第二幕


 第二幕



 柔らかくも温かく、それでいて沖融ちゅうゆうたる至上の液体に包まれているかのような心地良い夢から目覚めてみれば、俺は狭く薄暗い部屋の一角で見知らぬ若い女性の腕に抱かれていた。

「■■■■、■■■■■■■■■?」

 俺にはまるで理解出来ない、かつて聞いた事も無いような言語でもってそう言った女性はおもむろに乳房をまろび出させると、その乳房の先端に位置する乳首を俺の顔に近付ける。

「?」

 こちらへと迫り来る茶褐色の乳首を前にして、俺は驚嘆と羞恥の声を上げようと尽力するが、幾ら頑張ってみても喉と肺に力が入らない。そしてどうにかこうにか蚊の鳴くようなか細い唸り声を発した俺の口に、眼の前の若い女性は、自身の露出した乳首を突っ込んだ。

「!」

 いきなり乳首を突っ込まれた俺の口中が、その乳首からほとばしった何やら生温かい液体でもって隙間無く満たされ、喉の奥へと流れ込む。そして一拍の間を置いた後に、その生温かい液体が女性の母乳である事を理解したものの、残念ながらその味ばかりは良く分からない。

「■■■■、■■■■■■■■■■■?」

 すると俺の視界の片隅で何かが動いたかと思えば、やはり理解出来ない言語でもって語り掛けながら一人の若い男性が姿を現すと、俺の頬を撫でようとこちらに向かって手を伸ばす。

「!」

 俺は同性愛者ではないので、頬を撫でるべく差し出された男性の手を払い除けようとした際に、重大な事実にようやく気付いた。俺の手が、足が、眼の前の女性や男性のそれと比べて異様なまでに小さい上に、どれだけ力を入れても上手く動かす事が出来ない。いや、手足だけでなく、俺の全身がまるで生まれ立ての赤ん坊の様に小さくなってしまっているのだから、これは驚嘆すべき事実と言えるだろう。

「■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■?」

 払い除ける事に失敗した男性の手によって頬を撫でられながら、俺は理解した。むしろ、理解するのが遅過ぎたとも言える。つまり自分の身体が赤ん坊のそれの様に小さくなってしまっているのではなく、そのものずばり、今現在の俺は生まれ立ての赤ん坊そのものなのだ。

「■■■■■■■■? ■■■■■■■■■■■■■■■?」

 俺が赤ん坊だと言う事は、朗らかに微笑みながら理解出来ない言語でもって語り掛け続ける眼の前の若い男女こそ、新しい俺の両親に違いない。勿論二人とも、千葉県我孫子市に住んでいる筈の、以前の警察官だった頃の俺の両親とは似ても似つかない全くの別人である。

「■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■?」

 やがて俺の新しい母親らしき女性がそう言うと、母乳でもって腹が膨れた俺の口から乳房を遠ざけ、やはり薄暗い部屋の一角に設置されたベビーベッドに寝かしつけた。

「■■■、■■■■■■■」

 文字通りの意味でもって我が子を寵愛する慈母の様な優しい声でもってそう言った女性は、どうやら子守唄らしき穏やかなメロディーを口遊くちずさみ始め、俺はその歌声に鼓膜をくすぐられながら深い深い眠りに就く。


   ●


 俺が万世橋警察署秋葉原交番の舎内で暴漢によって刺し殺され、目覚めてみれば生まれ立ての赤ん坊へと変貌してから体感時間でもって数日後、ようやく一つの事実が理解出来た。

「アルル、■■■■■■■■■■■■■■■■■■」

「■■■■アルルケネス、■■■■■■■■■■■■■■■■■■?」

 相変わらずベビーベッドに寝かしつけられた俺に向かって、聞いた事も無いような言語でもって語り掛け続ける両親の口から頻繁に発される、この単語。どうやらこの単語が俺の新しい名前であり、おそらく『アルル』は『アルルケネス』の略称か、もしくは親しい間柄でのみ通用する愛称である事が推測される。そしてベビーベッドが設置されたこの部屋は夫婦の寝室だと思われるものの、生まれ立ての赤ん坊である俺の眼は未だ遠くの物を視認出来るほどの視力が備わっていないらしく、現状では確認する術が無い。

