第四幕


 第四幕



 真冬の野外に放置されていた全裸のスラーラを救出し、彼女の父親であるユグニルスをイグが叱責してからおよそ半年後、俺とノッシュとスラーラは三人揃って村の学校に入学した。この国では全ての臣民の子供達が八年間に渡って、無償で教育を受ける事が義務付けられている。

「それではアルルケネス・グルカノフくん、前に出て、この問題を解いてみてください」

「はい、先生」

 度の強い銀縁眼鏡を掛けた担任の女性教師に指名された俺は席を立ち、黒板の前へと進み出ると、そこに書かれていた算数の問題をすらすらと解いてみせた。

「よろしい、全て正解です。良く出来ました。皆さん、アルルケネス・グルカノフくんに拍手を」

 生徒をフルネームで呼ぶ癖がある担任教師がそう言えば、学校始まって以来の神童として知られる俺はクラスメイト達の拍手を一身に浴びながら教室を縦断し、自分の席に腰を下ろす。

「それでは皆さん、本日の午前の授業はこれで終了とします。給食の準備が整っていますので、食堂に移動してください」

 やがて授業は進行し、担任教師が黒板の上の壁掛け時計でもって現在の時刻を確認しながらそう言えば、給食を心待ちにしていた生徒達から歓声が上がった。

「アルル、スラーラ、早く食堂に行こうぜ!」

 相も変わらず腕白少年然とした表情と口調でもってそう言ったノッシュに急かされながら、俺とスラーラは煉瓦造りの校舎の廊下を渡り切ると、その廊下の突き当たりの食堂へと足を踏み入れる。

「あーあ、またヒダパンとヒダ豆のスープか」

 食堂で働く給食のおばちゃんが皿に盛り付けてくれたパンとスープを前に、俺は落胆の色を隠せない。

「なんだよアルル、お前、未だヒダが嫌いなのか?」

 全校生徒が一堂に会した賑やかな食堂の一角で、長椅子に腰掛けた褐色の肌のノッシュがヒダ豆のスープに浸したヒダパンをむしゃむしゃと頬張りながら、呆れたように肩を竦めつつそう言った。

「だってさ、たまには他の物が食べたいじゃないか。たとえば米とか、ラーメンとかさ」

「こめ? らーめん? 何それ?」

「何でもない、忘れてくれよ、ノッシュ」

 そう言ってノッシュを煙に巻く俺の隣に腰掛けたそばかす面のスラーラが、彼に負けず劣らずの食べっぷりでもって、ヒダ豆のパンとスープを無心に口に運んでいる。

「なあ、スラーラ。キミも女の子なんだから、もっとゆっくり良く噛んで、お行儀良く食べなって」

 俺はそう言って呆れながら、飛び散ったスープでびしゃびしゃになったスラーラの口の周りを、ズボンのポケットから取り出したハンカチでもって丁寧に拭き取ってあげた。そして頬を赤らめながら口の周りを拭われる彼女を前にしつつ、スラーラはちゃんと家でご飯を食べさせてもらっているのだろうかと憂慮する。

「……ありがとう、アルル」

 そう言って赤面しながらはにかむ金髪碧眼のスラーラは、本当に天使の様に可愛らしい。こんな可愛らしい女の子が実の父親から虐待されているとは、その場に居合わせた者でなければにわかには信じられないだろう。

「なんだよアルル、ノッシュ、お前ら、また女と一緒に飯食ってんのかよ!」

 するとその時、不意に何者かが俺ら三人が昼食を摂っている長机に近付いて来るなりそう言って、スラーラと昼食を共にする俺とノッシュを嘲笑した。そこで背後を振り返ってみれば、そこには縦にも横にも身体が大きい一人の男子児童とその取り巻き数名が立っており、そのたるんだ顔ににやにやとした下卑た笑みを張り付けながら、長椅子に腰掛けた俺ら三人を見下ろしている。

