第五幕


 第五幕



 季節は巡り、やがて俺らが村の学校に入学してから一年余りの時間が経過した晩秋の頃、今年もまたラハルアハル村は収穫祭の時期を迎えていた。

「いいかアルルケネス、ノッシュバル、来年からはお前達にも手伝ってもらう事になるんだから、俺やコヴェナスの解体の手順をよく見て覚えておくんだぞ?」

 収穫祭前日の正午過ぎ、小高い丘の上に建つ一軒家の軒先でそう言いながら、俺の父親であるイグは彼の弟のコヴェナス叔父と共に丹念にナイフを研いでいる。研ぎ上げられたナイフには剃刀の様に鋭利な刃が付き、今ならどんな獲物でも一刀の下に両断出来そうな鋭さだ。

「ねえ父ちゃん、俺にも手伝わせてくれよ!」

「駄目だ、ノッシュ。来年からは手伝わせてやるから、今年は黙って大人しく見ていなさい」

 軒先には金属製の大きな鉤でもって二頭のハババ豚が吊るされ、既に血抜きを終えたそれらの前に立つノッシュとコヴェナス叔父のグルカノフ親子が、そんな遣り取りを交えつつ楽しそうにじゃれ合っている。ちなみに収穫祭の供物にされるハババ豚の解体は、十歳以上の男子が行う決まりになっており、未だ九歳児である俺やノッシュはナイフを握る事が許されない。何故十歳になると解体が許されるのか、九歳と十歳で一体何が違うのかと言った点に関しては、俺が両親や聖堂の司祭に幾ら質問しても明確な回答は得られなかったので、ここでは敢えて割愛する。

「まずは、皮剥ぎからだ。皮を剥ぐ際には背中から剥ぐ場合と腹から剥ぐ場合とに分けられるが、うちでは腹から剥ぐ」

 丹念に研ぎ上げられたナイフを手にしたイグはそう言うと、コヴェナス叔父と一緒にそれぞれ一頭ずつのハババ豚を同時に解体するような格好でもって、まずは皮剥ぎに取り掛かった。軒先に尻を上にして吊るされたハババ豚の腹から足先に向かって、漢字の『士』の字を描きつつ肉を切らないように浅く切れ目を入れたかと思えば、真皮と皮下脂肪との境目に刃先を滑らせながら皮を剥いで行く。

「次にこうして桶を用意してから、内臓を抜くんだ」

 やがてじっくり時間を掛けて皮を剥ぎ終えたイグとコヴェナス叔父の二人は、筋繊維と皮下脂肪が剥き出しになったそれぞれのハババ豚の躯体の下に木の桶を設置すると、手にしたナイフの刃先をそれらの下腹におもむろに突き刺した。そしてそのまま腹から胸、更に胸から喉へと刃先を切り下ろせば、裂けた腹腔から綺麗なピンク色の内臓がでろりとまろび出る。

「うちの村で飼育されているハババは野菜屑を中心とした飼料を食わせている上に、野生のユマと違って虫に寄生されていないから、殆どの内臓が食べられる。ただし内臓の種類によっては臭みが強いので、臭み消しの香辛料やハーブと混ぜ合わせてから燻蒸し、腸詰に加工するんだ」

 そう言ったイグとコヴェナス叔父は、それぞれが解体を担当するハババ豚の腹腔からまろび出た内臓を受け止めた桶を担ぎ上げると、我が家の庭に設置されたテーブルの天板の上へとそれらを移動させた。もうもうと湯気を湧き立たせる桶の中の内臓は彼の解説通り、屠殺と血抜きの際に捨てずに回収しておいた血液と混ぜ合わせた上で、後で腸詰に加工される。

「さあ、ここからはちょっとした力仕事だから、アルルケネスもノッシュバルも、少し離れていなさい」

 イグはそう言うと、獲物の皮剥ぎと内臓の摘出に使っていた刃渡り10㎝ほどの小型のスキニングナイフだけでなく、骨を叩き割るための鉈にも似た大型のナイフと鋸も手に取った。

「離れてって、このくらいでいいの、お父さん?」

「ああ、そのくらい離れていればいいだろう。そこから父さん達の手際の良さを、しっかりとその眼に焼き付けておくんだな」

 軒先から距離を取った俺とノッシュに向けてそう言ったイグとコヴェナス叔父は本格的なハババ豚の解体に取り掛かり、鋸でもって頑丈な骨盤から背骨を経て頭蓋骨までを真っ二つにすると、大小二振りをナイフを駆使しながら残った肉と骨とを各部位に切り分けて行く。

「ここが前脚のスネ、ここが肩ロース、それにこの腹回りがバラで、肋骨と一緒に取れるのがスペアリブだ。そして背中側がロースとヒレ、後ろ脚の根本側がモモで、先端側がスネ。更に尻がソトモモとなり、頭部もまた頬肉や耳や舌が可食部位となる。勿論、頭蓋骨の中の脳味噌や眼球も食えるぞ」

 そう言ってレクチャーを欠かさないイグとコヴェナス叔父の手に掛かれば、あんなに大きく丸々と太っていたハババ豚も、あっと言う間に切り分けられた枝肉の山へと変貌してしまった。