「アルル、■■■■■■■■■■■■■■■? ■■■■■■■■■■■?」

 するとそう言った母親が俺を抱き上げ、またしても乳房をまろび出させると、その先端に位置する乳首を俺の口に突っ込んだ。日に八回から十回の頻度でもって到来する授乳の時間を迎えた今の俺に出来る事は、ひたすら母乳を飲んで大小便を排泄し、眠り続ける事だけである。


   ●


 正確な月齢こそ分からないものの、やがて俺の体感時間でもっておよそ数ヶ月が経過した頃、生まれ立ての赤ん坊であった俺は遂に自らの足でもって立ち上がる事に成功した。

「■■■■アルルケネス、■■■■■■■■■■■■■■!」

「■■■■■アルル、■■■■■■■■!」

 ベビーベッドの上で立ち上がった俺の姿に、すくすくと成長する息子の姿を見守り続ける両親の喜びもまた一入ひとしおである。

「アルル、■■■■お母さん■■■■■■■■」

「■■■、お父さん■■■■■■」

 競い合うようにして抱き上げた俺を寝室の床へと移動させた両親は、どうやら立ち上がるだけでなく、そのまま歩いてみせろと要求しているらしい。そこで俺は意を決し、彼らの期待に応えるべく、未だ未だ成長過程にある足腰に鞭打ちながら一歩また一歩とよちよちとした足取りでもって歩いてみせた。

「■■■! ■■■■アルルケネス!」

「アルル、■■■■■■■■■■!」

 そう言った両親によって称賛されながら、俺はここ数ヶ月で得た三つの知識を心の中で反芻し、今現在の自分が置かれた立場と状況を再確認する。

 まず第一に、警視庁万世橋警察署の巡査であったかつての俺は、出刃包丁が喉元に突き刺さったまま確実に死に絶えたのだ。そして前世での記憶を完全に維持したまま、日本国ではないどこか遠い国に住む夫婦の息子として生まれ変わり、こうして人生をやり直す事と相成ったのである。

「ミシュラ、■■■■■■■■■■■■■!」

「■■■イグ、■■■■■■■■!」

 第二に、俺の新しい名前がアルルケネスである事と同様、父親の名前が『イグ』で母親の名前が『ミシュラ』である事も理解した。勿論これらが戸籍に記載されているような正式な個人名なのか、それとも略称や愛称なのかと言った点に、多少の疑問は残る。

「■■、アルルケネス、お父さん■■■■■■■■■■■■!」

「■■■、お母さん■■■■■■■■■■■■■■■!」

 そして第三に理解したのが、彼らの話す言語を次第次第に理解しつつある俺と両親が住んでいるこの場所が、随分な田舎であると言う事実だ。何故なら俺は生まれ変わってからのここ数ヶ月、ついぞこの家やその周辺で、電化製品や内燃機関と言った文明の利器を眼にした覚えが無い。今時スマホやパソコンはおろか、屋内の照明として電灯ではなくランプが利用されているとは、そのド田舎ぶりが窺い知れると言うものである。

「■■■■■■■アルルケネス、お前■■■■、■■ラハルアハル■■■■■■■■■■■■」

 父親のイグは小さな俺をそっと抱き上げ、小高い丘の上に建つ一軒家である自宅から緑豊かな戸外へとその身を躍らせると、眼下に広がる村の様子を眺めながらそう言った。どうやら彼が言うところの『ラハルアハル』と言うのが、俺ら家族が住むこの村の名称らしい。

「■■■■■■■■■■■■」

 未だ未だ理解が足りない言語でもってそう言ったイグの腕に抱かれ、ミシュラに見守られながら、俺はラハルアハル村の全貌を眼下に臨む。


   ●


 やがて季節は移り替わり、都合四度の夏と五度の冬が過ぎ去った後のとある初夏の朝方、アルルケネスと言う名の少年へと生まれ変わった俺は五歳の誕生日を迎えた。

「おめでとうアルルケネス、これでお前も、立派な信徒の仲間入りだな!」

「本当におめでとう、アルル。こんなに立派に育ってくれて、お母さんも鼻が高くてよ」

 そう言って喜ぶイグとミシュラの夫婦に連れられながら、余所行きの服でもってめかし込んだ俺ら家族は小高い丘の上に建つ自宅を後にすると、ラハルアハル村の中心に位置するロンヌ正統派教会の聖堂へと足を向ける。