「……ゴンツ、またお前か」

 果たして、そこに立っていたのは通称ゴンツ、正式なフルネームはゴンツルヌイ・ドミトニスクと言う名の男子児童であった。

「女と一緒に飯を食うなんて、お前ら二人とも、実は女なんじゃないのか?」

 クラス一のガキ大将であるゴンツがそう言えば、彼の取り巻きである男子児童達が大合唱でもって囃し立てる。

「脱がして確かめろ! 脱がして確かめろ! パンツを脱がして確かめろ!」

 食器を打ち鳴らしながらそう言って囃し立てるゴンツとその取り巻き達が、食堂の一角で、俺とノッシュの二人をぐるりと取り囲んだ。そしてじりじりと包囲網を狭めたかと思えば、やがてゴンツの掛け声を合図に一斉に襲い掛かる。

「それ! パンツを脱がせろ!」

 その掛け声を合図に一斉に襲い掛かった男子児童達の手によって、俺の向かいの席に腰掛けていたノッシュは、あっと言う間にズボンとパンツを脱がされてしまった。そして外気に晒される格好になった皮かむりの男性器を片手でもって隠しつつ、もう一方の手をぶんぶんと振り回してなんとか身を守ろうと奮闘しながら、恥ずかしそうにその場にうずくまる。

「良し、次はアルルだ! やっちまえ!」

 ゴンツはそう言うが、俺はノッシュと違い、そうそう簡単にパンツを脱がされたりはしない。最初に襲い掛かって来た男子児童を柔道で言うところの体落としの要領でもって投げ飛ばしたかと思えば、そのまま大外刈り、小内刈り、払い腰と言った技の数々でもって、彼の取り巻きである男子児童達を次々に投げ飛ばしてみせた。そして全ての取り巻き達を食堂の床に転がし終えると、彼らのリーダーであるゴンツを睨み据える。

「どうした? 未だやるのか、ゴンツ?」

 俺がそう言って睨み据えれば、肥満体のゴンツは蛇に睨まれた蛙の様に怖気付き、口惜しげにたじろがざるを得ない。

「糞! また変な技を使いやがって! 覚えてろよ!」

 如何にも陳腐で使い古された捨て台詞セリフを吐きながら、ゴンツとその取り巻き達は尻尾を巻いて逃げ出した。そして彼らが姿を消した食堂の一角で、パンツを脱がされたノッシュと事の成り行きを見守っていたスラーラが、羨望と憧憬に満ち満ちた眼差しをこちらに向ける。

「やっぱりアルルは凄いな! あんな見事な投げ技、一体いつどこで覚えたんだ?」

「なあに、昔、ちょっとね」

 俺はそう言って言葉を濁し、脱がされたパンツを履き直すノッシュの疑問をそれとなく誤魔化した。勿論言うまでもない事だが、俺が披露してみせた柔道の投げ技の数々は、万世橋警察署に勤務する巡査だった前世に於いて府中市の警視庁警察学校で体得したものである。

「アルル、ノッシュ、ごめんね。あたしが二人と一種だから、いつもゴンツ達に苛められちゃって……」

 するとスラーラがそう言って謝罪し、その眼にはうっすらと涙が滲んでいた。

「気にする事無いよ、スラーラ。あんな徒党を組まなきゃ何も出来ないような奴らが幾ら襲い掛かって来たところで、また僕がぶん投げてやるからさ!」

 僕がそう言って微笑み掛ければ、スラーラもまた涙を拭い、その可愛らしい顔を満面の笑みでもって綻ばす。

「さあ、二人ともさっさと給食を食べ終えて、教室に戻ろう。急がないと、午後の授業が始まっちゃうからな」

 そう言った俺に急かされるような格好でもって、皿の底に残っていたヒダパンとヒダ豆のスープを残さず食べ終えた俺ら三人は、休憩時間の終了間際に自分達の教室へと取って返した。そして相変わらず生徒をフルネームで呼ぶ癖がある担任教師の指導の下で午後の授業を終えると、やがて待ちに待った放課後を迎える。

「アルル、スラーラ、早く帰って一緒に遊ぼうぜ!」

 今度は腕白少年を地で行くノッシュに急かされながら、授業で使う教科書やノートの類を詰め込んだ鞄を背負った俺ら三人は教室から退出すると、そのまま煉瓦造りの校舎を後にした。このラハルアハル村の学校の全校生徒の数はおよそ二百人ほどだから、決して大きな規模の学校ではない。

