第三幕


 第三幕



 ロンヌ帝国の北東部に位置するラハルアハル村の冬は永く厳しく容赦無く、この地で生き残るためには、かつて俺が住んでいた東京のそれとは比べものにならないほどの忍耐力と生命力が求められた。

「お父さん、お母さん、おはようございます」

「ああ、おはよう」

「おはようアルル、朝ご飯の準備が出来ているから、早く着替えてらっしゃい」

 自室のベッドの上で目覚めた俺はリビングへと移動し、キッチンで炊事に勤しむ母のミシュラ、それにソファに腰掛けた父のイグと朝の挨拶を交わし合うと、暖炉の傍らで冬用の外出着に着替える。俺と一緒に煌々と燃え上がる暖炉の火に当たって身体を温めているイグは猟銃の手入れに余念が無く、今日これから予定されている猟でもって、父としての威厳を示そうとの魂胆が見え見えであった。

「イグ、アルル、いつまでも暖炉の前でもたもたしていないで、着替え終わったら早く朝ご飯を食べちゃいなさい」

 そう言ったミシュラに急かされながら、着替え終えた俺は両親と一緒にダイニングの食卓に着くと、テーブルの上に並べられた朝食を食べ始める。

「なあミシュラ、貯蔵庫のハババの肉は、後どのくらい残ってる?」

「そうねえ、もうこのままだと、二十日分も残ってないんじゃないかしら? だから今日の猟でもって何も獲れないと、暫くはお肉無しの料理しか食べられない事になっちゃうのよねえ」

「そうか。だとしたら、これは責任重大だな」

 ミシュラの返答に対してそう言ったイグは、ヒダ豆と幾許かの根菜、それにハババ豚の干し肉を煮込んだスープに浸した主食のヒダパンを、敢えて難しい顔をしながらむしゃむしゃと頬張った。どうやら冬季の貴重な食材として貯蔵庫に備蓄されている干し肉が不足し、このままでは遠からず、食卓に肉が並ぶ機会を逸してしまうらしい。

「ねえお父さん、今日の猟には僕とノッシュも連れてってくれるんでしょ?」

 僕もまたヒダパンとヒダ豆のスープをむしゃむしゃと食べながらそう言えば、そんな僕の頭を優しく撫でつつイグが微笑む。

「ああ、そうだとも。お前もノッシュも、今年の夏で八歳になるからな。そろそろ俺達と一緒に山に入って、猟を手伝ってくれてもいい頃だろう」

 そう言って微笑むイグと共に、さほど美味くもない朝食を食べ終えた俺らは再びリビングへと移動すると、冬季の猟に出るための身支度を再開した。そして分厚い毛皮のズボンと上着を何枚も重ねて着込み、凍傷防止のための手袋とブーツを穿けば、後は耳まですっぽりと覆い隠す帽子を被るだけで冬山へと赴くための準備が整う。

「アルルケネス、これはお前が持ってなさい」

 俺と同じく分厚い毛皮の防寒着を着込んだイグがそう言って、大小二振りのナイフを七歳児の俺に手渡した。大きい方は枯れた倒木の枝や生い茂る藪を掃うための鈍重なそれであり、小さい方は仕留めた獲物の腹を裂いて皮を剝ぐための、まるで前世の俺の命を奪った出刃包丁にも似た鋭利なそれである。

「それじゃあミシュラ、そろそろ行ってくるよ」

「行ってきます、お母さん」

「ええ、行ってらっしゃい。冬の山は何かと危険だから、イグもアルルも決して無理をしないでちょうだいね?」

 気遣わしげな表情と口調でもってそう言ったミシュラに見送られながら、大小二振りのナイフを携えた俺と、一挺の猟銃を背負って杖代わりの固い木の棒を手にしたイグは意を決し、玄関扉の先の寒風吹き荒ぶ戸外の空気へとその身を躍らせた。

「寒っ!」

 俺と俺の両親が肩寄せ合いながら生活を共にする我が自宅、つまり小高い丘の上に建つ一軒家から一歩を踏み出すと、見渡す限り一面の銀世界が俺とイグの二人を出迎える。

「凄い雪だね、お父さん」

「ああ、そうだな。昨夜も一晩中雪が降り積もっていたし、これじゃあ幾ら雪掻きをしても切りが無いな」

 そう言って肩を落とすイグと手を繋ぎ、村道に降り積もった新雪を踏み締めながら、俺ら親子はノッシュとその家族が住む家の方角へと足を向けた。

「ところでお父さん、今日は一体、山で何を獲るの?」

「そうだな、出来ればユマが獲れれば願ったり叶ったりなんだが……まあ駄目だったとしても、たぶん雪ココタの一羽か二羽くらいは獲れるだろう」

 ここで言うところの『ユマ』とは頭頂部に大きな角が生えた鹿の様な偶蹄類の一種であり、他方で『雪ココタ』と言うのは全身が白く長い毛に覆われた、ある種の兎にも似た小型の哺乳類である。要するに俺の父親であるイグは、可能であれば大型の哺乳類を仕留めたいと願っているものの、最悪の場合には雪兎程度の小型の獲物でもって我慢しろと言っているのだ。

「さあ、着いた」

 そうこうしている内に、新雪を踏み締めながら村道を歩き続けた俺ら二人が村内の一角に建つ一軒の木造家屋の前へと辿り着くと、イグが呼び掛ける。

「コヴェナス! 居るか、コヴェナス!」

 イグが大声でもって呼び掛ければ、木造家屋の中から「ああ、居るぞ! ちょっと待ってくれ!」と言った男性の声が聞こえて来た。すると程無くして、玄関扉が勢いよく開け放たれたかと思えば、やはり分厚い毛皮の防寒着に身を包んだ大柄な成人男性が俺の従弟のノッシュと共に姿を現す。

