どれほど進んだろうか。
どれほど進んだろうか。この地下空洞は予想以上の広さだった。ほぼ一本道なのが幸いであるが、地形は刻々と変化し、立って歩けないほど狭くなったかと思うと、また開けた場所にふたりは差し掛かった。やや傾斜したそこには深い亀裂があり、奥底は光も届かぬ深淵だ。アイシャとネリは亀裂を避け、壁際に沿って移動した。オーリア王国の地下にはこのような空間が多くある。だがそれにしても、ここはかなり奥底がしれない事例だといえた。
ふと、水音が聞こえた。いつの間にか、ふたりの足下には地下水がにじみ出ていた。天井からはつらら石が垂れさがり、ところどころでまだ小さいが石筍も見える。水たまりが鬼火と燈火の光を反射したせいだろう、明るさが増して遠くまで見通せた。すると──
「いたぞ!」
言ったのはアイシャだ。彼女は、前方に人影を見つけた。少し近づくと、それはメイラーだとわかった。思わず駆け出すアイシャ。
「待て!」
ネリがアイシャに追いすがり、彼女の腕を摑んだ。メイラーの姿ばかりに気を取られていたアイシャも、まもなく気づいた。じっと佇んで動かないメイラーの後ろ、地面から一段高くなっている岩棚に、なにかが置いてある。細長く大きな箱。棺だ。
「こりゃおどろいた。吸血鬼ってのは、ほんとに棺で眠るんだな」
とネリ。
「棺は吸血鬼の活動拠点となるものだ。ファムケの奴、どこかから自分の棺をここまで移動させたのか──あのなかには、おそらくファムケの故郷の土が敷いてある。吸血鬼はそうやって地霊の力を吸いあげて魔力を回復するんだ」
アイシャの博識ぶりに感心したネリは彼女に目を向けた。
「ずいぶんと詳しいんだな」
「ああ。わたしもモンスター事典で勉強したからな」
「わたしも?」
「……なんでもない、こっちの話だ」
なんだかよくわからなかったが、ネリは聞き流した。
「ふん。それで、どうするんだ。このまま仕掛けていいのかよ」
「いま探ってみる。白木の杭は持ってこなかったが、ファムケがまだあそこで眠っているのなら──」
アイシャは言いつつ、ユエニのメダリオンに手をやり精神を集中させる。そうして彼女はアンデッド探知の呪文を唱えた。もしもファムケが棺内にいるのなら、それでわかるはずだ。
しかし、棺からはなんの反応もなかった。不穏を感じたアイシャは、ふと上を見あげた。そして、はっとなる。
「気をつけろ、上からくるぞっ!」
アイシャの声を合図にしたかに、巨大ななにかが、ふたりの頭上から降ってきた。それは地下空洞の天井からぶら下がったいくつものつらら石にしがみつき、機を窺っていたのだろう。
アイシャもネリも、ふいの襲撃を寸前で逃れた。水浸しの地面へ降り立ったそれは、人よりもはるかに大きい不気味な生物だった。言葉で形容するならば、体毛のない醜い蝙蝠というのがぴったりだ。つぶれたような顔面にある口は大きく裂け、そこにずらりと牙が並んでいる。両腕は悪魔かドラゴンを思わせる皮膜の翼。概ね骨張っているが下腹部だけは異様に膨れあがり、透けて見える血管が全身に不気味な模様を描いていた。まるで薄いピンクの粘土でこしらえたような、醜怪極まる容姿をしたモンスターである。
「意外だねえ、たったふたりでくるとは。あたしも見くびられたもんだ」
ファムケだった。これが上級吸血鬼である彼女の、本来の姿なのだ。膨れた腹を引きずりながら、ファムケはメイラーの傍らまで後退った。
「メイラー!」
アイシャが呼びかけたが、メイラーはなんの反応も示さない。
「ははっ、無駄だよ。こいつはもうあたしの虜さ」
ファムケが言って、まるで彫像のように動かないメイラーの肩を鉤爪で摑んだ。そして頬ずりでもするかに彼の頭へ顔を寄せた。怒りを感じ、歯がみするアイシャ。
「貴様、なにが狙いだ?」
「決まってるだろう、アーミテイジだよ。奴は三〇年ほど前、あたしが最初に血を吸った男でねえ。言わば、あたしの記念碑的な落とし子だったんだ。そいつを殺されりゃ、腹も立つってもんさ」
「ほお。アンデッドにも仲間意識があったとはな」
ネリが言うと、ファムケは赤く爛々と輝く目を彼に向けた。魅了の眼差し。ネリは咄嗟に相手から視線を外し、その精神攻撃を回避する。
「ユエニなんぞにすがってる定命の雑魚が、ほざくんじゃないよ。まずそうな血だけど根こそぎ吸い尽くして、すぐにあたしの信者に鞍替えさせてやるからね」
