針葉樹がひしめく深い森。
針葉樹がひしめく深い森。メイラーとアイシャは細い間道を辿り、北の山脈に近い僻地であるノルトを目指した。荒れた道はずっと、見あげるほどの大木の合間だった。移動の最初の日に天候が崩れ、雨に降られたが、なんとか二日目の夜までには到着できそうな気配である。
日没が近くなると木々の姿は真っ黒な影絵となり、ぎざぎざした梢の上に見える空が薄い水色から紺色へ染まりはじめた。夜がもうそこまで忍び寄っている。さいわい視界が完全に闇へと沈む前、ふたりは人の住んでいる兆しを発見した。行く手の遠くに、ぽつんと灯りが見えたのだ。アイシャはほっとした。きっと人家にちがいない。うまくゆけば一宿一飯にあやかれる。野宿はひと晩だけでうんざりだった。
近づくとそこは道沿いにある古い宿場だった。おそらくは、このあたりの農民が営んでいるのだろう寂れた宿。しかし窓の鎧戸の隙間から光が漏れていなければ、遺棄された廃屋としか見えな廃れっぷりだ。厩もあったが、馬はいなかった。柵で囲んだ敷地へ入る手前に木で作った道標があり、それでノルトがこのすぐ先であることがわかった。メイラーとアイシャは馬を降りて厩の馬房に入れると、灯りの見える母屋へと向かった。
扉を開け、戸口から様子を窺う。なかは薄暗かった。中央に暖炉があり、炉石の上で薪がちろちろと燃えている。壁際に置かれた三卓のテーブルにはどれも客の姿がない。宿の主人らしき男と、女がひとりいるだけだ。
「おい、扉を閉めてくれよ。虫が入ってきちまう」
ふたりに気づいた宿の主人が言った。メイラーはアイシャの背を押してなかへ入ると、扉を閉めた。
「沼が近いんだ。そのせいで、ここは蚊が多くてね」
と宿の主人。メイラーは外套のフードを背に垂らして顔をしかめた。
「蚊か、いやな虫だ。血を吸われたらたまらん」
「まったくだ」
ふたりが暖炉に近いテーブルへ着くと、前掛けをした宿の主人は揉み手をしながら近づいてきた。
「さて、客はひさしぶりだ。どこからきなすった?」
「南だ」
メイラーが短く答える。
「へえ、ここへはなんの用で? あいやいや、当ててみせよう。あんたら山師だな。このへんの木を買い取りにきたんだろう」
「いいや、はずれだ」
それを聞いて宿の主人はあからさまにがっかりした。
「なんだ。いよいよここらの森にも伐採の話がきたと思ったのに。そうすりゃ、うちも木こり連中を相手に商売が捗る」
「残念だったな。実は、おれたちは──」
メイラーは外套の内で剣の柄に手をかけた。
「吸血鬼を退治しにきた」
言うや、メイラーの外套がぱっとひるがえった。彼は剣を抜きざまにすばやく斬りつけた。無防備だった宿の主人は胸を斜めに切り裂かれ、傷口からどろりとした血が流れ出た。同時にメイラーの向かい側に座っていたアイシャが立ちあがり、すぐ横の椅子を手に取った。そして室内の隅でぽかんとしている女に向けて、それを投げつけた。椅子はあわてて身を屈ませた女の頭上を越えて壁にぶつかったものの、その間にアイシャは相手と一気に距離を詰め、槌矛で殴りかかる。槌矛の棘のある先端を脳天に振りおろされた女は即死した。すると槌矛と触れている女の頭部からは、焼き鏝でも押しつけられたかにしゅっと煙が立ちのぼる。アイシャの得物はユエニ神によって祝福され、強力な神聖属性の効果が付与してあるのだ。アンデッドがそれをくらえば、どうあっても助かるまい。
斬られた宿の主人は後ろに数歩よろめいてから、仰向けになって床に倒れた。メイラーはすかさずその喉をブーツのつま先で強く踏んだ。そして剣先を彼の鼻先へ突きつける。
「このくらいじゃまだ死なんだろう? 教えてもらおうか、ファムケはどこだ」
メイラーの言ったように宿の主人は深手を負いながらもまだ生きていた。メイラーのブーツを両手で摑み、床に寝そべる彼は文字どおり牙を剥いた。異様に長い犬歯。吸血鬼だ。