「凄いやお父さん、もうハババがばらばらになっちゃった!」

「うちの父ちゃんも凄いぞ、アルル! イグリリス伯父さんにも決して負けてないんだからな!」

 興奮しきりの俺とノッシュによる称賛の言葉を浴びながら、一通りの解体作業を終えたイグとコヴェナス叔父はテーブルへと歩み寄る。

「さあ、これから脂身が多いロースやバラは長期保存用の干し肉に、脂身が少ない赤身肉のモモとソトモモは塩漬けの生ハムに、そしてスペアリブとスネは今夜の収穫祭のご馳走に加工するぞ。……だがその前に、まずは傷み易い内臓と血液を腸詰に加工するとしようかな」

 イグとコヴェナス叔父が腸詰用の充填機を兼ねた手動の肉挽き機と木製の俎板まないた、それに良く切れる数振りのナイフを用意しつつそう言ったところで、不意に村道と庭とを隔てる木戸がぎいと言う小さな音を立てながら押し開けられた。そしてそちらに眼を向けると、押し開けられた木戸の前にはちょこんとかしこまるような格好でもって、一人のそばかす面の少女が立っている。

「あら、スラーラじゃないの」

 自身の夫とその弟がハババ豚を解体する様子を見守っていたミシュラ、つまり俺のこの世界での実の母親の言葉通り、そこに立っていたのは俺やノッシュの幼馴染のスラーラであった。

「こんにちはアルル、ノッシュ、それに伯父様と叔母様。今年もまた恙無つつがなく収穫祭の日を迎えられた事を、心からお喜び申し上げます」

「こちらこそお喜び申し上げます、スラーラ。今日はよく来てくれたね」

「やあ、久し振りだねスラーラヌイ。こちらこそ、今年もまた収穫祭の日を迎えられた事を、お喜び申し上げます。さあさあ、こっちに来て、何か飲み物でも飲みなさい」

 あんな礼儀知らずな両親に育てられたとは思えないほど丁寧な言い回しでもって、挨拶の言葉を口にしたスラーラ。そんな彼女に対して、俺や俺の両親もまた丁寧な言い回しでもって返礼し、敷地内へと足を踏み入れるよういざなう。

「今日はいい天気だからね。そこで温かい飲み物でも飲みながら、うちの子供達と一緒にハババを調理するところを見ているといい」

 そう言ったイグとコヴェナス叔父は、永く厳しい冬季の貴重な食料となる腸詰をこしらえるべく、解体したばかりのハババ豚の内臓を細かく切り刻む作業を再開した。そして彼らの様子を見守る俺やノッシュと共に、テーブルの脇に並べられた簡素なダイニングチェアに腰掛けたスラーラは、ミシュラから手渡されたマグカップでもって蜂蜜入りのハーブティーを飲み下す。

「ハババの内臓は、心臓も胃も肝臓も、腎臓も子宮も横隔膜だって食える。食えないのは汚れた空気をし取った肺と小便臭い膀胱、それに苦い胆汁が詰まった胆嚢くらいのもんだ」

「まったくもう、イグったら普段のお料理はちっとも手伝わないくせに、こう言う時だけは人一倍張り切るんですから!」

 得意満面とでも表現すべき表情と口調でもってレクチャーしながらハババ豚の内臓を切り刻むイグの姿に、彼の妻であるミシュラは溜息交じりにそう言って呆れ果て、開いた口が塞がらない。そしてそんなミシュラに、イグの弟であると同時にノッシュの父でもあるコヴェナス叔父が同意する。

「仕方無いよ、義姉さん。男って奴は平日は家事にも育児にも関与せず、そのくせ休日になった途端に張り切って手の込んだ料理をこしらえ始める、そう言った自分勝手な生き物なのさ」

「成程な、コヴェナス。父であり母でもあるお前が言うと、殊更ことさら説得力があるってもんだ」

 切り刻んだ内臓を肉挽き機に放り込みながらそう言ってうなずくイグの言葉通り、村役場の出納長の任に就きつつ、先立たれた妻に代わって家事と育児もこなすコヴェナス叔父の発言には異論挟む余地が無い。

「それじゃあコヴェナス、俺がタネを用意するから、お前はケーシングを用意してくれ」

「あいよ、イグ兄」

 イグに命じられたコヴェナス叔父はそう言って、血を分けた兄弟である彼ら二人が解体した二頭分のハババ豚の小腸と大腸を一旦くるりと裏返し、冷たい流水でもって汚れを洗い流す作業に取り掛かった。ちなみにここで言うところの『タネ』とはこれから燻蒸する腸詰の中身の事であり、かたや『ケーシング』とは、その皮の事である。

「ハババの腸詰のタネに混ぜ込むスパイスやハーブの種類や分量、それに脂肪や血液なんかをどの程度の割合でもって赤身肉に加えるかと言った点に関しては、各家庭によってそれぞれ独自のレシピが存在するんだ。だからアルルケネス、ノッシュバル、お前達二人も来年十歳になったら、我がグルカノフ家のレシピを受け継ぐんだぞ? いいな?」