「おう、待たせたな!」

 如何にも自由闊達そうな表情と口調でもってそう言った成人男性はイグの実の弟、つまり俺の叔父であると同時にノッシュの父親でもある、コヴェナス・グルカノフと言う名の男であった。

「コヴェナス叔父さん、こんにちは!」

「久し振りだなアルル! 元気だったか?」

 七歳児の俺が元気良く挨拶の言葉を口にすれば、やはりコヴェナス叔父は自由闊達そうな表情と口調でもってそう言って、小さな俺の頭を毛皮の帽子越しにぐしゃぐしゃと撫で回す。

「ようアルル! 今日は楽しみだな!」

 すると最愛の妻を流行り病でもって早くに亡くしたコヴェナス叔父の一人息子、つまり褐色の肌のノッシュもまたそう言いながら俺に抱き付き、彼の従兄である俺に出会えた喜びを隠そうともしない。

「よし、これで全員揃ったようだな。それじゃあいつまでもこんな所でぐずぐずしてないで、さっさと出発するぞ」

 すると今回の猟のリーダーを務めるイグがそう言って、狩場である山の方角へと足を向けると、俺とノッシュとコヴェナス叔父の三人を先導しながら歩き始めた。

「俺が雪を掻いて道を作るから、アルルケネスとノッシュバルはその道から外れずに、俺の後に続くんだ。それとコヴェナスは二人の面倒を見ながら、殿しんがりを務めてくれ」

「おう! 任せておけよ、イグ兄!」

 そう言ってイグの指示を快諾したコヴェナス叔父に背後から見守られながら、一列縦隊のパーティーを組んだ俺ら四人は、ラハルアハル村を眼下に見下ろすような恰好でもって聳え立つ山の中へと足を踏み入れる。

「今年はまた、いつにも増して山が雪深いな」

 猟銃を手にしながら先頭を歩くイグが、新雪が降り積もった道無き道を歩きながらそう言った。

「ああ、そうだなイグ兄。このままだと今年の夏は、水不足に悩まされる事も無いだろうさ」

 パーティーの殿しんがりを務めながらそう言ったコヴェナス叔父もまた、ストックが木製でボルトアクション式の、如何にも古風な猟銃と硬い木の棒を手にしている。俺がこの世界に生まれ落ちてからこっち、電化製品や内燃機関と言った文明の利器を眼にする機会は殆ど無かったが、どうやら銃と火薬ばかりは当然のものとして存在しているらしい。

「!」

 すると不意に、先頭を歩くイグが足を止めた。

「どうした、イグ兄?」

 コヴェナス叔父が問い掛ければ、姿勢を低くしたイグが答える。

「新しいユマの糞が転がっているし、山の奥の方へと足跡が続いている。それに、木の皮を齧った痕も見て取れるな。きっと未だ近くに居るぞ」

「よし、分かった。その足跡を辿ろう。アルルもノッシュも、決して物音を立てるんじゃないぞ? いいな?」

 そう言ったコヴェナス叔父の指示に従い、ややもすれば大声を出しがちな七歳児である俺とノッシュの二人は、如何にもわざとらしい仕草でもって固く口をつぐんだ。すると先頭を歩くイグは気配を殺しながら、周囲を警戒しつつ、近くに居る筈のユマ鹿を追跡し始める。

「居たぞ」

 やがて真っ白な新雪に覆われた山道を200mばかりも歩き続けた末に、囁くような小声でもってそう言ったイグが、再び足を止めた。そして首から吊り下げていた簡素な造りの望遠鏡を取り出すと、ユマ鹿の足跡が点々と続く遥か前方の木々の狭間にジッと眼を凝らす。

「やっぱりユマだ。数は三頭。全て成獣だな」

 指をぴんと三本立てながらそう言ったイグの言葉通り、確かに彼が見つめる木々の狭間には、鋭い前歯でもって齧り取った木の皮を臼歯でもってすり潰しながら咀嚼する三頭のユマ鹿の姿が見て取れた。

「どうする、イグ兄? 三頭同時には仕留められないぜ?」

「ああ、そうだな。だから今回は、俺とお前の二人で同時に撃って、二頭だけ仕留める事にしよう。冬の間の当面の食料としては、それだけあれば充分だろうさ」

「分かった。その作戦で行こう。焼けた火薬の滓が飛び散って危ないから、アルルとノッシュは後ろに下がっていなさい」

 コヴェナス叔父はそう言うと、イグと並んで腰を落とし、ボルトを引き戻して銃弾を薬室に装填した猟銃を膝射の姿勢でもって構え直した。

「よし、いいかコヴェナス、お前は向かって左のユマを狙え。俺は右のを狙う。合図をしたら、同時に撃つんだ。いいな?」

「合点承知!」

 どちらがどちらのユマ鹿を撃つかと言った手筈を整え終えたイグとコヴェナス叔父の二人は、未だこちらに気付いていない獲物の急所に照準を合わせると、ゆっくりと秒読みを開始する。

