夢のような時間が恋に変わるまで

砂鳥はと子

第1話 接近

 


 お昼になり、先輩と社員食堂に向う。

 丁度満開となった桜がよく見える窓際の席はほぼ埋まっていた。

「もっと早く来ないとこの時期は窓際に座れないね」 

「そうですね」

 相槌を打ちつつ、私たちはメニューを決める。今日は焼き魚定食にして、食堂の真ん中辺りの席を選んだ。ここからでも桜は見える。

三留みとめさん、あそこいるよ」

 先輩に肩を叩かれ、私は視線の先を追う。

 すらりとした長身に濃い灰色のスーツ。赤味がかった髪に、やや釣り上がった瞳。でも表情はとても穏やかで優しげで、人柄の良さが滲み出ている。

 彼女の辺りだけ光が差しているように、目立っていた。

 私の目は釘付けになる。

「本当に、三留さんは五十嵐いがらしさんのファンなんだから。そんなに熱心に見つめちゃって筋金入りだよね」

「それはもちろん、入社した時からファンですから!」 

「まぁ五十嵐さん、美人だしかっこいいし、アラフォーでもあのスタイルだもんね。憧れるのも分かる」

 先輩は納得げにうんうんと頷く。

「三留さん、ゆくゆくは秘書課配属狙ってるの?」

「まさか。五十嵐さんのファンですけど、私に秘書なんて無理ですよ。別に見てるだけでいいんです」

 私の目は自然と五十嵐さんを追っていた。こちらの方へとやって来たので目を伏せる。私たちの席の斜向かいに座ったので、横顔がよく見えた。今日はなかなかラッキーかもしれない。桜よりも、あの人を見つめられる方が私は嬉しい。

 食べ慣れた焼き魚定食がいつもの倍、美味しく感じるのも五十嵐さんがいるからだ。

「恋する乙女」

 先輩がぽつりと呟く。

「⋯⋯⋯?」

「って感じの瞳になってるよ三留さん」

 面白がってるのかニヤリと笑う。

「もう、からかわないでください!」

 でも確かに私は恋する乙女みたいな顔をしていたのかもしれない。

 私の五十嵐さんへの想いは憧れもあるけれど、恋だったから。

 毎日毎日、あの人のことを考える。

 少しでも近づけたらと切望する。

 しかし私と五十嵐さんの接点は残念ながらあまりなかった。

 同じ総務部にはいるけれど、総務課で受付業務をする私、秘書課で社長の秘書として働く五十嵐さん。

 顔を合わせる機会と言えばこうして食堂でお昼を食べる時か、社長と秘書課宛の郵便物を届ける時、会議室の予約を受け付ける時くらいだ。

 秘書は五十嵐さん一人ではないから、確実に会えるのはお昼を除くとほとんどなかった。

 そんな薄い関係性なのに五十嵐さんを好きになったのは、見た目が好みだったとか、年上の女性が元々タイプだったというのもあるけれど⋯⋯。

 ほのかな憧れが恋に変わったのは一昨年の秋のことだった。

 

 

 その日は台風が接近していて朝から強い雨。出社前からぐったりしていた私は、頭がぼんやりしていたのだろう。駅から出るために階段を降りていた時に、それは起こった。濡れた段差に足を取られて、私はひっくり返りそうになる。

 一瞬で肝が冷え、やばいと思ったら背中に何かがあたって私は転倒を免れた。

 誰かが私を腕で支えてくれたのだ。

 振り向けばそこにいたのは同じ会社の秘書課で働く五十嵐さんだった。

「大丈夫ですか?」

 心配そうに私の顔を覗き込む。

「す、すみません! ありがとうございます!」

 私を体勢を立て直す。

「足とか痛めてないですか?」

「⋯⋯大丈夫です」

「そうですか。よかった」

 五十嵐さんは花がほころぶように優しく微笑む。

 先月発行された社内報を思い出す。毎月インタビューが載っており、そこに五十嵐さんが載っていた。

 あの時は広報用だったせいか、もっと凛々しい表情をしていた。それはそれで頼りがいがあり、とてもかっこよかったけれど、今みたいな笑顔がイメージできなくて、そのギャップに胸が高鳴る。

「もし違っていたら申し訳ないのですが、受付の三留さんですよね?」

「はい、そうです」

「やっぱり。制服姿じゃないし、髪も下ろされてるので最初は知らない方だと思ったんですけど」

(五十嵐さん、ちゃんと私の名前知っててくれたんだ)

