玉依姫考・海へ

歌垣丈太郎

          玉依姫考・海へ

                              歌垣丈太郎 

                                      

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 奇妙な夢にうなされてベッドカバーを蹴りあげたところで、比良坂康彦はみじかい眠りから目ざめた。

 ベッドの中で目を閉じたまま凝っとしていると、瞼の裏で無数のブヨが飛びかっている。まばゆい光の束の只中を薄い翔をきらめかせて飛びかうブヨたちは、初めは何のまとまりも無く思い思いの方角へ遊弋していたが、やがて脳細胞の一つ一つが大あくびをしながら酸素を取り入れて次第に目ざめていくと、康彦には、ブヨたちがゆっくりとある方向性をもって渦を巻きはじめ、ロート状になって網膜へと吸い込まれていくのが分かった。するとあれほど魘されていた夢の記憶までが、康彦の頭の中からきれいさっぱりと消え去ってしまって、そのひとかけらすら思い出すことが出来なくなってしまうのだった。

 ぐるぐるという厭な音を立てて胃と腸がうごめきはじめ、それまで自分の身体の一部とは思えなかった手や足に少しずつ感覚が戻ってくると、睡眠という一時的な仮死状態によって断ち切られていた康彦の日常が、ゆっくりと息を吹き返してくる。

 夢というものはいつだって気ままに現われて何のつながりも無く、覚醒とともに儚く消えていくのが普通だが、現実という日常はテレビの連続ドラマのように記憶の中に次々と録画されていて、いつでもプレイバック可能な状態にある。だから眠りから目覚めてみると、康彦の日常もたちまち昨日と今日が繋がって、構図のとりかたに悩み、人物のイメージが固まらなくて三日も放り出している制作中の絵画のことや、その苛々を解消するために駅前の赤提灯でしたたかに飲んだ昨夜の酒のことや、寝ないで待っていた沙依子に抱きかかえられてテレピン油の臭いが染みついたシャツのままベッドへ倒れ込んだことなどが、消え去ってしまった夢のシーンと入れ替わりにふつふつと蘇ってきて、ちょうどストップモーションを解除したDVDみたいにいきなり回り始める。そして枕元で鳴りやまない目覚まし時計を、無意識に払い除けた康彦のその手によって、知らないうちに赤い録画ボタンが押されてタイムラプスビデオのような超長録画が今日も確実にスタートするのである。

 裏山でジィジィと鳴くセミの声にまじってウグイスが鳴いていた。

 ウグイスの声は季節とともに微妙に声変わりをする。低い裏山の中腹辺りを覗き込むような位置にある康彦の家の二階の寝室からだと、夏が近づくにつれて次第に凋んでいくケキョという短い鳴き声が、その耳にもはっきりと聞き取れるのだった。

 比良坂康彦が建売のこの家へ引っ越してきたのは五年前の春のことだった。

 その頃、この一劃は新規分譲が始まったばかりでまだ家も疎らだったから、先住者だったウグイスの声は庭木を震わせるくらい間近に聞こえた。だが年を重ねるごとに住人と住宅の数が殖えていくと、先住者と移住者の形勢は次第に逆転して、ウグイスはじわじわと雑木林の奥へ追いやられていくかたちになり、今やその鳴き声は午前中の僅かな時間しか聞こえなくなっている。

 ベッドから脱け出て隣室を覗くと、沙依子が寝ていたはずのベッドはきっちりとリメークされていた。潔癖症で清潔好きの沙依子は自堕落な康彦が辟易してしまうほどで、暇さえあれば各部屋を磨き上げている。ただアトリエだけは康彦の許可が無いかぎり立ち入らない約束になっていた。どうやら沙依子はそれがかなり不満らしく、週に一度くらいは掃除をしたいと申し出てきたが、康彦はそのたびに自分でやるからと言ってそれを断っている。そのくせ僅かに手箒を使って目についた紙屑をつめるくらいで、まともな掃除などしたことは無かったから、アトリエは家中の埃とゴミを掻き集めたような有様なのである。

 その沙依子はいま、おそらく朝食の支度を終えて応接間のあたりを雑巾がけしているはずである。そうでなければ日曜日の仕事と決めているガラス磨きの途中かも知れないと考えながら、康彦は二日酔いでぐらりと揺れる身体を丸い木の手摺りへ預けながら慎重に階段を下りた。着ている衣服のすべてが昨日のままで、裏地が背や腹にまとわりつくたびに鳥肌立つような悪寒が襲ってくる。昨夜は泥酔したままベッドへ倒れ込んでしまったので、ひどい寝汗が彼の全身を覆っているのだ。

 階下へ降りると、沙依子はやはりオーク材を敷きつめた応接間のフロアにワックス掛けをしているところだった。

 セミロングの髪を後ろで一つに束ねて、ショートパンツ姿で床に這いつくばっている沙依子は、二階から降りてきた康彦の存在にまったく気がつかないらしく、LサイズのTシャツの胸をはだけて何かに取り憑かれたようにフロアを磨いている。ノーブラのままだったからお椀形の乳房が首回りではだけたTシャツの間からまる見えで、フロアを磨く右腕の動きに合わせてカスタードプリンのように震えている。髪の生え際から吹き出ている汗の玉がほつれ毛の貼りついた首すじで白く光っていた。

 康彦はちょっとした後ろめたさにかられてそんな沙依子から目をそむけると、わざと大きな足音を立てながら彼女の前を行き過ぎた。

 すると沙依子は勢い余ったのか右手に持ったクロスで思わず康彦の足の甲へワックス掛けをしそうになってからようやく顔を持ち上げると、

 「あらもう起きたの。もっと寝ていれば良かったのに」

 といかにも不服そうに短く声をかけた。

 そして揃えた丸い膝小僧をぐいと前へ押し出すと、左手に持ったスプレー缶からシュウシュウと霧を吹かせて、新たなワックスを床面に撒き散らした。

 揮発性の強い刺激臭が辺りに立ちこめると、康彦はとたんに咽喉のあたりがむず痒くなって、ダイニングキッチンのほうへ急いで逃げた。

 朝食の準備はすでにすっかり出来上がっていて、どこかのモデルルームのように磨き上げられたキッチンのテーブルには、スクランブルエッグやレタスのサラダやチーズなどが二人分用意されており、赤いトースターとボーンチャイナのカップが開け放たれた窓から差し込んでくるやわらかな朝日を浴びていた。康彦は二枚のパンをトースターへ投げ入れ、カップへサイフォンのコーヒーを注いでから、ゆったりと椅子に腰を落とした。

 カップから立ちのぼっているコーヒーの芳しい蒸気を吸い込むと、それまでむず痒かった喉が香油でも飲んだように滑らかになって、次々と大あくびを繰り返していた脳細胞たちも、とりあえず二日酔いの一部へひと区切りをつけたみたいにシャキッとなった。

 康彦が一人きりで先に朝食を済ませ、傍らに置いてあった朝刊も読み終えて、二杯目のコーヒーを口に運ぼうとしていると、ようやくフロア磨きを終えたあとでシャワーを浴びたらしく、バスタオルを身体に巻きつけただけの沙依子が、あまり聴きなれない鼻歌を口ずさみながらキッチンへ入ってきた。両の腕を持ち上げてシャワーキャップを外すとき、萌黄色のバスタオルがずり落ちそうになったが、胸のふくらみがどうにかそれを支えたようだった。アップにしてヘアピンで留めている髪がなまめかしく、後れ毛に光っている水滴が何となく康彦を苛立たせる。

 「あら朝食、もう一人で済ましてしまったの。ちょっと声をかけてくれれば良かったのに。冷蔵庫にメロンも用意してあるのよ」

 そう言って康彦に擦り寄ってきた沙依子の髪から、テーブルに広げた朝刊の上へ小さな水滴が落ちて黒い染みをつくった。

 「メロン、出してあげようか」

 康彦の耳朶を噛みそうなほどの距離から熱い息を吹きかけて沙依子がさらに言う。

 「いらないよ」

 康彦はそう答えるといかにも不機嫌そうに身体をずらせたが、沙依子の吹きかけた息が流れこんだ中耳にはしばらくむず痒さが残った。

 「二日酔いには果物を摂るのがいちばんなのに」

 そういった沙依子はサイフォンを横に移しながら向かいの椅子へ座ろうとしている。その動きを上目遣いに追っていた康彦は堪りかねたように声を荒げた。

 「それよりそんな格好のままで朝食を摂るのはいいかげんにやめてくれないか。いつも言っているように、二人きりの暮らしだといってもそれなりのルールがあるはずだ。僕だって一人の男だということを忘れてもらっては困る」

 康彦は苦言を呈した割にはバツの悪そうな顔をして、かなりくしゃくしゃになった朝刊をテーブルの上でぎこちなく折り畳んだ。

 「ごめんなさい。お掃除で汗をかいたから冷たいシャワーを浴びたんだけど、それでも全身が火照っているの。少しだけ待ってよ。すぐに服を着てくるから」

 「一度だって君恵はそんなことをしなかった」

 「それはそうよ。夫婦なんて所詮は他人だものね。君恵さんが肌を見せたのは寝室だけでしょ。だからあんな簡単に別れちゃったんじゃない」

 「よけいなお世話だ。あっさり別れたように思っているかもしれないが、僕も君恵もどんなに苦しんだ結果か、沙依子なんかには分かりっこない」

 「分からなくて結構。わたしはこの先もずっと結婚なんかしないもの」

 「このままずっと僕と一緒に暮らしていくつもりなのか。まあ面倒な家事をしなくて済むのは助かるがまったく迷惑な話だ」

 「お母さんが死ぬ前に言っていたわ。兄さんにはたぶんどんなお嫁さんも長くは勤まらないだろうってね」

 沙依子はそんな憎まれ口をきいたあと、レタスの一切れを指で摘みながら膨れ面をしてユーティリティールームのほうへ消えた。

 力まかせにドアを閉じる音が聞こえると、中華風ドレッシングの上澄み液がテーブル上で小さく波立った。


 比良坂康彦と沙依子は兄妹だった。

 康彦は三十二歳になったばかりで、遅生まれの沙依子は二十六歳である。

 二人の郷里は丹後の宮津市の近くだったが、康彦のほうが京都の美大を出てパリへ留学したあと、大阪で新人画家の道を歩みはじめると、沙依子もその後を追うように神戸の大学へ入り、家賃を節約したいという理由をつけて同じアパートで同居するようになった。しかしその三年後に、康彦はフラワーコーディネーターの君恵と結婚したから、しばらくの間は沙依子と別々に暮らしていたのだが、宮津で独り暮らしをしていた母親がいきなり心不全で死んでしまうと、誰もいなくなった郷里の家や田畑を処分してこの建売住宅を買い求めたのだ。

 ところが康彦と君恵がこの広い家に住み始めるや、大学と教育実習を終えて隣町で小学教員になったばかりの沙依子が、何の相談も予告もなくいきなり転がり込んできたのである。

 沙依子に言わせれば、郷里の家や田畑を売って買った家なのだからわたしにも住む権利がある、というわけだ。康彦のほうとしては、宮津の家は神主の系統を受け継いだ旧家だったから、すべてを売却したことで遺産は相当の額にはなったけれど、その全部をこの家の購入のために費消したわけではなく、沙依子の取り分は別に管理していたから、そういう言い草は実に心外だったけれど、よくよく考えてみれば共に唯一の肉親という関係になってしまったわけだからという兄妹の情愛が働き、ついつい君恵の好意にも甘えて沙依子の我侭を許す気になってしまったのである。

 だが厳しい性格だった神主の父をまだ幼い頃に亡くし、父とは逆に誰よりも優しかった母に育てられたうえ、開放的な海辺で伸び伸びと育った沙依子は、生来の天衣無縫な性向がいよいよ強められていて、ともすればこの日のように半裸の姿で家の中をうろつくこともしばしばだった。ところが地裁の裁判官の娘で都会育ちだった君恵はそういう沙依子とはまるで正反対で、風呂上がりであっても決して夫に肌を見せるようなことは無く、すぐに薄化粧を施して素顔すら見せないような女だったから、そのこと一つを取ってみても二人の折り合いは極めて悪く、康彦はずっとはらはらのし通しだったのである。

 とはいえ康彦は一日のほとんどをアトリエで過ごしていたから、兄嫁と小姑の関係にある君恵と沙依子がその他にどのように対立し、どんな諍いを起こしていたのかを知らないまま日が過ぎていった。幸い沙依子のほうは多忙な小学校の教員だったし、君恵もあるインテリア会社の常勤嘱託を勤めていたから、二人が康彦抜きで顔をあわせる機会や時間は限られていた。康彦はそのためにタカを括っていたきらいがある。ところがある日突然に君恵から離婚を申し出られ、二人きりの話し合いも余り出来ないまま、はからずも別れることになってしまったのである。