「三……二……一……!」

 次の瞬間、さすがは血を分けた兄弟とでも言うべきか、イグとコヴェナス叔父の二人は全く同時に猟銃の引き金を引き絞った。すると耳をつんざく銃声と共に射出された二発の銃弾が虚空を切り裂き、これまた全く同時に二頭のユマ鹿の急所に命中したかと思えば、喉元に直径1㎝ばかりの穴を穿たれた二頭はその場にどうと倒れ伏す。

「やったか?」

「ああ、やったぜイグ兄!」

 イグとコヴェナス叔父の兄弟が口々にそう言って、互いの戦果を確認し合った。しかしながら俺の隣に立っていたノッシュは彼の父親の元へと駆け寄り、拳を振り上げながら残念そうに愚痴を漏らす。

「父ちゃん! 残ったユマが逃げちゃうよ! 早く追い掛けないと!」

 そう言うノッシュの視線の先で、三頭居たユマ鹿の内の撃たれなかった一頭が全速力でもって走り去り、新雪に覆われた木々の狭間へとその姿を消した。

「なんだノッシュ、お前、さっき俺とイグ兄が言ってた事を聞いてなかったのか? 今日のところは二頭も仕留めれば充分だから、一頭は逃がしてやるんだよ」

「でも父ちゃん、僕はたくさん肉が食いたいんだってば!」

 ノッシュがそう言えば、イグとコヴェナス叔父は愉快そうにげらげらと笑う。

「そうか、ノッシュはもっと肉が食いたいのか!」

「お前はまったく、俺に似て食いしん坊だな!」

 そう言って笑い合うイグとコヴェナス叔父の仲良し兄弟に先駆けと殿しんがりを任せつつ、再び一列縦隊となった俺ら四人は降り積もった新雪を掻き分けながら道無き道を歩き続け、やがて仕留めた二頭のユマ鹿の元へと辿り着いた。しかしながら、果たして二頭のユマ鹿はどちらも即死しておらず、喉元の傷口から噴き出す鮮血でもって新雪を真っ赤に染めながら藻掻き苦しんでいる。

「父ちゃん、このユマ、未だ生きてるよ!」

 驚きを隠し切れない表情と口調でもってそう言った従弟のノッシュは、鋭い前歯が生えた口からごぼごぼと血のあぶくを吐きながらじたばたと暴れ狂うユマ鹿の姿に、明らかにビビり散らしてしまっているのが見え見えであった。するとそんなノッシュと俺の二人に向かって、パーティーのリーダーを務めるイグが命じる。

「アルルケネス、ノッシュバル、お前達がとどめを刺しなさい」

「え?」

 突然命じられた俺とノッシュは驚き、思わず頓狂な声を上げてしまった。

「おいおいイグ兄、こんな小さな子供にとどめを刺せだなんて、そいつはちょっとばかり酷ってもんじゃないか?」

 コヴェナス叔父もまたそう言うが、彼の実の兄であり、俺の父親でもあるイグの決意は揺るがない。

「いいや、二人にやらせる。なあコヴェナス、お前も覚えているだろう? 俺達兄弟だって、今のこいつらと同じくらいの歳で初めて親父に猟に連れて行ってもらった時に、獲物にとどめを刺す方法を教えられたんだ。だからこれが、俺達グルカノフ家の流儀ってもんなのさ」

「成程、確かに言われてみれば、その通りだ」

 そう言って得心したコヴェナス叔父は腰のベルトに固定してあった革製の鞘へと手を伸ばし、刃渡り15㎝ばかりのナイフを抜くと、それを息子であるノッシュに手渡した。ナイフを手渡された七歳児のノッシュはあわあわと泡を食って言葉を失い、只でさえ大きな眼を白黒させながら、パニクっていると言ってもいいほどの狼狽ぶりである。

「よし、まずは歳上のアルルケネスからだ。俺とコヴェナスがユマの身体を押さえ付けているから、その隙に、首筋の頸動脈をナイフの刃先でもって切断しなさい。そうすればとどめを刺せるし、血抜きも出来て一石二鳥だ」

 そう言ったイグは藻掻き苦しんでいる二頭のユマ鹿の内の一頭に近付くと、怪我をしないようにタイミングを見計らって飛び掛かり、そのユマ鹿の頭頂部に生えた大きな二本の角を手袋を穿いた両手でもってしっかと掴み取った。そしてユマ鹿の頭部を押さえ込みつつ、コヴェナス叔父に命令する。

「コヴェナス、お前は脚を押さえ付けろ」

「合点承知!」

 するとイグに命じられたコヴェナス叔父もまたユマ鹿の両後ろ足を掴み取り、彼ら兄弟が都合二人分の全体重を乗せる格好でもって、瀕死のユマ鹿を地面に組み伏せた。いくらユマ鹿が強靭な野生動物とは言え、こうなってしまっては俎板まないたの上の鯉も同然である。

「よし、いいぞアルルケネス。渡しておいたナイフでもって、とどめを刺しなさい」

 父親であるイグに重ねて命じられた俺は、携えていた大小二振りのナイフの内の小さく鋭利な方を鞘から抜くと、地面に組み伏せられたユマ鹿に背後から近付いた。

「お父さん、このユマの頸動脈はどこにあるの?」

「喉の内側の、少し上の方だ。指で直接触ってみなさい。周囲の筋肉とは違ってどくどくと脈打っているから、毛皮の上からでもすぐに分かる筈だ」

 イグに言われた通りユマ鹿の喉元を指でなぞってみれば、確かに毛皮の下を走る太い血管が、どくどくと絶え間無く脈打っている。

「その頸動脈を、一思いに切断しなさい。出来るね?」

「うん」

 俺はそう言って頷くと、躊躇う事無くナイフの切っ先をユマ鹿の喉元にあてがい、そのまま冬毛に覆われた毛皮ごと頸動脈を切り裂いた。一介の七歳児に過ぎない俺の小さな手に、まるでゴムホースの様に太い血管が切断される際の生々しい感触が、確かな手応えとなって伝播する。そしてとどめを刺される格好になったユマ鹿はびくびくと激しく痙攣し、鋭利なナイフによって切り裂かれた頸動脈の切断面からおびただしい量の真っ赤な鮮血を噴き出し続けたかと思えば、やがて噴き出す鮮血の量が減少するに従って痙攣もまた治まった。