「はい、お父さん!」

「うん、分かったよ伯父さん!」

 俺とノッシュが二人揃ってうなずけば、俺らに同意を求めたイグはグルカノフ家の未来は安泰だとでも言わんばかりに屈託無く微笑みながら、肉挽き機に放り込んだ二頭分のハババ豚の内臓を全て挽き終えた。そして一抱えほどもある大きな金属製のボウル一杯の挽き肉に、塩や砂糖や各種の香辛料や刻んだハーブなどを丹念に混ぜ込むと、再び肉挽き機の前に立つ。

「イグ兄、こっちはケーシングの用意が出来たぞ」

「ああ、こっちも用意が出来た。それじゃあさっそく充填だ」

 そう言ったイグが肉挽き機の投入口に挽き肉と香辛料を混ぜ合わせたタネをぎゅうぎゅうに詰め込み、充填用のアタッチメントの先端にコヴェナス叔父がケーシングを装着すれば、これで腸詰を作る過程に於ける充填作業の準備は整った。そして肉挽き機のハンドルを時計回りにぐるぐると回すと、次々と押し出されたタネがケーシングの中へと充填され、およそ10㎝程の長さでもってケーシングに捻りを加えれば前世でも見慣れた腸詰がその姿を現す。

「すげえ! もう美味そうだ!」

 俺と一緒に充填作業を見守っていたノッシュが、実に純粋で純朴な腕白少年らしい、子供ならではの率直な感想を口にした。そしてそんな彼の隣では、そばかす面のスラーラもまたテーブルに身を乗り出しながら、腸詰が出来上がって行く様をジッと凝視している。

「?」

 その時俺は、出来上がりつつある腸詰を見つめるスラーラの視線に、何やら鬼気迫るものを感じて背筋にゾッと悪寒を走らせた。僅か九歳の、それも花も恥じらう乙女であるスラーラがあんなにまでも険しい眼差しでもって腸詰を見つめるその理由が、俺にはまるで思い当たらない。

「さあ、次はタネの中に残っている雑菌を殺すために、この腸詰を煮込んで、中までしっかり火を通すんだ。アルルケネス、雑菌って知ってるかい?」

 やがて全てのタネをケーシングに充填し終えたイグはそう言うと、事前にたっぷりの湯を沸かしておいた寸胴鍋の中に、その腸詰の束を纏めて放り込んだ。鍋の中のお湯の温度は沸騰するほどではないが触っていられるほどでもない熱さ、つまり摂氏にして70℃から80℃程度である。

「知ってるよ、お父さん! 雑菌って言うのは病気や腐敗の原因になる、眼に見えないほど小さな生き物の事だよね!」

「お? さすがはアルルケネス、物知りだな。ノッシュバルはどうだ? ん?」

「うーん……良く分かんないや」

「ははは、そうかそうか。まあなんだ、普通その歳では雑菌なんて単語は知らないのが普通だろうさ。アルルケネスがちょっとばかり異常なんだから、気にするなよ」

 寸胴鍋の前に立つイグはそう言って朗らかに笑ってみせるが、その言葉とは裏腹に、彼が我が息子の博識さを鼻に掛けている事は自明の理であった。とは言え、勿論イグは良識ある立派な大人であるし、また同時に村民の規範となるべき領主でもあるので、胸に秘めたるその事実をおくびにも出さない。

「よし、そろそろ肉の中まで火が通った頃合いだろう。ここまで来れば、後は燻蒸するだけで腸詰は完成だ」

「それじゃあイグ兄、燻製器に火を入れるぞ」

 やがてイグとコヴェナス叔父の二人はそう言うと、殺菌のために半時ばかりも煮込んだ腸詰の束をざるにあけて水気を切り、倉庫から庭へと運ばれて来た大型燻製器の網の上にそれらを並べ始める。

「よし、それじゃあ見学しているだけではつまらないだろうし、火を着ける事くらいはお前達にやらせてあげよう。三人でセヌパーラをして、勝った人が燻製器のコンロに火を着けなさい」

 まるで巨大なハババ豚の様なシルエットの大型燻製器のコンロの中に燻煙材となる木材を細かく切り刻んで敷き詰めながら、コヴェナス叔父が悪戯っぽい笑みと共に、俺ら三人の子供達に向けてそう言った。ちなみに彼が言うところの『セヌパーラ』とはロンヌ帝国の臣民なら誰でも知っている三竦みを利用したある種の遊戯であり、つまり簡単に言ってしまえば、じゃんけんの事である。

「セヌ、パー、ラ!」

 コヴェナス叔父の提案に乗った俺とノッシュとスラーラの三人は、この世界のじゃんけんであるセヌパーラでもって雌雄を決し、果たしてその勝者はスラーラであった。勿論俺は勝っても負けてもどうでもよかったのだが、敗者となったノッシュの悔しそうな素振りに、彼の歳相応の子供らしさと腕白少年ぶりを改めて痛感せざるを得ない。

「よし、それじゃあスラーラヌイ、このコンロに火を着けてくれ」

 そう言ったイグに抱え上げられたスラーラが、マッチによく似た着火剤を使ってコンロに火を着けると、たちまち燻煙材が燻るようにして焼け落ちる際の甘く香ばしい匂いが周囲にぷんと漂う。

「これでもう、後は燻蒸が終わるまで待つだけだな」

 そう言いながら大型燻製器の蓋を閉めたイグが、シャツの胸ポケットから取り出した懐中時計でもって現在の時刻を確認した。

「ふう、もうこんな時間か。昼から働き詰めで、さすがにちょっと疲れたな。収穫祭の礼拝まで未だ時間があるし、残りの肉の調理は後回しにして、燻蒸が終わるまでお茶とお菓子にしようか」