「ねえお父さん、これから聖堂で、僕らはどんな事をするの?」

 俺と手を繋いだ両親に左右から挟まれるような格好でもって、丘の上の自宅から村の中心部へと続く無舗装の村道を歩きながら、五歳になったばかりの俺は父親であるイグに尋ねた。

「そうだねアルルケネス、これからお前は、聖堂の司祭様の手によって洗礼を受けるんだよ。洗礼って、何だか分かるかい?」

「ううん、よく分かんないや」

 この五年間で彼らが話す言語をすっかり習得してしまった俺が、敢えて無知を装いながらそう言ってとぼければ、ややもすれば調子に乗り易い嫌いがあるイグは得意そうに教えてくれる。

「ロンヌ正統派教会の信徒の間に生まれた子供達は満五歳の誕生日の直後の安息日に洗礼を受け、それをもってして神の子から人の子へと脱却した事が認められ、第二の人生を歩む事になるんだ。つまり、今は未だ不完全な人間でしかないお前も、これからは一人前の人間として扱われると言う訳さ」

「ふうん、そっか」

 イグが口にした「第二の人生」と言う言葉の安っぽさに、口先だけでなく実際に生まれ変わりを体験してしまっている俺は、どうにも鼻白まざるを得ない。

「そして未だ未だ先の話だが、今からちょうど十年後の十五歳の誕生日の直後の安息日には、やはり聖堂でもって戴冠式を迎える。この戴冠式を期に、晴れてお前も大人の仲間入りをすると言う事を、忘れずに覚えておきなさい」

「それで、大人の仲間入りをするとどうなるの?」

 俺がそう言って問い掛けると、かつて自分が戴冠した時の事を思い出しているらしきイグは、さも誇らしげに答える。

「大人になれば、まず何と言っても、神の許しを得て結婚する事が認められる。それに仕事に就く事も認められるし、国家から徴兵されれば、皇帝陛下をお守りする兵士となって戦う事も認められるんだ」

「だったら僕、一日も早く大人になりたいな! 早く大人になって、皇帝陛下のために働くんだ!」

 聖堂目指して歩きながら模範的臣民を装ってそう言えば、イグとミシュラは夫婦揃って嬉しそうに微笑み、その笑顔は自慢の我が子を心から慈しむ両親のそれに相違無い。

「さあ、聖堂が見えて来たぞ」

 そう言ったイグの言葉通り、簡素な木造家屋の間を縫うように走る村道を歩き続けた俺とその両親は、やがて村道の交差点に建てられた聖堂へと辿り着いた。勿論聖堂とは言っても、こんな小さな村のそれは大した規模ではなく、せいぜい周囲の家々よりは豪奢に見える煉瓦造りの建造物に過ぎない。そしてその聖堂の堂内に足を踏み入れると、既に勢揃いしていた多くの村民と司祭が長椅子から腰を上げ、俺ら三人を出迎える。

「これはこれは、領主グルカノフ様。本日はよくぞおいでくださいました」

 真っ白な祭服と宝冠に身を包み、右手に聖典、左手に権杖を携えた司祭がそう言いながら進み出て、俺の隣に立つイグに向かってうやうやしく頭を下げた。申し遅れたが、今現在の俺の父親であるイグは、何を隠そうこのラハルアハル村とその周辺の農地を治める領主なのである。

「こちらこそ、我が不肖の息子のためにお集まりいただき、司祭様と村民の皆様方には感謝の言葉もありません」

 するとイグもまたうやうやしく頭を下げ、普段の彼のい奔放ぶりからは想像もつかないような謙遜の言葉を述べながら、この地へと赴任した司祭や村民への礼を欠かさない。

「さて、それではさっそくですが、洗礼式を執り行いましょう」

 俺はそう言った司祭に促されるまま堂内を縦断し、多くの村人達の視線を一身に浴びながら、さほど広くもない聖堂の最奥に位置する祭壇の中央に立たされた。祭壇では何らかの種類の乳香が炊かれ、その乳香の甘ったるい匂いが周囲に漂う。