「良くやったぞ、アルルケネス。上出来だ」

 誇らしげにそう言って俺を称賛するイグが手を放しても、全身を流れる血液の大半が外部へと流出してしまったユマ鹿は完全に息絶えており、もはやぴくりとも動かない。そしてそんなユマ鹿の姿は、前世に於いて交番で暴漢に刺されたかつての俺の姿を髣髴とさせる。

「よし、次はうちのノッシュの番だな」

 するとイグと共にユマ鹿を組み伏せていたコヴェナス叔父がそう言って、獲物の両後ろ足を掴んでいた手を放し、彼の一人息子であるノッシュに眼を向けた。そして彼とイグの二人は再びタイミングを見計らい、藻掻き苦しみ続けるもう一頭のユマ鹿に飛び掛かって地面に組み伏せると、ナイフを手にしたノッシュに命じる。

「さあノッシュ、アルルを見習って、今度はお前がそのナイフでもってこのユマにとどめを刺すんだ」

 瀕死のユマ鹿を新雪が降り積もった地面に組み伏せながら、コヴェナス叔父がノッシュに向けてそう言った。しかしながら実の父親に命じられても、完全にパニクってしまっているノッシュはあわあわと泡を食い、ナイフを手にしたままおろおろと狼狽するばかりである。

「どうしたノッシュ! 早くとどめを刺すんだ!」

 コヴェナス叔父が声を荒らげながらそう言えば、遂にノッシュは泣き出してしまった。

「出来ないよ……そんな事出来ないよ……ユマが可哀想だよ……」

 両の瞳からぽろぽろと大粒の涙を零れ落としながら、心優しいと賞賛すべきかそれとも女々しいと揶揄すべきか、とにかくユマ鹿にとどめを刺すべき覚悟が決まらないノッシュはそう言って咽び泣くばかりである。

「参ったな……」

 一人息子の不甲斐無い姿に、実の兄であるイグと共にユマ鹿を地面に組み伏せたコヴェナス叔父はそう言って、彼もまたばつが悪そうに困惑するばかりであった。しかしながら幾ら困惑したところで一向に事態は好転せず、貴重な時間は無為に流れ、このままではいつまで経っても埒が明かない。そこで痺れを切らした俺は意を決し、七歳児の小さな足でもって一歩前に進み出ると、ナイフを手にしたままめそめそと咽び泣き続けるノッシュに助け舟を出す。

「大丈夫だよノッシュ、いいからお前は下がってなって。僕が代わりに、このユマにとどめを刺してやるからさ」

 咽び泣くノッシュに向けてそう言った俺は彼の返事を待たず、イグとコヴェナス叔父の手によって組み伏せられたユマ鹿に背後から歩み寄ると、今度は慣れた手付きでもってその頸動脈を切断してみせた。鋭利なナイフの刃によって切断されたユマ鹿の喉元の傷口からは、やはりおびただしい量の鮮血が絶え間無く噴き出し、山裾に降り積もった新雪を真っ赤に染める。

「ほらな、簡単だっただろ?」

 俺は事も無げにそう言って、涙目になったまま立ち尽くすばかりのノッシュに微笑み掛けた。しかしながら、血まみれのナイフを手にした俺を見つめるノッシュの視線は畏怖と恐怖と僅かながらの軽蔑の色に染まり、まるで血に飢えた殺人鬼に向けられるべきそれでしかない。

「……アルルケネス、ちょっといいか?」

「何ですか、お父さん?」

「従弟を思い遣るお前の気持ちも分からんではないが、このユマは、ノッシュバルがとどめを刺すべきだったんだ。如何に蛮勇を振るいたかった、もしくは格好良いところを見せたかったとしても、お前が出しゃばってしまってはせっかくの機会を失ってしまったノッシュバルの立つ瀬が無い。それは、余計なお世話と言うものだ」

 理路整然とそう言って諭すイグの姿に、彼に半ば説教されるような格好になってしまった俺はがっくりと肩を落とし、ユマ鹿の血にまみれたナイフを手にしたまましゅんと悄気返しょげかえる。勿論心の中では、イグの言い分に対して納得行かない点がありはしたものの、素直で善良な七歳児を演じるべき俺が父親に反抗すべきでない事は火を見るより明らかだ。

「なあイグ兄、何もそんな言い方をしなくても……」

「いいやコヴェナス、そう言う訳には行かない。たとえ相手が子供であっても、何かしでかした時は、ちゃんとその場で叱っておくべきだ」

 コヴェナス叔父が仲裁しようとしたものの、父親の顔をしたイグの態度は軟化しない。

「……ごめんなさい」

 俺が悄気返しょげかえりながら率直に謝罪の言葉を口にすると、今度はイグが肩を竦める。

「まあなんだ、とにかくこれで、二頭のユマにとどめを刺し終えた訳だな。だったら腐らない内に一刻も早く内臓を抜いてしまって、昼までには村まで運んじまおう。……アルルケネス、お前に渡してあったナイフを二本とも貸してくれ」