「無駄だ。スポーンは上級吸血鬼の下僕だぞ。しゃべるはずがない」
メイラーのところまでもどってきたアイシャは言い終わらぬうち、宿の主人の顔面を槌矛で叩き潰した。
最初に宿場へ足を踏み入れてすぐに、ふたりは相手が吸血鬼であることを見抜いていた。影がなかったのだ。ここは吸血鬼が罠を張る宿場だったようだ。それと気づかぬ旅人を餌食としていたにちがいない。思えば、たったいまメイラーとアイシャによって滅ぼされた両者も哀れだ。しかし、完全に吸血鬼化した人間を元へもどすには斃した直後、灰になる前に真の蘇生を使って生き返らせねばならない。残念だが、その高等な信仰呪文はアイシャにも使えなかった。ゆえに彼女にできたのは、痛みを感じる間もなく相手を絶命させることくらいだった。
アイシャは首から提げたユエニのメダリオンへ手を触れ、死して灰と化したふたりのために祈った。そうして、
「これからどうする?」
「このぶんではノルトの村も吸血鬼の巣窟となっているな。奴らに気づかれるのも時間の問題かもしれん。その前にずらかろう」
「今夜は屋根の下で眠れると思ったのに……」
と、暖炉の炎を横目に見ながらアイシャ。
「宿へ入る前、遠くに丘があるのに気づいたか?」
「いや、わたしは見ていないが」
「おれには見えた。どうも吸血鬼化がはじまってから夜目が利くようになってな。その丘に、大きな城館が建っていたんだ。おそらくハスラム卿の住んでいた城館だろう。ファムケはあそこにいるはずだ」
メイラーとアイシャはせっかくだからと暖炉の火で温まり、その場で小休憩を取った。あいにく宿場に人間の口にする食料はなかった。白湯と携行用の硬いパン、そしてわずかな干し肉で腹を満たし、ふたりは宿場をあとにした。
外に出ると、メイラーは宿場前の道の真ん中に立って北を見つめた。
「この道なりに進めばノルトの村だな。迂回して森のなかを進もう。城館のある丘の手前まで近づいて、夜明けに乗り込むぞ」
アイシャに異論はなかった。この夜中、木が密な森をゆくには、馬はあきらめるしかない。暗がりを見通せるメイラーが彼女の手を引き、ふたりは徒歩で森を進んだ。じりじりとした足取りでは移動にもはかがゆかない。ようやく丘の裏側へ回り込み、その麓から少し離れた場所にまでたどり着いたころには、どちらも疲れ果てていた。ラクスフェルドから北上したこのあたりは夜もまだ冷える。少々危険かとも思えたが、体力の低下を防ぐために粗朶を集めて火を熾した。湿った地面の上に蝋引きした帆布を敷いて、横になったふたりは身体を寄せ合わせた。そしてここで夜明けを待つことにした。
「もうすぐだ。もうすぐ、決着がつく」
小さな焚き火の炎を見つめながら、メイラーが言った。
「すまないな。こんなことに付き合わせて」
「わたしが望んできたんだ。それはいい」
メイラーの隣にいるアイシャは丸くなって目を閉じていた。
「おれは誰にも言わずに出てきた。帰っても、騎士団にもう居場所はないかもしれん」
「わたしもそうだ」
「なら、いっそふたりでヴァンパイア・ハンターにでも転職するか」
メイラーの言葉にアイシャは静かに笑った。
「それもいいな。わたしはオーリア王国から外に出たことがないんだ。おまえとふたりで、大陸のいろんな場所を回ってみたいな」
ふいに、アイシャは自分の手にメイラーの手が重ねられたのを感じた。
「アイシャ──」
メイラーに低めた声で名を呼ばれたアイシャは、閉じていた瞼を開けて身を固くした。
「な、なんだ?」
「おまえの武器はどこだ?」
「は? そこに置いてあるが……」
なにかを期待していたアイシャは肩すかしをくらったようだ。彼女はちょっとがっかりした様子で、焚き火の横に置いた自分の荷物に目を向けた。