「おお、汝アルルケネスよ! 我らが偉大なる神の御名において、汝はここに、一人の信徒として認められた事を宣言しようではないか!」

 俺と一緒に登壇した司祭は大仰な口調でもってそう言うと、赤く染色された香油を指で掬い取り、俺の額の中央にそれを塗りたくった。

「今ここに、この印をもって、汝アルルケネスは洗礼を受けたものとする! おお、我らが偉大なる神よ! この子の未来に幸多からん事を!」

 最後に司祭がそう言えば、堂内を埋め尽くす村民達が一斉に手を打ち鳴らし、満場の拍手でもって俺を祝福する。

「さて、それでは洗礼式も滞り無く終えた事ですし、今週もまた安息日の礼拝を始める事としましょう。アルルケネス、キミも両親の元へと戻りなさい」

 そう言った司祭の言葉に従って祭壇から降りると、俺は村民達の最前列に立つイグとミシュラの元へと駆け寄った。すると司祭は一度咳払いをして喉の調子を整えてから、毎週恒例の礼拝の序章として、神の言葉を伝えるための説教を開始する。

「おい、アルル」

 堂内に並べられた長椅子に腰掛け、眼を瞑って司祭の説教に耳を傾けていると、何者かが俺の名前を呼びながらとんとんと肩を叩いた。

「?」

 眼を開けた俺が振り返ってみれば、そこには俺と同じくらいの年頃の褐色の肌の少年が立っており、肌の色とは対照的な真っ白な歯を剥き出しながらこちらに微笑み掛ける。

「お前の額のそれ、かっこいいな!」

 その褐色の肌の少年は、俺の額の中央の香油の痕を指差しながら、そっと囁くような小声でもって愉快そうにそう言った。彼はこのラハルアハル村に住むイグの弟の子供、つまりノッシュバルと言う名の俺の従弟である。

「黙ってろよノッシュ、今は未だ説教の途中だぞ!」

 俺もまた小声でもって彼に注意するものの、注意されたノッシュは意に介さない。

「いいじゃないか、こんな退屈な礼拝なんて抜け出して、外で遊ぼうぜ!」

 遊びたい盛りのノッシュが悪戯っぽくそう言えば、そんな息子の様子を見咎めた彼の父親がノッシュの頭を平手でもってごつんとはたき、司祭の言葉に耳を傾けるよう暗に促した。我が従弟ながら、なんとも礼儀知らずで腕白な少年である。そしてそうこうしている内に司祭の説教が終わり、一堂に会した村民全員でもって神を称える讃美歌を合唱し終えると、今週の礼拝はその幕を閉じた。

「ああ、腹が減った」

 礼拝を終えたイグが空きっ腹を擦りつつ、村民達と一緒にぞろぞろと聖堂から退出しながらそう言うと、妻であるミシュラがそんな彼をたしなめる。

「まったくもう、イグったら! すぐにお昼が食べられるんですから、子供の前でそんな事言わないの!」

 そう言って彼女の夫をたしなめるミシュラの言葉通り、聖堂の前の村の広場には幾つもの長机と長椅子が整然と並べられ、これから毎週恒例の礼拝後の昼食会と洒落込むのだ。

「さあ、飯だ飯だ!」

 懲りずにそう言ったイグが領主らしく、最も聖堂に近い長机の上座に腰を下ろし、広場全体をぐるりと視界に納める。すると忙しそうに働く村の女達の手によって、色とりどりの料理が山の様に盛られた皿の数々が長机の天板の上に所狭しと並べられた。

「それでは皆様、我らが偉大なる神に感謝しつつ、今日の糧をいただきましょう。皆様の未来に、幸多からん事を!」

 やがて声高らかにそう言った司祭の言葉をその場に居合わせた全員でもって復唱すると、待ちに待った昼食会の幕が明け、広場に集まった村民達は週に一度のご馳走に一斉に手を伸ばす。