「ああ、そうだなイグ兄。……ノッシュ、俺達もこっちのユマの内臓を抜くから、ナイフを持って来い」

 説教を終えたイグとコヴェナス叔父の仲良し兄弟が揃ってそう言えば、彼らの息子である俺とノッシュは安堵の溜息を漏らしつつ、それぞれの父親にナイフを手渡した。そしてナイフを手にした彼ら二人は仕留めた二頭のユマ鹿の傍らにひざまずき、解体作業を開始する。

「いいか、アルルケネス。いずれはお前もこの作業を手伝う事になるんだから、俺の手元をよく見て、解体の手順を覚えておきなさい」

「はい、お父さん」

 そう言った俺に猟の獲物の解体の手順を伝授すべく、まずイグは、鋭利なナイフの切っ先をユマ鹿の喉の中央にぶすりと突き立てた。そしてそのまま真一文字にナイフを切り下ろし、一気に腹を裂いたかと思えば、最後は肛門の周りをくるりと毛皮ごと切り取ってから手を止める。

「肛門の周りを切り取ると、後は気道と食道、それに肋骨の下端を覆う横隔膜を切断するだけで簡単に内臓を抜く事が出来る」

 イグはそう言って解説しながら、ユマ鹿の胸腔内と腹腔内に詰まっていた内臓を素手でもってごっそりと掻き出し、それら内臓の塊の中から心臓と肝臓だけを切り離した。掻き出された内臓や、それに触れたイグの手から真っ白な湯気がもうもうと立ち上り、このユマ鹿がついさっきまで生きていたと言う事実をまざまざと見せつける。

「残念ながら、野生のユマの内臓は寄生虫だらけで、その上臭くて不味くて食用には適さない。だから人間が食べられるのは肉と脂肪と、後は心臓と肝臓の二つの臓器だけだ。それ以外の臓器はこの辺りに捨てて行って、この山に住む他の野生動物達のための、冬季の貴重な餌とする。……ここまでの手順は覚えたな、アルルケネス?」

「うん、覚えたよ」

 俺が純朴な少年然とした表情と口調でもってそう言えば、イグは切り取ったユマ鹿の心臓と肝臓を、自宅から持ち寄った麻袋の中へと無造作に放り込んだ。

「よし、今はここまでだ。続きの皮を剥いでなめす作業と、骨から外した肉を各部位に切り分ける作業は、一旦家に帰ってから始める事としよう。……コヴェナス、そっちは終わったか?」

「ああ、ちょうどこっちも終わったところだ」

 両手にこびり付いた鮮血を雪でもって洗い流しながらそう言ったコヴェナス叔父の言葉通り、彼もまたもう一頭のユマ鹿の不要な内臓を抜き取り終えたところらしく、獲物の腹を裂くのに使ったナイフを鞘に納める。

「それじゃあ、ユマを俺の家まで運ぶか。……アルルケネス、これからユマをくくるから、この工程もよく見て覚えておきなさい」

 そう言ったイグとコヴェナス叔父は杖代わりに持ち歩いていた硬い木の棒と一巻きの革紐の束を取り出し、その棒に革紐でもって、内臓を抜かれたユマ鹿の足をくくり付け始めた。

「四つ足の獲物をくくる際には、こうして足首の裏側に穴を空け、脹脛ふくらはぎと踵とを繋いでいる太く硬い腱を利用するんだ」

 イグが言うところの『脹脛ふくらはぎと踵とを繋いでいる太く硬い腱』とはいわゆるアキレス腱の事であったが、この世界にはギリシア神話が存在しないので、当然の事ながら英雄アキレウスにちなんだ『アキレス腱』と言う呼称もまた存在し得ない。何はともあれアキレス腱に革紐を絡める事によって二頭のユマ鹿の足首をしっかりと括り終えたイグとコヴェナス叔父は、くくった四本の脚の間に木の棒を通し、その棒を肩に掛ける事によって仕留めた獲物を持ち上げた。具体的な数値までは分からないが、内臓を抜かれたユマ鹿一頭の重量をおよそ30㎏から40㎏と換算しても、その二倍の重量を持ち上げる彼ら二人は結構な膂力の持ち主である。

「さあ、帰るぞ。アルルケネス、ノッシュバル、今度はお前達が俺とコヴェナスを先導してくれ」

 そう言ったイグの言葉に従い、俺とノッシュの二人が互いの父親を先導しつつ、来た道を引き返すような格好でもって山道を歩き始めた。

「なあ、アルル」

 真っ白な新雪に覆われた山道を歩いて村外れの自宅へと帰還する途上に於いて、頬に涙の痕が残るノッシュがこちらへと歩み寄って来ると、背後の父親達には聞こえないような小声でもって俺に耳打ちする。