 離婚を望むその理由をたずねても答えなかったから、君恵には新しい恋人ができたのではないかと疑ったくらいだったが、嫁入り道具のほとんどを家に残し、身の回りの品だけを持って君恵が家を出て行く日、駅まで送った道すがらに、

 「あなたへの沙依子さんの愛にはかなわないわ」

 とつぶやいた君恵の一言が、今も康彦の耳の奥に残って離れない。

 康彦はわざと聞こえなかったふりをして、

 「先々必要になった品物はその都度家へ取りにくればよいし、新しい住所を知らせてくれれば僕が送ってやるよ」

 と答えたが、君恵は哀しそうに目を伏せたまま、

 「ありがとう、多分そうさせてもらうことになるわ」

 と言ったきり、プラットホームへ降りるまで黙りこくったままだった。

 貨物コンテナをそのまま線路の上へ持ち上げたような跨線橋の、小さな覗き窓からホームを見おろすと、吹き抜ける風の冷たさに目を細めた君恵が、改札口のあたりを振り返っていた。康彦は思わず「君恵、僕はここだよ」と声をあげそうになったが、跨線橋がびりびりと振動して電車の接近を告げはじめると、ホームの君恵はゆっくりと腰を屈めて手荷物を両手に持ち上げた。するとまるで康彦に向かって手を振るように白いマフラーが君恵の頬にからみついた。

 焦げ茶色の私鉄電車が君恵を呑み込んだあと、レールを軋ませて行ってしまうと、康彦はそのまま帰宅する気になれずに駅前をしばらくうろついてみた。

 しかし行きつけの赤提灯にはまだ「準備中」の四角い札が北風に揺れていたし、パチンコ店とゲームセンターはあいにくの定休日で、ふと覗き込んだ店先のダックスフンドの姿に誘われるようにペットショップへ入ってしまい、犬を買わないでハムスターを一匹買った。なぜそんなことになったかと言うと、ボルゾイやグレーハウンドをしばらくからかい、ロシアンブルーやアメリカンショートヘアーの喉のあたりを撫でているうちに、ふと店の隅に置いてあったハムスターの飼育箱が目に入り、しかもその箱とは別個に置かれた小さなケージの中で、一匹だけが上目遣いに康彦を見ながらヒマワリの種を齧っているのがとても気になって、店の主人についその理由を訊ねてみたのだが、主人の話によれば、ハムスターはもともと凶暴な性格を持っているので時には仲間同志で諍ったり、殺し合うこともあり、その一匹も仲間に足の先を食い千切ぎられてしまったので、安楽死させてやるのも可哀そうだからとりあえず隔離してやっているのだと聞かされて、俄然欲しくなってしまったのである。店の主人は売り物ではないのだから代金はいらないと言い張ったけれど、康彦はそれでは自分の気がすまないと言って、代金代わりに飼育用のケージやその中へ入れるミニハウスと運動具セット、さらにはおがくずやひまわりの種までを買い求めたのである。

 そんな大きな荷物を抱え込んでしまうと、康彦にはもはや帰宅する以外に選択肢が無くなってしまい、こんなものを買ったのは君恵への思いを断ち切るためだったのかと、惨めな気持ちになりながら上り坂ばかりが続く帰路をたどった。

 小学校の卒業旅行の引率で広島方面へ出かけている沙依子は、二日前から留守だったから、君恵のいなくなった家の中はガランとして物寂しく、康彦はアトリエにこもったまま食事も摂らず絵も描かず、その日一日を右の足首が千切れて丸くなったハムスターを眺めて過ごした。あれほど長い時間をかけてようやく納得のいく藍色が出た絵の具は、すでにすっかり固くなってしまって、汚れたアトリエの床へ影を落としているイーゼルの脚もとに投げ出されたままだ。

 ほんの少し前まで君恵が座っていたディレクターチェアには、まだ彼女の体温がかすかに残っているみたいだった。

 康彦は妻の君恵を愛していたし、もちろん別れたくはなかったから、沙依子の広島旅行中にじっくり話し合おうと考えていた。だが君恵にはもうそういう気持ちは全く残されていなかったらしく、この朝早くにアトリエへ入ってきた彼女は、むしろ、沙依子が留守の間にこの家を出て行きたい、と言った。

 《渾沌~国生み》と題する三十号の絵の制作に取り掛かっていた康彦は、もともと着想と構図が決まると夜も寝ないで描き続けるほうだったから、その日もほんの短い時間をアトリエで仮眠したあと、明け方から長い時間をかけて練り合わせていた絵の具がようやく満足のいく藍色になったばかりだった。慌てた康彦は大事なパレットを放りだして必死に引き留めたけれど、すでに持てるかぎりの手荷物を用意していた君恵は、ディレクターチェアに腰掛けたまま彼の話にはほとんど耳を傾けず、八分どおりは仕上がっている《渾沌~国生み》の絵を凝っとみつめながら、

 「私は今でもあなたの才能を信じているわ。その才能が多くの人から認められるまで一緒にいられなかったのは残念だけれど、この作品はきっとあなたの代表作になると私は思う。どこかのギャラリーで見られる日を待っているわ」

 と言って寂しそうに笑っただけだった。

 それからしばらくして康彦は君恵との離婚手続きを進めたが、沙依子自身が、どうしてもそうしたい、と言い張ったので、彼女の取り分として残していた比良坂家の遺産をすべて君恵に慰謝料として支払った。君恵はそれを元手にして嘱託を辞め、カラーアナリストやインテリアデザイナーを加えた女性だけの事務所を設立した。その事務所びらきのパーティへ招待を受けた康彦は、じっくりと君恵の微妙な立場を考えたすえに辞退する旨を伝え、それに代わる再出発への餞として新たに描き上げた十号の油絵を贈り、心から祝福してやった。

 それが一年半ほど前のことで、比良坂康彦と沙依子の兄妹は以来ずっとこの家で二人きりの生活を過ごしているのである。


 康彦はタバコを一本ふかしたあとバスルームへ向かった。

 寝汗がからみついたシャツやズボンを脱ぎ捨てると、真夏だというのに身体全体がすっかり冷えきっている。給湯パネルの目盛りを温水の位置に合わせて水栓をひねると、大型給湯器が半開きになったバスルームの切り窓の外でボンという音を立てて再点火した。シャワーノズルの先端から勢いよく噴き出す冷水が、差し出した手のひらの中でだんだんと熱くなりはじめる。康彦の身体は僅かな水温の差にも敏感に反応する。だからもう一度念入りにパネルで水温を調節すると、まずは背中のほうから近づいて湯に身体をなじませ、そのあとでようやく頭からシャワーを浴びた。

 滝に打たれる修験者のように身体を固くしていると、やがて目の前に細かな粒子の輪がかかりはじめ、それはさらに切り窓から差し込んでくる陽光を浴びて様々に発色すると、バスルームの中に鮮やかな虹のアーチを架けていく。だがバスルームの中に蒸気が充満しはじめると、虹のアーチはたちまちその色とかたちを失って、日本刀の刃先のように煌めき、輪郭がぼやけて鰯雲のようにたゆたい、かたちが崩れて雲海となり、ついには渓谷から沸き上がる霧となってしまうのだった。

 康彦はその霧に掬われるように空中へ舞い上がっていく。

 たびたびの墜落感におびやかされながらも空を飛び続けるうち、いきなり周囲を覆っていた霧が晴れると、眼下には瑠璃色に輝く大海原が広がっていた。フルーツの香りが漂っている海原はまぎれもなく南の海だ。海面近くを滑空している康彦の頬を熱い波しぶきがたたき、遥か向こうには小さな島影が浮かび上がってくる。やがてその島影は高速艇のような速さで眼前に迫り、緑の草や木に覆われた島の全貌を見せはじめる。なおも速度をゆるめないで接近を続けると、島そのものが康彦の身体に向かって緑の津波となってのしかかってくる。そのうちのとりわけ大きな津波を躱そうとして身体をひねったとき、はずみで康彦はシャワーの下から飛び出してしまっていた。

 すると確かに見えたはずの海や緑の島は朝の光の中へ溶け込んで跡形もなく消え去っている。それはこれまでに何度となく見てきた幻覚であり、不思議な至福を感じる白昼夢でもあった。

 我に返ると康彦はいつも夢精しているのである。

 バスルームの中を見回すと、浴槽やタイルは湯垢や脂気がすっかり拭われており、ほんの少し前に沙依子が使ったはずなのにその痕跡は何も残されていなかった。

 もともと沙依子はそれほど綺麗好きではなかった。君恵がいる頃には、浴槽にはいつも誰のものかも定かでない陰毛が貼りついていたし、排水口のフィルターには髪の毛や石鹸のカスが絡みついていることが多かったけれど、気づいた君恵が時々ブラシをかけることはあっても、沙依子は素知らぬふりをして浴槽やシャワーを使い、いつものように半裸の姿で浴室から出てくるのだった。しかし君恵が家を出てからの沙依子の変わりようは異常なくらいで、バスルームだけでなく憑かれたように家のあちこちを磨き回るようになったのである。

 康彦が新しいシャツとズボンに着替えてキッチンへ戻ると、沙依子もまた新たなシルクのTシャツとピンクのショートパンツ姿になって、野菜ジュースを飲みながらトーストをかじっていた。沙依子はコーヒーを飲まない。幼い頃からコーヒーを飲むと頭が痛くなると言って、野菜か果物のジュースばかりを飲んでいる。その野菜や果物のジュースにしても、添加物が入っていると全身に発疹をきたすくらい敏感な体質だったから、今では自分でつくったジュース以外は飲まなくなっていた。

 浴室で白昼夢を見たせいか、康彦はひどい脱力感に襲われて椅子に腰を落とした。夢精したあとの身体の芯にはオナニーのあとのような澱がたまっていた。温水シャワーで開いた汗腺からは、ねばついた脂肪と昨夜のアルコールが、まだ噴き出してくる汗とともにせっせと排出されているのがよく分かる。

 「また汗をかいてるじゃない。日本茶でも淹れて氷で冷やしてあげようか。このあいだ笠原さんの奥さんにいただいた玉露があるから」

 沙依子はテーブルに落ちたパンくずを人差し指の腹で拾い上げると、かたわらに広げた紙ナプキンの中へ丁寧に揉み落としながら言った。

 「そうだな」

 「なんだか昨夜は荒れてたわね。あんまり帰りが遅いからタヌキまで迎えに行こうかなと考えていたところだったの」

 「妻でもないのに余計なお世話だ」

 朝から二本目のタバコに火を点けながら康彦は応えた。タヌキというのは駅前の赤提灯で、彼が週に三度は通っている居酒屋の名前だった。

 「ずいぶん機嫌が悪いのね。分かった、次の絵の構図が決まらないんでしょう」

 「まあな。構図だけは何とか決まったんだが、描く人物のイメージがなかなか固まらなくて困っているんだ」

 「やっぱりそうなんだ」

 《混沌~国生み》にはじまる三十号の連作はすでに四作品までを描き上げており、康彦はいま五作目に取りかかろうとしていた。

 画題はすでに《逆乱~狭穂姫と狭穂彦》と決めている。康彦は夭折した天才画家の青木繁が好きで、彼が描き遺した「わだつみのいろこの宮」や「日本武尊」や「大穴牟知命」を画集で見て自らも画家になろうと決めたのだが、その強い思いは実際に画家として独り立ちしてからも断ちがたかった。だから最近の康彦は、青木繁がついに完成できなかった日本神話のシリーズを、自らの手で納得のいくまで描きあげてみたいと考えているのだった。

 沙依子は兄のそういう絵画への強い思い入れを熟知していたから、古事記や日本書紀に記された狭穂姫と狭穂彦の物語も知っていたはずだが、それでも康彦はさかんにタバコの煙をふかしながら、その昔、垂仁天皇の妃だった狭穂姫が謀反を企てた兄である狭穂彦の頼みで天皇の暗殺を謀ったが果たせず、追い詰められた末に皇太子となるべき我が子を天皇へ差し出して、自らは兄とともに劫火に焼かれて死んでいった、という神話を幼い子供に話して聞かせるように物語った。

 沙依子はその間ずっと顔を伏せて聞いていたが、ようやく話し終えた康彦は、

 「次の絵はそういう話がもとになっているんだ。構図が決まるまでに三日も苦しんだうえ、昨夜タヌキからの帰り道にやっと狭穂彦のイメージは固まったんだが、狭穂姫のほうが決まらなくて困っているんだ」

