感覚が麻痺し、その上スラーラによって掻き毟られた際の擦過傷によってずたずたに皮膚が裂けてしまっている。

「スラーラ、さようなら。願わくば、キミの来世が幸福で満たされますように」

 その一言を死者に対する手向たむけの言葉とすると、俺はスラーラの遺体を、そっと川に流した。まるで前世でのお盆の時期に行われる灯篭流しの灯篭よろしく、うつぶせの姿勢でもって川面に浮かぶ小柄な彼女の幼い肢体が、見る間に川下へと流れ去って行く。

「……誰にも見られてないよな?」

 村外れの山裾を流れる川の川下へと流れ去るスラーラの遺体を見送ると、俺はそう言いながら、きょろきょろと周囲の様子をうかがった。本格的な冬の到来も間近なこの季節ならば戸外を出歩いている村民も僅かであるし、念には念を入れて周囲の民家の窓からは死角になっているこの川のほとりを犯行現場として選んだのだから、万が一にも目撃者が居よう筈も無い。

「……」

 俺は無言のまま、周囲に人の気配が無い事を何度も重ねて確認すると、もうここに用は無いとばかりに川のほとりを後にした。そして村道を足早に駆け抜けると小高い丘の上に建つ自宅へと帰還し、そっと玄関扉を開けて、薄暗い屋内に足を踏み入れる。

「あらアルル、お帰りなさい」

 自宅の玄関から続く廊下を足音を殺しながら歩いていたと言うのに、不覚にもたまたま廊下を通り掛かったミシュラに見つかってしまった。

「ただいま、お母さん」

「あら、どうしたのアルル? あなた、びしょ濡れじゃない」

 スラーラを溺死させ、その遺体を川に流した際に濡れた身体をミシュラに見咎められてしまったので、俺は必死に誤魔化す。

「えっと、その、帰る途中で転んで、水溜まりに勢いよく突っ込んじゃったんだ」

「あら、そうなの? だったらすぐに濡れた服を洗濯しちゃうから、部屋で着替えてらっしゃい」

「うん、そうする」

 ミシュラの提案に素直に応じた俺は廊下を渡って階段を駆け上り、自宅の二階の自室へと駆け込むと、濡れた外出着から清潔な部屋着へとさっさと着替え終えた。そして濡れた外出着一式を腕に抱えたまま、今度は階段を駆け下りて、再び自宅の一階のミシュラの元へと取って返す。

