きずあと‐勝利の痕
百合川リルカ
きずあと‐勝利の痕‐
「ただいま」
「おかえりなさーい」
そこは都会の片隅の小さな雑居ビル、私の職場。ところ狭しとデスクが並んでいるが、今日そのデスクの一つに座っているのは、一人だけ。まだアルバイトの大学生が一人。
「どうでした、取材」
「どうもこうも無いわよ、やっぱり社長じゃないとだめね。」
一番奥の、どのデスクよりも散らかったそこに居るはずの社長は、席を外している。タバコでも吸いに行ったのか。
「あ、なんか来客っすよ。持込かなぁ」
「うちに持込するなんて、食い詰めた三流フリーでしょ」
まあ、三流なのはこの会社の出す本も同じだ。つまらないゴシップ、エロ話。不思議とそんな雑誌でも、会社の規模にしては売り上げがある。とはいえ苦しい台所事情はこの部屋の空いたデスクが語っている。つまり、繁忙期にアルバイトを雇うだけ、その程度で回ってはいるのだ。 と、私の隣のデスクに座っていたそのアルバイトのうちの一人(今日は一人だけしかいないようだ)、が私のほうに顔をぐいっと寄せてきた。
「ね、川代さん、やっぱ社長とそういう仲、なんすか?」
ハー、大きなため息が出る。ゴシップ誌を出す会社には、ゴシップ好きが集まるのか。この質問をしてくるのは彼だけではない。
「あのね、何度も言ってますけどね、私と社長は雇用主と雇用されている人間ってだけ。」
えー、だって川代さんだけ長いのにぃ。そう言いながら私の顔を覗き込む彼を、その辺にあった紙の束でぽこりと叩く。
「くだらないこと言ってないで、送った原稿チェックしなおしして頂戴。誤字脱字が多すぎ。
君、それでも編集者目指してるんでしょ、校正がガバガバすぎるわよ。」
はーい、そうつまらなさそうに返事をして、彼はまたパソコンに向った。
会社の名前は諸事情で出せないが、私はこの会社の唯一の正社員。ライターとして入ったはずが、取材から校正、その他の作業の殆どを任されている。
アルバイトが入るのは、月に十日と少し程度か。それ以外は私と社長が二人きり、あらぬ噂が立てられても何の不思議も無い。
「あら、もうこんな時間ね。そのチェック終わったら帰っていいわよ」
恐らくチェックは30分もかからない。わっかりました!調子のいい声とタイピングの音だけが響いた。
と、立て付けの悪いドアが開く音がする。
「あれ、百合子ちゃんお帰りー」
ぼさぼさの頭によれよれのポロシャツ、昨日も徹夜だったのか、無精ひげもそのままの中年男性が紙の束を持ってニコニコしている。そう、つまり彼が私の雇い主であり、編集長であり、社長である人。
「ただいま戻りました。あの取材ですけど、やはり社長以外には絶対に!話さないそうなんで、後はお任せします。」
あいあーい、やる気があるのか無いのか分からない返事と共に、私の前に分厚い封筒が差し出された。先ほど言っていた持込、か。それにしても、いまだに紙媒体とは。
「持込ですか?それなら社長が判断してください。」
いやあ、持込って訳じゃないんだけど、まあ、面白いから読んでみてよ。そう言われ、とりあえず封筒から出してクリップで留められたそれを斜め読みすると、恐らく私の顔は分かりやすく変わった。
「ね、面白いでしょ?」
私はうなずきもしなければ、返答もしなかった。それにもお構いなく、社長は喋り続ける。
百合子ちゃん、明日から二連休でしょ、まあじっくり読んでみてよ。そう言われ、私はフーッとため息をついた。隣のアルバイトは興味津々といった顔をしているが、これはここで話すような内容ではない。
「明日明後日、社長が死んだ場合を除いて、どんなことがあっても私に電話しないでくださいね。
あ、君、終わったならもう帰りなさい。明日からの引継ぎは作ってあるから。」
はーい、不満そうに彼は帰って行った。
今夜は何時もより早く帰ることが出来、ついでになじみの食堂で食事をしてきた私は、家に帰ってすぐに湯船を溜めて入った。
川代百合子、42歳。風呂の中で節が目立ち始めた手を見る。同年代と比べれば指先を使う仕事の分、綺麗なほうではあるが、それでも歳は着実に進んでいく。