 額に浮いた汗を拭いながらそう言ったイグに、彼の妻であるミシュラもまた嬉しそうに同意する。

「賛成! あたしも子供達も、ずっと待たされっ放しですっかり飽きて来ちゃったところだし、ちょうど良かったんじゃないかしら? それじゃあすぐにお茶の準備をしますから、リビングで待っていてちょうだいね?」

「ああ、そうしてくれ、ミシュラ。それじゃあ皆、家の中に入りなさい」

 そう言ったイグとミシュラのグルカノフ夫妻に促されながら、彼らの息子の俺と、イグの弟のコヴェナス叔父とその一人息子のノッシュ、そして俺らの幼馴染であるスラーラの計六人はハババ豚の解体と調理の休憩がてら、小高い丘の上に建つ一軒家でもって午後のティータイムと洒落込む事となった。

「さあさあ、コヴェナスも子供達も、適当にソファなり椅子なりに腰掛けて待っててくれよ」

 彼の妻であるミシュラと共にキッチンへと足を向けたイグの指示に従い、俺とノッシュとスラーラの三人は暖炉の前のローテーブルを取り囲むように設置された革張りのソファに、コヴェナス叔父はその傍らのロッキングチェアに浅く腰掛け、お茶の準備が整うのを待つ。

「ところでスラーラ、ちょっといいかな?」

「ん? 何かしら、アルル」

「今日は、どうしてうちに来たの? 何か用事があったんじゃないの? 自分の家の収穫祭の準備は手伝わなくていいの?」

「それは……えっと……」

 俺の問い掛けに対して隣に座るスラーラはもごもごと言い淀み、視線を宙に泳がせながら言葉を濁すばかりで、どうにも要領を得ない。

「皆さん、お茶とお菓子ですよ」

 するとそうこうしている内に準備が整ったらしく、人数分のティーカップとティーポットが乗せられたお盆を手にしたミシュラと、やはり人数分のお菓子が乗せられたお盆を手にしたイグがリビングに姿を現した。そしてローテーブルの上に紅茶によく似た植物から煎じた蜂蜜入りのお茶と、数種類の果物を砂糖を加えて練ったヒダ粉と共に焼いたフルーツケーキが並べられれば、一時の休憩の準備が整う。

「さあ、召し上がれ」

 ミシュラがそう言えば、俺ら六人は一斉に皿を手に取り、彼女が焼いたフルーツケーキを食べ始めた。正直言ってケーキのスポンジ部分に使われているヒダ粉はさほど美味くもないが、今がちょうど旬の季節である新鮮かつ採れたての果物の数々は、涙が零れ落ちるほど美味い。

「あら、どうしたのスラーラ? そんなに急いで食べなくても、お代わりもありますからね?」

 そう言ったミシュラの言葉にふと見れば、隣に座るスラーラが、やはり鬼気迫る表情をその可愛らしいそばかす面に浮かべながらフルーツケーキをがつがつむしゃむしゃと貪り食っていた。その表情は先程腸詰を見つめていた彼女のそれにも似ていて、俺は再び、背筋にゾッと悪寒を走らせる。

「スラーラ、そんなにお腹が空いてたの? 僕の分も食べる?」

 俺がそう言って自分の皿を差し出せば、ナイフやフォークと言ったカトラリーの類を使わずに素手でもって鷲掴みにしながらフルーツケーキを貪り食っていたスラーラが、殆ど手を付けていない俺の皿の上のそれをも掴み取るなり口に運んでしまった。

「僕の分も食べていいよ、スラーラ」

 ノッシュもまたそう言って彼の皿を差し出し、喫食を促すと、やはりスラーラはその皿の上のフルーツケーキも素手でもって鷲掴みにして貪り食う。その無我夢中の食べっぷりは、やはり僅か九歳の、それも花も恥じらう乙女のそれとは思えないほどの豪快奔放ぶりだ。そして都合三人分弱のフルーツケーキを胃の腑に納め終えたスラーラは呼吸を荒げつつも、ようやく落ち着きを取り戻したのか、食用油と砂糖でべたべたになった自分の手を見つめながらきょとんと呆ける。

「やだ……あたしったら……」

 はっと我に返ったスラーラはそう言って頬を赤らめ、恥ずかしさのあまり、やはり食用油と砂糖でべたべたになった手でもって自分の顔を覆い隠しながら、しくしくとすすり泣き始めてしまった。どうやらフルーツケーキを食べる事に夢中になるあまり、自分がどれほどはしたない姿を晒してしまっているかと言った点に、全く気が回っていなかったらしい。

「いいのよ、スラーラ。あたしが焼いたケーキをこんなに夢中になって食べてくれるだなんて、主婦冥利に尽きるってものじゃない?」

 するとティーカップを手にしたままローテーブルに尻を乗せたミシュラがそう言ってスラーラを擁護し、決して礼儀知らずな行為に及んでしまった彼女を責め立てる事も無ければ、呆れて見限りもしない。