「アルル、他に洗濯する物は無い?」

「うん、大丈夫。それとお母さん、転んだ時に怪我しちゃったんだけど、包帯か何か巻いてくれないかな?」

 俺は努めて純朴な少年を装いながらそう言って、藻掻き苦しむスラーラによって掻き毟られた両手をミシュラの眼前に差し出した。

「あら、酷い怪我じゃない! 早く消毒しないと、バイ菌が入って化膿しちゃうじゃないの!」

 至極驚いた様子でもってそう言ったミシュラはリビングの飾り戸棚から救急箱を取り出し、濡れた服の洗濯そっちのけで、俺の両手の治療に取り掛かる。

「転んだだけにしては、随分と酷い怪我ねえ。それに掌じゃなくて手の甲を怪我するだなんて、一体どんな転び方をしたのかしら?」

 俺の両手に刻まれた深く鋭利な擦過傷を、前世で言うところのヨードチンキにも似た赤褐色の薬品でもって消毒しながら、ミシュラが不審げにそう言った。

「うん、転んだところにちょうど尖った石が幾つも転がってて、咄嗟に顔をかばったらこんな怪我になっちゃったんだ」

「あら、そうなの? だったら、顔を怪我しなくて良かったんじゃない?」

 至って素直で純朴な主婦であるミシュラはそう言って得心し、俺の方便を真に受けたらしく、それ以上この手の怪我や濡れた服について追及する事は無い。

「はい、これで良し! 怪我が治るまで、外で遊ぶのは控えること!」

 赤褐色の薬品でもって消毒した俺の両手に包帯を巻き終えたミシュラは少しばかり楽しそうにそう言うと、蓋を閉じた救急箱を再び飾り戸棚へと仕舞い直した。

「さあ、それじゃあイグが帰って来たら晩御飯にしますから、それまでは家の中で遊んでなさい」

 良妻賢母を地で行く優しい母親であるミシュラは迂闊にも、一人息子であるこの俺を心から信頼し切っている。


   ●


 その日の深夜、既に床に就いていた我が家の家族一同は、玄関扉がどんどんと激しく叩かれる音でもって眼を覚ました。

「イグ兄! 起きろ、イグ兄!」

 俺の父親であるイグを『イグ兄』と呼んでいる事から推測するに、どうやら玄関扉を叩いているのは、彼の実の弟であるコヴェナス叔父らしい。

「なんだなんだ?」

 眼を覚ましたイグが寝室から飛び出て真っ暗な廊下を渡り、玄関扉を開けてみれば、やはりそこには灯油ランプを手にしたコヴェナス叔父が険しい顔をしながら立っていた。

「なんだコヴェナス、何かあったのか?」

「ああ、イグ兄、緊急事態だ。スラーラが学校を出てから、未だ家に帰っていない」

「何だって? スラーラヌイが?」

 どうやらコヴェナス叔父は、スラーラが行方不明である事を、村民を代表してこの村の領主であるイグに報告しに来たものと思われる。

「それで今、村の男達でもって手分けをしながらこの辺り一帯を見回って、スラーラを探してるんだ。寝ていたところを悪いが、イグ兄も手伝ってくれ」

「ああ、分かった、俺も協力しよう。それじゃあ着替えて来るから、ちょっとそこで待っててくれ」

 そう言って実の弟の要請を快諾したイグは、その場にコヴェナス叔父を残したままくるりと踵を返し、寝室の方角へと足を向けた。そして廊下を渡った先の寝室でもって寝間着から外出着へと着替えながら、彼らの遣り取りを聞いていた俺とミシュラに改めて報告する。

「どうやらスラーラヌイが、未だ家に帰っていないらしい。これから俺も、彼女を探している村の男達に加勢する」

「まあ、スラーラが? それならあたしも探しに行かなくっちゃ!」

「いいや、ミシュラ、お前はアルルケネスと一緒に家の中に留まっていなさい。もしこれが都市部で頻発しているらしい人攫ひとさらいか何かの犯行なら、お前やアルルケネスを一人きりにするのは危険過ぎるからな。それからついでに、今すぐ灯油ランプの用意を頼む」

 イグは着替えながらそう言って、妻であるミシュラに自制を促しつつ、夜間の外出用の灯油ランプを用意するよう指示を下した。そして彼女が灯油ランプに新たな灯油を補給している間に、イグは俺に尋ねる。

「なあ、アルルケネス。一つ質問だが、お前は今日もまたスラーラヌイと一緒に学校から帰ったのかい?」

「え? うん、途中まで一緒に帰ったよ。ねえお父さん、スラーラがどこか行っちゃったの?」

「ああ、そうだ。どうやらお前と一緒に帰った筈のスラーラヌイが、行方不明になってしまったらしい。お前は何か、彼女のいつもとは違った不審な素振りや、誰か不審な人物を見掛けたりしなかったかい?」

「ううん、何も見てないよ」

 俺はそう言って、眉一つ動かさずに白々しい嘘を吐いた。しかしながら子煩悩であるイグは、そんな俺の嘘をあっさりと信じてしまう。

「そうか……だとしたら、少なくともお前と別れるまでは、スラーラヌイは無事だったと言う事になるな。その後に誰か出会った人物は居ないか、周囲の家々の村民達にも聞いて回ろう」

 そう言ったイグは外出着に着替え終え、初冬の夜の野外を出歩くための毛皮のコートに袖を通すと、灯油が補給されたばかりのランプを手にしながら玄関で待つコヴェナス叔父に合流した。そして玄関で何やらひそひそと話し合った後に、二人は小高い丘の上に建つ俺の自宅を後にする。

「それじゃあ、行ってくる。念のためにミシュラは、今夜はアルルケネスと一緒に先に寝ていなさい」

 イグはそう言い残すと、コヴェナス叔父と共に我が家を出立し、やがて彼らの姿は宵闇に沈む村道の彼方へと消え去ってしまった。

「スラーラが行方不明ですって、アルル。無事に見つかるといいんでしょうけど……」

 夫の背中を見送ったミシュラは不安げな表情と口調でもってそう言うが、やはり彼女にぎゅっと抱き締められた俺は眉一つ動かさず、その表情は変わらない。


   ●


 やがて永遠とも思えるような永く不安な夜が明け、緑豊かな山間の小村であるラハルアハル村に新たな朝が到来したものの、姿を消したスラーラの消息はようとして知れなかった。しかしながら、たとえ同校の生徒である女児一人が行方不明であっても、今日もまた村の学校の門扉は開けられるのである。

