空が白んでいる。
空が白んでいる。寒さでメイラーが目を覚ますと、彼はアイシャの膝の上に頭を乗せて横になっていた。意識が覚醒するにつれ、昨夜のことがぼんやりと脳裏に浮かんでくる。まずは吸血鬼がいた宿場での一件。そのあと森へ入り、襲ってきたダイヤベアを死に物狂いで撃退して、それから──
メイラーはゆっくりと身を起こした。アイシャは木によりかかって寝息を立てている。静かに顔を近づけ、彼女の首筋に目をやると、きれいなままだ。メイラーはほっと胸をなでおろす。傍らにあった自分の剣を取り、立ちあがると荷物を探した。このままアイシャを置いていこうかとも考えたが、そうする前に彼女が眠りから覚めた。
「メイラー……よかった、気がついたのか」
と、起き抜けの声でアイシャ。メイラーは肯くと、ふたりの荷物を持って彼女の横に膝を着いた。
「少し待ってくれ。わたしもすぐに準備する」
目をこすりながらそう言ったアイシャは、いつもの気丈な彼女だった。しかしその横顔、頬には涙の流れた跡がある。ちくりとメイラーの胸は痛んだ。こんなことはもう終わらせなければならない。絶対に。メイラーは、そう決意を固めた。
頂にハスラム卿の城館が鎮座する丘はさして高いものではなかった。あたりがまだ朝靄に煙る早朝、葡萄の段々畑となっている丘の裏側から城館にまで這い寄ったメイラーとアイシャは、塀を乗り越え内へと侵入した。広大な裏庭。荒れ放題のそこにはいくつかの花壇と、いくつかの枯れた池があった。長い緑廊に囲まれ、中央に小さい東屋も。ハスラム卿はかなり優雅な暮らしをしていたようだ。しかしいま敷地内は静まりかえり、人の気配も感ぜられない。三階建ての城館はいずれの窓も鎧戸が閉ざされ、裏口には鍵がかかっていた。静寂のなか、ふたりは警戒しつつ表に回った。もしやと思い、正面口の扉に手をかける。すると重厚な扉はあっけなく開いた。
戸口から射し込む薄い朝陽の筋が闇を押しのけ、城館の内部へとのびてゆく。ここまでくれば、もうためらうこともあるまい。入ってすぐは玄関広間となっていた。メイラーとアイシャが足を踏み出すと、古びた床板がぎいと軋んだ。そしてふたりがなかへ入った瞬間、いきなり彼らの背後で扉がひとりでに閉まった。
視界が闇に閉ざされる。アイシャがあわてて燈火の呪文を唱え、左腕の丸盾に光を灯した。メイラーは扉の把手を動かしてみたが、固く閉じた観音扉はびくともしない。
「どなたかな?」
男の声がした。それは芝居がかったような、勘に障る声の調子だった。
ふたりともが声のほうへと首を回す。すると、正面に見える階段の踊り場に誰かが立っていた。黒地に金糸の刺繍が入ったダブレットを着る男。長髪を後ろになでつけ、口髭を生やした線の細い彼は、腰にサーベルを帯びている。
「ユエニの聖女と、ハーフヴァンパイアがひとりか。これは奇妙な取り合わせだ」
男は階段の手摺りに肘をつき、気だるげにもたれている。しかし相手のふたりからなんの返事もないとみるや、彼は眉の片方だけを器用に吊りあげて、
「ふむ。機智に乏しいな。おしゃべりはお嫌いか?」
そのこちらを見下げるような態度の男へ、メイラーは剣呑として言う。
「ハスラム卿だな。おれたちはファムケに用があってここへきた」
「ほう。彼女、またどこかで悪さを?」
「ふざけるな。吸血鬼など、その存在自体が悪と知れ。おまえに恨みはないが、ファムケともどもこの世から消えてもらう」
「これは勇ましい」
言うと、ハスラム卿は薄く笑った。そうして浅いため息をひとつ。
「あれにも困ったものだが、実は哀れな女でな。異教徒のドルイドとして迫害され、精神が歪んでしまったのだ。場末の娼館から引きあげて、まともな暮らしを与えてやったが、しかし女の虚栄心とはおそろしいものよ。我欲が高じて、身にそぐわぬものまで欲しがった。永遠の若さ──その果てが、いまの彼女だ」
ハスラム卿が階段を降りはじめる。猫のような身ごなしで。メイラーは剣の柄に手をかけた。その隣にいるアイシャは聖盾の呪文で彼と自分に防御を施した。
「毛嫌いしているようだが、この身体もよいものだぞ。貴公も我らの同胞となってはどうだ?」
「冗談じゃない。他人の命をすすって生きながらえるなど、おれはごめんだ」
とメイラー。そのとき、すばやい動作でアイシャが石弓を構えた。相手の不意を衝き、片手でも操作できるほどの小さな石弓から、太矢が放たれる。だが命中する寸前、矢はハスラム卿によって摑み取られた。信じられない反射神経だ。アイシャは驚愕の表情を見せる。