「なあ、これからどこで遊ぶ?」

 ノッシュがそう言えば、スラーラが答える。

「今日は暑いから、川の方に行かない?」

「また川? まったく、スラーラは本当に川が好きなんだなあ」

 そう言って笑いながら歩く俺とノッシュ、それにスラーラの三人が人気の無い村道に足を踏み入れたところで、不意に何者かが俺らの行く手を遮るような格好でもって姿を現した。

「待ってたぞ、アルル!」

 そう言いながら俺ら三人の行く手を遮ったのは、縦にも横にも身体が大きい肥満体の男子児童、つまりこの村一番の大地主の一人息子であるゴンツルヌイ・ドミトニスクとその取り巻き達に他ならない。

「なんだゴンツ、誰かと思えばまたキミか」

 すっかり呆れ果ててしまった俺が溜息交じりにそう言えば、眼の前に立ちはだかったゴンツはハババ豚の様に醜く肥え太った身体をぶるぶると震わせながら、ある種の逆恨みとでも言うべき怒りを露にする。

「なんだとはなんだ、この泥棒の息子め!」

「泥棒? 一体何の話だ?」

「しらばっくれてんじゃねえぞ、この泥棒の息子め! 本当なら俺様の父ちゃんがこの村の領主になる筈だったのに、お前の親父がそれを横取りしたんじゃねえか!」

「ああ、成程。その事か」

 俺はそう言って得心しつつも重ねて呆れ果て、言葉を失わざるを得ない。実はラハルアハル村も含めたロンヌ帝国各地の領主は、かつては地元の大地主の中から半ば自動的に決定されていたものを、つい十年ほど前から民主的な投票でもって選抜されるよう法改正が為されていたのだ。そしてその結果として、大地主であっても人望に薄いゴンツの父親ではなく、俺の父親であるイグリリス・グルカノフが新たな領主として選ばれたと言う訳である。

「なあゴンツ、気の毒だとは思うけど、キミの父親が領主になれなかったのは日頃の行いが悪かったからだろう。つまり、自業自得だ。それを逆恨みした上に、息子である僕に手を出そうとするだなんて、みっともないにも程がある」

「黙れ! 黙れ! 黙れ! とにかくお前は泥棒の息子だ! だから俺様がとっちめてやる! やっちまえ!」

 ゴンツが頬の周りの肉がぶよぶよにたるんだ顔を真っ赤に紅潮させながらそう言えば、彼の取り巻き達が一斉に俺に襲い掛かった。こんな馬鹿げた逆恨みに付き合わされる彼らはいい迷惑だろうし、何であれば同情さえするものの、降り掛かる火の粉は払わなければならない。

「やれやれ、なんだか面倒な事に巻き込まれちゃったなあ」

 やはり溜息交じりにそう言った俺は教科書やノートが詰まった鞄を地面に置くと、子供らしからぬ体捌きと足捌きを駆使しつつ、先陣切って襲い掛かって来た取り巻きの一人を豪快な一本背負いでもって投げ飛ばしてみせた。すると俺の思惑通り、仲間の一人が宙を舞うように投げ飛ばされたのを眼にした他の取り巻き達の足が止まったので、そこから一気にギアを上げて畳み掛ける。

「!」

 先程までの受け身の姿勢から一転し、自ら進んで技を掛け始めた俺は、ゴンツの取り巻き達を千切っては投げ千切っては投げとでも表現すべき勢いでもって手当たり次第に投げ飛ばした。前世の警察学校では毎日の様に乱取稽古をさせられていたので、この程度の連戦はお手の物である。

「逃げろ!」

「おいお前ら、逃げるな! 逃げるなってば! 逃げるなって言ってんだろ!」

 すると徒党を組んでいた仲間が一人また一人と投げ飛ばされるに従って、怖気付いた取り巻き達が我先にと逃走を開始し、最終的には彼らを従えていた筈のゴンツ一人だけが取り残された。

「糞! 糞! 糞!」

 すると一人取り残されたゴンツは激しく悪態を吐きながらじたばたと地団太を踏み、頭頂部から今にも湯気が噴き出しそうなほどにまで怒り狂った彼の顔は、まるで熟れたトマトの様に真っ赤に紅潮する。