「アルル、聞いたか? スラーラが行方不明だってさ!」

 登校した俺が教室に足を踏み入れると、こちらへと駆け寄って来たノッシュが待ってましたとばかりに開口一番そう言って、その興奮ぶりを隠そうともしない。

「ああ、知ってるよ。ノッシュ、お前は彼女が心配じゃないのか?」

「心配だよ! 心配に決まってんだろ! 今すぐにだって、父ちゃん達と一緒にスラーラを探しに行きたいくらいさ!」

 ノッシュはそう言うが、普段から何の事件も起こらない寒村で生まれ育った彼は明らかに興奮しており、不安や動揺と言った負の感情のたかぶりと、前向きに何かを成し遂げようとする正の感情とがごっちゃになってしまっていた。小さい子供が親族の葬式の席でもって興奮してはしゃいでしまうような、幼少期にはよくある現象と言える。

「おい、アルル!」

 すると俺の名を呼びながら、縦にも横にも身体が大きい一人の男子児童が数名の取り巻きと共に、のしのしとした鈍重な足取りでもってこちらへと歩み寄って来た。そして頭上から見下すような格好でもって、俺を問い質す。

「父ちゃんから聞いたぞ、お前がスラーラと最後に会った子供なんだってな! それは本当なのか? あ?」

 こちらへと歩み寄って来るなりそう言って俺を問い質したのは、通称ゴンツ、正式なフルネームはゴンツルヌイ・ドミトニスクと言う名の男子児童であった。

「ああ、その通りだけど……それがどうかしたのか、ゴンツ?」

「どうかしたのかだと? しらばっくれるなよ、アルル! どうせお前が、スラーラをどこかに連れ去って監禁してんだろう! そうだそうだ、そうに決まってる! 馬鹿な大人達は騙せても、この俺様の眼は誤魔化せないからな! さあ、今すぐスラーラの居所を白状しろ、この泥棒の息子め!」

 どうやらゴンツは、この俺がスラーラをどこかに監禁しているものと推測しているらしい。監禁と殺害及び死体遺棄の違いはあるものの、肥満体の九歳児にしては、なかなかに勘の鋭い奴だ。だが勿論、ここであっさりと犯行を自供する事も無く、俺は白を切り続ける。

「監禁? 何を言ってるんだ、ゴンツ? 僕がそんな事をする訳が無いだろう? だいたい僕が彼女を監禁して、何の得があるって言うんだ?」

「黙れ! 黙れ! 黙れ! とにかくお前が犯人に決まってるんだ! だから俺様がとっちめてやる! 覚悟しろ!」

 脂肪でたるんだ醜い顔を怒りと恥辱でもって真っ赤に紅潮させながら、やはりぶよぶよにたるんだ巨体を激しく上下に揺らしつつ、そう言ったゴンツが俺に襲い掛かった。そこで俺は前世で身に着けた柔道の技法を発揮し、素早く体を入れ替えながら小外刈りの要領でもってゴンツの足を刈り払うと、重心を支え切れなくなったゴンツの肥満体はごろごろと床を転がる。

「糞っ! 糞っ! 糞っ! また変な技を使いやがって!」

 やはり怪我をしないように敢えて手加減しながら投げているせいか、難無く起き上がったゴンツはそう言って悪態を吐くと、彼にとっては父親から領主の座を奪い取った仇敵の息子である俺と再び対峙した。彼を投げ飛ばす事は至って簡単だが、このままではうっかり力み過ぎて不必要な怪我を負わせかねず、俺はやきもきと気を揉んでしまって仕方が無い。しかしながらちょうどその時、度の強い銀縁眼鏡を掛けた担任の女性教師が教室に姿を現したので、俺らの喧嘩はお開きとなった。

「糞っ! 覚えてろよ、アルル!」

 悪態を吐き続けるゴンツを「ゴンツルヌイ・ドミトニスクくん、神聖な校内で汚い言葉は使わない!」と言ってたしなめながら、厳かな足取りでもって教壇に立った担任の女性教師が、沈痛な面持ちでもって重い口を開く。

「非常に心苦しい事ですが、今日は皆さんに、悲しい事実をお伝えしなければなりません。つい先程、皆さんの愛すべきお友達であったスラーラヌイ・イルミネンコさんが、ラライラ川の川下で遺体で発見されました。死因は溺死、つまり溺れて亡くなったと言う事だそうです」

