第2話 前進




 季節は日々移り変わっている。

 気づけば社員食堂の窓の向こうに聳える桜も、今は青々しく葉を茂らせていた。

 大型連休も終わり、久しぶりに五十嵐さんに会えるので、私は清々しい気持ちでいた。

 先輩と一緒に昼食を終えて、食堂を出たところだった。

 ちょうど五十嵐いがらしさんも食べ終えたらしく、出入り口で顔を合わせる。

 何となく目が合う。

 五十嵐さんはにこっと私に笑顔を向けてくれた。

(飲みに誘ったら、また一緒に話せるかな)

 そんな想いがよぎる。

 彼女が私のことをどう思っているかは全く分からない。同じ部の違う課の後輩くらいには思っていてくれるかもしれない。

 けれどそれ以上の感情を持たれているかと言われたら、きっとない気がする。

(でも何もしなければ何も変わらない)

「五十嵐さん」

 私は思い切って声をかけた。振り返って立ち止まってくれる。

「私、先に戻ってるね」

 先輩は気をきかせてくれたのか、さっさとその場から離れてしまった。

三留みとめさん、お疲れ様です。何かご用ですか?」

「少しだけお時間いただけますか? 一分でいいので」

「まだお昼休みは終わってませんから、焦らなくても大丈夫ですよ。あそこで話しましょうか」

 五十嵐さんは食堂の隣りにある小さなロビーを指した。

 私たちはそこのソファに腰をかけて向かい合う。

「あの、五十嵐さん⋯⋯」

 ここでいきなり飲みに誘ってもいいのかと疑問になる。やはり図々しいのではないか。しかしせっかく五十嵐さんが聞いてくれる姿勢なのに、何でもないと言って誤魔化すのも失礼になる。

「大事なお話ですか?」

 気遣わしげに私を見ている。これではますます誘えない。

「えっと、仕事のご相談をしたいといいますか」

「私なんかでよければお話お聞きしますよ。でもこの場でだと、時間足りませんよね?」

「そうですね」

 私は思わず嘘をついてしまった。罪悪感で上手く五十嵐さんの顔を見られない。

「ではどこかで改めてお話することにしましょうか。どこがいいでしょう」

「こ、この間の飲み屋さんはダメですか?」

 軽蔑されないかと、胸がどきどきしてくる。

「分かりました。それでは、あそこで」

 五十嵐さんは名刺を取り出すと、裏にボールペンでさらさらと何かを書いた。

「こちらは私用の電話番号とメールアドレスです。ご都合がいい時に連絡してください。今晩でもいいですよ」

「ありがとうございます⋯⋯!」

 私はうやうやしく名刺を受け取った。

「あの、今日お願いしてもいいですか?」

「ええ。それじゃ、今晩ということで。お仕事が終わったら電話かメールしてくださいね」

 私は再び五十嵐さんとの時間を手に入れることができてしまった。

 

 

「ごめんなさいっ」

 飲み屋で向かい合って、私は五十嵐さんに頭を下げていた。

 仕事の相談などと言ったけれど、本当は好きな人と一緒に過ごしたいという私の身勝手なわがままに付き合わせてしまっている。

 やっぱり騙している罪悪感がぬぐえなくて、もしこれからも五十嵐さんとこうして話せるなら、毎回私は後悔に悩まされるだろう。真剣な悩みかもしれない、と心配してくれたであろう五十嵐さんにも失礼だ。

「私、本当は悩みとかがあるわけじゃないんです。五十嵐さんに相談したいというのも嘘で⋯⋯。この間、一緒に飲んだのが楽しくて、また五十嵐さんと飲みたかっただけなんです。嘘ついて申し訳ありませんでした」

 これで五十嵐さんに嫌われても仕方ない。でも騙すよりはマシだ。

 彼女の優しい笑顔が脳裏に浮かぶと、騙したことが本当にひどくて、自分に呆れてしまう。

 私は五十嵐さんがどんな表情をしているのか怖かったけれど、おずおずと顔を上げた。

 少し驚いたようではあるけれど、怒ってはいないようだった。

「三留さん、今仕事で辛い思いをしているとか、辞めようと考えてるわけではないということですよね?」

「はい。そうです。すみません」

「いきなり三留さんから相談があると言われて、何かすごく悩んでらしたらと思って心配だったので、安心しました。私なんかにそんな重大な相談なんてしないだろう、とは思ったのですけど、気がかりでしたから」