「糞っ! この泥棒の息子め! こうなったら、この俺様が直々にお前をぶっ飛ばしてやる!」

 そして恨み骨髄に徹するとでも言うべきか、とにかく堪忍袋の緒が切れたゴンツはそう言うと、ぶくぶくに太った肥満体を揺らしながらこちらへと突進して来るなり拳を振り上げた。

「まったくもう、いい加減にしてくれよ」

 俺は三度みたびそう言って溜息を吐きながら、力任せに振り下ろされたゴンツの拳をボクシングで言うところのスウェーバックの要領でもって難無く回避すると、そのまま彼が突進して来る勢いを利用した払い腰でもって投げ飛ばす。投げ飛ばされたゴンツの肥満体が、舗装されていない村道をごろごろと転がった。

「痛ぇ! 糞っ! こいつめ!」

 しかしながら、敢えて手加減してやっているのもあって、一回投げ飛ばされたくらいでは往生際の悪いゴンツは諦めない。すると起き上がった彼が再び拳を振り上げながら殴り掛かって来たので、今度は小内刈りでもって地面に転がすも、それでも尚起き上がって来る。

「仕方が無い、こうなったら絞め落とすか」

 そう言った俺は袖釣り込み腰でもって地面に転がしたゴンツの首を、彼が着ているシャツの襟でもって締め上げた。柔道の締め技の一つ、いわゆる突込絞めと言う奴である。すると只でさえ紅潮していたゴンツの顔が見る間に鬱血し、ぶくぶくと口から泡を吹きながら、白眼を剥いて気を失ってしまった。

「これで凝りてくれるといいんだけど、まあ、こいつの性格からすると無理な相談だろうな」

 俺がそう言いながら立ち上がれば、地面に転がったままぴくりとも動かないゴンツの顔と俺の顔とを交互に見つめつつ、スラーラが心配そうに尋ねる。

「ねえアルル、まさか、殺しちゃったの?」

「いいや、ちょっと眠らせただけさ。暫くすれば眼を覚ますよ」

「そう、なら良かった」

 ホッと安堵の溜息を漏らしつつ、そう言ったスラーラとノッシュの二人は胸を撫で下ろした。すると彼らを先導するような格好でもって、立ち上がった俺は、改めて川の方角へと足を向ける。

「さあ、二人ともぐずぐずしてないで、早く川で遊ぼうぜ!」

 鞄を拾い上げながらそう言った俺とノッシュとスラーラの三人は、締め落とされたゴンツをその場に残したまま、村外れの川辺へと続く村道を足並み揃えて歩き始めた。すると程無くして、前方の道向こうからこちらの方角に、何か大きな物体が接近しつつある事に気付く。

「自動車だ!」

 そう言ったノッシュの言葉通り、こちらへと接近しつつあるその大きな物体は、車体やボイラーが鋼鉄で出来た一輛の自動車であった。それも蒸気機関に繋がった煙突からもうもうと黒煙を噴き上げながら走る、いわゆる蒸気自動車である。

「すげえ! 自動車だ! かっこいい!」

 自動車を見慣れていないノッシュは興奮しきりだが、生まれ変わる以前の前世に於いてガソリン自動車や電気自動車に慣れ親しんだ俺からすると、大きく不格好なボイラーに水と石炭をべながら走る蒸気自動車と言うのはレトロな乗り物に見えてしまって仕方が無い。いや勿論、蒸気機関が発明されたばかりのこの世界での蒸気自動車が夢の最先端技術の結晶である事は重々理解しているつもりだが、それでもやはり、眼の前を走る鉄の塊はどうにもこうにも郷愁の念を誘う。

「おお、誰かと思えばアルルケネスじゃないか。それに、ノッシュバルとスラーラヌイも一緒だな。もう学校は終わったのか?」

 果たして俺ら三人の眼の前で停車した蒸気自動車の運転席から顔を覗かせつつそう言ったのは、俺の父親のイグであった。

「うん、そうだよお父さん。これから川の方に行って一緒に遊ぶんだ」

「そうかそうか、今日は暑いからな。しかし、川で遊ぶのはいいが、あまり深いところまで足を踏み入れるんじゃないぞ?」

「分かってるよ、お父さん。それで、お父さんはどこに行ってたの?」

「ああ、ミルネラの街までちょっとした仕事でね。ついでに色々と、村の皆から頼まれていた物の買い出しもして来たよ」

 イグが言うところの『ミルネラ』とは、この辺りで一番大きな街の名称である。

「それじゃあアルルケネス、また後で」

「うん、また後で」

 俺とイグとがそう言って別れの挨拶を交わし合うと、彼を乗せた蒸気自動車は煙突から黒煙を噴き上げながら発進し、村役場の方角へと走り去った。そして走り去る蒸気自動車の後姿を、俺の隣に立つノッシュは羨望の眼差しでもって見送る。