 この報告に教室内はざわざわと色めき立ち、およそ二十人ばかりの生徒達は動揺の色を隠せない。

「皆さん、お静かに。大切なお友達を亡くされた皆さんの悲しみは先生も重々理解していますし、勿論、先生もまた悲しくて悲しくて仕方がありません。ですが、だからと言って、勉学を疎かにする訳には行かないのもまた事実です。ですから今は未だスラーラヌイ・イルミネンコさんの冥福を祈りつつ、普段通りの授業を執り行い、放課後に皆さん揃って彼女の自宅までお悔やみを伝えに行きましょう。いいですね? それでは皆さん、眼を瞑って合掌し、神に祈りましょう。ああ、神よ。スラーラヌイ・イルミネンコさんの魂が、どうか無事に、天に召されますように」

 合掌しながらそう言って祈りを捧げた信心深い女性教師にならい、俺ら生徒達もまた眼を瞑って合掌し、ロンヌ正統派教会の最高神である名も無き神に祈りを捧げた。勿論生徒達の中には、突然の訃報に際して言葉を失い、祈りを捧げる事すら出来ない者も散見される。

「さあ、それでは授業を開始します」

 担任の女性教師はそう言って教鞭を振るうが、教室内に居並ぶ誰一人として、彼女の授業に集中出来る者は居ない。


   ●


 その日の放課後、担任の女性教師が始業前に口にした宣言通り、彼女のクラスメイトである俺ら生徒達はスラーラの自宅へとお悔やみを伝えに馳せ参じた。決して繫栄しているとは言えないラハルアハル村の中でも特にうらぶれた地区の一角に建つ彼女の自宅を訪れるのは、およそ二年前の冬季の猟の帰りに、全裸で野外に放置されたスラーラを救出して以来の事である。

「さあ皆さん、これからスラーラヌイ・イルミネンコさんに、お別れの言葉を述べに行きましょう」

 果たして女性教師に先導されながらスラーラの自宅へと足を踏み入れてみれば、さほど広くもないリビングの中央に設置されたテーブルの天板の上に、彼女の遺体は安置されていた。テーブルの天板の上に横たわる彼女の黄金色の頭髪は冷たい川の水によって濡れそぼり、一枚の真っ白なハンカチで覆われたその顔からは、表情をうかがい知る事は出来ない。

「本日はこのような痛ましい事態に際し、私ども生徒及び教師一同、心よりお悔やみ申し上げます」

 リビングに詰め掛けた生徒達を代表し、度の強い銀縁眼鏡を掛けた担任の女性教師が厳かな表情と口調でもって、お悔やみの言葉を述べた。しかしながらテーブル脇のソファに腰掛けたスラーラの実の母親、つまりミルライラ・イルミネンコは心ここに有らずと言った様子で虚空を見つめるばかりで、普段から草臥くたびれている彼女がいつにも増してやつれ果ててしまっているように見える。

「スラーラ……」

 幼馴染である彼女の名を口にしたノッシュが両の瞳からぽろぽろと大粒の涙を零れ落とし、思い詰めた様子でもって、わんわんと声を上げながら泣き出した。するとそんな彼の泣き声を合図にしてか、まるで堰を切ったように、その場に居合わせた子供達が一斉に慟哭し始める。

「糞っ! 糞っ! 糞っ! なんでだよ! なんでスラーラが死ななくちゃならないんだよ!」

 特にそう言って人一倍慟哭するのが、誰あろうゴンツであった。ぶくぶくに太った肥満体である彼は泣き崩れるようにして床に突っ伏すと、まるで駄々を捏ねる幼児か赤ん坊の様に手足をばたばたとばたつかせながら、言いようの無い絶望感と喪失感に見舞われた胸の内を隠そうともしない。

「うるせえぞ! 静かにしろ!」

 するとリビングから寝室へと続く安普請な扉が勢いよく開け放たれ、姿を現したスラーラの実の父親、つまりラハルアハル村でも随一のならず者として知られるユグニルス・イルミネンコがそう言って俺らを怒鳴り付けた。

「こっちは娘が死んで悲しんでんだぞ! お前らみたいな赤の他人どもなんぞに、この俺の悲しみが分かってたまるもんか!」

 大人気無くも子供を怒鳴り付け続けるユグニルスの手にはヒダ酒の酒瓶が握られ、その顔は殊更ことさら酒焼けが酷く、もはや泥酔してしまっていると言っても過言ではない。普段は我が子を虐待しておいて、いざその子が死んだら悲しんだふりをする、外道の姿そのものだ。