醜悪な面相をさらに歪めさせ、上級吸血鬼がにたりと笑う。そうして彼女はメイラーの耳元でささやいた。
「ほうら、おばかな騎士さん、あいつら、あんたとあたしを殺しにきたんだ。返り討ちにしてやりな」
それまでまったく動きのなかったメイラーが、すらりと剣を抜いた。彼は完全にファムケの魅了によって支配されているようだ。
アイシャも腰帯に吊った槌矛を手に取り、構えた。こうなればやるしかない。
メイラーは正面から突っ込んできた。国王騎士団のアーミングソードを両手で掲げ、突進の勢いを乗せて叩きつけるようにアイシャへと振りおろす。アイシャはそれを丸盾で受け流したが、強烈な一撃で腕がじんとしびれた。矢継ぎ早に繰り出された剣の切っ先が彼女の喉元を襲う。後ろに飛び退き、なんとかかわしたそこへ、今度は蹴りがきた。腹を蹴られたアイシャはたまらず体勢を崩し、濡れた地面に転がる。メイラーはそれに容赦なく剣で追撃。あやうく槌矛で受け止めたものの、鍔迫り合いの力比べでは分が悪い。アイシャはうまく身体を引いてメイラーをつんのめさせると、すばやく立ちあがって彼から距離を取った。
「アイシャ、迷ってるときじゃない! 一発でも食らわせろ、そうすりゃ魅了は解ける!」
押され気味なアイシャに手を貸すべくネリが駆け出す。だが、その行く手にファムケが身を割り込ませてきた。口腔を大きく開き、かみついてきた上級吸血鬼へ、ネリは反射的に籠手をはめた左腕を差し出した。頑丈な金属製の籠手に牙が食い込む。そうしてからネリは右腕を小さく振った。すると籠手の先からバネ仕掛けの刃が飛び出す。鋭利な刃を仕込んだ両腕の籠手。それがネリの得物なのだ。彼は片腕に食いつかれたまま空いたほうの腕をのばし、ぶよぶよに膨らんだファムケの下腹部に深く刃を突き刺した。さらに手首を返して、えぐる。激痛に咆哮をあげるファムケ。のたうつように暴れだし、ネリは皮膜の翼を肩口に叩きつけられた。すさまじい怪力に押され、そのまま横っ飛びに倒れる。
「くそ、このバケモンが……」
身を起こし、ネリは毒づいた。アイシャのほうに目をやると、彼女は防戦一方だ。もともとメイラーは国王騎士団のなかでも剣術の腕が立つほうなのだ。アイシャとメイラー、そしてネリとファムケ。それぞれ、このままの一対一では勝ちが見えなかった。なんとかメイラーを正気にもどして、数での優勢に持ち込まなければ。そのためには、強い衝撃だ。それで魅了状態から解放する必要がある。
「あたしとやり合ってる最中によそ見かい!」
ネリの一瞬の油断を衝き、ファムケが襲いかかる。見ると上級吸血鬼は、さきほど負わせた腹の傷がもう塞がっていた。吸血鬼特有の超回復能力。ネリはぞっとした。それで気後れしたのかもしれない。ファムケの最初のかみつきは、かろうじてかわせた。が、つづいて繰り出された鉤爪攻撃に太股の肉を裂かれてしまう。鋭い痛みに呻き、片膝をつくネリ。そこへ牙を剥いたファムケが這い寄る。大きく開いた顎の牙が、ネリへと迫る。
ネリはぞくりと背筋に悪寒を感じた。死の予感──いや、ちがう。これは、少し前に幽霊たちが間近にいたときの感覚だ。
ふいにファムケがひるんだ。ネリには、その上級吸血鬼が面食らっていると見えた。
なにかぼんやり発光する靄のようなものが、ファムケを取り囲みはじめた。それは無辜の死を嘆く者。人の形をした怨念。アーミテイジになぶり殺された女たちの幽霊だった。幽霊は自分らの死の元凶であるファムケに、恨みを晴らすべく殺到しているのだ。そのおびただしい数の幽霊はネリにもはっきり見えた。おそらく深い恨みが霊界から物質界へもにじみ出ているのだろう。
勝機だ。幽霊の思わぬ加勢にネリは活路を得た。彼はすぐ行動に出た。足を負傷するネリだが、メイラーに強い衝撃を与える方法──それが、ひとつだけあった。ファムケはまとわりつく幽霊たちを振り払わんと、狂ったようにもがいている。ネリはそれを横目に指で印を結ぶと、精神を集中しはじめた。
他人を欺く幻術はネリの得意とするところである。術が成り、彼はアイシャと斬り結ぶメイラーへ幻の像を送った。すると、たちまちメイラーの動きが止まる。なぜならそのとき、彼は衝撃的な光景を目の当たりにしていたのだ。
驚愕の表情で固まるメイラー。当惑して彼は心のなかで叫んだ。
──ア、アイシャおまえ、どうして服を着ていないんだーっ!?