職業、ライター。といっても記事ばかり書いているわけにもいかず。まあ、正社員で給料も他の同年代より高い分、化粧水なども高いものを買っている。それでも、隠し切れないクマが酷いのは徹夜もある仕事のせい。
結婚、は、してない。そもそも恋愛というものから遠ざかってどれだけの年数が経つだろうか。そんな暇があれば眠りたい。
少しだけのぼせて風呂から出て、肌の手入れをしてからビールを飲む。明日からの二日間の休み、用事はそこで済ませればいい。
預かった持込を読もうとしたが、もうそんな気力は無く、私はずぶずぶと沼のような眠りに落ちていった。
翌日、昼過ぎまで寝た私は、溜まっていた洗濯物を洗濯し、その間にさっと掃除をし、夕食の下ごしらえを終え、コーヒーを淹れて、例の持込を読み始めた。
今から70年以上前に、この国、いや、世界中を巻き込んだ戦争が起こった。
沢山の兵士、民間人が死に、私達の国の一番南にある場所は決戦場となり、沢山の人が死んでいった。
ジャングルへと送られた兵士は食料すら補給されず、戦闘と飢えと病気の中で死に逝き、とにかく世界中で人が沢山死んだ。
それを機に、世界は平和を保とうとしている。が、ここ最近はきな臭い話も多い。
「人間ってほんとに馬鹿ね」
読みながら独り言を言う。全く一人暮らしが長いと独り言も増えるというもの。
話が逸れた。その戦争の終了後、戦争裁判が行われた。これは行われた場所にちなみ、T裁判と呼ばれる。
敗戦国となったわが国は、一方的とも言えるほどの判決を受けた。複数の戦犯が絞首刑にされ、憲法も何もかもが主たる戦勝国、A国の指導によって作り直され、国は混沌と焼け跡の中から何とか立ち上がり、今に至る。最も最近は、憲法の改正も声高に叫ばれているが、この国の戦争アレルギーはその程度では動きもしない。
まあ、一部の力ある議員などはそれを動かそうとしているが。
「平和への罪、か。」
処刑の基準はいくつかある。簒奪行為、虐殺、そのほか諸々。戦争が起これば必ずおこるであろう事。最も重要な行為、それは世界の平和を乱したこと。
国際裁判であり、処刑された当時の首脳陣の面子から言えば、それは仕方の無いこととも言える。
ただ、一つだけ思うこと。
「戦勝国を裁く」
それは行われなかった。殺戮行為を犯したの敗戦国だけではない。戦争に参加した全ての国が関わっているのだから。
けれどもそれは敗戦国故に、問うことは出来ずにいる。70年以上経つ今現代でもタブー視されている部分も多い。
夕食を食べ終えてからも私は何度もその紙束を読み直した。紙束、というのは、それが文章として成り立っていないから。小説だのなんだのではなく、レポートのようなものだった。
分からないものはネットで調べつつ読んだが、圧倒的に私にはこの題材の知識が足りない。それでは良し悪しを語ることも出来ない。
次の日、私は閉館時間まで図書館に篭り、上限一杯に本を借りて帰った。
出社し、作業をしていたところに社長が近寄ってきた。その目は私のデスクの隣に山と成している本に向けられている。
「これ、全部読んだの?」
「読めるわけが無いじゃないですか。少しずつ読んでますよ。」
社長はうんうんと笑顔で頷くと、他のアルバイトに声をかけた。
「俺と川代さん、打ち合わせに出てくるから留守番よろしくね」
え、と私は思わず声を出した、今している作業はまだ残りがある。
「それ、後でいいから。」
連れ出されたのは近くの純喫茶。社長のお気に入りのその店は、私のお気に入りでもある。
「私はナポリタン大盛とチョコパフェとコーヒー」
よく食べるねぇ、そう笑いながら社長はコーヒーを啜っている。
「昨日本を読みすぎたせいで朝食を取ってないんです。どうせここなら経費で落とせますし。」
もくもくと食べ(早食いが身についたのもこの仕事のせいだ)、チョコパフェの最後のクリームを口に運び、コーヒーを一口飲んだところで、社長の話が始まった。食べている最中に声をかけない、それはこの人の妙に品のいいところ。不思議だ、がさつに見えてこういうところは繊細。
「で、どうだった?」
どうだった、とはあのレポートのこと。