 感動でじわじわと喜びが胸の内に広がる。

 仕事でやり取りすることはあっても、個人的な話なんてしたことがなかったし、そもそも「受付の人」くらいの認識しかされていないと思っていた。

「五十嵐さんに知っていただけてるなんて光栄です」

「いつもお世話になってますから。私のこともご存知でいてくださって嬉しいです」

「先月の広報も読みました! 五十嵐さんの仕事に対する姿勢はすごく私も勉強になりました!」

 実際にはあまり知ることがなかった彼女のことも知れたので、私としてはそちらの方が大きな情報ではあったけど。

 仕事に真摯であることがとても伝わるインタビューで、見た目だけでなく中身も素敵な人だと改めて認識した。

「ありがとうございます。何だか照れくさいですね」

 少し恥ずかしそうにしながらも、にこやかに対応してくれる五十嵐さんに、私はますます浮かれてくる。

 (憧れの人とこうして話せるなんて夢を見ているみたい。後で覚めたりしないといいけれど)

 私は五十嵐さんと共に、駅から雨の降る街へと踏み出した。

 何となく流れで並びながら会社へと続く道を進む。これは五十嵐さんと話せるチャンスなのだから、利用しない手はない。

 しかしどうやって話題を振っていいものか迷う。

(インタビューでスカッシュが好きって答えてたから、趣味について聞いてみるとか。でもいきなり図々しいかな)

 悩んでいたら間ができる。

「今日は、雨すごいですね」

 結局無難な天気の話になる。私に会話スキルがないことを悔やむ。

「しばらく雨みたいですね。三留さん、そこ水たまりになってるので気をつけてください」

 突然肩を引き寄せられて、驚きで一瞬何が起きたのか理解できなかった。

「⋯⋯ありがとうございます」

 五十嵐さんの触れてる部分に神経が集中するが、すぐに離れていってしまった。

「あちこち水たまりだらけで、困りますね」

 特に何でもなさそうに五十嵐さんは話をする。彼女からしたら、ちょっと手助けしたくらいで深い意味なんてない。そうだと分かっていても、どきどきしてしまうのは止められない。

(ナチュラルにこんなことができるなんて、さすが五十嵐さん)

 私の中でまた彼女への好感度が跳ね上がる。

 気づけば目の前に会社が現れる。もう少し一緒にいたかったのに。

「あのっ、五十嵐さん、色々ありがとうございました」

「いえいえ。三留さんにお怪我がなくてよかったです。ではまた」

 五十嵐さんは手を振ってエレベーターの方へと去って行く。  

 短いけれど充実した時間だった。

(またこんな風に話せたらいいな)

 この時以来、私の心の中には常に五十嵐さんの存在があった。

 あれから五十嵐さんと話す機会が訪れても、基本的には仕事でのやり取りになる。

 上手く近づけたらいいのだけど、接点も薄すぎて、私は遠くから見ているしかないのが現状だった。

 

 

 週末の金曜日。

 桜はすでに半分ほどが散っていた。

 私は先輩と一緒に居酒屋で飲むことになり、電車で一駅先にあるお店に向かっていた。

 駅を出たところで先輩のスマホから着信音が流れる。

「三留さん、電話いいかな。ちょっと待ってて」

「どうぞ。向こうで待ってますね」

 私は少し離れた場所で待機する。所々聞こえて来る会話で、何となく今日の飲みはなくなりそうだと悟った。

「ごめん、三留さん。母が仕事中に怪我したみたいなの。今日はパスしてもいいかな」

 先輩は申し訳なさそうに手を合わせる。

「もちろん。気にしないでください。私は適当に一人で飲みますから!」

「本当、ごめんね。私から誘ったのに」

「また今度飲みに行きましょう。早くお母さまの所に行ってあげてください」

 今来たばかりの道を先輩は急いで戻って行った。

 取り残されて急に独りが寂しくなる。

 ひとまず今は飲んで気晴らししよう。

 私は先輩とよく行くお店の暖簾をくぐった。

「こんばんはー」 

「あら三留さん、いらっしゃい!」

 中に入るとカウンター越しに、女将さんがすぐに私に気づいた。

「珍しい、今日は茜ちゃん一緒じゃないのね」

「先輩も一緒の予定だったんですけど、急用で帰ってしまって」

「一人なのね。でもゆっくりしていって」

 私はいつも座る左端の席に腰掛けた。

 ここのお店はお酒もさることながら、料理がともかく美味しい。値段も手頃で、私は女将さんと顔なじみになるくらいには、先輩と飲みに来ていた。

 料理を注文して、先に来た日本酒とお通しの枝豆をつまむ。

 よく意外だと言われるのだが、お酒はけっこう強い。私の楽しみの一つでもある。

 しばらく私は一人で食べたり飲んだりしながら、まったりと過ごしていた。

 新しくお客さんが来たのか、一つ開けて隣りの席に誰かが座る。ふと横を見ると、相手と目が合った。

「五十嵐さん」

「三留さん」

 そこには私の片想いの相手である五十嵐さんが座っていた。

 しばし見つめ合ったまま沈黙が流れる。

「ここで会うなんて奇遇ですね」

 先に口を開いたのは五十嵐さんだった。

「はい」

 突然のことに私は上手く言葉が出て来ない。

(何でここに五十嵐さんが)