「ああ、そうだともそうだとも! 小さい内から沢山食べる子供は、将来立派な大人に成長するって言うからな! だからスラーラ、キミを是非ともうちの息子の嫁に欲しいくらいだ! なあ、そうだろう、ノッシュ?」

 ロッキングチェアに腰掛けたコヴェナス叔父もまた如何にも自由闊達そうな表情と口調でもってそう言いながら、彼の息子であるノッシュに目配せしつつ、意味深なウインクと共に何やら含みのある笑みを向けた。

「なんだよ父ちゃん、恥ずかしいな! 嫁とか何だとか、そんな事は今はどうでもいいんだよ!」

 将来の嫁の話をされたノッシュが頬を赤らめつつ、そう言って自らの羞恥の感情を必死に誤魔化す。

「おいおい、抜け駆けは無しだぞ、コヴェナス。スラーラヌイは、うちのアルルケネスの嫁に貰う予定なんだからな?」

 するとミシュラの隣に座るイグもまたそう言って話の輪に加わり、コヴェナス叔父と共にそれぞれの息子を出汁だしにしながら談笑する事によって、スラーラの羞恥と緊張を少しでも解きほぐしてやろうと試みた。

「だってさ、スラーラ。どうやら僕の家もノッシュの家も、キミが嫁に欲しくて堪らないみたいだよ?」

 俺がそう言って彼女の脇腹を肘で軽く小突きながら冷やかせば、そばかす面が可愛らしいスラーラは泣き止むと同時により一層頬を赤らめ、今度は先程までとは別の意味でもって恥ずかしがる。

「それじゃあ皆、さっさと洗っちゃうから、自分達が使った食器をキッチンまで運んで来てくれるかしら?」

 やがてその場に居合わせた全員がお茶とフルーツケーキを食べ終えた頃、我が家の家事全般を取り仕切っているミシュラが腕捲りをしながらそう言えば、グルカノフ家の男達は彼女の命令に従って各自の食器を手に手にキッチンへと足を向けた。この村には未だ水道設備が敷設されていないので、家事や炊事に使う真水の供給源は、庭の中央に掘られた井戸に頼らざるを得ない。そして使い終えた食器をキッチンで待機していたミシュラに手渡し、リビングへと取って返した俺は、不意に気付く。

「あれ? スラーラは?」

 取って返したリビングに、さっきまでそこに居た筈のスラーラの姿が見当たらないのだ。

「スラーラ?」

 勿論ミシュラが食器を洗っているキッチンにも、キッチンとリビングの間に在るダイニングにも、忽然と消えてしまった彼女の姿は見当たらない。

「おっかしいなあ……どこ行っちゃったんだろう?」

「どうした、アルル?」

「うん、スラーラがどこかに行っちゃったみたいなんだ。お前、彼女がどこに行ったか知らない?」

 俺はノッシュの問い掛けに対してそう言って問い返すが、スラーラの居所を尋ねられたノッシュもまた首を横に振るのみである。

「なんだ、アルルケネス? 何かあったのか?」

「あ、父さん、スラーラの姿が見当たらないんだ」

 首を傾げる俺とノッシュに続いてキッチンから戻って来たイグとコヴェナス叔父に、俺はそう言って事情を説明した。そこでミシュラを除いた四人でもって手分けをしながら家中探し回ってみたものの、やはり二階の寝室にも客間にも彼女の姿は無く、幾ら探してみても梨のつぶてである。

「家の中に居ないとなると、庭に居るのかな? 火の着いた燻製器のコンロやナイフで遊んでないといいんだが……」

 不安げな表情と口調でもってそう言ったイグと共に、キッチンでの食器洗いを終えたミシュラを加えた俺ら五人は、我が家の庭とその周辺をくまなく探索した。しかしながらどこを探してもスラーラの姿は無く、こうなってしまっては、何の挨拶も無いまま彼女が一人で家に帰ってしまったとしか思えない。

「まさか、井戸に落ちたんじゃ……」

 ミシュラがそう言って顔を蒼褪めさせるのとほぼ同時に、不意にとある事実に気付いたコヴェナス叔父が、庭の反対側に立っていたイグに尋ねる。

「あれ? おい、イグ兄、ここに有った筈のモモ肉をどこかに持ってったか?」

 そう言ったコヴェナス叔父は、これから調理する予定のハババ豚の肉の塊が積み上げられているテーブルの上を指差しつつ、その肉の数を何度も何度も数え直しながら首を傾げていた。

「いいや、どこにも持って行ってないぞ? どうした? 肉が足りないのか?」

「ああ、そうだ。生ハムにするためのモモ肉が二つ、どこにも見当たらないんだ」

 忽然と姿を消したスラーラと、どこにも見当たらないハババ豚のモモ肉。これら二つの事象が証明するのは、実に単純にして明解でありながら、また同時に実に不可解な事実である。

「だとしたら、スラーラヌイが何の挨拶も無しに、ハババのモモ肉を二つも持って帰ったのか……? 一体、何故……?」

 テーブルの上に残されたハババ豚のモモ肉の数を数えながらそう言って不審がるイグと共に、その場に居合わせた俺ら五人は事の真相がまるで理解出来ず、只々首を傾げるばかりだ。果たして九歳児の女の子が重くて嵩張かさばる骨付きの生のモモ肉を、何の目的でもって持ち帰ったと言うのだろう。