 と言って大きな溜息をついた。すると沙依子はいきなり顔を持ち上げて、

 「何だ、そんなことなら少しも悩むことなんてないわ。狭穂姫はね、こういう女に描けばいいのよ」

 とひどくくぐもった声で答えたのである。

 康彦はふっと正面に持ち上がったその顔を見て肌に粟立ちを感じた。

 それは明らかに沙依子とはまるで異なる女の顔で、ふっくらとした白い頬にはかすかな朱がさしており、憂いを含んだ切れ長な目は凝っと康彦のほうをみつめていたが、瞬きをするあいだに消え去っていた。

 あとには当然のことながら沙依子の顔があるだけである。

 呆然としている康彦を怪訝な顔で見返すと、沙依子は別に何事も無かったようにふらりと立ち上がってテーブルを半周し、康彦の肩に置いた左手で身体を支えながら爪先立ちに伸び上がり、食器棚の上から緑色の和紙にくるまれた茶筒を取り出した。するとシルクのTシャツがめくれて鳩尾の辺りが剥き出しになり、ふわりとシャツが揺れ落ちるときに石鹸の匂いがした。

 沙依子は慎重に茶筒の封を切ってから、蓋で小分けした針のような玉露を急須の中へ流し込む。そしてポットの湯を注ぎながら言った。

 「この玉露、笠原さんの奥さんにいただいたのよ」

 「ふーん、あの人どうしてそんな高価なものをくれたのかな」

 「先だってわたしが戴き物の水羊羹をそっくり差し上げたからだと思うわ。あの人、見栄っ張りでもあるからたぶんそのお返しよ」

 「またいつものように長話をして帰ったんだろう」

 「そりゃあ、お返しというのは口実であくまでお喋りが目的なんだもの。そのとき奥さんが教えてくれたんだけど、わたしたち兄妹はどうも変だという噂がご近所で立っているんだって」

 「何が変なんだ」

 「つまりね。よくできた君恵さんが家から追い出されたのはわたしのせいで、それを止められなかったのは兄さんのせいで、どちらにしてもわたしたち兄妹の仲が余りにも良すぎるから、君恵さんは居たたまれなくなって家を出ていったんだって。それだけじゃないわよ。わたしたちはキンシンソーカンの関係だという噂がもっぱらだと笠原さんは言うのよ」

 「えっ、近親相姦の関係だって? それは穏やかじゃないな。そんなのからかわれているだけだよ。そうでなければ笠原さん独特の探りか好奇心で、沙依子の反応を窺ってから、ご近所へ面白おかしく云い触らそうとしているに違いない。そんな見え透いた手に乗ってたまるもんか」

 「そうかしら」

 ふう、と大きな溜め息を洩らした沙依子はそう応えた。

 そして小学校の卒業旅行を引率したとき、とても気に入って買い求めたという備前焼の夫婦湯呑みへ急須から茶を注ぎ、冷蔵庫から氷を取り出してから、いかにも不満げにキッチンの天井を見上げた。

 「ただ沙依子がいつまでもこの家に居続けたら、そのうちそんな馬鹿々々しい噂だって一人歩きしてしまいかねない。早くいい人をみつけて結婚することだな」

 「いつも言っているように、わたしはずっと結婚なんかしないわ。たった一人の肉親なんだし、兄さんとこうして一緒に暮らすほうがいいもの。迷惑でもずっとそうさせてもらうからね。それより兄さんのほうこそ再婚すれば」

 「僕だってもうこりごりだ。それに再婚なんてしたら君恵に申し訳が立たない」

 「ちょっと待って・・。あっ、君恵さんが来るわ」

 沙依子は突然そう告げると、両手で湯呑みを抱えたまま虚ろな目で窓の外を見た。

 「何だって」

 「いま君恵さんが電車を降りたの。駅の階段を上ろうとしているところだわ」

 そう告げた沙依子の指の間で備前焼の窯変部が鈍く光っていた。

 白っぽい朝の陽光が庭の木々をかいくぐり、清らかな渓流のようにキッチンの窓から射し込んでいる。日が高くなって一気に白熱化した光の渓流は、その流れの中に微細な塵の金鱗を跳ねさせている。そして朝露の乾いた裏山を滑り下りてきた風が、綺麗に油煙を拭い去ったオフホワイトの換気扇を音もなく回していた。

 沙依子は初潮を迎えた頃からしばしば妙なことを口走るようになった。

 たとえば沙依子は人間の生死をからだのどこかで感じるらしく、夕食の途中でふと箸をとめて〈いまおタキさんが亡くなったわ〉とつぶやいたことがあった。そして翌朝になるとその報せが届いたものだから、母や康彦は吃驚仰天した。おタキさんというのは、毎朝獲れたての魚介を届けてくれる漁師町のお婆さんだった。

 また浜辺で水遊びをしていたときには、雲ひとつ無い空を見上げて〈もうすぐ海は大時化になって漁師が二人死ぬことになるわ〉と言ったが、これも二日後には現実となった。その種のものはまだ康彦にも受け入れることができたのだが、巫女のようなトランス状態に入って喚き始めるともうお手上げで、呪文か祝詞のようなつぶやきの類いに至っては、神主の妻だった母ですら理解できなかった。

 そんな沙依子のことはやがて近隣の人々に知られるところとなって、比良坂家の三人はキツネ憑きだとか神がかりだとかさまざまに噂されて悩んだのである。

 康彦が宮津の町を出ると、なぜか沙依子の憑きものは落ちて母を安心させた。

 まもなく沙依子自身も町を出たから、残された母は二度と近所の噂に悩まされることもなくこの世を去った。だが沙依子は決してその力を失ったわけではない。むしろその間に蓄えられていたエネルギーが、いまきりきりとしぼられる弓のように一点に収斂されつつあった。妹が持っている不思議な力は、兄という存在をその手に取り戻したことで、登り窯を駆け上がる火柱のように燃え盛りつつあったのだ。

 「そうか君恵が来るのか。何かまた必要なものが出来たから、それを取りにでも来るんだろう」

 だから康彦はいつものようにさりげなく言葉を返した。

 「あれほど言ったのに兄さんが荷物をそのままにしておくから、君恵さんはそれを良いことにこうして何度もやってくるのよ」

 沙依子は康彦を睨みつけると乱暴に湯呑みのお茶を呷った。その額には薄く血管が浮き、唇は小刻みに震えている。

 「兄さんがいけないのよ。まだ君恵さんに未練があるから」

 「もう君恵のほうには無いさ」

 「それならどうしてまだ度々この家にやって来るの」

 「それはまだ荷物が残っているからさ。しかしもうあらかたのものは持って行ったし、君恵が借りたのは小さなマンションらしいから家具類は要らないと言っていた。そんなにうるさく言わなくても今日が最後になるはずだよ」

 「間違いないのね」

 「そう決めつけられても困ってしまうがな」

 「だったら今日こそ念押ししてよ。二度とこの家には来ないでくれって」

 「言いたければ沙依子が言えばいいだろう」

 「厭よ。あの人の顔なんか見たくもないわ」

 そう言うと沙依子はまたユーティリティルームへ飛び込んで行った。

 そして今度は両手に掃除機とポリバケツを抱えて戻ってくると、康彦の目の前を横切ってキッチンを抜け、荒々しく階段を踏み鳴らしながら二階へ上がっていった。

 すると沙依子の怒りそのままに食器棚のガラス戸がぴりぴりと震えた。          


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 「事務所のほうはうまくいっているのか」

 裏山の雑木林の中を歩きながら比良坂康彦が訊ねると、

 「この不況だものうまくいっているとは言えないわ。より良い住空間をデザインするという仕事なんて、もともと余裕のある社会を前提にして成り立っているの。だから世間がギスギスしはじめると、たちまち需要が無くなる底の浅い業界なのよね。でも心配しないで。女ばかりの事務所はこういうときに強いから」

 旧姓にかえった久保君恵はそう答えた。

 先ほどから君恵はしきりにハイヒールの踵を気にしている。

 雑木林には長年の病葉が厚く降り積もっていて、歩くたびに君恵の身体はぐらりと後方へ傾き、ヒールの先に朽ちかけた葉が何枚も串刺しになるのである。

 見上げると、樹間にはミラーボールのような太陽が輝いており、木々の葉の裏まで射通しそうな熱線を注いでいるが、今が盛りの青葉は幾重にも重なり合ってその侵入を遮っていた。樹木が疎らになっている箇所や松食虫で立ち枯れた松の下にだけ小さな陽だまりが出来ていて、うっすらと陽炎がゆらめき立ち、無数の羽虫が銀粉のような小さな翔をきらめかせて飛びかっている。近くに人気を感じて警戒しているのか、あのウグイスの声は聞こえなかった。今も五月蠅く鳴き続けているアブラゼミに怖けづくほど、あのウグイスはやわではない。

 沙依子が予告した通り、あれから十分も経たないうちに君恵は家にやってきた。  

 そしてアルバムや訪問着などを段ボール箱へ詰め込むと、自ら駅前の取次店へ電話して回収に来てもらい、宅急便で送り出した。君恵がそんな作業をしている間、康彦は絵を描くでもなくうろうろとアトリエやリビングを歩き回っていたが、沙依子はもちろんあれからずっと二階に上がったままで、わたしならここに居るわよ、と言わんばかりに床を踏み鳴らし、ぶんぶんと掃除機の音を立て続けていた。

 手を洗わせてね、と作業を終えた君恵が言ったとき、コーヒーでも飲んでいかないか、と康彦はすすめたが、ありがとう、でも今日は遠慮しておくわ、と答えてまぶしげに居間の天井を見上げたので、それなら駅まで送っていくよ、と言いながら連れ立って家を出て、駅へは向かわずに久しぶりの裏山へ登ることにしたのだった。

 「それはこちらも同じだな。ひと頃はあんなに売れていた絵が最近ではさっぱりになったと画商の桜井がこぼしていた。まだまだ貧しいんだねこの国は。本当ならこういうときにこそ君恵や僕の仕事が必要とされなければいけないのに」

 「だから世の中はいよいよ殺伐としたものになっていくのね。べつに僻んでいるわけじゃないけれど」

 そう言って君恵は陽だまりの中に立ちどまると、康彦の肩に手を預けながらミニスカートから伸びた脚を<く>の字に曲げて、ヒールに貫かれた病葉を丁寧に摘み取った。するとストッキングが木漏れ日をあびて、白い画布のようになめらかな肌理をきわだたせた。

 「ところで例の作品はその後も順調に描き上げているんでしょうね」

 君恵は康彦の肩から手を離しながら言葉を継いだ。

 「前にも言ったように私はあなたの才能を誰よりも認めているつもりよ。だからあの作品はどんなことがあっても途中で放り出したりはしないでほしいの」

 「分かっているよ。あれから四つの作品を描き上げているし、そのうちの一つは九月に東京で開催される予定のヴィエンナーレへ出品しようと思っている。秋には個展だって開くつもりだよ」

 「それなら安心したわ。あなたはどちらかというと落ち込みやすい性格だから、離婚のショックで描けなくなってしまうんじゃないかと心配だったの」

 「確かにしばらくは何も描けない時期があったな」

 「事務所びらきに贈ってもらった絵、ずっと大切にしているわ。私だけが居残って仕事をしているときでも、デスクの横の壁にあなたの絵があるから寂しくない」

 「あの絵はなかなか絵筆が握る気になれなかったときに、何とか気持ちを奮い立たせながら描いた絵だ」

 「そうでしょうね。私が家を出るときにはあんな絵はアトリエに無かったもの。あの絵を見てもうあなたは大丈夫だと確信したわ」

 君恵はそう言って、離婚の直後に切り落としたという髪を気持ち良さそうに風になびかせた。

 レンガ色をしたミニスカートと茶の格子縞が入った白いブラウスは、かなりビジネスウーマンらしくなった短髪とぴったりマッチしていて、木立のあいだに立った君恵をきりっと引き立てていた。

 裁判官の娘ということで厳しく躾けられたためなのか、独身時代の君恵は少女のような生硬さと触れると壊れてしまいそうな危うさが抜けなかった。その外見と違わなかった君恵は、ハネムーンで行った屋久島のホテルで康彦に抱かれるまで男を知らなかったし、夫婦生活を送るようになってからも何処かしら稚さとぎこちなさを持ち続けていた。そしていまの君恵は、髪を切ったことで少しは大人びて見えるけれど、それでもまだ確固たるキャリアウーマンという感じには程遠く、せいぜいが入社して数年のビジネスウーマンくらいにしか見えないのである。

 康彦は君恵のそんな姿をみつめながら、この場にスケッチブックを携えてこなかったことを悔やんでいた。そして、辛かったけれど離婚の申し出を受け入れたことは君恵のためには良かったのだ、と改めて自分に言いきかせるのだった。