「アルルったら、お皿が空になってるじゃないの! あなたもイグみたいに好き嫌いせずに、もっと一杯食べなさいね?」

 長椅子の隣の席に腰掛けたミシュラがそう言って、俺の皿にヒダ豆を挽いた粉で焼き上げたヒダパンと、ヒダ豆をそのまま塩と香辛料で煮たスープをたっぷりと盛り付けた。

「僕、これあんまり好きじゃないんだよ」

 このラハルアハル村が在るロンヌ帝国では米や麦と言った穀物は全くと言っていいほど食べられておらず、代わりにこのヒダ豆と言う豆類の一種が人々の主食となっているのだが、正直言ってそれほど美味くはない。

「なんだアルルケネス、お前は未だヒダ豆が嫌いなのか? 美味しいぞ?」

 ミシュラとは反対側の隣の席に腰掛けたイグもまたそう言って、彼の息子である俺に手本を示そうとしているのか、大きなヒダパンをヒダ豆のスープに浸しながらむしゃむしゃと頬張った。

「ああ、米が食べたい」

 両親には聞こえない程度の小声でもって溜息交じりにそう言うと、さほど美味くもないヒダパンを渋々ながら口に運び、黙々と咀嚼してから嚥下する。そして昼食会を堪能する俺は、暴漢に刺し殺された自分がイグとミシュラの息子として生まれ変わった事以外にも、とある事実に関して確証を得ていた。

「ここはやっぱり、俺が知っている世界じゃないよなあ……」

 やはり両親には聞こえない程度の小声でもってそう言った俺の言葉通り、少なくともこの世界が元居た世界とは全く違う何らかの異世界であると言う事こそが、俺がこの五年間で確証を得た事実である。何故なら学生時代に世界史を専攻していた俺ですらロンヌ帝国などと言う国名を耳にした事が無いし、ロンヌ正統派教会などと言う宗教も、ヒダ豆などと言う豆類も金輪際知り得ない。つまりこの世界が地球を遠く離れた似たような惑星の似たような文明である可能性や、一度は文明が滅び去った後の地球で新たに勃興した人類文明である可能性も無きにしも非ずだが、それらもまたある種の異世界と断定してしまっても差し支え無いであろう。

 そして当然の事ながら、自分が警察官の生まれ変わりだと言う事実を、俺はこの世界の両親であるイグとミシュラには一切伝えていない。そんな荒唐無稽な事実を声高に主張したところで、彼らを必要以上に心配させるばかりか、場合によっては頭がおかしくなったと判断されかねないからだ。いくらここが異世界であったとしても、キチガイ扱いされるのは俺の本意ではない。

「げっぷ」

 やがてヒダパンとヒダ豆のスープ、それにハババ豚の炙り焼き肉でもって腹が膨れた俺は小さなげっぷを漏らし、料理を口に運ぶ手を止めた。ここで言うところの『ハババ』とは豚によく似た哺乳類の家畜であり、人間の排泄物や残飯を食って育つので飼育がし易く、俺はこれを『ハババ豚』と呼んでいる。するとそんな俺の肩を何者かがとんとんと叩いたので、背後を振り返ってみれば、そこには褐色の肌のノッシュが真っ白な歯を剥き出して微笑みながら立っていた。ちなみに俺の従弟であるノッシュの肌が褐色なのは、今は亡き彼の母親が南方出身の異邦人だったからである。

「なあアルル、スラーラを誘って、あっちで一緒に遊ぼうぜ!」

 ノッシュに誘われた俺は、彼と一緒に遊びに行ってもいいかどうかのお伺いを立てようと、隣の席に腰掛けるイグに眼を向けた。

「お父さん、ノッシュとスラーラと一緒に遊びに行ってもいい?」

「ああ、いいぞ。ただし子供だけじゃ危ないから、山の奥の方には行かないようにしなさい。それと、暗くなる前に帰って来るんだよ? いいね?」

「うん、分かった」

 ヒダ豆を発酵させて作る蒸留をお酌されるがままにぐびぐびと飲み下し、すっかり出来上がってしまったイグから許しを得た俺は長椅子から腰を上げ、ノッシュと共にスラーラを探す。