そうなのである。ネリの幻術により、いまメイラーには目前にいるアイシャが、頭から足の先まですっぽんぽんの全裸となって見えたのだ。もう丸見え。全部。全部です。
まさかそんなことになっているとは露知らず、様子のおかしいメイラーにアイシャは躊躇する。そして彼女は心配そうな顔で、ずいっとメイラーに一歩近づいた。
「メイラー、いったいどうしたというんだ?」
「うおっ、ばか! それ以上こっちに近寄るな!」
まぶしいものでも見るように自分の顔の前へ手をかざすメイラー。しかしこの野郎、指の隙間からしっかりアイシャの健康的な裸体を堪能している。
これまでほとんど女と意識したことのなかったアイシャがいま、目と鼻の先ですべてを晒しているのだ。メイラーにとって、それはまぎれもない精神的な強い衝撃である。ファムケの魅了に取り込まれていた彼の意識は、一瞬で解放されてしまった。
ふと気がつけば、ネリの幻術も消え去り、メイラーの前には見慣れた神聖騎士団のマントを身につけたアイシャがいた。
「あれ、アイシャ……おまえ、服……」
「なにを言っているんだ。まさか、正気にもどったのか?」
アイシャはメイラーに走り寄ると彼の目を覗き込んだ。
「そうだ、おれはおまえを追って、ファムケといっしょにアーミテイジの部屋にいって、それで──」
メイラーはすべてを思い出した。すると目に涙を溜めたアイシャが、声もなくメイラーの胸にしがみつく。その行動に最初メイラーは戸惑ったが、まもなく笑顔を浮かべて彼女の肩をそっと抱いた。
「おいおまえら、おれを忘れんじゃねえ~!」
ネリだった。彼の声を聞いて、メイラーとアイシャはあわててぱっと互いの身を離した。それからメイラーはいまさらのように、ネリの近くにあるファムケの本当の姿を見て目を丸くする。
「な、なんだあれは!?」
「ファムケだ。手を貸せ、メイラー!」
アイシャは言うと、負傷して片膝をついているネリへ駆け寄り治癒の呪文を唱えた。
ファムケはまだ幽霊たちにまとわりつかれ、自由に動けないでいる。それへ横手からメイラーが斬りかかった。卑劣な手段で操られたお返しとばかりに、醜い顔を執拗に切り裂く。両目をやられたファムケが耳をつんざくような甲高い声で叫んだ。これで魅了の眼差しは使えまい。さらにアイシャの治癒で回復したネリが、ファムケの背後より忍び寄る。盗賊の得意とする不意打ちが決まった。ファムケは脇下から体内に刃を刺し込まれ、致命傷を負う。
とどめの一撃はメイラーだった。彼は、超回復も間に合わず地面で七転八倒するファムケの首を、一刀のもとに切断した。頭を失ったファムケの胴体はしばらく痙攣していたが、その動きは徐々に力ないものへと変わってゆく。そして上級吸血鬼の屍は、みるみるうちにまるで花がしおれるようにしぼんで黒ずみ、やがて灰となった。
「終わりか? 手こずらせやがって──」
ふうと息をつき、足元に積もった灰の山を見おろしてネリが言う。と、つま先でそれに触れようとした矢先、彼は跳び退った。灰の山が崩れ、なにかが飛び出してくる。きいと小さく鳴いたそれは、蝙蝠だ。ネリは空中をでたらめに飛ぶ蝙蝠へナイフを投じたが、惜しくも的を逸れた。地下空洞の暗がりへ消えた蝙蝠に舌打ちをするネリ。
「やはり上級吸血鬼は通常の武器では殺せなかったか。おそろしい敵だ、しかしもう二度とここへはもどってきまい」
とメイラー。その傍らにアイシャが歩み寄る。しかしふと、その足は止まった。彼女は信じられないものを見たように、大きく目を見開いた。
アイシャが見たのは、メイラーの首筋にあるふたつの赤い点──吸血鬼が牙を突き立てた痕だった。
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