二.終焉未遂
天地がひっくり返るよりさらに前に、とうに崩壊した学校教育という制度がある。義務教育はもとより、高等学校、大学全入制、それらは今や旧々時代の遺産として、申し訳程度の史実と揶揄が遺るばかりだ。しかしその消失は、91ROWインパクト発生時の大企業の物理的壊滅といったような、純然たる被災とは質が異なる。
「AMID?」
「そう、All Mankind Identity Definition。旧アメリカはもっと昔から似たような仕組み使ってたらしい。それの超上位版ってやつ……俺はこれあるから経緯とかはあんまり知らないけど」
そういってチドリが示した右目の下には、眼窩に沿って一センチ幅ほどの謎めいた文字列が刻まれている。旧世界のどの圏の言葉でもないそれは、原則として全ての人間に生後間もなく付与されるシリアルと呼ばれ、かつては個人のすべてをまさしくアイデンティファイするものだった。シリアルの台頭と入れ替わるように旧来の教育制度が瓦解していったのは、個人の持ち得るあらゆる技能がバッジ化され、一社会の中で能力向上の足並みを揃える必要がなくなったからだ。生まれつき持てし者はどこまでも上へ、そうでもない者はのし上がるか落ちぶれるか、予想に容易く加速した格差と差別を上回る速度で、社会はより技術的な高みへと押し上げられた。究極の個人実力主義時代に押し流される中で、教育機関に分類されていたものは大企業グループや政府に土地ごと買い上げられ、ドキュメント保有の価値を認められた図書館だけを残して、上書きされた。チドリたちが根城にしている通称インドという喫煙所は、何を隠そう、まさにそんな元大学図書館のすぐそばに鎮座している。中はいざ知らず、少なくとも外見は原形が残っているその図書館は珍しく、件の九一年に至るまでどこの所有にもならないまま、つまりは日陰者には暖かい場所で、無法無政府無秩序の霧で覆われた見事なスラムだった。その中心だった喫煙所を、ピンポイントで上空から叩き潰した用途不明のプレハブこそが、このインドである。天地反転の大騒動からしばらく経ち、チドリが弱冠二十になるかならないかの腐ったニヒリストだった頃だ。
「俺はベネフィットID世代って言われてる。その名残で良いめの仕事に就けてるのは確かだけど、精子バンク千何番目の登録者が父親ですなんていうのも、こいつのせいっちゃせいだから素直に有難がれないんだよな」
「ムサぁ、間に受けなくていいんだぞ。これチーちゃんの鉄板ネタだから」
「チーちゃん言うのやめてって、テツさん」
思春期はそれなりに気にしてたんだぞう、と小突いてもテツさん、吉田徹はいつも
のように鷹揚に笑ってまぁまぁ、といなすだけだ。それなりに気にしていた、は誇張ではないが、思春期はそれなりに、が強がりというわけでもない。今となってはただのプロフィールの一つだ。とうにデジタルアーカイブとなったAMID以前のドキュメントでは、「無償の愛」なるものが如何に人格形成に影響するかということが力説されているが、シリアルが地球を覆う頃には、デザインベイビーやら遺伝子セレクションやら、愛なるものよりも有能な次世代を量産する風潮がそれを食い尽くしていた。子供を作ったという功績が欲しいだけの成り上がり、金で買われる父親の素、染色体でしか受け継がれない親という存在、どれもチドリの世代ではさして珍しくない。ムサと呼ばれたハイティーンの青年は元より気にした様子もなく、覚えたての煙草の先を、尖った膝小僧でトントン叩いている。咥え、ふと服のあちこちをまさぐった後、チドリの方をちらと見やるものだから、つい火を差し出してしまった。
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