 「あれから描き上げたという絵を見せてもらえなかったのは残念だけど、そのぶん秋の個展を楽しみにしているわ」

 「もう少し手直しがしたいからね。まだ誰にも見せたくないんだ」

 「沙依子さんにも?」

 「いや、あいつはこっそり見ているようだが」

 「そうでしょうね。沙依子さんはあなたのことで知らないことなんて何も無いわ。あなた自身が気づいていないことまで彼女は知っているもの」

 「それはどういう意味かな。よく分からないけど」

 「つまりあなたの心の奥底まで覗けるということ。あの人には同じ女でも私なんかには無いそういう特殊な能力があるということよ」

 「それは僕たちが兄妹だからであって、きみが感じているような種類のものではないと思うよ」

 「血の繋がりだけじゃないわ。あなたがたのあいだには他の兄妹には無い何かが存在していて、強い力でお互いに引き合っているように私は感じるの」

 「それだって他に身寄りが無い二人きりの兄妹だからさ」

 「違うわ。あなたは気づいているのかどうか分からないけれど、このさいはっきり言わせてもらう。あなたたち二人は異性としてお互いを求めているのよ」

 「何だって。きみは僕が沙依子を一人の女として見ていると云うのか」

 「そうよ。今更、隠したり驚いてみせることはないでしょ。それくらいのことなら何の超能力も持ち合わせない私にだって分かる。ましてあの沙依子さんならあなたの細かな心の襞までお見通しのはずよ」

 「………」

 「だって私たちは夫婦だったのよ。触れ合った肌で感じたこともあるわ。それにいま思えば短い月日にしか過ぎなかったけれど、心やからだがあなたと一つになったという至福を感じる時期だってあった」

 「きみがいう超能力だが、それこそが沙依子の持っている不幸なんだ。そんなものを持っているからこの現代には見えてはいけないものが見えるし、望んではいけないことを望んでしまう。そのうえそういう理不尽な衝動に自らの力では抗い切れないなんて、不幸以外のなにものでもない」

 そう言って、君恵の主張を半ば認めて視線をそらせた康彦の脳裏をまたあの海原と緑の島影が過った。だがそれは、頭の上を覆っているアラカシの若葉が風にあおられて、灰白色の葉裏を見せるほどの速さと儚さで消えて行った。

 海と島の幻覚は君恵が傍にいると長くは続かないのだ。

 「でもそう言いながらもあなたは沙依子さんのそういう不幸を悲しんでなどいないわ。心のどこかで受け入れて、歓迎さえしているのよ。私はそのことが分かったからあなたと別れる決心をしたの」

 「たとえきみの言う通りだとしても、僕にとっての沙依子はやはり妹でしかないんだ。一人の女ではないし、ましてきみの代わりなんか出来やしない」

 「そうやってあなたはこれからもまだ自分自身を欺き続けていくのね」

 「自分を欺いている?」

 「そうでなければ今もなお私を欺き続けようとしている。お願いだからこれ以上私を惨めにしないでほしい。あなたは沙依子さんへの思いを断ち切るために私と結婚したのよ。でもやはり断ち切ることはなんかできなかった」

 「それなら君は沙依子と結婚しろとでも言うのか」

 「結婚なんかしなくていいじゃない。婚姻届けを出さなければ結婚したことにはならないなんて誰かが勝手に決めたことに過ぎないわ。この現代を生きている私たちだけの暗黙の了解にしか過ぎないのよ。実質的に夫婦の関係なら何も世間に認めてもらう必要なんかないわけだし」

 「なかなかラディカルな考え方だな。裁判官の娘とは思えない」

 「こういうときに茶化さないで。私が言いたいのは、兄妹だからといって本当の愛を諦める必要などないということなの」

 「どちらにしてもきみには心から済まないと思っている」

 「今さら謝ってもらおうなどと思っていないわ。他の女性ならともかく、あなたの心を支配しているのが沙依子さんだと知って、そのときは驚きもしたし哀しみもしたけれど、いつのまにか許せる気持ちになっていたから」

 「確かに僕と沙依子はいまなお臍帯で結ばれているかもしれない。いや動悸までが重なっているような気がするんだ」

 「やっと自分に素直になれたわね。いつだったかしら、フラワーコーディネーターの集まりで東京へ行ったとき、予定を繰り上げて一日早く家に帰ったら、沙依子さんが私たちの寝室にいてあなたのベッドで眠っていたの。しかも家の中はどこもぴかぴかに磨き上げられていた。あなたはその日もタヌキへ行っていて知らなかったでしょうが、私はそれを見たとたん、居たたまれなくなって家を飛び出してしまった。タヌキであなたと飲みたいとは思ったけれど、それも出来なくて、店の赤提灯の前でしばらく泣いてからまた電車に乗ってしまった。そしてシティホテルへ入って部屋でお酒を飲みながら、もうダメだと自分に結論を出したの」

 「そうだったのか。きみには色々つらい思いをさせてしまったようだ」

 康彦はそう言って君恵を振り返ると、これまでを償うように手を差し伸べた。

 そして二人は尾根の間近で急にせり上がった斜面を、膝頭がかくれるほど生い茂った根笹を掻き分けながらさらに登って行った。

 尾根に着くと視界がのびやかに開けて、隣接するいくつもの新興団地がまるで設計コンペに出品した模型のように見渡せる。どこかの家のベランダで勢いよく布団をたたく音が聞こえ、ゲートボール場からはスティックで球を打つ乾いた音まで伝わってくるが、スーパーマーケットの駐車場に僅かな人と車の動きが見えるくらいで、東西に伸びている大通りには人影も余りなく、日曜の住宅地は午前中ということもあって生活感がひどく希薄だった。大通りよりやや狭い南北の通りには、これしきの暑さなどものともしないで遊んでいる子どもたちの姿があるのだろうが、立ち並んでいる家々や繁茂する庭木の陰になって見えない。

 中天に登りつめようとしている太陽が、色とりどりのスレート屋根をじりじりと焼き焦がしていた。だが上空には強い風が吹いているらしく、ちぎれ雲が南から北へせわしく流れている。ちぎれ雲は太陽を覆うたびに自らよりも何倍も大きな影となって高台に落ち、生きもののように大きな舌で家並みを舐めていくのだった。

 「誰かと愛を競ったとき、女はそう簡単に引き下がらないものだけれど、私の場合は相手が悪かったわ。悔しいけれど沙依子さんには勝てっこないもの」

 君恵は一点をみつめてそう言った。

 その先をたどると斜面の木立を通して康彦の家の二階が見えた。

 「私はいつも沙依子さんの視線を感じていた。それは嫁が姑や小姑から感じるようなものじゃなく、姿の見えないものにどこかから凝っとみつめられているような、不思議な感じのする視線だったわ」

 「・・・」

 「たとえばあなたに抱かれていても、沙依子さんの冷ややかな目が闇の中に浮かんでいるようだったし、そう感じさせる何かがいつも寝室には漂っていた。するとますますそれが強迫観念になってきて、このままだときっと私たちには赤ちゃんはできないし、たとえできても沙依子さんに取り殺されてしまうんじゃないかと怖れてしまうの。ごめんね、妹さんなのに悪く言ったりなんかして」

 「構わないよ。きみの言いたいことはよく分かる」

 「あれから私のベッドには沙依子さんが寝ているのでしょうね」

 君恵はそう言って唇を噛んだ。

 「そうだけどベッドは隣りの部屋へ移しているよ」

 康彦がそう言い訳をしたとき、ちょうど二階のベランダへ沙依子が出て来るのが見えて、抱えていたベッドカバーが風を孕んで大きく膨らんだ。

 「僕たちは子どもの頃からずっと同じ布団で眠ってきた。沙依子にはいくつか苦手なものがあるけれど、とりわけ犬が嫌いでね。夜間に犬の遠吠えが聞こえたりすると震え上がってしまうんだ。一つの布団で眠るようになったきっかけは、そんなことからだったと思うが、何事にも厳格な父親がなぜかそのことには寛容だった。もっとも父は沙依子が七歳にもならないうちに死んでしまったがね。沙依子は十二歳になる頃まではそんな状態で、僕が宮津を出てからの六年間は離れて暮らしていたけれど、高校を卒業するのを待ちかねていたように神戸の大学へ入り、僕を追いかけて大阪へ来るかたちになった。そんなわけだから僕のアパートへ着いた夜も、あいつは当然のように僕の布団の中へもぐりこんできた。僕は六年の間には何人か女性を抱いていたし、沙依子もすでに十八歳だったから、さすがに抱き合って眠るようなことはなかったけれど、それでも沙依子は日に日に大胆になってきて、どこかで犬が啼いたからといっては僕にしがみつくようになった。ゴムまりみたいな身体がぶつかってくるたびに、僕は沙依子が妹だということを忘れてしまいそうになった」

 「沙依子さんがあの家に同居するようになってから間もなくのことだったけれど、夜遅くに真っ青な顔をして寝室へ飛び込んできたことがあったわ。あなたはその日、たまたま和歌山の熊野方面へ写生に出かけていて留守だった。私が驚いて、どうしたの、と訊ねたら、いきなり怖い顔になってぷいと寝室を出ていってしまったけれど、何かにひどく怯えている感じだったわ。そう言えばあの夜も河上さんのお宅の飼い犬がうるさく啼いていた」

 「だがその犬も数日でいなくなっただろう」

 「そう言えばあの犬、あれからふっつり啼かなくなったわね。どうしたのかしら」

 「死んだんだよ」

 「死んだ」

 「いや、沙依子が殺したんだ」

 「何んてことを言うの、ばかばかしい。いくら何でもそんなこと信じられない」

 「僕が熊野の写生旅行から帰って数日後だった。アトリエでスケッチの整理をしたあとで遅目の昼食を摂り、いつものように公園や梅林なんかを散歩して、住宅地の北外れにある防火用水池の辺りまで来ると、学校帰りの子供たちが大勢集まって騒いでいる。何気なく子供の輪の中を覗いてみたら、池の堤防に腹を膨らませた白い犬が転がっていた。用水池に浮かんでいたのを子供たちが見つけて、棹やロープで引っ張り上げたところだったんだ。僕は驚いたよ。それは疑いもなく河上家の飼い犬だったからね。休日なんかにはご主人が、一日一万歩の実行は犬の散歩に付き合うのが一番でしてね、と言って連れ歩いているのを何度も目撃しているから。犬は泳ぎが上手だから溺れるなんてことはまずない。それに警戒心だって強いから、見知らぬ人間にやすやすと捕まえられて、池に漬けられるなどということもありえない。だからこれはきっと沙依子がやったことだと僕は思った」

 「それでも考えられないわ。だって沙依子さんは犬の啼き声にも震え上がる人だといま言ったばかりじゃない」

 「だから殺したんだよ」

 「どんなふうにして。犬が何よりも怖い沙依子さんがその犬を捕まえて石でも括りつけ、抱えて池へ放り込んだとでも言うの」

 「そうは言っていない。方法は僕にも分からないけれど、沙依子がやったということだけは確実だ」

 康彦はきっぱりと言い切ると、怒ったような顔でクヌギの枝を強く折り曲げた。

 君恵は「まさか・・」とつぶやいたきり押し黙ってしまった。

 ベランダに出てベッドカバーや枕を干し終えた沙依子が、ふとこちらの裏山の方を見上げて、冷たく微笑したように君恵は感じた。しかしからだ全体でもペットボトルほどの大きさにしか見えず、そのキャップ部分にも満たない沙依子の表情など、君恵に判別できるはずが無かったし、裏山を見上げた沙依子の側にしてみても、滴るような緑に包まれた二人の姿をただの一瞥で捉えることなど出来ないはずだ。

 君恵はそう思い直したが、瞼の裏に貼りついている沙依子の微笑は、強くかぶりを振ってみてもなかなか消えようとはしなかった。

 葉影が小鳥の羽毛のように康彦のワイシャツの胸で揺れている。

 君恵はもう一度かぶりを振った。

 すると降り注いでいた光線が渦を巻き、空が凋みはじめ、丸い地球が全身に感じられてくる。雑木林でうるさく鳴いていた蝉の声が消えて、耳の中でぶーんというラジコンモーターのような音がすると、君恵はいきなり眩暈を感じて横に傾いた。しかし倒れかかったところには康彦の腕があって、君恵はその腕の中にすっぽりとはまりこむと、向日葵のような匂いがする彼の胸へ、すでに別れた男だということも忘れて顔をうずめた。乳房が押しつぶされるほど強く重ねられた分厚い胸も、ブラウスの背をしっかり抱き締めてくれている大きな手のひらも、以前と変わりなく冷え冷えとしていた。君恵には、いまではその冷たさすらが懐かしくて、新婚旅行先の屋久島で迎えた初夜のように、このまま康彦の腕に抱かれていたいと思った。