「まず文章として体を成していないですね、完全にレポートです。このまま載せることは無理ですね。」
ふんふん、他には?と無言で促される。
「題材の意味は分かります。ですが、T裁判を知っている人は沢山居ますし、この様なことを考え付く人も多いでしょう。目新しいかと言われればそこまでは、というのが正直な感想ですね。」
と、言い終えると社長はカラカラと笑った。
「百合子ちゃん、ほんっとにピュアだよね」
私にはその意味が分からない。あんな大きな戦争にまつわる話、小学校でも習うことだ。
「あのね、確かに義務教育で習う範囲だよね、これ。
でもさ、それを覚えてて、それについて考えて、なんて人は余程歴史に興味あるか、真面目に勉強してた人だけだよ。」
70年、されど70年。たしかに今戦争を知らない人が殆どの世の中で、あえてそれを踏み込む人はいないかもしれない。しかも学んだことすら忘れているだろう。
「他には感想は?」
なんとなくムスッとした気分になる。小馬鹿にされたようで。それすらも見抜かれているような空気。そうは言えど、貴重な休みをそれに費やしたのだ、言いたいことは言わなければ。
「内容があまりに危ういと思います。これ、もし文章に書き起こして連載しても、下手すれば圧力かけられますよ、大きいところから。」
大きいところ、それはつまり、国家。
昔ながらで喫煙席を設けてある店なので、食事をし終わった私に合わせて、社長がタバコに火をつける。些細なことだけども、こういうところも以外に繊細だ。
「俺さ、こんな極小出版社やってるでしょ。
国がさ、口を出さなくてもさ、バーコードの変更とか上の人間の思いつきでされてさ、在庫に囲まれて潰れていった同業者いっぱい見てるんだよね。
だからまあ、話の方向は違うけど、国の圧力と戦う、なんてのは覚悟してんのよ。」
そういって組んだ、シャツの袖を捲り上げた腕には白い火傷のあとがある。事務所に投げ込まれそうになった火炎瓶を払いのけた時のものだ。決して平和的で世の流れに沿ったお話、なんていうものは書かない我が社は、時にそうした暴漢に襲われる。
そして、痛いところをついてくる我々に、警察はあまり協力的とは言いがたい。
「社長の傷の手当はもう嫌ですよ。」
その言葉は、笑顔だけで無言で返された。そして紙束をぽんぽんと叩く。
「あのね、律儀に国の名前出さなくてもいいんだよ。これはフィクションです!って言い張ればいいんだから」
国名をはじめ実在しているものや人物の名前は全てローマ字で伏せてフィクションと言い張る、これが社長の作戦。
けれども、だ。誰がこのレポートのような文を掲載できる文章にするのか。
「そんなの百合子ちゃんに決まってんじゃない」
はあ?と思わず声が出る。うちから出しているのは週刊誌だ。連載となる以上、締め切りのペースはかなりタイトになる。
と、それを見透かすかのようににこっと社長が笑う。
「百合子ちゃんいい大学出てるし、専攻もそっち系でしょ」
「東大出てる社長には敵いませんし、私の専攻は国文科で、歴史はなぞった程度です!無理です!」
四之宮浩二、55歳、わが社の社長であり、編集長。自称東大卒、ということだが、経歴は全く分からない。就職氷河期で大手出版社の採用試験から片っ端から落ちた私がたどり着いたのが、この社長の会社。
「大丈夫、百合子ちゃん20年選手じゃない。他の仕事は全部俺とアルバイトで回すから、君はこの作品にだけ、集中して。」
この口調と顔はマジだ。もう私に決定権は無い。
「いつまでもこれ、では困ります。とりあえず仮タイトル決めましょう」
思いっきりな笑顔、どこか子供っぽいところすら感じる笑顔を社長が浮かべた。
「んじゃ、戦勝国裁判、てのはどう?」
「そのまんまですね。いいんじゃないですか」
そうして私は週間連載の苦しみを、大量の資料と共に味わうことに
なった。
******
翌日、私は一人の男に引き合わされた。
「初めまして、四之宮社長からはお伺いしております、佐藤と申します。ああ、と言いましても、偽名ですが。」
それは、戦勝国裁判の元となる例のレポートを書いた人物。偽名を使うことに怪しさは感じるが、それなりのスーツ、それなりの顔、一度会っただけでは忘れてしまいそうなルックス。