「さっきは僕の代わりにユマにとどめを刺してくれて、ありがとな」

 どうやらノッシュは、彼に代わってユマ鹿の屠殺と血抜きを行った俺に感謝しているらしい。

「気にするなって、僕が好きでやった事なんだからさ」

「でもやっぱり、アルルは凄いな。僕はどうしてもユマが可哀想に思えちゃって、とどめが刺せなかったんだもん」

「なあに、簡単だよ。どうせ全ての生き物は死んでも生まれ変わるんだから、むしろなかなか殺さずに、いつまでも苦しませ続ける事の方が可哀想だよ。違うかい?」

 俺がそう言えば、ノッシュはきょとんとした顔をこちらに向けた。

「なあアルル、前から思ってたんだけどさ、その「生まれ変わる」って言うのはどう言った意味なんだ?」

 ノッシュに問い返された俺は、これはうっかり不味い事を言ってしまったかもしれないと憂慮し、言葉を選ぶ。何故なら彼らが信仰するロンヌ正統派教会の教えには輪廻転生の概念そのものが存在せず、死んだ人間の魂は神が御座おわす天国に召されるか、もしくは悪魔が跳梁跋扈する地獄に落ちると固く信じられているのだ。だからこんな小さな村の内部で迂闊な事を口にすれば、教義に反する不心得者として、異端のそしりを免れ得ない。

「何でもないよ、気にするなって。そんな事より、先を急ごうぜ」

「ああ、それもそうだな」

 ややもすれば普段からぼんやりとした性格であるノッシュはそう言うと、特にそれ以上追求する素振りも無いままに、俺と一緒に互いの父親を先導しながら村向こうの自宅目指して歩き続けた。そしてラハルアハル村の敷地内へと足を踏み入れ、新雪が降り積もる無人の村道を意気揚々と歩いていた俺ら四人は、不意に信じられない光景を眼の当たりにする。

「!」

 果たして、村の中心的存在であるロンヌ正統派教会の聖堂前の広場に、一人の少女が立ち尽くしていた。俺やノッシュがよく知っている幼馴染の少女、つまり金髪碧眼でそばかす面が可愛らしい、スラーラことスラーラヌイ・イルミネンコその人である。しかもそのスラーラは吐く息も真っ白に凍り付くほどの寒空の下、薄桃色の乳首も無毛の恥丘の奥の性器も露になった一糸纏わぬ全裸であったのだから、俺ら四人が我が眼を疑い言葉を失うほど驚いたのも無理からぬ事と言う他無い。

「スラーラ!」

 はっと我に返った俺は彼女の名を呼びながら、雪化粧が施された無人の広場の片隅で立ち尽くす、下着はおろか靴すらも履いていない全裸のスラーラの元へと駆け寄った。すると間近に見る彼女はあまりの寒さにがたがたと打ち震え、歯の根が合わなくなった口からはがちがちと言った上下の歯がぶつかり合う音が聞こえて来る上に、意識が混濁し始めているのか焦点が合わないその眼はとろんとして虚ろである。

「……アルル?」

 スラーラは虚ろな眼をこちらに向けながら俺の名を口にしたものの、やはり彼女は意識が混濁し始めているらしく、このままでは遠からず凍死してしまったとしても不思議ではない。

「どうしたんだスラーラ! どうして裸でこんな所に突っ立っているんだ!」

 俺がそう言って問い掛けても、全裸のスラーラは虚ろな眼でもってこちらを見つめるばかりで埒が明かず、そうこうしている間にも彼女の身体からは見る間に体温が奪われて行く。

「スラーラヌイ、一体何があったんだ? キミのご両親は、キミがこんな恰好でここに居る事を知っているのか?」

 すると俺に遅れて我に返ったイグもまたこちらに駆け寄って来ると、自らが着込んでいた分厚い毛皮の上着を脱ぎ、それを全裸のスラーラに着せながらそう言って問い質した。

「……」

 しかしながらスラーラは、イグの問い掛けに対して返答する素振りも無く、あまりの寒さに真っ白に退色してしまった身体を震わせながらその場に立ち尽くすのみである。

「なあイグ兄、詳しい事情は分からないが、とにかく今は一刻も早くスラーラを家の中まで運ぼう! ここからなら、俺の家の方が近い!」

「ああ、そうだな、そうしよう。ならば俺はこの子を運ぶから、コヴェナス、お前はユマを運んでくれ」

 コヴェナス叔父の提案に対してそう言って同意したイグは、素肌の上から彼の上着を着せられたスラーラを、いわゆる『お姫様抱っこ』の要領でもって軽々と抱え上げた。そして二頭のユマ鹿の屠体を抱えたコヴェナス叔父、それに俺とノッシュの計三人を背後に従えながら、真っ白な新雪に覆われた無人の広場を後にする。

「まったく、一体なんだって言うんだ!」

 今にも凍死してしまいそうなスラーラを抱きかかえながら、そう言って怒りを露にするイグ。彼によって先導されつつ俺ら四人は足早に村内を縦断すると、程無くして村の一角に建つ、ノッシュとコヴェナス叔父のグルカノフ親子の自宅へと辿り着いた。

「コヴェナス、早く暖炉に火を入れろ。それと湯を沸かして、何か温かい食べ物と着る物を用意するんだ」

 イグがそう言って命じれば、彼の実の弟であると同時にこの家の主でもあるコヴェナス叔父は急いで暖炉に火を入れ、湯を沸かし、鍋の底に残っていた昨夜の夕食の残りのヒダ豆のスープを温め始める。

「ノッシュ、スラーラに着せてやるから、急いで寝室に行って彼女でも着れそうなお前の服を急いで持って来い」

 今度はコヴェナス叔父がそう言って、彼の一人息子であるノッシュに命じた。すると命じられたノッシュは彼ら親子の寝室へと取って返し、下着も含めた着衣一式を抱えながら戻って来ると、それらを火が入れられた暖炉の前でがたがたと震える全裸のスラーラに手渡す。