「まあ何だ、とにもかくにもスラーラヌイが無事だと言うのなら、それに越した事は無い。コヴェナス、お前は一応、井戸の中を調べておいてくれ。それとミシュラ、お前は取り急ぎスラーラヌイの家まで行って、彼女が無事帰宅出来ているかどうか確認して来てくれるか?」

 何はともあれそう言ったイグの指示に従い、コヴェナス叔父は庭の中央に掘られた井戸の内部を調査し、ミシュラはスラーラの家へと赴くために小高い丘の上に建つ自宅を後にした。

「イグ兄、井戸の中は大丈夫だ。誰も落ちてはいない」

 やがて調査を終えたコヴェナス叔父がそう言ったので、取り敢えずスラーラが井戸に落ちた訳ではないと知った俺らはホッと胸を撫で下ろし、彼とイグとは解体したハババ豚の肉の調理と加工を再開する。

「さて、それじゃあ気を取り直して、ハババのモモとソトモモの肉を生ハムに加工しよう。まずはこうしてたっぷりの塩と香辛料とハーブを、肉の表面に丹念に万遍無く擦り込むんだ」

 そう言ったイグとコヴェナス叔父は二頭分のハババ豚のモモ肉とソトモモ肉、いや、正確に言えば二頭分からスラーラが持ち去った分を差し引いたモモ肉とソトモモ肉に、大量の塩と香辛料と切り刻んだハーブとを擦り込んだ。

「後はこのまま肉の内部にまで塩と香辛料が浸透し、水分が程良く抜け、雑菌が死滅するまで樽の中でじっくりと漬け込む。そうだな、だいたい十日ほども漬け込めば充分だろう。そしてそこから更に、我がグルカノフ家のレシピでは、砂糖を溶かしたヒダ酒にも漬け込むんだ。こうする事によって、塩や香辛料だけで漬け込むよりも腐り難くなるし、出来上がった際の香りも良くなる。アルルケネス、ノッシュバル、二人ともよく覚えておきなさい」

「そうとも、よく見て覚えておくんだぞ、二人とも」

 イグとコヴェナス叔父はそう言いながら、塩と香辛料とハーブを擦り込んだ幾つもの生肉の塊を煮沸消毒済みの樽の中へと漬け込み、その上から更に大量の塩をこれでもかとばかりに振り掛ける。ちなみに俺が元居た世界の現代日本とは違って、この世界では、雑菌や煮沸消毒と言った知識や概念はここ二十年ほどでようやく世間に浸透したばかりの最新の化学知識らしい。

「よし、生ハムの仕込みはこれで終わったな。続きの塩抜きと乾燥、それと燻蒸はまた十日後に行うとしよう」

「なら次は、干し肉を作る番だな」

 そう言ったコヴェナス叔父がナイフを手に取り、そのナイフでもってハババ豚のロース肉とバラ肉を薄切りにし始めた、まさにその時だった。俺の自宅へと続く丘の上の一本道の向こう側から、こちらへと接近しつつある何者かがイグの名を呼ぶ。

「イグ!」

 そう言ってイグの名を呼びながら手を振り、こちらへと接近しつつある人影は、誰あろう彼の妻のミシュラであった。そして彼女の背後に付き従うような格好でもって、ミシュラとはまた別の大小二つの人影が続く。

「あれは……」

 果たしてそれら二つの人影の内の小さい方は忽然と姿を消したスラーラであり、大きい方は彼女の実の父親、つまりラハルアハル村でも随一のならず者として知られるユグニルス・イルミネンコその人であった。

「イグ、ねえ、イグったら!」

「どうしたミシュラ、何があった?」

「それがちょっと、面倒な事になっちゃって……」

 自宅の庭へと続く木戸を開けたミシュラとイグが、何やらごちゃごちゃと言い合っているところに、スラーラを連れたユグニルスがずいと歩み寄る。

「グルカノフの旦那、どうも、お久し振りです」

 以前、彼の自宅前や村外れの橋のたもと相見あいまみえた時とはまるで別人の様にへりくだった態度でもってそう言ったユグニルスは、都合二つばかりのハババ豚のモモ肉の塊を胸に抱きかかえていた。いちいち肉に印など付けていないので確たる証拠がある訳ではないが、状況から判断するに、それらは我が家の庭から消えたモモ肉に相違無い。

「実はですね、俺のはしたない娘が、旦那の家からこの肉の塊を二つも盗んだらしくて……こうしてお返しするついでに、謝らせに来たって次第です」

 そう言ったユグニルスの傍らに立つスラーラは、真っ赤に紅潮した顔に羞恥と悔恨の念に満ち満ちた沈痛な表情を浮かべつつ、鮮やかな碧色の瞳に涙を湛えながら押し黙っていた。

「ほら、スラーラ! お前も頭を下げて謝らねえか!」

 しかしながらユグニルスがそう言ってスラーラを怒鳴り付けると、びくっと身を竦ませた彼女の両の瞳からは堰を切ったようにどっと涙が溢れ出し、その可愛らしい顔をくしゃくしゃにしながら謝罪する。