そのとき、焚き火をはさんだふたりの反対側の藪が揺れた。直後、巨大な獣がメイラーとアイシャに襲いかかってきた。身を起こして跳び退ったメイラーはすでに剣を抜いていた。焚き火を蹴散らし突進してきた獣を、アイシャは横に転がって避けるので精一杯だった。
突然に姿を現したのは、小屋ほどもある毛むくじゃらの獣だった。それがメイラーとアイシャのあいだで身体を起こし、後脚で立ちあがった。ダイアベアだ。ふつうの熊より、ひとまわり以上も大きな巨獣である。その褐色のモンスターはふたりをすばやく見比べたあと、地面に寝たままのアイシャに狙いを定めた。
上下の顎がほぼ垂直になるほど拡げられたダイアベアの口腔が、アイシャに迫る。襲いくる野獣を彼女は呆然と眺めていたが、すぐにユエニのメダルへ手をやると、反射的に短い呪文を唱えた。アイシャが求めたユエニ神の奇跡は、燈火だった。暗い場所で光源を作り出す初歩的な呪文ながら、場合によってそれは敵への牽制にも使える。
アイシャへ食らいつこうとしたダイアベアが、急にひるんで激しく頭を振った。まばゆい輝きを放つ呪文を、網膜へ直に叩き込まれたのだからたまらない。視覚を奪われ身もだえするダイアベアの横手から、メイラーが斬りかかる。左の脇から剣を突き刺し、そのまま力任せに押し込む。苦痛に吠えたダイアベアは、身震いして取りついているメイラーを振り払った。剣を引き抜いたメイラーは両手で剣を掲げると、さらにダイアベアの後頭部へ追撃をくらわせる。しかし頑丈な脛骨を断つことはできなかった。おそろしく硬いのだ。さすがにダイアベアの巨体と比べれば、メイラーの剣もおもちゃに見える。
最初の一撃で肺をやられたのだろう、ダイアベアは口から血を流しつつ、呼吸するたびに喉の奥からごぼごぼと水音を立てていた。やがて自分の血液で肺を満たされ溺れ死ぬはずだ。しかし、そうなる前にダイアベアがひと暴れすれば、ふたりなどひとたまりもあるまい。なんとか短期決戦で仕留めるしかない。
ダイヤベアが自分に手傷を負わせたメイラーへと向き直った。体躯に見合わぬ俊敏な動きで、両の前脚の長く鋭い爪が交互にメイラーへと繰り出される。が、おどろいたことにメイラーの身ごなしは、ダイアベアのそれを上回る速度だった。アイシャは呆気にとられた。メイラーは最初の爪攻撃をかいくぐると、つぎにきたダイアベアの前脚の先を見事に切り落とした。巨大なモンスターが怒りとも悲しみともつかない叫びをあげる。メイラーはそのままダイアベアの懐に跳び込み、大きく開いた獣の口へ剣先を突き入れた。鋼鉄の剣は口蓋を貫通するとダイアベアの脳組織を切断しながら深く侵入し、頭蓋骨の内側にあたって止まった。
神経系の中枢を著しく損傷したダイアベアは、メイラーの剣をくわえたまま息絶えた。口から大量の血を滝のように流したあと、その突っ立っていた身体がぐらりと傾ぐ。のしかかられたメイラーはそれに押され、数歩よろめいた。
「メイラー!」
アイシャが駆け寄る。するとダイアベアの傍らに立つメイラーは荒く息をあえがせ、尋常でない様子である。そばまできたアイシャにもたれかかったメイラーは剣を取り落とし、彼女の二の腕を強く摑んだ。そしてアイシャは、息をのんだ。
メイラーの口元より、二本の長い牙がのびていたのだ。もうかなりのところまで吸血鬼化が進んでいる。さきほどの戦いぶりを見てもそれはわかった。おそらく、吸血の欲求もはじまっているにちがいない。
爛々と輝くメイラーの瞳がアイシャを見据える。アイシャは彼から目を背けたあと、自分の服の襟首を引いて首筋を露わにした。
「わたしならいいんだ。すきにしろ……」
震える声でそう言う。
メイラーが葛藤に苦しんでいるのは明らかだった。彼は苦悶の末、顔を歪ませたあと、膝を折ってその場に頽れた。
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