 康彦の肩にてんとう虫がいて、ときおり吹き抜けていく風に飛ばされまいとするように、しっかりと脚を踏張っている。そして肩ごしに見えるベランダにはすでに沙依子の姿はなく、君恵が見たことのないお揃いの新しいベッドカバーと枕が、強い夏の陽射しを浴びてあざやかな色を放っていた。


                  3

 比良坂康彦はいつものように私鉄駅まで久保君恵を送ったあと、だらだらと続く上り坂を全身から汗を吹き出させながら家まで駆け戻った。

 そしてアトリエに飛び込むと急いでスケッチブックを取り出した。

 雑木林の陽だまりで見た君恵の姿をすぐに描き留めておきたかったからだ。それはしっかりと記憶の襞にたたみこまれていたから、スケッチブックを前にしさえすればたちどころに描き出せるはずだった。ところが椅子に腰掛けて少しばかり息を整え、膝の上に広げた画用紙の表を撫でさすり、木炭を何度か指の先でもて遊んで勢いづけてみたけれど、最初の一筆がどうしても走らない。指の腹が汗ばんでくると木炭はますます指先に馴染まなくなる。康彦の手のひらには、まだ倒れかかる君恵を受けとめたときの柔らかな感触が残っていた。その感触はいまなお指の表皮を薄い皮膜のように覆っていて、いつもならしっくりと指になじんでくる木炭の肌合いを、微妙に狂わせているのである。

 康彦はそんな自分を惨めに思いながらじりじりと苛立ったが、それでもなお諦めきれず、昼過ぎまでの長い時間をアトリエで過ごした。

 木枯しが吹く寒い日に、家を出て行く君恵を駅まで送ってから、これでもう二度目の夏を迎えたことになる。

 沙依子が言うように、その気があれば小型トラック一台で一息に運び出せるほどの持ち物を、君恵がそうしないで何度も受け取りにやってくるのは、もしかするとまだどこかに未練が残っているからではないか、と康彦は期待した時期もあった。だがこの日、君恵は駅に着くと、ホームへ降りる階段の手前で立ちどまり、電車の入線を報せるベルが鳴り終わるまで康彦を凝っとみつめていた。康彦はそんな君恵を見て、とうとう決定的な別れの時が来たのだ、ということを改めて思い知らされたのである。長い時間をかけて妄念や執着を振り払いながら、あくまで一枚のスケッチを描き上げることに拘ったのは、そういう経緯があったからだった。

 康彦はようやくスケッチを描き終えると、果たして自分にとって君恵という女は何だったのだろう、と自問してみた。だがやがて、そういう問い掛けが赦されるのは自分ではなくて君恵のほうなのだということに気がつくと、またもやひどいやりきれなさと愛おしさに襲われてしまうのだった。

 控えめなノックの音がするとドアが開いて、沙依子がアトリエに入ってきた。

 康彦は背後から近づいてくる人の気配を感じている。だが足音は聞こえない。

 沙依子はいつでも自分の足音を消せるだけでなく、その気になれば部屋の中にいる気配だって消し去ることができるのだ。康彦は沙依子の視線を強く背中に感じながらスケッチブックを静かに閉じると、かたわらの木製ワゴンに積み重ねられていたポール・デルヴォーの画集の下へ挿み入れた。

 「そろそろお昼の食事にしたら。キッチンでずっと待っていたんだけど一向に出てこないから、わたしは先に済ませてしまったわよ」

 沙依子はそういいながら康彦の前に回り込むと、

 「何だ、こもりきりだったから次の絵がかなりはかどったのかと喜んでいたのに、まるで進んでいないじゃない」

 と続けて真っ白なキャンバスを意地悪な目で覗き込んだ。

 もちろん《逆乱~狭穂姫と狭穂彦》はまだ下絵すら描き込まれていない。見上げると掛け時計の針は午後三時を指していたが、康彦は朝食でかじったトーストの耳が鳩尾のあたりにまだ痞えている感じがしていた。

 「あまり食欲がないんだ。夕食まで食べなくていいよ」

 康彦はいかにも煩しそうに応えた。

 すると沙依子は引き寄せたディレクターチェアに座り込みながら口を尖らせた。

 「あの人と駅前で何か食べてきたの」

 「アイスコーヒーを飲んだだけさ」

 「お昼時だったんだから食事くらいご馳走してあげればよかったのに」

 「少し前まで君恵は僕の妻だったんだ。もしお腹が空いていたのなら、それくらいのことは遠慮せずに言うよ」

 「それもそうね」

 沙依子は意外にあっさりと矛先をおさめた。

 そして広いアトリエの中をぐるりと見まわすと、細い眉をしかめて言った。

 「それにしてもこの部屋は暑いわね。夏のあいだはアルミサッシなんか取り払ってしまって、いっそ全体を網戸に替えてみたらどうかしら」

 油絵を描くアトリエにエアコンは禁物で、絵の具の皹割れを防ぐためにも少しくらいの寒暖は我慢するのが基本である。ただ生れつき冷え性だった康彦は、この高台特有の冬の冷え込みにはどうしても耐えられず、厳冬期だけはスチーマーとラジエーターヒーターを使っている。ところが暑さにはすこぶる強かったので、アルミサッシ一枚分の網戸に葦簀を立て掛けさえすれば、それだけでひと夏を過ごすことができた。

 「沙依子が暑さに弱いだけで僕はそれほど感じない。裏山からは涼しい風が入ってくるし、辛抱できなくなればいっそ裸になればすむことだ」

 「だったらわたしもそうしょうかな」

 「したければ好きにすればいいさ」

 「本当に構わないの」

 康彦は、ああ、と答えてから、意外な話の展開に胸が高鳴るのを覚えていた。

 実を言うと康彦は沙依子がアトリエに入ってきたときから一つの誘惑にとらわれていた。その誘惑は、さっき君恵のスケッチを描いているときに蘇ったと言ってもよかったし、もっと遡れば、康彦が絵を描き始めたときからずっと抱き続けてきたものだと言ってもさしつかえない。

 「分かった。兄さんはわたしの裸が描きたくなったんでしょう」

 沙依子はつとめてさりげなくそう言うと、康彦の目の前で長い素脚を挑発的に組み替えた。あい変わらずの直感力だった。康彦のほうももう迷ったりはしない。

 「図星だよ。その通りだ」

 「めずらしく正直に認めるのね」

 「いま描こうとしている絵は〈狭穂姫〉のほうが重要なんだが、朝食のときにも言ったように、どうも狭穂姫のイメージだけが固まらなくて困っているんだ。しかし沙依子をモデルにすれば描けそうな気がしてきた」

 すると沙依子は頬を紅潮させて叫ぶように言った。

 「兄さんの役に立つのならわたし何だってやるわ。遠慮しないで具体的に言ってよ、どうすればいいの」

 「そうだな。まず寝室に掛かっているレースのカーテンを外してここへ持ってくるんだ。いや、その前に裸になっておいたほうがいいな」

 「カーテンを持ってきてからでは駄目なの?」

 「まず時間をかけてからだを裸の状態になじませるんだ。少しでも普段と違う自分に違和感が残っているとからだの線やポーズに自然な感じが出てこない。それに四肢や上半身などの動きそのものをしっかり見ておきたいからね」

 「なるほどね、分かったわ」

 あっさりとそう応じると、沙依子は少しの躊躇いも見せないで次々にTシャツとショートパンツとショーツを脱ぎ捨てた。身に着けていたものはそれだけだったからたちまち沙依子は素裸になった。

 康彦はすでに画家の目になっており、それでも残っている羞恥心で身じろぎもできないでいる沙依子の裸身をじっと見つめ続けてから、キャンヴァスの前の椅子にどっかりと腰を落とすと、床に散らばっている絵の具の整理や組み立て途中で投げ出してあるフレームの片づけを命じた。沙依子は康彦から命じられるままアトリエの中を整理しているうちに、次第にからだから羞恥心やぎこちなさが溶け出しはじめ、裸のままであれこれと作業をすることにも慣れてきて、動作やその動きにも着衣のときと変わらない自然さが生まれてくるのを感じていた。

 そして寝室から運んできたレースのカーテンを、康彦の指示に従って右肩から胸へ掛け流し、一部を腰に巻きつけて沙依子はアトリエに立った。

 左の乳房は剥き出しのままだったし、腰回りと秘所のあたりを薄いレースのカーテンが覆っているだけで前面は大きくはだけていたから、太ももや脚のほとんどは露わになっている。それでも沙依子はざらついたレースの感触に慣れてくると、そっと目を瞑って自分のいまある姿を目の裏の鏡に映し出してみた。するとまるで薄衣をまとった古代ギリシャの女性になったようでもあり、ジェラール・ディマシオが描くような躍動感あふれる裸体画の女たちになったようでもあり、ついには狭穂姫そのものになったように感じられてくるのだった。

 康彦は長いあいだ背後にまわって沙依子の髪をいじっていたが、最終的にはひとまとめにして前に持ってくると、ちょっと捻りを加えながら胸の前に垂らしたので、セミ・ロングの髪の先端がかろうじて左の乳首をかくす役割をするかたちになった。そのあとで康彦は、がらくたを積み上げたアトリエの隅からいつか韓国へ旅行したときに慶州で買ったという青磁の壺を持ち出してくると、沙依子の右腕にしっかりと抱え込ませた。ずっと物陰に置いてあった壺は冷たくて、薄いレース地を通すと沙依子の熱い肌にはとても心地よかった。

 「いいか。狭穂姫の沙依子はいま兄の狭穂彦とともに、夫である天皇の軍に攻め立てられて燃えさかる稲城(いなぎ)の中にいる、と思ってくれ。右手に抱いている青磁の壺は生まれたばかりの姫と天皇の子、本牟智和気(ほむちわけ)の御子だと思うんだ。兄の頼みで夫を裏切ってしまった狭穂姫はすでに兄とともに死ぬ覚悟だが、今も后を愛している天皇は、投降するのなら母子ともに許す、と言ってきたから、姫はせめて御子の命だけでも助けてやりたいと苦悩している。沙依子はそういう姫の気持ちになってそこに立っていてくれればいいんだ」

 「イナギって何んなの?」

 「そうだな、古代の砦のようなものだと思えばいいよ」

 康彦はそう言ってしばらく沙依子を眺めていたが、その他には細かな注文を出さないで、さっきそっとデルヴォーの画集の下へ挿み入れたスケッチブックを引っ張り出すと、自分の椅子を沙依子が立っている位置とは反対の壁面まで引きずって行った。そして小指ほどの木炭を目の前にかざして、ぶつぶつと何か独り言をつぶやいていたが、いきなり一本の線をさっと紙面に走らせると、あとはまるで教師が書いた黒板の文字や数式を手早くノートへ書き写す学生のように、沙依子と描画とを交互に見ながらひたすら木炭の先を走らせ続けるのだった。

 沙依子のほうはすでにトランス状態に入っていた。

 抱いている壺の冷たさはすでに遠退いていたし、一日のうちでは最高に達しつつあるアトリエの室温すら感じなくなっていた。

 康彦が暗示したように、沙依子はいま燃えさかる稲城の中にあった。迫りつつある劫火のほむらは血のように赤く、今にも剥き出しの肌を舐めそうだったけれど、少しも熱くは感じなかった。泣き声も立てないで胸にしがみついている我が子の本牟智和気は、全身にむせ返るような乳の匂いを発散させながら母である狭穂姫を見上げていた。後ろを振り返ると、赤い鬼百合のように激しい憤怒の形相をした狭穂彦が、手に持った剣を頭上に振りかざして自分たち母子を守っている。その頼もしくも雄々しい姿は、かつて天皇の眼を偸んでした狭穂彦との逢引きの夜に〈夫と兄といずれか愛しき〉と問われたとき、何の迷いもなく〈兄ぞ愛しき〉と答えた自分に、今もなお芥子粒ほどの悔いもないと狭穂姫に思わせるに十分だった。

 粗末な板敷きの高床に何本も流れ矢が突き立ち、ばちばちと音を立てて燃え上がっている跳ね上げ戸が、あたり一面に火の粉を撒き散らしている。

 今しも炎のただ中へ崩れ落ちんばかりの稲城の外からは、回りを重厚に取り囲んだ皇軍が雷のような怒号を放っているのが聞こえる。僅かな味方の軍勢なのにこれほど長く戦いに持ちこたえられたのは、見事な采配を振り続けた兄の器量に負うところが大きかったけれど、それも最早や限界にきていることは誰の眼にも明らかで、狭穂姫にはもう一刻の猶予とて残されていなかった。〈(謀反を起こした)其の兄を怨みつれども、猶、其の后を愛しむに得忍びず〉とのたまって、兄の命に従って宮中を逃げ出した自分を今なお赦そうとしてくれている夫には申し訳ないが、我が身は決して捕らえられることなく、何とか我が子だけを無事に敵方へ引き渡すための方途に、狭穂姫はいまも狂おしく頭をめぐらし続けているのだった。