「ご……ごめ……ごめんなさい……あ……あた……あたし……お肉を盗んじゃいました……」

 スラーラはそう言って肩を震わせ、滔々と流れ落ちる涙と鼻水でもってそばかすが浮いた顔をしとどに濡らしつつ、喉を詰まらせるようにしてしゃくり上げながら謝罪の言葉を口にした。どうやら俺らの予想通り、我が家の庭からハババ豚のモモ肉を盗んだのは、彼女でもって間違い無いらしい。

「そうか……だとしたらスラーラ、キミはどうしてお肉なんかを盗んだんだい?」

 するとイグは身を屈め、眼線の高さをスラーラのそれに合わせてあげながら、決して過度に責め立てる事の無いよう留意しつつ窃盗の動機を問い質した。しかしながらスラーラの嗚咽は一向に止む気配が無く、しゃくり上げ続ける彼女の喉からは声にならない声が漏れるばかりで、どうにも要領を得ない。

「おい、スラーラ! 領主様が尋ねられてるんだぞ! 盗みの理由をはっきりと答えねえか!」

 すると酒に酔っているらしいユグニルスがそう言って怒鳴り付けながら、かつて村外れの橋のたもとでそうしたのと同じように、彼の実の娘であるスラーラの涙に濡れた頬を平手でもってしたたかに引っ叩いた。大人の掌が子供の頬を打ち付ける際のばちんと言う甲高い破裂音が、晩秋の山裾に反響する。

「おい、やめるんだユグニルス! 子供に暴力を振るうな! うちの子供達も見ているんだぞ!」

 実の娘を折檻するユグニルスに、イグがそう言って自制を促した。しかしながらユグニルスは酒焼けで赤らんだ顔にへらへらと愛想笑いを浮かべながら、下卑た声でもって「すいません旦那、子供の事となると、ついつい熱が入っちまいまして」などと言って、自分の行為を正当化する。

「あ……あた……あたし、お腹が空いてて……だから……だから、つい……このお肉を盗んじゃったんです……本当に……ごめんなさい……」

 やはり肩を震わせてしゃくり上げながら、その可愛らしい顔を涙と鼻水でもってびしゃびしゃにしたスラーラは嗚咽交じりにそう言って謝罪し、窃盗の動機を包み隠さず吐露してみせた。すると今回の事件の被害者である筈のイグは彼女の頭を優しく撫でつつ、その罪を赦す。

「いいんだよ、スラーラ。キミはお腹が空いていたんだね? だとしたら、眼の前に有ったお肉をついつい盗んでしまったとしても、それは仕方の無い事だ。むしろ、子供であるキミがそんなにお腹を空かせていた事に気付いてあげられなかった大人達の方が、鈍感であった事を謝罪しなければならない。だからごめんよ、スラーラ。キミは何も悪くないんだ。ただちょっぴり、軽率だっただけの事なんだよ」

 イグが努めて優しい表情と口調でもってそう言えば、一瞬だけきょとんと呆けたスラーラは自分が赦されたと言う事実を理解すると、今度は声を上げながらわっと泣き出してしまった。

「よしよし、辛かったんだね、スラーラ。いいんだよ、そのお肉はキミにあげるから、家でミルライラにでも調理してもらって食べなさい」

 底無しの優しい声でもってそう言ったイグはスラーラをぎゅっと抱き締め、抱き締められたスラーラは彼の腕の中で、まるで生まれ立ての赤ん坊の様にわんわんと声を上げながら号泣し続ける。イグが披露してみせたのは大岡政談に於ける『三方一両損』の逸話にも似た名裁きであり、その場に居合わせたほぼ全員がその判決に納得していたが、一人だけ異を唱える者が居た。

「ちょっと待ってくださいよ、グルカノフの旦那! 旦那はこの盗人ぬすっとに何の罰も与えないまま、黙って見過ごすって言うんですかい?」

 そう言ったユグニルスの言葉に、今度は俺らがきょとんと呆ける。

「おいユグニルス、なんだその言い草は! 確かにスラーラヌイがうちから肉を盗んだのは紛れもない事実だが、だからと言って、よりにもよって自分の娘を盗人ぬすっと呼ばわりするとは人の親が聞いて呆れる!」

 イグはそう言いながら立ち上がり、酒が回って充血しているユグニルスを瞳を真っ向から睨み据えた。そして更に、彼は問い質す。

「そもそも何故スラーラヌイが、たった九歳のこんな小さな女の子が、他人の家から肉なんかを盗んだのか考えてみよう。俺は彼女がうちに来た時から気になっていたんだが、どう考えてもスラーラヌイは、瘦せ過ぎている。背も低い。勿論多少は個人差があるとは言え、ユグニルス、お前は彼女に満足に食事を与えていないんじゃないのか? だから学校が休みで給食が食べられない収穫祭の期間に、腹が減って仕方が無くなったスラーラヌイは何か食べさせてもらえるのではないかとの一縷の望みに託し、うちに遊びに来たついでに肉を盗んで行ったんじゃないのか? 違うか? ん?」

 そう言ってユグニルスを問い質すイグの言葉に、俺は愕然とすると同時に得心した。もし仮に彼の推測が事実とするならば、いつも学校の食堂で無心に給食を食べるスラーラの姿も、燻蒸前の腸詰に向けられていた鬼気迫る眼差しも、数人分のフルーツケーキを手掴みでもって口に運ぶ豪快奔放ぶりも、それら全ては親から満足な量の食事を与えられていないと言うある種の児童虐待に帰結する。きっと彼女の身の上には、領主の家で何不自由無くぬくぬくと育った俺には想像もつかないような、身の毛もよだつような災厄の数々が降り掛かっているに違いない。