「勝ち気な女だ。しかし嫌いではないぞ。貴公を殺したあと、そいつはわたしがいただこう。人ひとりからどれほどの血が搾り取れるのか、ご存知かな?」
ハスラム卿が握っている矢柄を手のなかでへし折り、階段の途中に捨てた。
「ワインボトルにして、およそ六本だ」
「もはや人をワインの詰まった袋としか見ていないか……この外道!」
鼻につく余裕を見せるハスラム卿が玄関広間の床へ降り立ったと同時に、メイラーは斬りかかった。その動きは、およそ人とは思えないほどに速い。ひと呼吸で間合いに入られたハスラム卿の頭上より、メイラーの剣が風を切って振りおろされる。ハスラム卿はそれをサーベルで真っ向から受け止めた。金属音が鳴り響き、刃が噛み合い、火花が散る。鋼の灼ける匂い。
アイシャはメイラーの掩護を試みるものの、すぐに彼らの戦いに自分の入り込む余地がないと悟った。めまぐるしく斬り合うふたりを前に、手をこまねくばかりだ。彼女は聖別の呪文でアンデッドを弱体化させる領域を展開しようとして、あやうく思いとどまる。いまはメイラーも吸血鬼になりかけなのだ。下手をすれば、彼にも悪影響がおよぶ。
ハスラム卿は小刻みに身体を揺らし、軽いサーベルを自在に操った。必殺の一撃を狙うメイラーとは正反対のスタイルだ。手数で押されるメイラーは苦戦しているように見えたが、しかし聖盾の加護も相まって致命傷は負っていない。やがて、地力の差が出た。メイラーの突きをさばいたハスラム卿の懐へ、メイラーが無理矢理に身体を入れた。彼はそのまま片手で相手の顔面を摑むと膂力に任せて押し倒す。メイラー自身も倒れて、ふたりがもつれる。そしてメイラーはハスラム卿と密着したまま剣を捨てて、短剣を抜いた。それを相手の胸に突き立てる。ただの短剣ではない。あらかじめアイシャによって祝福されていた短剣だ。ハスラム卿はしばらくメイラーの下でもがいていたが、まもなくぴくりともしなくなった。
本来、この世にあってはならないアンデッドの最後はいつも同じだ。朽ちて、無害な灰となる。
メイラーが立ちあがった。しかし彼はすぐに膝を折る。ハスラム卿ともつれた際、利き腕をサーベルで斬られていた。
「傷の手当てを」
メイラーのところまで走り寄ったアイシャが傷を診た。
「浅手だ。それよりもファムケを捜そう」
肩で息をするメイラーは苦しげだった。ハスラム卿との戦いで消耗したこともあったが、彼にはもう時間がないと見えた。完全に吸血鬼と化して正気を失う前に、一刻も早くファムケを見つけ出さねば。
ふと、アイシャは足元に目をやった。なにか物音が聞こえたような気がしたのだ。するとその矢先、いきなり彼女が立っていた付近の床を突き破り、ピンク色の物体が飛び出してきた。
「あたしならここだよおおおお!」
床下から出現したのは、ファムケだ。彼女は玄関広間の真下にある地下室に潜んでいたのだ。木床の穴をめりめりと押し広げ、地下空洞以来の醜悪な姿をふたたびメイラーとアイシャの前に現した。しかしその身体は完全に再生しておらず、随所で筋肉の組織や骨の一部が見えている。
思わぬ奇襲にひるんだアイシャを、ファムケの鉤爪が襲う。アイシャに組みつき、彼女の首筋に牙を立てようとするファムケ。だが、ふたりのいた周辺の古びた床が突然、抜けた。その場にいた三人は暗い奈落へと落下してしまう。
地階の床に全身を打ちつけたメイラーは、しばらく動けなかった。遠のいてゆく意識をなんとか引き留め、身を起こすと、少し離れたところでアイシャとファムケが取っ組み合いをしていた。メイラーは傷だらけの身体に鞭を打って、立ちあがる。そうして、よろめきつつアイシャを助けに向かう。彼女に祝福された短剣はまだ手のなかにあった。
メイラーは倒れ込むようにしてファムケの背へ短剣を突き立てた。刃と神聖属性の光輝に苛まれ、上級吸血鬼が悲鳴をあげる。
「悪い子だね! 母親を手にかけるってのかい!?」
ファムケは身を揺すり、メイラーから逃れるべく皮膜の翼を大きく振った。翼に打たれたメイラーは数度、床を転がってから埃を巻きあげて仰向けに倒れた。同じようにアイシャも弾き飛ばされ、その際に彼女の荷物があたりにばらまかれる。
満身創痍のメイラーのなかで、なにかがぷつりと途切れた。意思を挫かれ、同時に身体から力が抜けてゆく。もはや手の指くらいしか動かすことができない。だが、その無意識に動かしていたメイラーの指先に、なにかが触れた。