 私の中の彼女のイメージだと、おしゃれで高そうなバーで飲んでいる姿が浮かぶ。

 そのせいかちぐはぐな絵を見ているような気分になった。

「三留さん、よく来られるんですか?」

「たまに、先輩と」

「常連さんなんですね」

「そうですね。五十嵐さんも、ですか?」

「私はたまたま通りがかって入ってみただけなんです」

 こんな偶然もあるのかと、私は嬉しい誤算ににやけそうになる。

「隣り、いいですか?」

 五十嵐さんは私との間にある空いた席を指す。

「はい、どうぞ」

(どうしよう、一緒に飲めるなんて信じられない)

 自分の妄想か幻覚なのではとちょっと不安になる。

(まだ酔ってない。酔ってないはず)

 五十嵐さんがすぐ傍にいるので、ベロンベロンになったりしないように気をつけなければ。

 そもそもベロンベロンになるまで飲んだことがないけれど。

「三留さん、ここのおすすめって何ですか? どれにしようか迷ってしまって」

「そうですね、私は麻婆茄子が好きです。どの料理も美味しいですよ」

「なるほど。それじゃそれを頼もうかな」

 五十嵐さんは私がおすすめしたものを他にもいくつか注文した。

(これは五十嵐さんと仲良くなる絶好の機会。上手く広がりそうな話題ないかな)

 食べながら考える。

「えっと、あの五十嵐さん、質問してもいいですか?」

「私で答えられることなら何でも」

「スポーツ得意なんですか? 以前、広報のインタビューでスカッシュが趣味だと答えていましたよね」

 数少ない彼女の知っていることを思い出す。

「そんな前のこと、覚えてくださったんですね。得意というほとでもありませんけど、息抜きにすることはありますね」

「五十嵐さんは運動神経良さそうですよね」

「ん〜、まぁ人並みにはできると思いますけど、特別いいわけじゃありませんよ。三留さんも何かスポーツされるんですか?」

「いえ、私は全然。逆に不得手なんです。学生時代もずっと文化部でした」

「どんな部活されてたんですか?」

「中高、ブラスバンド部でクラリネットやってました」

 他愛のない話が進んでいく。

 普通の会話。仕事とは関係ないことを話せる。

 それだけで今日は最高だ。

「五十嵐さんは何の部活されてたんですか?」

「私ですか? ずっとバスケやってました。ご覧の通りでかいので誘われるままに」

 バスケ部で活躍する五十嵐さんが脳裏に浮かぶ。颯爽と駆け抜けてダンクシュートを決める様がありありと想像できてしまう。

「本当はテニス部に入りたかったんですけど、友だちの勧誘が断れなくて」 

「だから今はスカッシュをされてるんですね」

「そうかもしれません」

 好きな人の知らなかったことを知れる。

 それが嬉しくてお酒も進んだ。

 私はその後も思いつくままに五十嵐さんに話を聞いてしまった。

 気づくとけっこう飲んでいた。

 隣りの五十嵐さんはほんのり桃色に頬を染めて、艶っぽさを増して、私をどきどきさせる。

「五十嵐さん、もう少し飲まれますか?」 

「いえ、私はもうこれでやめておきます。お酒そんなに強くなくて。三留さんと話してたら楽しくて、飲みすぎてしまいました」

 柔らかく笑う五十嵐さんは、子供みたいでそれもまた可愛い。

「私もいつもより飲んでしまいました」

 ということで、私たちはここでお開きすることにした。二人で会計を済ましてお店を出る。

 冷たい夜風が優しく通りを吹き抜けていく。酔覚ましにちょうどいい。

 気持ちも体もふわふわしたまま、駅へと向う。

 同じ電車に乗った後も、些細な話で盛り上がる。

(五十嵐さんとこんなに話せるなんて夢みたい)

 いつまでもこの時間が続いて欲しいと願う。

 電車は駅のホームへと進んでいく。

「私はここでお先に失礼しますね」

 五十嵐さんは席から立ち上がる。

「今日は、ありがとうございました! 五十嵐さんとたくさんお話できて楽しかったです」

「私も三留さんと話せて楽しかったです。良かったら、また飲みましょう」

「はいっ!!」

 それは社交辞令かもしれないけれど、嘘でもまた飲もうと言ってもらえるのは、飛び上がるほどに嬉しい。

 私は去って行く彼女の後ろ姿が消えるまで見つめていた。 

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