「さあスラーラヌイ、湯が沸いたぞ。着替え終わったらこれを飲んで、身体を内側から温めるんだ」

 やがてノッシュの服を着込んだ事によってようやく全裸ではなくなったスラーラに、イグがそう言いながら、熱い湯が注がれた陶器のマグカップを手渡した。そしてふうふうと息を吹き掛けながらその湯を飲み下せば、がたがたと震えるばかりだった彼女の頬にようやく赤みが差し始める。

「よし、これでもう大丈夫だな」

 暖炉に新たな薪をくべながらそう言ったイグの言葉を合図に、今にも凍死してしまいそうなスラーラを見守っていた彼とコヴェナス叔父、それに俺とノッシュの四人はホッと安堵の溜息を漏らした。

「スラーラ、これも食べろよ」

 するとノッシュがそう言って、ヒダ豆のスープが盛られた皿を彼女に手渡すと、暖炉の火でもって温められたそれをスラーラはむしゃむしゃがつがつと無心に食べ始める。その食べっぷりはまさに鬼気迫り、一日三食まともな食事を摂っている子供のそれとは思えない。

「こんなに腹が減っていただなんて……なあスラーラヌイ、キミは毎日、ちゃんとご飯を食べさせてもらっているのか?」

 スラーラの足元にひざまずいたイグがそう言って問い掛ければ、世間一般の平均的な七歳児と比べて随分と痩せ細ってしまっている彼女はスープを食べる手を止め、口をつぐんで言い淀む。

「そうか、成程な。やはりキミは、あのご両親からまともにご飯も食べさせてもらってないんだな? だとしたらスラーラヌイ、今日はまたどうしてこんな寒い日に、あんな場所に裸で立っていたんだ?」

 重ねて問い掛けられたスラーラは、やはり口をつぐんだままもごもごと言い淀み、やがて眼の前のイグから眼を逸らしてしまった。

「頼む、どうか答えてくれ、スラーラヌイ。これはキミとキミの家族のためにも、大事な事なんだ」

 するとこの村の領主を務めるイグが「家族のためにも」と言ったのをきっかけに、黙秘を続けていたスラーラはようやく口を開く。

「えっと、あのね、あたしが悪いの。パパは悪くないの。あたしがパパを怒らせちゃったから……」

「パパ? つまりそれは、キミの父親であるユグニルスの事だな? 教えてくれスラーラヌイ、キミみたいな小さな女の子が一体何をしたら、こんな寒空の下に裸で放り出されるほど彼を怒らせる事が出来るんだ?」

 そう言って問い質すイグの疑問に対してスラーラが発した言葉は、まさに我が耳を疑う内容であった。

「今朝ね、ご飯の用意をしていた時にね、あたしがうっかりパパのお皿を割っちゃったから……」

「皿を割った? それだけか? たったそれだけの事で、ユグニルスはキミを広場に裸で立たせていたと言うんだな?」

 声を荒らげながらそう言ったイグは激しく憤り、真っ赤に紅潮した顔にまさに怒り心頭とでも表現すべき鬼の形相を浮かべると、やり場の無い怒りに固く拳を握り締める。

「コヴェナス、出掛ける準備をしろ。スラーラヌイの身体が充分に温まったら、ユグニルスと直接対決だ」

 スラーラの足元にひざまずいたままそう言ったイグが立ち上がると、彼は実の弟であるコヴェナス叔父と共に、一旦暖炉の前から姿を消した。するとその隙に、今度は俺が彼女の足元にひざまずいて、すっかり冷え切ってしまったスラーラの小さな素足に手を伸ばす。

「アルル、何をするの!」

 突然素足を触られたスラーラは、羞恥の色を含んだ声を上げて驚いた。屋内では靴を脱いで生活する日本人とは違って、この世界の、少なくともロンヌ帝国の一般的な女性達は、無防備な素足を見たり触られたりする事に慣れていない。しかしながらそんな彼女の様子には眼もくれず、俺は氷の様に冷たいスラーラの素足を優しく撫で擦ってやりながら、同情とも憐憫とも受け取れる言葉を口にする。

「ああ、こんなに硬く冷たくなってしまって……スラーラ、寒かったよね? 辛かったよね? キミがこんなに苦しんでいる事に気付いてあげられないなんて、僕はキミの友達失格だ」

 彼女の素足を人肌でもって温めてあげながらそう言えば、小柄で可愛らしいスラーラはそばかすの浮いた頬を赤らめつつも、決して俺の手を振り払おうとはしなかった。そしてそうこうしている内に時は流れ、やがて暖炉の火に当たりながら都合三杯のヒダ豆のスープを飲み干したスラーラの身体がすっかり温まり切った頃、イグとコヴェナス叔父の二人が行動を開始する。

「よし、そろそろ出発するぞ。ノッシュバル、スラーラヌイにお前の靴と靴下とを貸してあげなさい」

 イグがそう言って命令すると、ノッシュは再び寝室へと取って返し、彼の履き古した靴と靴下とを持って来た。そしてそれらを履いたスラーラが暖炉の前に置かれたロッキングチェアから腰を上げれば、俺ら五人の出発の準備は整う。

「お父さん、これから僕らはどこに行くの?」

「ユグニルスの、そしてスラーラヌイの家だ。こんな小さな女の子を雪が降り積もった真冬の戸外に、それも裸のまま放置したその真意を、その村の治安維持を任された一人の領主として問い質さなきゃならない」