「スラーラ! スラーラ! スラーラ!」

「うるせえって言ってんだろ、この醜く肥え太ったデブの糞ガキが! 黙れ! 今すぐ黙らねえと、ぶっ殺すぞ!」

 大声を張り上げながら慟哭するばかりのゴンツと、それを怒鳴り付ける酩酊状態のユグニルス。彼ら二人の登場により、厳かであった筈のスラーラの遺体が安置されたリビングは、いきおい修羅場と化す。

「皆さん、今日のところはこれでおいとまさせていただきましょう! イルミネンコさん、どうも失礼いたしました!」

 泡を食ったようにテンパりながらもそう言った担任の女性教師は早々に弔問を切り上げ、その場に居合わせた生徒達をリビングから追い出すと、彼女自身もまたスラーラの自宅を後にした。

「皆さん、それではここで解散とします。スラーラヌイ・イルミネンコさんの葬儀は明日の午後に執り行われる予定ですので、皆さんも参列しましょうね? それでは、気を付けてお帰りなさい」

 そう言った女性教師の言葉を合図にしながら、俺やノッシュやゴンツも含めたスラーラと同じクラスの生徒達は解散し、それぞれが帰宅の途に就く。

「なあ、アルル」

 すると自宅の方角へと足を向けた俺を、不意にノッシュが呼び止めた。

「ん? 何?」

「朝からずっと気になってたんだけど、その手の包帯、どうしたんだ?」

「ああ、これ? これは昨日の帰り道で転んで、その時に尖った石でもって切っちゃったんだ」

 スラーラを殺害する際に負った手の怪我を見咎められた俺がそう言って白を切ると、純朴な腕白少年であるノッシュは「ふうん、そっか」とだけ言って納得し、特にそれ以上の興味は示さない。

「じゃあな、ノッシュ。元気出せよ」

「うん、じゃあまた明日」

 スラーラを亡くした悲しみに打ちひしがれ、意気消沈するノッシュと別れた俺は、小高い丘の上に建つ自宅の方角へと改めて足を向けた。そして一本道の村道を雲の上を歩くようなふわふわとした足取りでもって踏み締めながら、今夜決行すべき計画の詳細を脳裏に思い描く。


   ●


 ややもすれば上の空とも言える表情と口調でもって「ただいま」と言いながら帰宅した俺を、この世界に於ける俺の母であるミシュラが出迎えた。

「お帰りなさい、アルル。あなた、スラーラの事はもう聞いた?」

 玄関まで出迎えたミシュラがそう言って問い掛けたので、問い掛けられた俺は上がりかまちを乗り越えながら返答する。

「うん、聞いたよ。それで帰りにスラーラの家に寄って、クラスの皆でお悔やみを伝えて来たんだ」

「あら、そうなの? ねえアルル、彼女の事は本当に残念だったと思うけど、あなたも気に病んだりせずに元気を出しなさいね? きっと彼女の魂も、仲が良かったあなたの事を、天国から見守っていてくれるに違いないもの」

 優しく子煩悩なミシュラはそう言いながらひざまずき、世間的には未だ一介の九歳児に過ぎない俺の細く小さな身体を、ぎゅっと優しく抱き締めた。しかしながら、抱き締められた俺は特に泣き崩れるでも喚き散らすでもなく、只淡々と彼女の抱擁を受け入れる。

「僕の事なら大丈夫だよ、お母さん。そんなに心配しなくても、僕はいつだって元気だからさ。だけど、今はちょっとだけ一人になりたいから、そっとしておいてくれると助かるな」

 そう言った俺はくるりと踵を返し、自宅の二階の自室へと向かうため、廊下の奥の階段の方角へと足を向けた。

「そうね、アルル。いくらあなたが見掛け以上に大人びているからと言っても、実際は未だ未だ九歳の男の子ですものね。あなたにだって、一人で悲しむ時間も必要でしょうから、あたしも協力してあげないと!」

 抱擁を解いたミシュラもまたそう言って、幼馴染を失ったにも拘わらず俺が冷静である事を、我が子が健やかに成長している証と解釈したらしい。そこで俺は階段を上って建屋の二階へと至り、廊下の最奥に位置する自室に足を踏み入れると、簡素な造りのベッドとそこに敷かれたマットレスの上でごろりと横になった。そして自室の天井をジッと凝視しながら、今後の身の振り方に関して沈思黙考する。

