02.お香と魔女と魔法使い

「あぁ! 進まない! ぜんっぜん進まないよう!」


 古代文字が刻まれた碑文をぺしぺしと叩きながら、少女は天井を仰ぐ。手元の羊皮紙に現代語に訳された文字は、未だ40字程度しか記されていない。

「リザ、うるさいぞ。考えてもわからないのなら、考えずに手を進めろ」

「師匠ぉ~無茶言わないでくださいよぉ……」

 師匠と呼ばれた男は、窓辺に置かれた机の上に大量の資料を積み上げ、その資料に半分埋もれたような状態で苛立たし気にリザを睨む。眼鏡の奥の眼光が鋭く光っているのは、きっと気のせいではない。

「君が書類の書き写しよりも碑文の翻訳をしたいと言ったのではないか。最後まできちんとやり通せ」

「……わかっております」

 少し口を尖らせ、再び碑文に目を遣る。集中しようと思っても、段々と文字が歪んで見えてしまい、全く筆が進まない。

「うぅ……」

「やれやれ。リゼ、こちらへ来なさい。少し休憩しよう」


 師匠は硝子でできたポットを持ち、顎でソファーを指す。ポットの中には輪切りにされたオレンジが2枚とミントの葉、それに紫の花が入れられたハーブウォーターが揺れている。

「ありがとうございます。この花は……ラベンダーですか?」

「そうだ。薬草園の横に、更に花壇を追加したんだ。君も使うだろうから、もっと必要になると思ってな」

 カップに鼻を近づけ、大きく息を吸う。鼻の奥でハーブウォーターの香りを楽しみながら、師匠の言葉を心の中で反芻する。

(私のために、花壇増やしてくれたんだ。嬉しい。ずっとここにいてもいいんだ)

「リザ。あまり寝られていないんじゃないか?」

「え?」

「隈ができているぞ」

 師匠はカップを持つ手とは反対の手でリザの頬を抑え、親指で下瞼をそっと撫でる。

「あぁ~はは。最近少し寝つきが悪くて」

 急に頬に触れられたリザは、顔を赤くしても師匠から目を逸らした。この工房にやってきてから1年近くたった今でも、師匠のこの距離感にには慣れない。

「そうか……」

 師匠は顎に手を当て少し考えこむようにしてから、徐に席を立った。そして自分の机の引き出しから、小さく折り畳まれた薬包紙を取り出し、中身を陶器の皿にあけた。


「師匠、それは何ですか? 薬?」

 いつの間にか師匠の背後に回ったリザは、覗き込むようにしてその薬を見た。皿には山吹色の粉が山になって乗っている。

「あまり直で嗅ぐな、君が嗅ぐと気を失うぞ」

「えっ!?」

 嗅ぐだけで気を失うなんて、どれ程の劇薬なのだ。スッと一歩下がり、師匠の手元を見る。

 懐からマッチを取り出しその粉に火をつけると、時を置かずに細い一筋の白煙が上がった。途端に、花のような甘い香りが部屋中に広がり始め、あっという間に部屋中に充満した。


「良い匂いですね」

 甘い香りにうっとりとした様子でため息を漏らすリザに、師匠はクッションを差し出す。リザは不思議そうな表情を浮かべながらクッションを受け取り、反射的に抱きかかえた。

「これは神経を落ち着けて心を癒す効果のある『香』だ。ソファーで少し横になるといい」

「え? でもまだ翻訳が‥…」

「集中力を欠いた状態では仕事も進まないだろう。それに、君の欠伸を聞くと私まで眠くなる」

「う、すみません」

「いいから横になりなさい。少し休んでまた仕事に戻ってくれればそれでいい」

 師匠の声は優しく、心の中を撫でるように私を落ち着かせる。次第に瞼が重くなり体が自然と倒れていく。

「師匠、ありがとうございます。すこし……だけ、おやすみなさ……」

 リザはクッションを抱きかかえたまま、ゆっくりと目を閉じた。

「おやすみ、私の子猫」


 そう言って、師匠はリザの尻尾を唇で甘噛みし、自分の仕事に戻っていった。


 リザは夢をみた。草むらの陰で一人泣いているリザの前に、大きなトランクを持った男がやってきた。

(こわい……)

 本能的に危険を察知して、その場から逃げ出そうとしたが、後ろ脚が痛くて前に進めない。

「怪我をしているじゃないか」

 男はひどく優しい声をかけながら、私の前にしゃがみこむ。

「傷を癒してあげよう。私のところおいで」

 そう言って私を抱き上げ、男は薬草の匂いがする工房へと歩き出した。


「……んん」

「起きたか?」

「師匠……はっ! い、今何時ですか?!」

「16時過ぎだ」

「もっと早く起こしてくださいよぉ~!」


 目覚めたリザは、日が沈みかけて橙色に染まり始めた部屋をみて飛び上がった。碑文の翻訳は明日の朝までだ。今から徹夜でやっても間に合うかどうか……。焦りを感じたリザは、いつの間にか頭の下にあったクッションをもう一度抱きかかえ、ソファーから立ち上がろうとした。その時、ぐっと腕を引かれ、師匠の膝の上にストンと座ってしまった。

「わ、す、すみません!」

 立ち上がろうとしたリザの腕をまたしても引かれ、師匠の膝の上に固定されてしまった。

「し、師匠、さすがに恥ずかしいんですけど‥‥」

 耳まで赤くし、羞恥に耐えるリザに、たまらず師匠はクックと笑い始めた。

「大丈夫だ。翻訳はもう済んでいる」

「え?!」

「今夜は君がこの工房に来てから1年経った記念日だからな。今から一緒にごちそうを作ろう」


 私がこの工房でお世話になるようになってから1年。師匠に服と食事を与えられ、寝る場所も頂いた。更には、生きていく術として魔術や薬の作り方も教えてくれている。少しでも恩返しをしたいと、お仕事をもらって賃金を集めているが、まだまだ師匠に返せそうにない。それなのに、師匠はそんな自分との出会いを記念し、祝おうとしてくれているのだ。この幸せは、一生かかっても返し切れない。


「師匠、私、一生師匠に付いていきます」

「一生か。それはありがたいが、いつまでも半人前でいられては困るぞ。早く一人前になって、私に新しい薬草園を買ってくれ」

「はい! 薬草園でもジャングルでも、なんでも買って差し上げます!」

「ジャングルはよしてくれ、蚊に刺されるだろう」


 その夜、たった二人だけの宴は、日付が変わるまで続いたという。




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 4月18日 「お香の日」

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