「スラーラ! どこだ、スラーラ!」

 果たして俺と同年代の少女スラーラは、彼女の両親に挟まれるような格好でもって、小さな身体を縮こまらせながら長椅子の一番端の方に腰掛けていた。ちなみにスラーラと言うのは愛称であり、正確な彼女のフルネームはスラーラヌイ・イルミネンコである。

「スラーラ、ここに居たのか!」

 俺とノッシュの二人が彼女の元へと駆け寄れば、ハババ豚の炙り焼き肉を一心不乱に頬張っていたスラーラは長く美しい金髪と碧色の瞳を輝かせつつ、びっしりとそばかすが浮いた可愛らしい顔を綻ばせた。

「アルルもノッシュも、二人ともどうしたの?」

「なあスラーラ、あっちで一緒に遊ぼうぜ!」

 遠慮知らずのノッシュが如何にも腕白少年然とした表情と口調でもってそう言うと、俺がイグに対してそうしたように、顔を上げたスラーラもまた彼女の父親にお伺いを立てる。

「ねえパパ、アルルとノッシュと一緒に遊びに行ってもいい?」

「……いいぞ、行ってこい」

 するとスラーラの父親であるユグニルス・イルミネンコはヒダ酒をぐびぐびと飲み下しながらそう言って、実の娘が男友達と一緒に遊びに行く事を許可したものの、その言葉とは裏腹に俺とノッシュの二人をぎろりと睨み据えた。ラハルアハル村でも随一のならず者として知られる彼の視線は、まるで「俺の娘に手を出したらどうなるか、分かっているよな?」とでも言いたげな敵意に満ち満ちており、どう考えてもまともな大人が五歳児に向けるそれではない。

「それじゃあ、行ってきます」

 何はともあれ五歳児の俺はそう言うと、突き刺さるような鋭い視線でもってこちらを睨み据えるユグニルスから眼を逸らし、ノッシュとスラーラと共に村向こうの山の方角へと一目散に駆け出した。

「やっぱりいつ見てもおっかないな、スラーラの父ちゃんは!」

 前世の記憶を維持したまま生まれ変わった俺と違って、正真正銘中身も外見も只の五歳児に過ぎないノッシュが無邪気に笑いながらそう言えば、彼が言うところの『おっかない父ちゃん』の娘であるスラーラはひどく恐縮する。

「ごめんねノッシュ、うちのパパ、いつもあんな調子だから……」

「そんなに気にするなよスラーラ、スラーラの父ちゃんがおっかない事くらい、僕らはもう慣れっこさ!」

 そう言って笑うノッシュの無邪気さに、恐縮しきりだったスラーラもまた少しは救われた様子だったが、やはり五歳児を睨み据えるような彼女の父親がまともな大人とは思えない。