「……」

 そうこうしている内に夕食の時刻を迎えた俺と俺の家族は食卓を囲み、風呂に入って歯を磨くと、床に就く準備を整えてから自室へと取って返した。そしてベッドに寝転がったまま寝入る事無く、機が熟すのを固唾を飲んで待ち続けた俺は、やがて両親が寝静まった頃合いを見計らって半身を起こす。

「……」

 ベッドの上で半身を起こした俺は無言のまま床へと降り立ち、物音を立てて両親を起こしてしまわないよう細心の注意を払いつつ、窓から差し込む仄白い月明かりだけを頼りに外出着へと着替え直した。そして事前に中身を入れ替えておいた食用油の缶と着火剤を手に取ると、それらを放り込んだ鞄を背負ってから窓枠を乗り越え、深夜の戸外へとその身を躍らせる。

「よっと……」

 窓枠を乗り越えた俺は忍び足でもって瓦葺きの屋根の上を横断し、その屋根の向こうの雨樋あまどい攀登はんとう棒で遊ぶ際の要領でもって伝い下りると、しんしんと底冷えする初冬の大地へと降り立った。

「……」

 そのまま暫しの間、月と星以外に一切の光源が存在しない真っ暗な闇夜の中で身を屈めて息を殺し、一階の寝室で寝ている筈の両親に気取られてしまっていないかどうか、ぴんと気を張り詰めつつ周囲の様子をうかがう。しかしながら幸いにも、家屋の中で人や物が動き回る気配は感じ取れなかったので、ホッと安堵の溜息を漏らした俺は改めて膝を伸ばした。そして小高い丘の上に建つ俺の自宅から村の中心部へと続く一本道を、足音を殺しながら歩き始める。

「……」

 出来るだけ闇夜に紛れるような暗い色合いの外出着を着込んだ俺は、無言のまま足早に村道を歩き続けた。そして決して繫栄しているとは言えないラハルアハル村の中でも特にうらぶれた地区の一角に建つ一軒の木造家屋、つまり今は亡きスラーラの自宅へと到着すると、そっとノブを回しながら玄関扉を押してみる。

「!」

 果たして、玄関扉には鍵が掛けられていなかった。あのユグニルスとミルライラのろくでなし夫婦の生活態度や防犯意識の希薄さから推測するに、彼ら二人は、酒に酔い潰れたまま施錠もせずに眠りこけてしまっているに違いない。

「……」

 俺は無言のまま息を殺し、玄関扉を押し開けて安普請な木造家屋の内部へと侵入すると、短い廊下とそれに続くリビングの様子をうかがう。しかしながら真っ暗な廊下もリビングも灯が落とされ、人の気配も無く、どうやらこの家の住人はとうの昔に寝静まってしまっているらしい。そこで俺は抜き足差し足、息を殺すと同時に足音も殺しながら廊下を渡り、やがてスラーラの遺体が安置されている筈のリビングへと足を踏み入れた。夜のとばりが下ろされたリビングの静けさと暗さに眼を慣らすため、俺は暫し、その場に立ち尽くす。

「……スラーラ……」

 当然の事ながら、さほど広くもないリビングへと足を踏み入れた俺を、テーブルの天板の上に安置されたスラーラの遺体が出迎えた。ちなみに遺体をテーブルの上に安置するのは死者の魂が帰る家を忘れないようにするための、ロンヌ正統派教会の伝統的な風習の一つである。そして窓から差し込む月明かりに濡れた彼女の遺体は、真っ白なハンカチに覆われたその顔に浮かぶ表情こそうかがい知れないものの、眼を見張り声を失うほど美しい。

「!」

 すると次の瞬間、俺は口から心臓が飛び出るほど驚いた。何故ならスラーラの遺体が安置されたテーブルの傍らのソファの陰で、ヒダ酒の酒瓶を胸に抱いたユグニルスが床にごろんと寝転がったまま眠りこけていたのだから、俺の驚きようも想像出来ると言うものだろう。

「……」

 驚きつつも慌てふためいた俺の心臓はばくばくと激しく脈打つが、幸いにも声を上げずに済んだので、すっかり酔い潰れてしまっているらしいユグニルスが眼を覚ます気配は無い。そこで俺は気を取り直し、村外れの山裾を流れる川のほとりでスラーラを殺害してからこっち、脳内で何度も何度も予行演習シミュレーションを繰り返して来た計画を実行に移す。