「すげえなあ、アルルの父ちゃん! 自動車を運転出来るんだぜ!」

「別に、言うほどすごくもないさ。この世界の蒸気自動車くらい、慣れれば誰でも運転出来るよ。それにあの自動車も村役場の備品であって、お父さんが個人的に所有している訳じゃないしね」

 そう言った俺の言葉通り、イグが領主を務めるラハルアハル村の村役場は積み立てていた公費を取り崩し、この春から一台の蒸気自動車を公用車として導入し始めたのだ。つまりこの世界の科学水準は、未だ未だ庶民が手軽に買えるほど普及してはいないが、少なくとも蒸気機関が実用化される程度には発展していると言う事になる。

「それにしても、きっと賑やかで楽しいところなんだろうな、ミルネラの街は」

 走り去る蒸気自動車の後姿を羨望の眼差しでもって見つめていたノッシュが、如何にも羨ましそうに、そしてちょっとだけ悔しそうにそう言った。

「まあ、そうは言ってもミルネラの街程度だったら、そんなに賑やかでもないんじゃないのかな? スライツヴァの州都やロンヌの首都まで行けば、きっと驚くほど賑やかなんだろうけどね」

「ロンヌの首都か……僕もいつかきっと、首都まで行ってやるんだ!」

 褐色の肌のノッシュはそう言って決意を新たにすると、ぐっと固く握り締めた拳を振り上げ、その顔に何故か勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる。きっと彼の頭の中では、首都ロンヌの賑やかで華やかな街並みを颯爽と駆け抜ける彼自身の姿が、ありありと思い浮かべられているに違いない。

「そんな事よりノッシュ、スラーラ、早く川で遊ぼうぜ!」

 妄想に耽るノッシュには申し訳無いが、改めてそう言った俺は先陣切って駆け出し、村外れを流れる川の方角へと足を向けた。

「そうだな、遊ぼう!」

「ええ、そうしましょう!」

 するとノッシュとスラーラの二人もまたそう言って、前を走る俺の背中を追い掛けるような格好でもって盛夏の日差しが眩しい村道を駆け抜けると、やがて川に架けられた石橋を視界に捉える。

「あ……」

 しかしながら、石造りの橋のたもとをふらふらとそぞろ歩いている人影に気付いてしまった俺ら三人は、思わず反射的に足を止めてしまった。見て見ぬふり、もしくは気付かないふりをしてその人影の脇を走り抜けてしまえば良かったものを、なんとも手痛い失敗である。

「おいスラーラ、父親に挨拶も無しか。それとそっちのガキどもは……なんだ、領主の息子と甥かよ」

 忌々しそうな舌打ち交じりにそう言って俺らを呼び止めたのは、スラーラの実の父親である中年男性、つまりラハルアハル村でも随一のならず者として知られるユグニルス・イルミネンコであった。しかも彼の手にはヒダ酒の酒瓶を持っており、吐く息は酒臭く、昼日中から酔っ払っているのだから堪らない。

「それでお前ら、これからどこに行く気だ? あ?」

 やはり酒臭い息を吐きながらユグニルスがそう言えば、俺は彼の疑問に対して正直に返答する。

「こんにちは、イルミネンコさん。これから僕ら三人で、川のほとりで水遊びをするつもりです」

 俺は素朴で純朴な少年を装いつつそう言いながら、いつも三人で遊んでいる川のほとりを指差したものの、すっかり泥酔してしまっているユグニルスは納得しない。

「何? 水遊びをするつもりだと? 馬鹿にするのもいい加減にしろ! 俺は知ってんだぞ! お前ら三人揃って、親に隠れて水車小屋かどっかで乳繰り合うつもりだろ! そうだ、そうに決まってる!」

