三.朽葉色の瞳、最奥にアメジストの煌き

「噂をすれば、だ」

「何のこと?」

 徹の歓迎に、男性としては高めの柔和な声で問い掛けがあり、それを追って、チドリが待望した友人が姿を現す。喫煙所入り口の上から顔を出した彼は、天井となった床に両手をかけて体を持ち上げ、舞台へ飛び乗るように中へ入ってきた。彼、アイは筐体と同じ向きでインドの天井を歩み、座ったチドリと同じくらいの高さに、理知的ながら気怠さのちらつく顔が逆さまで立ち止まった。

「待ちくたびれたぞアイ」

「チドリは久しぶりだね。うん、僕としても名残惜しいのだけど」

「なんだよ急いでるのか?」

「急いだ方がいいのは君かな」

 ちょいちょい、とアイが指し示した先のデバイスは、チドリを十幾日かぶりの仕事に召集するメッセージを表示している。チドリは無慈悲に文字を吐き出すデバイスを見、視線をアイに戻し、早く受領コマンドを入れろと宙で光るメッセージを斜め読み

した。

「はぁ、嘘だろ?!空気読めよぉ」

 前回よりは僅かばかり余裕があり、明後日の集合となっているが、今日はすでに夕刻であるから、急ぎ発った方がいいことには違いない。

「おいおい駄々こねるんじゃねえぞ、チーちゃん」

「行きたくねえ。俺はアイとはち合うのを数十日と楽しみにしてきたんだぞ。テツさんはこの前会ってるからそんな簡単に言うけどさ、俺は散々待ちぼうけたんだ。これで行って帰ってきてまたすれ違いだったら、今度こそ本気で凹む。仕事を恨む」

「嗚、駄目だこいつァ。アイちゃん頼むね」

 逆さまの景色の中にいる、チドリという不思議と人好きのしそうな青年。今、好物を取り上げられんとする愛玩動物の表情、それそのものでアイを見上げている彼との出会いは、91ROWインパクト後、一年二年が経ち、セントラルコムーネの中枢、それこそ核場ができあがらんとしている頃だったろうか。

 アイは元々、AMID全盛期に摩天楼区画と揶揄される高級レジデンス地帯に住んでいたエリートである。天地反転の折、清く正しく勤勉に生きてきた両親ともども無作為だけを理由に空へ天落、何故か一人だけ再反転してこの地に舞い戻った。それが善意も悪意もない単なる現象であることに何よりも絶望し、幸か不幸か、デジタル資産が残存したのをいいことに、仕事を探しもせず世界の様相を見るともなしに見るだけの無為な日々を送った。元いた場所、セントラルコムーネが切々と再建されていくのも横目に、高く高く築き上げるものはすべからく最早無意味と背を向けて、できる限り遠くへ、と住処を変えるうちに、この第四離れクラスターと喫煙所に辿り着いた。転々としている中で、自分と同じ向きの建物や人をまったく見かけなかったわけではない。しかし建物はえてして骸同然に荒廃し、良くても放浪者の雨除け、踏み入っても得があるとは思えなかった。人に至っては、そもそも数が少ない上に遭遇したとしても、皆どこか虚ろで、景色の向きを共有できるだけでは話など弾みそうもなかった。まるで自分の眼を見るようで直視したくなかった、という感傷的な理由も、今振り返れば認められる。世界の様相や天変地異の遺産、つまりは己のような古い重力に従う反Rという存在などの情報は、放浪のうちに少しずつ集まった。もっとも、少しばかり知識が更新されたとて、行動を変えるような気骨も喪っている。世界を未来へ進めようと勤めてきた日々も、善き人たれと道徳を重んじた家族も、一瞬にして空の底へ落ちてしまえば悪逆非道の罪人とさえ、区別などつかない。年月を重ねるごとにセントラルコムーネは順調に拡大し、再び社会は形作られんとし、また旧地上から時折もたらされる新生クラスターを開拓する事業なんかも好調であると耳にした。何だかんだで人間は逞しい、とアイは凍えた心で唸ったものである。初めてここを訪れた時、空漠とした刹那的享楽の独特な香りと、その看板らしき「インド」の文字に興味をひかれた。しかしながらそれを観察に留められず、結局足を踏み入れることになったのは、他ならぬチドリのせいであり、おかげである。

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