 「沙依子、疲れただろう。ひと休みしようか」

 燃え盛る炎と立ちこめる煙の向こうから康彦の声がして、沙依子はようやく深いトランス状態から醒めた。

 陽はすでに赤みを帯びはじめているのが立てかけた葦簀のすき間から見える。どれほどの時間が過ぎたのだろうか、トランス状態になるといつも現われる一羽のカラスが、覚醒とともに沙依子のからだの中から飛び去っていき、入れ替わるように離脱していた自我が戻ってくると、まず壺を抱えた右腕に毛虫が這うようなちくちくとした痺れが伝わり、次にはふくら脛に凝り固まったような硬直と鈍痛を感じて、沙依子は溶けた雪だるまが崩れるようにアトリエの床にへたりこんでしまった。

 「うん。やはり沙依子は素晴らしいモデルだよ。僕は画家としてこんな妹に恵まれたことを感謝しなくちゃいけない」

 康彦は沙依子の前に膝まずくと、壺を抱え取りながら言った。

 沙依子の右腕は石膏のように固まっている。壺はなかなか腕から離れてくれず、康彦が力を込めると腕がぼきぼきという嫌な音を立てた。沙依子はやっとの思いで壺を手放すと心から安堵したのか仰向きになり、虚ろな瞳でアトリエの天井を見つめている。康彦は彼女のからだを愛おしむように、凝り固まってしまった腕を揉み、足や腰を撫でさすってやった。

 「兄さん。《逆乱》はきっといい絵になるわ。そしてきっとヴィエンナーレで入選することになる。わたしにはそれが分かるの。間違いないわ」

 「本当か。でもなぜそんなことが言える」

 「ほんとうよ。なぜなら兄さんの頭の中ではすでにこの絵が出来上がっているはずだから。わたしの中でも完成しているわ。そしてそれはきっと同じ絵だと思うの。だからその通りに描けばいまわたしが言ったようになるのよ」

 沙依子の虚ろな瞳が天井の代わりに康彦を見上げていた。

 藍色の宇宙空間のように神秘な色をたたえた瞳は、トランス状態からまだ醒めきっていないのか、すべての人間を吸い込んでしまいそうなほど妖しく美しかった。そしてその瞳はまた、接する人を何の躊躇いもなくその前に跪かせてしまうような、不思議な力を奥底に宿しているのだった。

 「沙依子、足にキスさせてくれないか」

 康彦はその瞳に向かって言った。長年の瘡蓋が取れてその下に潜んでいた思いが一気に解き放たれたような気がした。

 「うん」

 すると瞬きもせずに藍色の瞳が応じた。

 康彦は身体を少し右にずらせてそっと沙依子の足の甲にキスをした。鮮やかな白い星が浮いている健やかな爪と、このまま口に銜えてしまいたくなるような足指と、こんな細さでどうして体重を支えられるのかと訝ってしまうような足首が、康彦にはひどく愛おしくもありまぶしくもあった。

 「ねえ、康彦兄さん・・」

 沙依子の甘え声が左の耳から入ってきた。

 犬は苦手でも彼女はもともとが気丈な女だったから、幼い頃はともかく康彦はこれまでそういった甘え声を聞いたことが無かった。それに「康彦兄さん」などという呼び方も初めてで耳なれない。応えないでいると沙依子はそのまま言葉を続けた。

 「・・本牟智和気の御子は天皇の子ではなく、ほんとうは狭穂彦の子だったということは知ってる?」

 「うん知っているよ」

 「狭穂姫はどこまでも狭穂彦が好きだったのね」

 「いや兄のほうがもっと好きだったのさ」

 「え・・」

 「そうでなければ敗れて死ぬと初めから分かっている謀反なんか起こさない。兄の狭穂彦はこの国や帝位が欲しかったんじゃない。ただ天皇に奪われた妹を取り返したかっただけなんだ」

 「わたしももそうだと思うわ。でもその天皇は姫から託された御子を自分の子だと信じていたのかしら」

 「おそらくそうは思っていなかった」

 「だとしたら后の不倫で出来た御子の命を助けてやったばかりか、以後もどうして大切に育てたりしたのかしら」

 「いまなら不倫と言われるけど、古代には一族の血を守るための近親結婚などはごく普通のことだったんだ。だから兄と妹が結ばれて子を成したとしても別に奇異なことじゃなかった。垂仁天皇と狭穂彦王はともに開化天皇の孫だから、もともとが従兄弟の関係だったわけで、たとえ御子が狭穂彦の子だったとしても歴とした同族だし、しかも開化天皇の正統な血を受け継いでいるわけだ。当時は生まれた子が無事に成人する確率はとても低かったから、我が子でなくとも世子としての資格を持っている同族の子なら何人でも欲しかったはずだ。だから本牟智和気の御子を大切に育てたということもあるだろう。とはいえ垂仁天皇が最後に帝位を譲ったのはやはり別の御子だったんだけどね」

 「疑う余地が無い自分の子に帝位を譲りたかったわけだ」

 「まあそういうことだけど、もし御子の中で本牟智和気だけが生き残っていたとすれば、天皇はきっと彼を世子にしただろうね」

 「いまと違って迷わずにそうしたと言いたいんでしょう」

 「そうだね」

 「女性はこの時代すでに相手を自由に選べなかったし、男系の血筋を伝えるための道具に過ぎなかった。ところが狭穂姫は垂仁天皇に背いてまで自らの愛を貫いたばかりか、殺そうとまでして兄とともに死んでいった。だからこの物語はわたしたちの時代の不倫や近親相姦という捉え方ではなく、あくまで一人の女性としての人格を主張し通した狭穂姫の意思の堅固さが、古代の社会では余りに異様で強烈であったたために、記紀にまで大きく取り上げられることになったと考えるべきなのね。でもずっと女を道具として使ってきた男たちが、たびたび自分の子かどうかで悩んだというのは皮肉な話よね」

 「もっと以前なら、女性は子を生むという驚異の力を秘めた存在だったし、男には無い憑依力や予知能力を持つ神聖な性だったんだ。たとえば島に流れ着いて日本人の祖先になったと言われている玉依彦と玉依姫の兄妹がそうだ。村落や国家の初めはすべてそういう女性たちの導きで始まったと言える。狭穂姫は日に日に失われていく女の性の復権を訴えたかったのかも知れないね」

 「そこまで理屈っぽく考えると狭穂姫にはちょっと迷惑かもね」

 沙依子はそう言って両腕を持ち上げると熱い手を康彦の首にからめた。

 からだに巻いたレースのカーテンから、康彦の鼻腔をくすぐるような太陽の香りがした。だがそれは沙依子自身の香りだったかも知れない。

 太陽の香りがするとあの島影が現われる。

 大海原にぽつんと浮かぶ島は、始めは群青の海に包まれた緑の一点に過ぎない。だが空を飛ぶ康彦は獲物を見つけた海鳥のように急降下して、たちまち海面すれすれにまで達すると、次には海鳥から飛び魚へと変身して波間を突き進み、島へ、島へ、と凄い速度で接近していく。そして汐とオゾンの香りが康彦を押し包んで、島がどんどん大きくなって南洋杉やシマトネリコや椰子の木の芳香が緑のシャワーとなって降り注いでくると、康彦は次第に意識が朦朧となっていくのだった。

 島に打ち上げられた康彦は熱くて白い砂浜に身を横たえていた。

 漂着したロビンソン・クルーソーのように、康彦は熱い砂の上で身動きも出来ず、口もきけないまま、青く澄んだ空と心安まる島の緑に囲まれ、気ままな海風と寄せる波に肌をなぶられながら、ひどく間合いが長く感じられる波の音を聞いている。砂浜と同じように風と波は熱かったけれど、長い時間が経過するとそのどちらもが心地よく感じられるようになって、気がつけばシャツやズボンが風化してしまったように康彦の身体から消え失せていた。金縛りに会って身動きも出来ない康彦の肌を熱い砂と風と波がもてあそび、徐々に高まってくる不思議な快感に身を任せているうちに、打ち寄せる波の間合いはいよいよ尻上がりに短くなり、風の勢いは強くなりはじめ、コロイド状の熱い波が股間を舐めはじめると、康彦はまるで島の一部になったように感じて恍惚状態となり、嬉々としてそれらの中へ溶け込んで行く自分の姿が、素裸になって水遊びをしたり、母に浴槽で抱きしめられた幼少の頃の思い出のように、遠い記憶の襞からくっきりと眼前に投影されてくるのだった。


                  4

 裏山の雑木林にも秋が深まって、ひからびたお椀型の殻斗をつけているどんぐりの実や、鱗片から種子を落とし終わった松かさや、熟れて女陰のかたちをしたアケビなどが、赤や黄の落葉の上に音を立てて落ちはじめる頃、比良坂康彦と沙依子が住んでいる高台の住宅地に二つの奇妙な噂が流れるようになった。

 「用水池でまた犬が死んでいたそうよ。今度は杉野さんのお宅の秋田犬なんだけど、前からずっと数えている人がいて、これでもう十二頭目になるんだって」

 「変だわね。警察は動いていないの」

 「飼い主が調べてほしいと頼んだそうだけど、どの犬にも外傷とか絞められた跡などが無いし、ネズミ駆除の毒薬も食べていないから、誰かが何かの目的で虐待したり殺しているとは思えない、というのが警察の結論なんだそうよ」

 「警察は犬の自殺だとでも言いたいのかしらね」

 「バカバカしいけれどそうなるわね。それにしてもこんなに連続するなんて常識では考えられない。この土地は新開地なのに呪われているのかも知れないわ」

 「まあ恐ろしい」

 「もう少し経つとこのあたりには犬がいなくなってしまうわ。犬なんかいなくても構わないけれど、まったく気味の悪い話よね」

 というのが噂の一つであり、

 「ほら、画家の比良坂さんの妹で沙依子さん。あの人は隣町で小学校の先生をしているんだけど、独身なのにいま妊娠していらっしゃるんだって。まだお腹も目立たないから誰の眼にも分からないというのに、わざわざ児童を前にした教室でそのことをおしゃべりしたものだから、校内ばかりか隣町中に広まって、校長先生なんか頭を抱えておられるそうよ。先生の身で未婚の母にでもなるつもりなのかしらね」

 「それよりも子どもの父親はお兄さんだという吃驚するような噂があることをあなたは知ってらっしゃる?」

 「そりゃ知っているわよ。でもいくら何でもそこまでは信じたくないわ」

 「でもどうやら本当らしいのよ」

 「厭あね。いったいどういうつもりなのかしら」

 「つい最近、東京の有名な美術展で入選されたばかりだというのに、それが事実なら比良坂さんもこのさき画家としてはやっていけなくなるわね」

 というのが二つ目の噂だった。

 どちらも笠原さんの奥さんが康彦に教えてくれた。

 沙依子の留守を見越して家にやってきた笠原さんは、いつものように、お裾分けなんだけど、と言って一本の松茸を届けてくれたあと、勧めてもいないのに玄関の上がり框へ腰を下ろし、まずは犬の自殺事件を大きな声で披露し終わってから、いきなり声を潜めると、沙依子の妊娠をめぐる一件をいかにも悔しそうな顔で報告してくれたのである。彼女がそういう顔になったのは、おそらく沙依子の噂を聞きつけたのが最近のことで、すでに噂としてはかなり手垢が付いたものだった上に、これほど刺激的で第一級の噂を他人から聞かされたということが、つねづね比良坂家とはいちばん親しいと自負し吹聴している隣人としては、痛く自尊心を傷つけられたからに違いなかった。だがそれはまた、沙依子をめぐる噂が近隣に住みかつ親しい間柄だとする彼女から出たものではないという証明にもなっていた。

 「ねえ比良坂先生、噂をこのまま放っておくんですか」

 笠原夫人は廊下に立ったままの康彦を見上げて訊ねた。

 子供会や自治会は言うまでもなく、あらゆる地域活動に参加している彼女は、並外れたおしゃべりという欠点を除けばもともと世話好きでお人好しな女性なのである。

 「放っておくも何も僕たちには他に方法が無いでしょう。こちらから噂を否定して回るというのも変だし」

 動揺を表に出すまいと康彦はつとめて素っ気なく答えた。

 「それならいちばん親しくお付き合いしている私がそのお役目をさせてもらえますか。あちこちでそんな噂を強く否定してきますわ」

 「いや、今のところは捨てて置きましょう。いちおう沙依子にもどうするか意見を聞いてはみますがね」

 「沙依子先生は本当に学校でそんなことを言われたんでしょうか。未婚の母なんて今どき珍しくも無いし、特に悪いこととは思いませんが、わざわざ小学生に聞かせることではありませんからね。信じられませんわ」