「それにしても、今日はやけに暑いな! 僕もう、びっしょり汗掻いちゃったよ!」

「だったら、川の方に行こうぜ! きっと涼しいぞ!」

 そう言った僕ら三人は行き先を急遽変更し、緑豊かな山間の小村であるラハルアハル村の中心部を揃って縦断すると、やがて村外れの山裾を流れる川のほとりへと辿り着いた。

「うわっ! 冷たっ!」

 ハババ豚の革をなめして作った靴を脱いでから川面に足を浸せば、さらさらと流れる初夏の清流は想像以上に冷たく、走り疲れて火照った身体を程良く冷却してくれる。

「アルル、隙あり!」

 清流の心地良さに心奪われていると、不意にそう言ったノッシュが川面に足を浸した俺に向かって、手で掬い取った川の水を勢いよくぶっ掛けた。

「やったなノッシュ! 喰らえ!」

 そこで俺もまた手で掬い取った水を彼にぶっ掛け返せば、そんな水遊びに興じる俺ら二人の姿を見守るスラーラがそばかす面を綻ばせながら、くすくすと愉快そうに微笑む。

「なんだよスラーラ、お前もこっちに来て一緒に遊べよ!」

「やめとけよノッシュ、女の子をびしょ濡れにしたら可哀想だろ!」

 俺がそう言ってたしなめたものの、純朴な腕白少年を地で行く性分のノッシュは再び川の水を掬い取り、その水をスラーラにぶっ掛ける気満々であった。

「おいスラーラ、逃げるなよ! 逃げるなってば!」

 ノッシュはそう言ってスラーラを追い掛け回すものの、当のスラーラはきゃっきゃと黄色い歓声を上げながら楽しそうに逃げ惑い、やがて川の反対側のほとりへと辿り着いたところで不意にその足を止める。

「きゃっ!」

 すると足を止めたスラーラが、先程までの黄色い歓声とはまるで趣を異にする、恐怖と驚愕の色に染まった五歳児らしからぬ悲鳴を上げた。

「スラーラ? どうしたの?」

「どうしたスラーラ?」

 俺とノッシュの二人が彼女の元へと駆け寄ってみれば、スラーラはその場に立ち尽くしながら言葉を失い、少し離れた場所に転がる岩陰をそっと指差す。

「!」

 果たしてそこには、死に瀕した一羽の小鳥がばたばたと藻掻き苦しみながら横たわっていた。勿論小鳥とは言っても五歳児の俺らからしてみたらそれなりの大きさで、分かり易く説明すると雀よりは大きいが鶏よりはやや小さい、ちょうど鳩くらいの大きさの野生の鳥類である。しかもその小鳥は羽毛に覆われた腹がざっくりと裂けており、真っ赤な鮮血にまみれた内臓をまろび出させていたのだから、スラーラが思わず悲鳴を上げてしまったのも無理からぬ事であった。

「可哀想……」

「きっと、他の動物や大きな鳥に襲われたんだな」

 そう言った俺ら三人に見守られながら、血まみれの小鳥はなんとか立ち上がろうと藻掻き苦しみ続けるものの、既に致命傷を負ってしまっているそれが生き残る術は無い。

「この小鳥さん、どうするの?」

「どうにかして助けてあげたいけど……どうしよう?」

 心優しいノッシュとスラーラはおろおろと狼狽しながらそう言うと、互いの顔を見合わせた。しかしながら所詮は只の五歳児に過ぎない彼らに出来る事と言えば、今まさに燃え尽きようとする命の炎を黙って傍観する事のみである。

「……」

 そこで俺は無言のまま一歩前に進み出て、その場にひざまずいてから手を伸ばし、死に瀕した小鳥の鮮血にまみれた体躯をそっと持ち上げた。持ち上げた小鳥の体躯は信じられないほどか細く、また同時に驚くほど軽い。

「アルル?」

 不審がるノッシュとスラーラには眼もくれず、俺は右手で小鳥の頭、左手で胴体を握り締めると、そのまま手中の小鳥のか細い首を力任せに捩じ切った。五歳児の小さなてのひらに、頸椎が断裂する際のぶちぶちと言った感触が生々しく伝播する。

「アルル、あなた、何してるの!」

 するとスラーラは驚嘆の声を上げ、ノッシュは言葉を失うが、小鳥をくびり殺した俺は一向に動じない。

「いいんだよスラーラ、どうせこの小鳥はもう助からないんだから、一刻も早く殺してあげなくちゃならないんだ」

 俺は事も無げにそう言うと、完全に息絶えた小鳥の死体をまるで生ゴミか何かのように投げ捨てた。

「だけどアルル……そんな事をしたら、小鳥さんが可哀想だと思うし……」

「大丈夫だよスラーラ、気にする事は無いさ。どうせ生き物は死んでも生まれ変われるんだから、むしろ殺してあげずに苦しませる事の方が可哀想だよ」

 畏怖と憂懼ゆうく、それに僅かながらの恐怖に満ち満ちた眼差しをこちらに向けるスラーラ。彼女の言葉を気にする素振りも見せず、やはり事も無げにそう言った俺の真っ赤な小鳥の血に濡れた両手に、爽やかな初夏の陽射しがさんさんと降り注ぐ。

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