「初めまして、川代百合子と申します。今回本文作成を担当させていただきます。どうぞ、宜しく。」
握手をして、お互いアルバイトが淹れてくれたコーヒーを一口啜る。
今回の持込、は異例なものとなった。異例、というのはこの佐藤と名乗る男が報酬を拒否したことだ。いくら文章に立ち上げるのが私とは言え、言わば原作者と言う立場になるというのに、利益は全く必要ない、と言う。
「幸いこんな不景気でも家族を養える程度の収入はありますし、これは私が疑問に思っていたことを書いただけなので。
むしろ形にして出版して頂けるだけでも儲けものですよ。」
再び、個性の無い顔で男がにこりと笑う。この仕事が長い分ある程度相手がどういった人物か予測できるようになったが、この男はそれが分からない。如何にも無害な一般市民、と見えるが、その奥に何があるのではと思えてしまう。ならば、ここは直球勝負で。
「偽名、とお伺いしましたが、何故ですか?執筆者名は私の名前となりますし、表に出ることは恐らく無いと思いますが。」
またにこり、と笑顔を向けられる。
「今はどこから情報が漏れるか分かりませんから。ご不快だとは思いますが、これも原作者の一つの頼みと思っていただければ。」
さらに男は言葉を続ける。私から貴女にこれが渡った時点で私はもう無関係、と思っていただければ、と。無関係にしたいのは、内容のせいか。それならば、持込などしなければいい。
ますます読めない。だが、これは正式に社長が受けた話だ、私に拒否権はない。
ああ、川代さんの書かれたものは読ませていただいております。とても文才がおありになる。これでこの「戦勝国裁判」も良いものとなると確信していますよ。本当にありがたい。
世辞を並べられても別に嬉しくもなんとも無い。私の視線を逸らすように、男が腕時計を覗き込んだ。少し高めのブランドの時計、収入は言ったとおりに多いのだろう。
「それでは私は用があるので、失礼させていただきます。
本誌掲載、楽しみにしてます。」
再び握手を交わし、佐藤、は帰っていった。
デスクに戻ると、そこにはアルバイトしかいない。喫煙室を覗きに行くとやはり社長はそこで一服していた。
「どうして社長は同席されなかったんです?」
「だって俺がやることは済ませたもの。あとは原作者と、執筆者の話し合いだけでしょ。
で、彼、佐藤さん、どう思った?」
思ったことをそのまま伝えると、社長はいつも通りの顔でカラカラと笑った。やっぱりね、百合子ちゃん人を見る目あると思うよ。彼、精神的というか思考的な意味では特異なタイプだよね。感じた印象は私も社長も同じものらしい。
そこで、ふと、唇に寂しさを感じた。
「社長、私にも一本くださいませんか。」
「あれ、百合子ちゃんタバコ辞めたんじゃなかった?」
「今日で禁煙は終わりです。」
タバコをやめて10年程度になるだろうか。今まで吸いたいと思うことは殆ど無かったが、ここ数日の出来事で何時もの数倍頭脳労働をしていると、無性に恋しくなってしまった。
久しぶりに吸う煙にくらりとなりながら、それでもそれはとても美味しい。肺に煙を吸い込んだ時のこの感触が、妙に落ち着く。私は別の銘柄を吸っていたが、これも美味しい。今度からはこれにしよう。
しばらく黙って二人でタバコを吸い、私が灰皿にタバコを押し付けたのを確かめたように社長が話し出す。ああ、これからは喫煙室の掃除は私もしなくてはいけない。吸った人間が片付ける、がルールだから。
「で、どう?大筋とかは決まった?」
「とりあえず、掴みが大事ですね。歴史のことをつらつらと書いてもうちの読者層には受けませんから。」
うんうん、と社長が頷く。まずは戦争裁判というものがあったということ、それに興味を持たせなければ。
「裁判のことは盛りに盛って、まずは連載を読ませるようにしたいとこだね。これで読者が掴めればもっと話を濃くしていけばいい。
あ、いつも通り、あんまり難しい言葉は使わないでねー」
うちは時折ずばりと政治関連などをスクープするが、その際でもあまり難しい文章にはしない。そもそもゴシップ目当てで読む読者に、あまりこ難しいものは読み飛ばされるから。