 「もし本当なら何か考えがあってのことでしょう」

 「そうですわね。聡明な沙依子先生が何の考えも無しにそんなことを言われる筈が有りませんものね」

 笠原夫人は立ったままの康彦を見上げながら長話をしているうちに首が痛くなったのか、ぐるぐると頭を回転させると、それを機にようやく重い腰を上げた。

 歓迎しない客は立って応対するのが最善の策である。たとえ相手が座り込んでも決して座布団などを出してはいけないし、まして気を遣ってこちらも座り込んだりしてはもっといけない。これまで画家として生きてきてそれほど世知に長けているとは言えない康彦でも、時おり訪ねてくる画商たちの応対や僅かな駈け引きをしているうちにそれくらいの知恵はついていた。

 実は康彦は沙依子が妊娠していることをこのとき初めて知ったのだ。

 表情には現さなかったが康彦はたちまち脳梁を蚯蚓が這うような悪寒に見舞われた。だから笠原夫人には気付かれなかった筈である。

 沙依子という得難いモデルを見つけた日から、康彦は猛然と《逆乱~狭穂姫と狭穂彦》の絵に取り組みはじめ、暑い盛りの一ヵ月余りを費やして一息に描き上げた。その結果、自分で自分を讃めてやりたいほど見事な作品が仕上がって、予定通り初秋に東京で開かれたヴィエンナーレへ出品するや、美術界の各方面から数々の称賛の言葉を送られて、沙依子が予言した通り優秀作に入選してしまったのである。

 続いて十月に開いた個展もその効果があって大盛況で、これまでに描きためた三十枚の油絵は非売品にした四枚のシリーズ作品以外はすべて完売するというような有様だった。だが沙依子はそれらの出来事にも顔色ひとつ変えずにてきぱきと対応し、タレントの決まったスケジュールを手際よくこなすマネージャーのように、画商と折衝を重ねたり、今後も展示してくれる画廊に渡りをつけたり、果ては画材屋に対する値切りから支払いまでのほとんどを、たった一人で取り仕切ってくれたのだ。

 そんな日々を送っていたから、康彦は沙依子が妊娠しているなどとは考えもしなかった。だがそれが事実なら、夏の日のアトリエで見たあの白昼夢は大きな意味を持ってくる。原始の女性にはっきりと立ち還った妹は兄と結ばれることによって新たなパワーを得たのである。そして十二頭の犬を殺したばかりか、あえて兄妹相姦の噂を流すことで、兄の全てを支配すると宣言しているのだ。

 笠原夫人が二つの噂を伝えていった日の夜、沙依子はめずらしく午後八時を過ぎてから帰宅した。そして慌ただしくキッチンへ駆け込んでくると、応接間のソファでバーボンのロックを飲んでいる康彦に「遅くなってごめんね。すぐに夕食の支度をするから」とか「もうすぐ出来上がるからね」としきりに声をかけながら、それでもたいした時間をかけないで手際よく食卓の準備をした。

 「笠原さんの奥さん、今日も見えたのね」

 食器棚から小鉢を取り出しながらさりげなく沙依子が訊ねた。

 「うん、松茸を少しばかり頂いたよ」

 「そのようね。今夜は間に合わなかったけど明日にでもいただきましょう。でもこんな高価なものを持って来たんだから、また長話をしていったんでしょう」

 「まあね。最近このあたりで頻発している犬の自殺事件のことや、沙依子が未婚の母になるらしいという噂が立っていることなどを伝えに来てくれたんだ」

 「やっぱり。そうだと思ったわ」

 出来たばかりの料理をテーブルに並べ、エプロンを外しながら沙依子が言った。だが腹を立てている様子はまったく見えない。

 「妊娠なんかしていないのに、どうしてそんな嘘を言い触らしたりしたんだ」

 康彦は皿に盛られたフライ麺を齧りながら努めて素っ気なく訊ねた。

 沙依子はいつの間に身につけたのか料理が得意で、麺の揚げ方も巧みだが八宝菜の味がまた格別だった。死んだ母は褒められた腕ではなかったのに、その娘がつくる料理は大阪に住むようになって口が肥えた康彦にも、文句のつけようが無いくらい美味しい。宮津でも大阪でも料理学校へ通ったという事実は無かったから、沙依子のやる料理はあくまで自己流のはずだったけれど、有り合わせもので手早くつくる才能といい、味付けの加減や盛りつけの美的感覚といい、料理もまた絵画と同じで他人から教わるものではなく、持って生まれた天性と創造性に左右される分野なのだと思わずにいられなくなるほどである。

 「だって嘘じゃないもの」

 小鉢に盛ったザーサイを箸の先で摘みながら、沙依子は素っ気なく応じた。フライ麺は冷めかけようとしているのに、まだ少しも手がつけられていない。

 「それなら誰の子どもなんだ」

 「もちろん康彦兄さんの子よ」

 「そんないい加減なことを言って僕を縛りつけようとしたって駄目だ」

 「いい加減では無いし、縛りつけるつもりも無いわ」

 「僕は犬じゃない。沙依子を悩ませもしない代わり、思い通りにもならないよ」

 「そんなに厭ならわたしから逃げ出せばいいじゃない」

 「逃げ出せないようにしているのは誰なんだ」

 「わたしだと言いたいんでしょうが、そうじゃないわ。逃げられないのは康彦兄さん自身が持っている血の記憶のせいなのよ。それとも古代の人がみんな持っていた遺伝子の記憶と言ったほうがいいかしら」

 「話をはぐらかさないでくれ」

 「はぐらかしてなんかいないわ。わたしと同じように康彦兄さんにもこれまで閉じ込めていた太古の記憶が蘇っただけだと言っているのよ」

 「沙依子がそう仕向けたんだろう。僕はそんなものを蘇らせてくれと頼んだ覚えは無いし、望んでもいなかった」

 「違うのよ、康彦兄さん」

 沙依子はそこでまた甘え声になって、駄々をこねる児童を教室でなだめるように康彦の顔を覗き込んだ。

 「また話をはぐらかすようだけど、わたしの中には一羽のカラスが住んでいるの。そのことは幼い頃からぼんやり感じていたけれど、初潮を迎えたときにはっきりと意識させられた。カラスは時々気紛れに私のからだから出ていったりするわ。でもまたすぐに戻ってくるから、わたしの中に住み着いているというより、もしかするとわたし自身がカラスなのかも知れないわね」

 「・・・」

 「性に目覚めたときわたしは不思議な島の幻影を見たの。それは南の海に浮かんでいて、わたしの背に生えた羽根をずっと休めていたくなるような緑の島だった。そんな幻影をもたらしたのはきっとカラスの仕業だと思うけれど、宮津でのわたしはいつも康彦兄さんとその島に抱かれて幸せだった。そしてついには兄さんとその島が一体になってしまった。そんなときにわたしたちは引き裂かれたのよ」

 「・・・」

 「宮津と京都に離れている間は大人しくしていたカラスも、同じアパートに住むようになってからは手がつけられないほど奔放に飛び回るようになった。それだって六年ものあいだわたしを放っておいた康彦兄さんが悪いのよ。だからわたしはもう我慢したりしなかった。康彦兄さんはわたしだけのものだし、それは兄妹として生まれた時から決まっていたことなんだから」

 「だから沙依子にしてみれば僕と君恵が結婚したことなんて端から問題外だったと言うわけか」

 「康彦兄さんはわたしから逃げ出すために君恵さんと結婚した。君恵さんもやがてそのことに気付いたから別れる気になった。うまくいかないってことは最初から分かっていたはずよ。それなのに康彦兄さんは君恵さんと別れてからもなかなか壁を越えようとはしてくれなかった」

 「それでとうとう我慢ならなくなって僕を力でねじ伏せようとしたのか」

 「そうよ」

 「すると狭穂姫のモデルになってくれたあの日、やはり僕は沙依子と・・・」

 そこで康彦は声を詰まらせるとグラスのバーボンロックを一気に呷った。

 焦げた玉蜀黍の香りが口中に広がって、かち割り氷で凍てついていた酒精がきりきりと康彦の舌を刺した。


 それから二日後のことだった。

 康彦がいつものようにアトリエでキャンヴァスに向かっていると、いきなりリビングルームにある電話が鳴りはじめ、受話器を取らずにそのまま放っていると、一度鳴り止んだコールが間を置かずにまた鳴り出した。それで仕方なくパレットと絵筆をテーブルの上に投げ出すと、康彦は重い気分で椅子から立ち上がった。

 「もしもし、比良坂画伯のお宅でしょうか」

 受話器を上げると切羽詰まったような中年男の声が流れてきた。受賞歴のある画家だとはいえ康彦には画伯という言葉がまだ面映ゆい。

 「そうですが、そちらさまは?」

 「M小学校の教頭で弦巻と言います」

 「ツルマキ・・さん」

 「よく聞かれます。弓矢のツルに巻き物のマキと書いて弦巻と読むんです」

 「はあ・・。そうだ、沙依子がいつもお世話になっております」

 「その沙依子先生が大変なんですよ」

 弦巻教頭はまた切羽詰まった声に戻ったが、電話の向こうではかなり興奮している様子が伝わってきた。

 「今日は沙依子先生が担任をしておられるクラスの野外授業だったんですがね。M市の郊外にある自然公園で沙依子先生が野犬に襲われて救急車で病院に運ばれたという連絡が、一緒に行った補助教員のほうからいま入ったばかりなんです。詳しい状況はまだ分かりませんが、M市民病院へ運び込まれたということですので、ともかく急いでお知らせしたような次第です。学校からは公園と病院へ応援の先生を派遣しましたが、ご心配と存じますので、比良坂画伯にもすぐ病院へ駆けつけていただいたほうが良いのではないかと思いまして・・」

 教頭は最後のほうの言葉を少し口ごもったが、急いでそれだけのことを告げ終わると、それではまたのちほど、と言うなりそそくさと電話を切ってしまった。

 康彦はしばらく頭がぼんやりして事態の把握に手間取ったが、笠原さんの家のあたりからいきなり聞こえはじめた青竹売りのトラックの、けたたましいスピーカー音ではっと我に返った。そして受話器を握りなおすと駅前のタクシー会社へ電話を入れ、卓袱台の上に置いてあった財布を鷲掴みにすると、絵具で汚れた上っ張りもそのままに家を飛び出していた。

 顔なじみの運転手は、急いでM市民病へ行ってくれ、と告げたきり黙りこくっている康彦に向かって、先生どうかされたんですか、とバックミラーを覗き込みながら訊ねたが、康彦はそれには答えないでずっと顔を強ばらせたままだった。

 M市民病院は国道から少し西へ入ったところにある。以前は国道添いにあったのだが、古くて手狭な病棟では急速に増えた市民の需要に応えられなくなり、市が所有していた小山などを切り崩して、そこに近代的な総合病院を建設したのである。だが建物や機器は立派でも、医師たちのほとんどは契約医だったから、余り信頼が置けないという悪い評判が立ちつつあって、市の当局を慌てさせていた。

 康彦が病院に駈け込むと、沙依子は救急室のベッドに腰掛けて痩せた女と話し込んでいた。そして痩せた女の肩ごしに康彦の姿をみつけると、沙依子はいきなり顔をくしゃくしゃにして涙ぐんだ。痩せた女も驚いて後ろを振り返った。

 「泣いたりするやつがあるか。大したことも無さそうで安心したよ」

 康彦がそう言って肩に手を置くと、沙依子はさらに激しく泣きじゃくった。

 セーターをたくし上げた右手に巻かれている真新しい包帯が康彦の目に沁みた。痩せた女はそんな二人を困ったような顔でしばらく窺っていたが、やがて固い表情をして康彦のほうへ向き直ると勝手に自己紹介をはじめた。

 「お兄さんですか。同僚の桜井と言います。沙依子先生とは同じ五年生のクラスを担当しておりまして、いつも仲良くさせていただいております」

 「失礼しました。比良坂康彦です」

 「この度はほんとうにご災難で・・」

 「いいえ、皆さんにはいろいろご心配をお掛けしたようで」

 「お医者さんによれば幸いお怪我は軽くて済んだようです。右腕に小さな犬の歯型がついているそうですが、セーターの上から噛まれたということもあって、傷はそれほど深くないということです」

 「そうですか。他には何か」

 「失神して倒れたときに肩の辺りを打撲されたようですが、これも大したことは無いと。念のために狂犬病の検査もしていただきました」

 「どうしてこんなことになったんでしょう」

 「私にも詳しいことは分からないのですが、すぐに救急車を呼んでくれたり、病院まで送ってくれた公園の管理人さんの話によれば、子どもたちがお弁当を開いているときに何処かから野犬が迷い込んできたんだそうです。喜んだ子どもたちがお握りや卵焼きの残りをやったりして、しばらくの間は何事もなくその犬と遊んでいたらしいのですが、犬がいることに気がついた沙依子先生が急に青くなって震え出したのを見て、子どもたちが面白半分でその犬を先生にけしかけたようなんです。犬もそれまでは大人しかったのに、いきなり牙を剥き出して沙依子先生へ襲いかかったということです。まことに申し訳ありません」