 苦み走った表情と口調でもってそう言ったイグとコヴェナス叔父に先導されながら、彼ら二人に俺とノッシュとスラーラを加えた計五人は、ノッシュとコヴェナス叔父とが生活を共にする彼らの自宅を後にした。暖炉の火によって温められた屋内から戸外の空気へとその身を晒すと、まるで冬将軍のつるぎの切っ先の様に鋭い寒気が露になった素肌に突き刺さり、こんな寒空の下で全裸のまま放置されていたスラーラの受難ぶりが身に染みる。そして真っ白な新雪に覆われた村道を無言のまま歩き続けた末に、ラハルアハル村の敷地内を縦断してみれば、やがて俺ら五人はスラーラの自宅の前へと辿り着いた。

「ユグニルス! 居るんだろ、ユグニルス!」

 スラーラの自宅は決して繫栄しているとは言えないラハルアハル村の中でも特にうらぶれた地区の一角に建っており、そんな彼女の自宅の玄関扉を叩きながらイグが家主の名を呼べば、やがて扉の隙間から一人の女性が顔を覗かせる。

「やあミルライラ、ユグニルスは居るか?」

 イグがそう言って問い掛けた女性、つまりスラーラの実の母親であるミルライラ・イルミネンコはやけに草臥くたびれたと言うか、すっかりやつれ果ててしまったかのような表情をその顔に浮かべていた。

「あなた! 領主様がお呼びだよ!」

 すると客人である筈のイグと挨拶の言葉を交わし合う事も無いままに、草臥くたびれ切ったミルライラが夫の名を呼べば、やがて彼女らの自宅の奥の暗闇の中から一人の男が姿を現す。

「なんだイグ、金持ちのお偉い領主様が、こんな貧乏人が住む場末にボロ小屋なんかに何の用だ?」

 一聴すると謙遜のようでありながら、その実かなり根の深い嫌味交じりの皮肉を口にしつつ、姿を現したユグニルスがイグを睨み据えた。

「ユグニルス、スラーラヌイの件に関して、この村の領主としてお前に話がある」

 睨み据えられたイグが動じる事無くそう言えば、どうやら昼間から酒を飲んでいたらしいユグニルスはイグの背後に立つスラーラの姿を見咎め、全てを察すると同時に舌打ちを漏らす。

「スラーラ、さてはお前、俺を売ったな?」

 憤怒と軽蔑、それに僅かながらの嘲笑が複雑に入り混じったような表情と口調でもってそう言ったユグニルスはイグを押し退けながら手を伸ばし、彼の実の娘であるスラーラの髪の毛を鷲掴みにした。

「痛い! やめてパパ、あたしはパパを売ったりなんかしてないから!」

 突然の事態に呆気に取られているイグとコヴェナス叔父、それに俺とノッシュを他所に、怒り心頭のユグニルスはスラーラを折檻し続ける手を止めない。

「俺には分かってるんだぞ、スラーラ! お前は男とみれば誰にでも股を開く、まんこががばがばの売女ばいただって事をな!」

「痛い! 痛い! パパ、やめてってば!」

 髪の毛を鷲掴みにされたまま頬を平手で叩かれ続けるスラーラの悲痛な声に、ようやく我に返ったイグが、彼女とユグニルスとの間に割って入る。

「何をしているんだ、ユグニルス! この子はお前の実の娘なんだぞ!」

「そんな事は分かってる! 分かってるからこそ、俺の実の娘だからこそ、こうして親の責務としてしつけてやってるんだ!」

「何を馬鹿な事を言っている! こんな一方的な暴力の、どこがしつけだと言うんだ!」

 そう言ったイグは実の娘を折檻し続けるユグニルスの手首を強引に掴み上げ、半ば強制的に、眼の前で繰り広げられる暴力行為に終止符を打った。ユグニルスはラハルアハル村でも随一のならず者として知られるが、アルコールの過剰摂取で肝臓をやられている彼の腕っぷしは平均的な成人男性のそれ以下であり、栄養状態に優るイグの前では全くの無力である。

「いいか、よく聞けよユグニルス。もう二度と、金輪際、スラーラに対して暴力を振るうような真似はするな。勿論、野外に裸で放置するなんてもっての外だぞ。分かったな?」

 その口調にはらわたが煮え繰り返るような怒りの色を滲ませつつ、まるで悪戯小僧を諭すような文言でもってイグがユグニルスに言い聞かせれば、彼は張り子細工の赤べこの様に首を縦に振らざるを得ない。

「……分かった、もうスラーラに暴力は振るわない。約束する」

「本当だな? もし仮に、再びお前が暴力を振るっている現場に遭遇したら、もう二度とこの村で大手を振って歩く事は出来なくなると思え」

 イグがそう言って念を押せば、彼に警告される格好になったユグニルスは舌打ち交じりにぶつぶつと愚痴を漏らしながらも、渋々その場から引き下がった。そしてスラーラを家の中へと迎え入れたユグニルスが玄関扉を閉めると、事の次第を見守っていたコヴェナス叔父がイグに確認を取る。

「なあイグ兄、ユグニルスの奴、本当にこれでもうスラーラに暴力を振るわなくなると思うか?」

「まあ、まず間違い無く、あの男は少しも懲りてないだろうな。だがそれでも、これ以上家族の問題に立ち入る事は難しい。俺は領主として、一人の男として、無力感に苛まれるばかりだよ」

 そう言ったイグはがっくりと肩を落としながらかぶりを振りつつ、深い深い溜息を吐いた。そして彼の息子である俺もまた、スラーラの行く末を憂慮せざるを得ない。

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