そんなことを話し合ううちに、大体の形は決まってきた。私自体がまだまだ知識が足りないままの見切り発車だ、読者と私がリンクするように学んで書き、読むスタイルはいいと思う。
まず最初は、T裁判のことをいかに読みやすくさせるか、だ。
「さて、仕事もどりますかぁ。」
「はい。」
これ、あげるよ。箱ごと貰った深い紺色のパッケージのタバコを握り、私達はオフィスに戻った。
『あなたはこの国家間で行われた不当な裁判をどう考えるか!』
見出しはこれに決めた。はたしてこれが掴みになるかは分からないが。続いて、これはとある架空の世界で起こった話である、とフィクションであることを強調する。全てフィクションですよ、ノンフィクションに見えますが、フィクションですよと。
内容は、まず簡単な裁判の内容から。それも思い切りドラマティックに、大げさに。そうしないと読んでくれる人が少なくなるから。そしてその原稿は、『無きことにされた、戦勝国の罪』というタイトルに繋がる。
国名はどんどん出して行く。勿論伏字ではあるが、A国、I国、D国、
国など、読み進めればすぐに分かるイニシャルで。まずはわが国が不当な裁判を受けた、ということを強調する。
「チェックお願いします。」
「ほーい」
タイト過ぎるほどの日程で第一稿を荒く書き上げ、社長に目を通してもらう。場所は喫煙室。私はすっかりヘビースモーカーに戻ってしまった。
「いいと思うよ。これだけキャッチーな題名にすれば読んでくれる人、多くなるんじゃないかなぁ」
本を読んだなら知ってるかな。結構ね、この裁判は被告側は暢気だったんだよね。念入りに原稿を読みながら、社長が呟いた。
そう、わが国の当時の戦犯は暢気だった。国際裁判、それならば国同士の裁判になり、個人が裁判を受けるとは、日本側の弁護士は思っても居なかった。確かに国際裁判であれば、国家レベルの問題になるだろう、と。
だが、状況が進むにつれ、当事者達は危機感を覚えてくる。生きて虜囚の……という思いはあっただろうが、自決する人間も多かった。
「自決、は、自身のプライドのため、だったんでしょうか。」
「さあねぇ。でもこの国って昔から何かあれば潔く死ぬ、て意識がどこかにあったからさ。自殺大国だしね。」
それはそうだ、とは思う。ハラキリなどと呼ばれるが、自ら腹をかっさき、それが義務であるとしてきた国を、海外の人々はどう感じただろう。特攻隊、戦艦や空母に体当たりで攻撃するような心理。現代を生きる私ですら、いくら命令、とは言え……と思うほどではあるのだから。
「こういう心境も交えてもいいんでしょうか。」
「いいんじゃない?この話に関してはいかにわが国が酷い目にあったかってのを強調していった方が分かりやすいよね。」
フィクションだからね、いかにセンセーショナルな作品にするか、だよ。
頷き、デスクに戻った。ここのところチラチラとアルバイトが私を見てくる。まだ発行されていないため、小説の内容はアルバイトには知らせていない。
それなりに信用できる子たちばかりとは分かっている。けれども、スクープも小説も、まず発行までに外部には知らせないのがセオリー。色んな仕事を掛け持ちしていれば、つい話題で、ということもありえるから。
まあ、そんな状態であるために、私と社長が男女の関係である、という噂はどんどん濃厚にされていく。とりあえず流してはいるが、さすがに面倒になってきた。
たしかに、社長はしゃっきりとひげを剃り、髪を整え、スーツを着れば軽く別人のようになる。スーツの着こなしも手馴れていて。
私が入社した頃、この会社はまだ創立されたばかりだった。経験のあるアルバイトを雇い、社長が文章を全て書き、そんな状態で動いていた頃。専門科目の知識を持った私は面接の日のその場で採用を決められた。
社長の履歴は殆ど分からず、東大出身もほらかと思うが、その仕事ぶりは凄まじい、とだけ分かる。
何度か取材で同席したが、スーツを着て何時もとは全く違う落ち着いた喋りっぷりにも、魅力は感じないことは無い。堂々とし、それでも穏やかで丁寧な口調でありながら、相手の深みをどんどんと語らせるその技能は、真似できる物ではない。