「乳繰り……」

 ユグニルスの口から実の娘に向けて発された、とてもじゃないがまともな大人が八歳児を相手に言うべきではない表現に、俺は言葉を失った。

「ちちくりあうって……どう言う意味だ?」

 俺とは違って本当に純朴な少年に過ぎないノッシュはそう言ってぽかんと呆けるが、彼とは対照的に父親の言葉の意味するところを完全に理解してしまったスラーラは恥ずかしそうに、そして悔しそうに口をへの字に曲げながら頬を赤らめる。

「とぼけるんじゃねえ! スラーラもお前らも、俺以外の奴らは皆が皆、陰で乳繰り合ってるに決まってんだ! そして何も知らないと思って、この俺の事を笑いものにしてるんだろ! 騙されないぞ! 騙されるもんか!」

 アルコール度数の高い蒸留酒であるヒダ酒を昼日中から鯨飲し、すっかり酔っ払ってしまっているユグニルスは被害妄想交じりの暴言を吐き続け、その傍若無人ぶりは最早手の施しようがない。そして千鳥足のままこちらへと歩み寄って来るなり俺を押し退け、アルコール依存症の禁断症状によってがたがたと震える手を伸ばし、俺とノッシュの陰に身を隠していたスラーラの手首を強引に掴み上げた。手首を掴み上げられたスラーラが、小さな悲鳴を上げる。

「こっちに来い、スラーラ! 俺はお前を、こんな小さい内から男遊びにうつつを抜かすような売女ばいたに育てた覚えはないぞ!」

 そう言ったユグニルスは持っていたヒダ酒の酒瓶を放り捨てると、その空いた手でもって、スラーラの頬をしたたかに引っ叩いた。

「スラーラ!」

 俺が思わず彼女の名を呼べば、スラーラの実の父であるユグニルスがこちらをじろりと睨み据える。

「なんだお前、何か文句があるってのか? 自分のものだと思っていた俺の娘を引っ叩かれた事が、そんなに悔しかったのか? それとも領主の息子だからって、この俺を警察か役場にでも突き出すつもりなのか? だったらやってみせろよ! 俺をどうにかしてみせろよ! さあ、早く! さあ! どうした!」

 大人気無いユグニルスは八歳児の俺を煽りに煽り、アルコールの過剰摂取によってどす黒く変色した顔に下卑た薄ら笑いを張り付けながらそう言うが、眼の前の男は痩せても枯れても一人の立派な大人なのだ。子供同士の喧嘩に過ぎないゴンツの時とは違って、ここで下手に手を出したら後々大問題にもなりかねないし、領主の息子として父であるイグにも迷惑を掛けかねない。

「……」

 俺が切歯扼腕せっしやくわんしながら眼を逸らし、もごもごと口をつぐんで言い淀んでいると、それを敗北宣言と判断したユグニルスはより一層調子に乗って悪態を吐き続ける。

「それ見た事か、領主の息子の糞ガキめ! ここに居るスラーラはな、たとえ大人になろうがこの村を出て行こうが、未来永劫この俺の所有物なんだよ! その事実を理解したんなら子供らしく大人の言う事に従って、金輪際、俺の娘に近付くんじゃねえぞ! 分かったか!」

 悦に入るような表情と口調でもってそう言ったユグニルスはふんと鼻を鳴らして勝ち誇り、立ち尽くすばかりで一歩も動けない俺の頭にぽんと手を乗せると、そのまま刈り揃えられていた髪の毛をぐしゃぐしゃに搔き乱した。実の両親にすら滅多に触らせない頭髪を、よりにもよってこんな男に好き勝手に弄り回されるのは、どうにも不快で不快で仕方が無い。

「あばよ、ハンサムで勇敢な領主の息子さん。縁があったらまた会おうぜ。……ほら、スラーラ! さっさと家に帰るぞ!」

 最後にそう言って吐き捨てた酩酊状態のユグニルスは、彼の実の娘であるスラーラの手首を強引に掴み上げたまま、ふらふらと覚束無い足取りでもってその場を後にした。後に残されたのは己の非力さを痛感しながら立ち尽くすばかりの俺とノッシュ、それに地面に落ちて割れた酒瓶からぷんと漂って来る、ヒダ酒のえた匂いのみである。

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