死は甘美にして抗い難き劇薬なり

大竹久和

第一幕


 第一幕



 それは麗らかな春の陽射しが暖かい、もうすぐ初夏とも言うべきとある昼下がりの出来事であった。

「ふあぁ……ぁぁ……」

 東京都台東区外神田四丁目の秋葉原UDXの一階に位置する、万世橋警察署秋葉原交番の舎内でもって盛大なあくびを漏らした俺は、簡素なオフィスチェアに腰掛けたままこっくりこっくりと舟を漕ぐ。

「……眠い……」

 交番の舎内に居るからと言って、俺は逮捕されてしまった犯罪者などではない。むしろその逆で、犯罪者ではなく警察関係者、つまり濃紺色の制服と制帽に身を包んだ俺自身がこの交番に配属された巡査の一人なのだ。

「……」

 つい一時間ほど前に秋葉原UDX内のレストランでもって昼食を食べ終え、すっかり腹が膨れてしまった俺は、どうにもこうにも眠くて眠くて仕方が無い。現代の日本国、それも人畜無害なオタクの街である秋葉原は総じて平和であり、世間が震撼すべき凶悪事件など起こりようも無いのだ。そして眠ってはいけないと分かっていながらも、たまたま俺一人しか舎内に居ないのをいい事にこっくりこっくりと舟を漕ぐばかりの俺の意識は次第に遠退き始め、ぽかぽかと暖かい春の陽気に誘われながら夢の世界へと旅立ち始める。

「!」

 しかしながら次の瞬間、不意に人の気配を察知した俺は、はっと眼を覚ました。するといつの間に姿を現したのか、交番の入り口を塞ぐような格好でもって、一人の若い男性がこちらをジッと見据えながら突っ立っている。

「こんにちは、何か御用ですか?」

 俺は寝惚け眼のままそう言いながら、警察官の本分として善良なる日本国民に奉仕すべく、一山幾らでもって投げ売りされているようなオフィスチェアから腰を上げた。そしてその段になって、薄汚れたジャージの上からフード付きのパーカーを羽織った眼の前の男性の手に一挺の出刃包丁が握られている事にようやく気付き、さっきまでの眠気が一気に吹き飛ぶ。

「拳銃を、よこせ」

 呆気に取られて言葉を失う俺を他所に、パーカー姿の男はぎらりと鈍く輝く出刃包丁の鋭利な刃先をこちらに向けながら、如何なる感情も汲み取れないような表情と口調でもってそう言った。

「おい! 今すぐその包丁を捨てろ!」

 俺はそう言って警告しつつ、腰のホルスターに手を伸ばすが、出刃包丁を手にした男は意に介さない。

「拳銃を、よこせ」

 やはり一切の感情が汲み取れない、まるで死んだ魚の様な胡乱な眼をした男は繰り返しそう言って、拳銃をよこせと要求し続ける。

「包丁を捨てろ! 捨てろと言ってるんだ!」

 俺もまた繰り返し警告し続けるが、男の様子から出刃包丁を捨てる可能性が皆無と判断すると、腰のホルスターから抜いた支給品の回転式拳銃をウィーバースタンスでもって構え直した。そしてその拳銃、つまりS&W社製のM360J、通称『サクラ』の照準を男の胸に合わせながら尚も警告し続ける。

「その包丁を捨てなければ、撃つぞ!」

 だがしかし、9㎜口径のサクラ拳銃の銃口を向けられながらも、やはり男は一向に意に介さない。

「拳銃を、よこせ!」

 ややもすれば少しばかり興奮した様子でもってそう言った男を前にして、俺は彼を射殺すべきか否か、激しく逡巡する。

「今すぐ包丁を捨てるんだ! 本当に撃つぞ!」

「拳銃をよこせ!」

 俺と男との会話は全く成立せず、そうこうしている間にも一歩また一歩と男が接近し始めたので、俺は手にしたサクラ拳銃の引き金に指を掛けた。

「それ以上近付けば、撃つ!」

 俺はそう言って最後通牒を突き付けるが、果たして生きた人間をこの手でもって射殺する覚悟が決まらず、引き金に掛けた右手の人差し指が宙に浮く。しかも単に人を殺す事の是非を問う倫理観や道徳心だけの問題にとどまらず、現代日本の警察組織では拳銃を市中で発砲してしまった者は出世の道が閉ざされてしまうのが定石なのだから、尚更と言う他無い。

「!」

 すると次の瞬間、最後の一歩を踏み出したパーカー姿の男の出刃包丁の切っ先が、制服姿の俺の無防備な喉元に深々と突き刺さった。

「ごぽ……」

 喉元に刃渡り15㎝ばかりの出刃包丁が突き刺さったまま、まるで糸が切れた操り人形の様にその場に跪いた俺の口から、おびただしい量の鮮血がごぼごぼと溢れ出る。そして血まみれの俺が土下座するような格好でもって前のめりに倒れ伏すと、パーカー姿の男は身を屈め、難無くサクラ拳銃を奪い取った。しかもサクラ拳銃と腰のベルトとを繋いでいる盗難防止用のワイヤーを、どこかに隠し持っていたワイヤーカッターでもって切断してから奪い取ったのだから、用意周到と言う他無い。

「拳銃だ……これで……これでやっと死ねる……」

 パーカー姿の男はぶつぶつと意味不明な言動を繰り返しながら、外傷性ショックによって次第に意識が遠退きつつある俺の視線の先で、奪い取ったサクラ拳銃の銃身を口に咥えた。そして一切躊躇う事無く撃鉄ハンマーを起こしてから引き金を引き絞れば、銃口から射出された銃弾によって彼の頭蓋骨に直径9㎜の穴が穿たれ、脳髄がぐちゃぐちゃになった男はあっさり絶命する。

「……どうせ自殺するんだったら、俺を巻き添えにせず、一人で死んでくれよ……」

 硬く冷たい交番の床に、やはり糸の切れた操り人形の様に力無く崩れ落ちた、真っ赤な鮮血と薄灰色の脳漿に濡れたパーカー姿の男。拳銃自殺の悲願を果たした彼の死体を忌々しげに凝視しつつ、依然として喉元に出刃包丁が突き刺さったままの俺は、声にならない声でもってそう言った。そして人を殺す事を躊躇ってしまった自らの愚かさと優しさを呪いながら、そっと静かに意識を失う。

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