「ま、それでも社長だしね。その気にはならないわ。」
というのが私の認識。
そして何時ものごとくアルバイト達にハッパをかけ、私は第二弾の話のプロットを組んでいた。
さて、本文作成に戻らなければ。前に書いた原稿は明日発行される。それなりの売り上げは上げるが、所詮は弱小出版社、大手ほどには刷ることはできない。今回の小説で食いついてくる読者がいれば、多少は増えるかもしれないが。
前回まではざっとしたあらすじの様なものに過ぎない。大きな戦争が起きたこと、それに伴う不平等な裁判。今から仕上げていくものは、いかにわが国も被害を受けていたか、ということになる。
小さな島国、それに対する攻撃はとても大きなものだった。
非戦闘員が殆どの下町を絨毯爆撃で焼き尽くし、多大なる死者がでた。また、原子爆弾という新しい爆弾も使用され。これは調べて知ったことだが、敗北宣言を受け入れたとしてもそれはわが国に落とされることが決定していた。
当然多数の死者が出て、いまだにその時の後遺症に悩む人も居るもの。これらが全くスルーされた、それがこの戦争裁判だった。不可侵条約を結んでいた旧S国も、結局は一方的な条約の破棄により、攻撃を始めた。捕虜にされた人々は、永久凍土の極寒の地で非人道的な扱いを受け、次々と死に、故郷に戻れた人は僅かなもの。
当然わが国も多くの人々を虐殺したりもし、罪は多いことは間違いない。が。
『軍人同士の戦いが戦争であると言うのなら、これは虐殺とはいえないのか』
そう大きく強調する。分かりやすく数字をを入れ、当時の実際の写真はフィクションとしては使えないので、それに似た風景をイラストにして差し込む。
大きく、扇動的に、情感たっぷりに。フィクションなのだから、多少史実と誤差が出ても構わない。
「あは、百合子ちゃん愛国者みたいだよ」
「これくらいやれ、って言ったのは社長ですよ」
すっかり常連に戻った喫煙室で、今日も打ち合わせをする。ああ、スーツにタバコの匂い染み付いちゃったな。消臭剤の小瓶を持ち歩かなきゃ。ジャケットは脱いでから喫煙室に入ろう。そうだ、髪に匂いが付きにくいトリートメントも買わなきゃ。
社長がプロットに目を通しているうちに、思考があっちこっちに動いてしまう。恐らく、この連載が始まってから朝も昼も夜も原稿のことばかりを考えてしまっているから。頭脳労働が響いている。
「百合子ちゃん、タバコ、俺と同じにしたんだ。お揃いなんて照れるなぁ」
「……前に頂いたのが合ってたので。パッケージも好きですし。」
「こんな文章書きながらこんなタバコ吸っててもねぇ。って、俺が言うなって話だけど。」
濃紺のパッケージはシンプルながら、どこか豪華さを感じさせる。其処に大きく示されているのは、平和の象徴の絵。きっとこのタバコは、戦後の焼け野原の中で一つの希望の光を見せながら、人々に愛されたのだろう。
「まあ、でも美味しいことには変わらないんで」
「体には悪いけどね」
「私達みたいな働き方と生活してたら、吸っても吸わなくても早死にしますよ」
社長は、ただ、微笑みを返した。
******
初連載となった本誌が発売され、一週間。なぜか私達はとても忙しくなった。
元々小部数しか発行していない本誌がじわじわと売り上げを上げ始めたのだ。
「SNS見てません?なんかかなり話題になってるらしいっすよ、川代さんが書いた小説」
戦勝国裁判、そういった内容に興味を持つ人々の間で話題に上り始めたらしい。中には本文を無断転載しているものもあったが、社長の「次の号の宣伝になるから」の一言で大目に見ることになった。
問題はそこからだった。電話がどんどんかかってくる。在庫の問い合わせだ。問屋に卸した分だけではなく、会社に保管していたものも全てはけてしまった。今までは結局場所を空けるために産廃業者に引き取らせていたのに。週間連載と言うことで小説部分は短めだが、それを良しとして本文のコピーがばら撒かれるような有様。
「さすがにこれは警告出さなくちゃだね、コピーを売ってる馬鹿もいるみたいだし。