「そうだったのか……」

 しかしながら、そう言って己の鈍感ぶりを恥じ入るばかりの俺とは裏腹に、イグから問い質されたユグニルスは開き直る。

「するってえと、何ですかい? グルカノフの旦那は、ここに居る盗人ぬすっと売女ばいたなんかよりも、この俺の方が悪いって言いたいんですか?」

「ああ、その通りだ。子供の素行不良の責任は、親が負わなければならない。そのくらいの事はお前でも理解出来るだろう、ユグニルス?」

 ラハルアハル村の領主であるイグはそう言って、まるで聖堂の司祭さながらに、己の悪行を顧みないユグニルスもまた諭そうと試みた。しかしながら諭された筈のユグニルスはあからさまに不機嫌そうにへそを曲げつつ、俺らが思いもよらなかった要求を口にする。

「だとしたら、盗人ぬすっとを突き出した謝礼に少しばかりの金子きんすを恵んでくれるって事は……無いんですかい?」

「は? 謝礼?」

 イグはそう言って、言葉を失った。いや、言葉を失ったのはイグだけではない。俺もミシュラもノッシュもコヴェナス叔父も、そしてスラーラでさえも、つまりその場に居合わせたユグニルス以外の全員が呆気に取られてしまって二の句が継げないのだ。

「謝礼とは……つまり……スラーラを突き出す代わりに、幾許いくばくかの金が欲しいと言う事か?」

 そう言って問い質すイグに、ユグニルスは酒焼けで赤らんだ顔にへらへらと愛想笑いを浮かべ、イグの問い掛けを暗に肯定する。ユグニルスが小金欲しさに娘を連れてここまで来たと言うならば、彼のへりくだった態度もまた納得が行くと言うものだ。

「ふざけるな!」

 だがしかし、当然の事ながら、ユグニルスの言動はイグの逆鱗に触れる。

「スラーラヌイはお前の実の娘だぞ! その実の娘をかばい立てするならともかく、自ら進んで公権力の前に突き出し、あまつさえ金銭を要求するとは何事だ! 恥を知れ、この人でなしが!」

「あ? 何だとこの野郎! 黙って聞いてやってりゃあ言うに事欠いて、この俺を人でなし呼ばわりするとは、いい度胸してんじゃねえか! ああそうか、こっちがせっかく盗人ぬすっとを突き出してやったってのに謝礼の一つも払えないってえんなら、もうこんな所に用は無えよ! この肉は、俺を人でなし呼ばわりした分の慰謝料として貰っておいてやる! おい、スラーラ! うちに帰るぞ! こんな苦労知らずの偽善者連中に、これ以上付き合ってられるか!」

 赤ら顔のユグニルスは酒臭い息を吐きながらそう言って逆ギレすると、ハババ豚のモモ肉を抱きかかえたまま右の肘鉄でもってスラーラの頭をごつんと強めに小突き、自分と一緒に帰宅するよう促した。

「おい、やめるんだユグニルス! 子供に暴力を振るうなと、何度言ったら分かるんだ! うちの子供達も見ているんだぞ!」

 イグがそう言って叱責するものの、叱責されたユグニルスは舌打ち交じりにぺっと地面に唾を吐き捨て、イグの言葉に耳を貸さない。

「うるせえよ、このケチ臭い守銭奴家族め! どうせこの家だってそこの嫁さんだって領主の地位だって、裏で汚い手を使って奪い取ったものなんだろう? 違うか? あ?」

「何だと!」

 本人だけに留まらず、家族まで侮辱されたイグは激怒し、今にも殴り掛からんばかりの勢いでもって拳を振り上げた。しかしながら、一介のならず者に過ぎないユグニルスとは違って、ラハルアハル村の領主を務める彼が村民を殴ったとあっては大問題である。

「どうした? 俺を殴るのか? 殴れるもんなら殴ってみろよ!」

 そう言って開き直ったユグニルスの姿は酒の力を借りている事もあってか、今から一年半ほど前の冬の日にイルミネンコ家の自宅前で対峙した時からは想像もつかず、もはや傍若無人と言ってもいいほどの強気な態度であった。

「くうっ……」

 今すぐ殴ってみせろとばかりに自らの頬を突き出しながら啖呵を切ったユグニルスとは対照的に、イグは振り上げた拳の落としどころが定まらず、口惜しそうに歯噛みするばかりである。

「けっ! 偉そうなご高説をったところで、所詮は人一人殴れない腰抜けじゃねえか! こんな腰抜けが領主だなんて、この村ももうお終いだな!」

 そう言って吐き捨てたユグニルスはくるりと踵を返し、最後に「あばよ!」との捨て台詞を口にすると、涙眼のスラーラを背後に従えながら小高い丘の上に建つ俺の自宅前から立ち去った。

「……」

 胸中穏やかならぬ俺とイグとミシュラ、それにコヴェナス叔父とノッシュの計五人はその場に立ち尽くし、村の方角へと消え去りつつあるユグニルスとスラーラの背中を見つめる。

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