 「いやこれは動物相手の突発事故なのですから桜井先生に謝っていただく筋合いのものではありません。それで犬はどうしました」

 「犬は死んだそうです」

 「死んだ・・」

 康彦はそうつぶやくと、俯いて二人の話を聞いている沙依子を睨みつけた。それには気づかなかった桜井先生はさらに話を続けた。

 「これも管理人さんから伺ったことなのですが、沙依子先生が失神して倒れられた直後に、犬のほうも激しく四肢を痙攣させて倒れたということです。狂犬病の有無を調べるために犬の死骸のほうも運んできたそうですから、いずれ死因も分かるのじゃないかと思いますが、たぶん心臓麻痺のようなものだろうということです」

 「そうですか」

 「これも不幸中の幸いですわ」

 「はあ」

 「だってその犬が心臓麻痺を起こしてくれなければ、沙依子先生はもっとひどい目に遭っていたかも知れないんですからね」

 「なるほど、仰る通りです」

 桜井先生は犬の突然死に対して欠片も疑念を抱いていないようだった。

 だがそれは彼女が現場に居合わせなかったからで、補助教員や児童たちの幾人かは異様な光景を目のあたりにして、おそらく肌に粟立つものを感じたはずである。だが今となってはそれも仕方が無いと康彦は思う。

 桜井先生が帰ったあと、康彦は手早く会計を済ませると、沙依子を促して病院を出た。なじみの運転手はすでに帰していたから、ロータリーで客待ちをしている流しのタクシーを拾ったが、さっき通ったばかりの国道を逆走しはじめたとき、康彦はようやく玄関の鍵を掛け忘れて家を飛び出してきたことに気がついた。沙依子は車外をみつめたまま黙りこくっている。高台の住宅地へ帰り着くころには、街路樹や電柱の長い影が道路にまで伸びて、裏山に半分落ちかかっている気の早い夕陽が、すっかり落葉して裸木になったクヌギやナラの梢のあいだで、餅網を載せた練炭火鉢のように白っぽく弱々しい光を放っていた。

 鍵をかけ忘れた玄関のドアを開いて康彦は驚いた。

 黒いスーツを着た中年の男が上がり框に腰掛けていたのである。大きなカバンでも抱えていれば押しの強いセールスマンかと見まがうほど、男の態度は堂々としていたから、背後から沙依子が「あっ、教頭先生」という頓狂な声を上げなかったら、康彦は思わず男に向かって非難の声を投げつけていたことだろう。

 弦巻教頭はべつに悪怯れもせずその場にすっと立ち上がると、まずは勝手に玄関へ入り込んだ非礼を詫びたあと、続いて沙依子への見舞いの言葉を述べた。それほど広くない三和土の上で三人が挨拶を交わしはじめると、お互いに頭がぶつかりそうになったので、教頭をとりあえず応接間へ招じ入れて、

 「沙依子がいつもお世話になっていますのにご挨拶にも伺いませんで」

 と康彦がソファを薦めながら簡単な謝罪をすると、弦巻教頭のほうは禿げ上がった艶のよい前頭部を光らせながら、

 「いやいやそれはお互いさまです。それにしても実に素晴らしいお住まいですな。こんな立派な家は私どものような薄給の教員にはとても手が届く代物ではありません。そうそう、このたびは絵画界でもとりわけ有名な賞をお受けになったそうで、新聞やテレビなどでも度々拝見させていただきましたが、まことにおめでたいことでございました」

 「有難うございます」

 「ははあ、これが日本神話を題材にされたというその絵ですな」

 弦巻教頭は応接間に掛かっている絵を黒縁の眼鏡に手を添えてしげしげと見つめながら深い嘆息を洩らした。

 「いやこの絵はシリーズ作品の第一作目でしてね。賞をいただいた絵は母校の美大から要請があっていま貸し出しをしておりますところでして」

 「なるほどごもっともなことです。それはご出身校にとりましても大変に名誉なことですからな」

 そう言って教頭は少しばかり鼻白んだが、ちょうど沙依子が運んできた渋茶に助けられたように茶碗へ手を伸ばすと、

 「これはどうも、病院から帰られたばかりなのですからどうぞお構い無く。ところで沙依子先生にはまことにご災難な事故でした。野犬に噛まれたあとはひどく痛んだりはしませんか」

 と声をかけて巧みに話題を逸らした。

 沙依子が言葉少なに怪我の状況を説明したあと、事故によって学校や児童たちに迷惑をかけたことを改めて詫びると、弦巻教頭はその言葉を待ち受けていたかのように大きく膝を乗り出して、立ったままの沙依子に座ってくれるよう頼みながら、ごそごそと背広のポケットをまさぐってタバコを取り出した。

 「実は今日お宅にお伺いしましたのは、沙依子先生のお見舞いということもあるのですが、他にも色々とご相談したいことがあったものですから」

 弦巻教頭は二人から目を逸らしたまま言いにくそうにそう告げた。

 そして両切りタバコの吸い口のほうを軽く指で揉み上げて、がっしりとした鳩胸を後ろへ反り返らせると、スリーピースの背広のポケットから摘み出したダンヒルのライターへおもむろに火を点けた。

 「沙依子先生。いきなりお宅まで押し掛けた上の唐突な申し出にきっとお腹立ちになるとは思いますが、この際ですから率直に申し上げさせていただきます。先生、学校を辞めていただくわけには参りませんでしょうか」

 しかし沙依子と康彦は黙ったまま答えない。それでも康彦はちょっと眉を顰めたようだったが、沙依子のほうは驚きの様子すら見せなかった。

 弦巻教頭は自らが発した言葉の重大さをことさら強調するように、そこで一度大きくタバコの煙を吐き出してから続けた。

 「すでに何度か教職員組合とは話し合ってきたことですが、これ以上、先生が我が校にいらっしゃると父兄との間に厄介な事態を惹き起しかねないという見解では、すでに組合との間で一致しておるのです。理由はすでにお分りのことと思いますのであえて申しませんが、今日明日にでも退職を勧告させていただこうと思っておりました矢先に、またもや今回の犬騒動です。学校に帰ってきた児童たちは口々に奇妙なことを言っています。つまりまたもや妙な噂が立ちはじめているのです。私どもはそんな噂を信じたりはしませんが、かといってこのまま放置しておくわけにもいかないのです。校長先生もそれでひどく頭を悩ませています。教育委員会のほうから呼び出しを受けたら何とも答えようがないからです」

 弦巻教頭はそこでちょっと言葉を区切ると、右手に握っていたライターを大事そうにポケットへしまい込んでから、一口か二口吸っただけのタバコの先をクリスタルの灰皿にぐいと押しつけた。

 「そういうわけですから、まことに一方的な申し状とは思いますが、このままでは沙依子先生のほうだって傷つかれます。それこそ私どもの本意ではありません。おなじ教職につく仲間としては先生を守って差し上げたいという気持ちに変わりは無いのです。ご理解いただけますでしょうか」

 弦巻教頭の声が途絶えると、タバコの煙とともに淀んだ空気が応接間に漂った。

 康彦はそのとき、また裏山のウグイスの鳴き声を聴いたように思った。だがこれまでの経験からして、ウグイスの声が聞けるのはせいぜい夏の終わりまでで、秋も深まったこんな季節に聞くことは無かった。そこでもう一度耳を澄ましてみると、北西風が吹きやんだとはいえまだ木の枝を揺すっている裏山からは枝ずれの音すら聞こえてこず、康彦はやはりそれが幻聴に過ぎなかったことを知った。

 沙依子のほうは芥子色のセーターの上から右腕の傷のあたりをそっと掴んで、弦巻教頭の話をまるで他人事のように聞いていた。教頭を黙殺しているのか一度も彼に向って視線を投げかけず、康彦のほうばかりを見つめ続けている。その瞳が哀願するように、そして命令するように、康彦へメッセージを送り続けていた。

 〈康彦兄さん、島よ。島へ帰るのよ〉

 そうか、島か、と康彦は思う。

 そして幻聴だと思ったウグイスの声は裏山から聞こえてきたのではなく、夏の日のアトリエで見た白昼夢いらい、ついに康彦を完全に呑み込んでしまったあの緑の島から聞こえてきたのだ、ということにようやく気づくのだった。

 「教頭先生、お話はよく分かりました・・」

 康彦の口から弦巻教頭が狂喜しそうな答えが淀みなく流れ出た。

 弦巻教頭は予想外の展開にしばらく呆気にとられていたが、やがて嬉しさがこみあげてきたらしく、ちょっと皺の寄ったハンカチを取り出して外した眼鏡をごしごしと磨きはじめた。彼はこみあげてくる笑いを噛み殺しているだけでなく、たった一度きりの訪問で望外にも釣り上げた手柄の大きさに自ら感動していたし、さらにはその手柄を校長への報告の中でどう強調すれば効果的かということにまで、俯いたままで早くも考えをめぐらせている様子だった。

 一方の沙依子のほうは、自らの意思を確かめもしないで勝手な話を進めている男たちへ取り立てて腹も立てずにただ頷いているだけだ。それもその筈で、犬に襲われたのは偶然の出来事だったとしても、いずれこういう展開になるであろうことは沙依子の計画と予想の範囲内であったに違いなく、すべてが思惑通りに進んでいて、男たちはその筋書きをただなぞっているに過ぎないのだ。

 だがそれでも構わないと康彦は思う。

 〈僕たちはもう一度原初に立ち帰って、兄妹二人だけでムラづくりを始めるのだ。沙依子と僕はそのためにこれから島へ向かって旅立とうとしている〉

 二人は誰にも捉えられない透明な視線をからませてそう交信し合った。

 だが俯いたまま必死に笑いを噛み殺しているだけの弦巻教頭に、兄妹のそういう異様な思いが分かるはずも無かった。


 比良坂康彦から久保君恵のオフィスへ書留が送られてきたのは、紅葉も終わった十二月の初めのことで、その中には康彦から君恵名義へと書き替えた家の権利書と短い手紙が添えられていた。手紙には、この家は不要になったので君恵に譲ること、二度とこの家に帰ることは無いから不必要なら自由に処分しても構わない、ということだけが記されていた。そしてなぜかわざわざ最後の一行を使って、足の千切れたハムスターだけは一緒に連れていく、と書き添えてあった。

 比良坂康彦と沙依子の兄妹はこうして高台の住宅地から消えた。

 またもや笠原さんの奥さんが知らない間の出来事で、その月の代金が封書で送られてきた新聞販売店や酒屋の主人たちが不審に思って比良坂家を覗いてみると、家のそこかしこはすでに閉め切られて人気は無く、数日の間に吹き寄せられた枯葉の固まりが、太い門柱の下で風にあおられて渦巻いているだけだったのである。

 そうなると隣人たちは、沙依子先生が妊娠しているという噂はやはり本当だったのね、とか、赤ちゃんはやはりお兄さんの子だったのね、とか口々に憶測を交わしあって、しばらくはそんな話題で喧しかったが、やがてあちこちの家で新たに飼いはじめた犬が以前にも増してうるさく啼きはじめる頃には、もうほとんどの人たちはそんなことがあったことすら忘れてしまって、間近かに迫った市長選挙の見通しや国道添いで起きた悲惨な交通事故の話題を、犬に散歩をさせながら語り合うのだった。

 だが笠原さんの奥さんだけはいつまでも二人のことが忘れられず、それから一年ばかりして比良坂家に売家の看板が立ったあと、あまり間をおかずして新しい住人が住み始めてからも、なぜかまだ比良坂兄妹が住んでいるような気がして、つい家の中を覗き込んだりしてしまうのだった。彼女は美術誌まで取り寄せて調べてみたが、康彦は絵をやめてしまったのか作品はおろか名前も見出せなくなっていたし、M小学校にまで足を運んで桜井先生や弦巻教頭にあたってみたが、教師の職そのものを辞めてしまったらしく、沙依子先生のその後を知る者は誰もいなかった。

 そしてさすがに比良坂兄妹のことを忘れかけたころ、何の因縁か笠原さんの奥さんは長男が康彦の学んだ京都の美大へ入学することになり、しきりに嫌がる長男に付き添って春の式典にむりやり臨んだとき、康彦が大学に寄託したまま残していった《逆乱~狭穂姫と狭穂彦》の絵をみる機会に恵まれて、期せずしてその絵の中で久しぶりの比良坂兄妹に会うことが出来たのである。

                                  〈了〉

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玉依姫考・海へ 歌垣丈太郎 @jo-taro

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