それは魔術スクロールだった。たしかこれは、アイシャが持っていた転移のスクロールだとメイラーは思い出す。彼は苦労して首を動かし、アイシャの姿を探した。すると、座り込んで絶望の表情をする彼女と視線が合った。メイラーはそれに力なく微笑みを返した。
「アイシャ、安心しろ……おまえだけは死なせん」
これが最後だ。メイラーは最後の力を振り絞って立ちあがった。
まだ向かってこようとするメイラーを見て、ファムケが怒りの咆吼をあげながら突進した。彼女は鉤爪でメイラーの両肩をがっちり摑むと、首筋に噛みついた。メイラーはそれに対し、自らもファムケの首に牙を立てた。そして激痛に耐えながら魔術スクロールの紐を解く。短距離の転移を目的としたそのスクロールでは、半レウカも移動できまい。だが、それで十分だった。
アイシャの目前で、エーテルの膜に包まれたふたりが姿を消した。アイシャはすぐにメイラーがなにをしたのか気づいた。外だ。すでに朝陽が昇っている城館の外に、彼らは出てしまったのだ。
アイシャは地下室内を見回し、すぐに階段を見つけた。それで一階へと駆けあがる。いくつかの扉を転がるように走り抜けた。まもなく玄関広間にもどった彼女は、正面扉に飛びつく。しかし、開かない。槌矛で蝶番を破壊し、ようやく外に出た。陽が昇り、あたりはもうまぶしいくらいになっている。
メイラーとファムケは城館の前庭にいた。アイシャはそちらへ向かいながら、思わず息をのむ。ふたりの吸血鬼が太陽の日射しに身を焼かれ、もうもうとした白煙をあげているのだ。近づくと異様な匂いが鼻をついた。組み合っている両者のうち、ファムケのほうは狂ったように悶え苦しみ奇声を発していた。が、やがてファムケは身体の大半がどろどろの溶解液となって流れ落ち、骨格だけの無残な姿と化した。アイシャはそれにしがみついている格好のメイラーを引き剥がした。彼は最初からほとんど動きが見えなかった。
徐々に灰となりつつあるファムケからメイラーを遠ざけ、地面に寝かせる。
「死ぬな、メイラー!!」
アイシャが叫ぶように言った。
「おまえ、こんなことをしてわたしがよろこぶとでも思ったのか!」
ユエニのメダルを握りしめ、アイシャは中回復の治癒を開始する。清涼なエーテルが周囲に満ち、アイシャが地母神に懇請した奇跡はただちに発動した。しかし吸血鬼になりかけだったメイラーは、露出した皮膚に直接、朝陽を浴びたのだ。頭部が炭化したように黒ずみ、全身が小刻みに痙攣している。間に合わないかもしれない。アイシャの脳裏に最悪の考えがよぎる。それでも彼女はメイラーの治療をつづけた。
気づかぬうちに涙を流しつつ、アイシャは女神と瀕死の男のあいだに立ち、か細い命の糸をつないでいた。それが功を奏したのは、彼女の慈愛を女神が汲んだからだろうか。
ふと、メイラーのあたたかい手が、アイシャの手を包んだ。すると見る間に彼の傷が癒えてゆく。そうして、以前のように血色のよい顔を取りもどしたメイラーが、目を開けた。
昼寝から覚めたようなメイラーが、とろんとした様子で自分に覆いかぶさるアイシャを見あげた。だが、じきに彼にもなにが起きたのか理解できた。
「おまえには、大きな借りができたな……」
「ああ、そうだとも」
アイシャは泣きながら笑っていた。さまざまな感情が交錯して、自分自身でもよくわからない様子だ。
メイラーが身を起こした。アイシャもそれにつづこうとしたが、治癒の呪文に精神力を使い果たした彼女は、よろめいてふたたび地面にへたり込んでしまう。
「なんだ、今度はおまえのほうが立てないのか?」
とメイラー。
「う、うるさい。誰のせいだと思っているんだ」
咎めるような声で言うと、アイシャはきっとメイラーを睨みつける。メイラーはしばらくそんなアイシャをにやにや笑いながら眺めていたが、いきなり腰を曲げると彼女の背と脚に腕を回して持ちあげた。
「ひゃんっ!」
メイラーにお姫様だっこされたアイシャが、かわいい悲鳴をあげた。
メイラーが腕のなかのアイシャを見つめると、彼女は恥ずかしがってすぐに顔を背けた。素直になれない両者だったが、お互いにその存在は以前よりもずっとかけがえのないものとなったろう。
雲が切れ、朝陽がよりいっそう明るくメイラーとアイシャを照らした。ふたりは帰途についた。ラクスフェルドへ、いつにない晴れやかな気分で。
Deathless Ones 天川降雪 @takapp210130
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