「……」

 やはり無言のまま息を殺しつつ、俺はテーブルの直上に吊るされていた灯の消えた灯油ランプを手に取ると、それを天板の上に安置されたスラーラの胸に横倒しの状態でもって投げ置いた。投げ置かれたランプからとくとくと灯油が溢れ出て、純白の死に装束を纏ったスラーラの遺体をしとどに濡らす。

「……」

 しかしながら、ランプ一基分の灯油だけではその量もたかが知れ、計画を完遂するにはどうにも心許無い。そこで俺は背負っていた鞄の中から中身を入れ替えた食用油の缶と着火剤を取り出し、その缶の中身である無色透明の液体をテーブルとその周囲にぶち撒けた。ちなみにその液体の正体は食用油でなく、我が家の納屋に備蓄されていたランプ用の灯油である。

「……これでよしっと……」

 自分にしか聞こえない程度の極々小さな声でもってそう言った俺は空になった食用油の缶を鞄に仕舞い直すと、手にした着火剤でもって、スラーラの身体を濡らす灯油に躊躇う事無く火を着けた。すると灯油がぶち撒けられたリビングの板敷きの床を這うような格好でもってあっと言う間に火が回り、スラーラの遺体もそれが安置されたテーブルも、それに今尚眠りこけているユグニルスの身体までもがごうごうと燃え盛る業火に包まれる。

「さあ、早く逃げなくちゃ」

 やはり極々小さな声でもってそう言った俺が、リビングだけでなく廊下にまで火が回り始めたスラーラの自宅を後にしようと踵を返した、まさにその時だった。不意に背後から、聞き慣れない女性の声が耳に届く。

「……スラーラ? スラーラなの?」

 背後から聞こえて来たその声に振り返ってみれば、寝室へと続く扉の前に、一人の若い女性がこちらをジッと見据えながら立っていた。すっかりやつれ果ててしまっているために実年齢よりも遥かに高齢に見えるその女性こそ、一人娘であるスラーラを失ったばかりの彼女の実の母親、つまりミルライラ・イルミネンコである。

「……スラーラじゃないのね……」

 そのやつれ果てた顔に寂しげな表情を浮かべたミルライラは、彼女の周囲の床や壁、更には彼女自身が身に纏う衣服にまで火が回っていると言うのに、まるで動じる事無くそう言って嘆き悲しんだ。そして幽鬼の様なふらふらと覚束無い足取りでもって寝室へと取って返すと、その寝室の扉がゆっくりと儚げに閉じられる。そしてミルライラが姿を消した寝室もまた、次の瞬間には業火に包まれた。

「……」

 生きたまま焼かれるミルライラの姿に魅入られながらも、はっと我に返った俺は再び踵を返し、天高く火の手を上げつつあるスラーラの自宅から足早に退去した。ここまでのところ、既に焼死してしまっているであろうミルライラを除けば、彼女の自宅に火を放った俺の姿は誰にも目撃されていない。そして家屋と家屋の間を縫うように走る村道を駆け抜け、更には丘を登攀する一本道をも駆け抜けると、やがて小高い丘の上に建つ俺の自宅に辿り着く。

「……」

 俺は来た道を引き返すような格好でもって雨樋あまどいじ登り、足音を殺しながら瓦葺きの屋根の上を横断すると、闇夜に向けてぽっかりと口を開けた窓枠を乗り越えて自宅の自室へと帰還した。そして背負っていた鞄を投げ出して外出着から寝間着へと素早く着替え終え、灯油と煤の匂いが染み付いたそれらを一旦ベッドの下に隠してから、まるで何事も無かったかのようにマットレスと毛布の間に幼い身体を潜り込ませる。

「……」

 やがて温かな毛布に包まれた俺が睡魔に襲われ始めた頃、固く閉じられた窓の向こうから、次第次第に大きくなりつつある人々の叫び声や半鐘をかんかんと打ち鳴らす際の金属の反響音が耳に届き始めた。きっと今頃、オレンジ色に輝く炎と黒煙を噴き上げながら燃え盛るスラーラの自宅とその一帯は、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎに違いない。しかしながら、それらの火災を発生させた張本人であるこの俺は何を案ずる事も無く、すうすうと九歳児らしい寝息を立てながら眠り続ける。

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