 五十嵐さんは、強く握りしめた私の手にそっと自身の手を重ねる。柔らかなぬくもりが手から伝わって、私は泣きそうになった。

「三留さんみたいに若い方から一緒に飲んで楽しかった、なんて言ってもらえて嬉しいです。私、あまり交友関係が広くなくて、飲みに行くのもだいたい一人なんです。だから、今日の夜もちょっと楽しみな部分もあったんです」

「五十嵐さん⋯⋯」

 私に呆れるでもなく、怒るでもなく、こんな私を受け止めてくれた。

 それだけで、充分すぎて私は幸せ者かもしれない。

「せっかくですから、ここからは楽しんで飲みましょう」

 五十嵐さんはビールの入ったグラスを持ち上げて掲げる。私もグラスを持って、乾杯した。 

 社長の片腕に指名されるような人は、私なんかとは仕事だけではなく、人間のできも違うのだ。

「三留さん、次にまた飲みたくなった時は普通に誘ってくださいね」

「いいんですか、お誘いしても?」

「もちろんですよ。嫌ならこんな事言いません」

 少しずつ、少しずつ、五十嵐さんとの距離が近くなる。それは嬉しくもあり、私に色々な期待をさせる。

 五十嵐さんの左手が目に入る。指輪はしていない。だからと言って、私の想いが叶う可能性なんて微々たるものだろうけど。

 取り敢えず今はこの時間を楽しもう。

 私たちは料理とお酒を堪能しながら、気の向くままにお喋りをした。

 何気ない、日常のありふれた話。

 それさえも私にはきらきらと輝く宝石のようだった。かけがえのない時間。

 次から次へと会話の話題は変わる。

「ところで三留さんって下のお名前何でしたっけ?」 

詩織しおりです」

「詩織さんかぁ。可愛い名前ですね。私、子供の頃はもっと女の子らしい名前に憧れてたんですよね。詩織ちゃんとか、かおりちゃんとか」

「ありがとうございます。五十嵐さんの名前も素敵だと思いますよ。真歩まほさん、でしたよね」

 下の名前を呼ぶ時に緊張してしまった。

「そうなんですけど、子供の頃は字面が可愛くないって思ってて、あんまり気に入ってなくて」

「真歩さんって、すごく合ってると私は思いますけど。五十嵐さんの誠実さが現れているというか」

 真摯な彼女にはぴったりだと感じる。名は体を表すとはよく言ったものだ。

(こんなシチュエーションでも下の名前で呼べるのが嬉しい)

 これだけで内心ときめいているのだから、私は恋愛にはかなり単細胞だ。

「三留さん、ありがとうございます。そんな風に言ってもらったの初めてかもしれません」

「今もご自分の名前は気に入ってないですか?」

「いえ、今はそんなことはないですよ」

 心の内にいるもう一人の私が、これはいいタイミング、チャンスだと言い始めた。

 そう、少し関係を近づけるための。

「それなら、五十嵐さんのこと、真歩さんって呼んでもいいですか?」

 我ながら、大胆なのではないかと思ったが、すでに口から言葉は出てしまった。

「私は全然構いませんよ。それじゃ、私も三留さんのこと詩織さんって呼びますね。いや、詩織ちゃんの方がいいかな。詩織ちゃん⋯⋯」

 響きを確認するように何度も私の名前を呟く。

(どうしよう、あの五十嵐さん、ではなく真歩さんに詩織ちゃんって呼ばれるの嬉しい!!)

 あまりに嬉しすぎて変なことを言いそうなので、惣菜を食べてしのぐ。 

「詩織ちゃん。うん。詩織ちゃんがいいかな」

 真歩さんはにっこり微笑む。

「詩織ちゃんなんて呼ばれるの久しぶりです」

「そうなんですか?」

「いつも名字かあだ名で呼ばれることが多いので」

「どんなあだ名なんですか?」

「⋯⋯しいちゃんです」

 何となく子供っぽい気がして恥ずかしい。でも小学生の頃から私のあだ名、呼ばれ方というとそれだった。

「しいちゃんか。あだ名も可愛いんですね、しいちゃん。でも詩織ちゃんよりそっちの方がしっくりくるかも。しいちゃ〜ん」

 真歩さんは私に手を振ってくる。

「か、からかってますか!?」

「そんなつもりはないですよ。しいちゃん、可愛い」

「酔ってるんですね」

「そうですね〜、酔ってるかもしれません」

 真歩さんは大層ご機嫌だった。

(でも、あだ名で呼ばれるのも悪くないかも)

 私たちは話が尽きるまで飲み屋で過ごしたのだった。

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