ま、それはそれとして、今日はみんな食べろよ!お疲れ様、そして次も頑張ってもらわなきゃだからよ!」
アルバイトたちから大きな歓声が上がる。 今日は会社創立以来最大の販売数を記録したということで、社長が特上寿司をたんまりとデスクの上に並べたから。若い子達は次々へと寿司を腹に詰め込んでいる。
「百合子ちゃん、食べてる?君には大トロ全部を食べる権利があるよ」
「ご心配なく、頂いています。あと、私はエンガワのほうが好きなんで」
じゃあ次の号のお祝いは、エンガワたっぷりだな、そう何時もの顔でカラカラと社長が笑う。この人もかなり忙しいはずだが、なぜかあまり疲れが見えない。
「今、仕事の話いい?」
小声で話されたのは、発行部数を次号から一気に倍にするということだった。倍……、けれども恐らくこの状況ならそれでもはけてしまうだろう。最も、それによって一応作者にあたる私のプレッシャーはなかなかのものになるが。
「そういえば、どうして今回はペンネームにしたんですか?いつもは私の本名じゃないですか」
別に今まで本名で来たのだから、ペンネームにすることが不自然な気がした。社長はなぜか、それにはただ頷くだけだった。
一週間後。二倍の部数にしたにも拘らず、本誌は売れに売れた。コピーなどの酷さに対するものとしてネットでの有料閲覧も始めたが、そちらも順調に動いている。アンケートを取った結果、紙媒体での売り上げは主に高齢者、ネットでは若者に、とくっきり分かれた
正直驚きを隠せない。この国の若者はこんな話に食いついてくるとは思わなかったから。マニアは沢山居るんだよ、そう社長は笑っていたが、私はどことなく恐怖を感じ始めた。
メール、葉書、手紙。様々な形でこちらに感想や批評、そういったものが殺到し始めたが、その中にも中々危険な思想の持ち主がいることも確認できる。
そして原作者の立場になる佐藤、は、第一号を発行した時に感想と感謝の声を寄せたが、それ以降は全く接することは無かった。
ここまで売れても決して報酬を受け取ろうとする態度は見えない。やあ、驚くほど売れましたね。素晴らしい文章に書き上げていただいて感謝しています。
そんな世辞を述べただけ。
通常なら原作者は当然収入を得る権利がある。あの特徴のない笑顔、それは逆に私に恐怖を覚えさせた。利益が絡まない話は、相手の本心が読めない。20年以上この会社で働いてきたのだから、報酬あっての情報提供と言うことには慣れている。だからこそ、ちいさな恐怖を覚える。
第三弾はもう決まっている。
『罪深きものを処罰せよ!』
センセーショナルな題名なのは分かっているが、寄せられてきた感想、SNSでの話題、それらを考えると相応しい。すでに発行した以上自分が働いている職場で何が書かれているのかは、アルバイトも当然知っている。
「攻め込みますねー、川代さん」
「結構ね、やばい人が書き込みしてますよ」
内容は、表の世界に戦勝国の非道を引きずり出し、それに対する賠償や処罰をどうするか、というもの。もっともあの時代に第一線に居た人間で生存者はもう数少なく、居たとしても高齢でとても被告として捕らえることなど不可能だ。
第三弾が発刊されると、今度は高齢者だろうがなんだろうが引きずり出せばいい、という感想が増えた。賠償金を取り、それを国民に分配しろとなどいう無茶な意見も。
「こりゃ、一騒動あるかもしれないねぇ」
喫煙所での打ち合わせで、珍しく社長が真面目な顔をして話し出した。
まあ、今の若者にそんなものに構っていられる暇人も意欲がある人間も居ないだろうけどね。
それでも、危ない奴は居るからなぁ。
「ガソリン撒いたり、また火炎瓶だったりですか?」
「まあ、この小説を好意的に捉えるかそうでないか、ってことを考えても、どっちにも危険分子が潜んでるからさ。」
つまりは、うちが攻撃を受けるか、それともデモなどが起きるのか。
「そういうこと。ところで百合子ちゃん、タバコの本数増えてない?」
「一日一箱以上は吸ってますね。そうじゃないと落ち着かないんですよ。」
落ち着かない理由はなにも執筆だけのせいではない。佐藤の原案を何度も読み、それと平行して資料を読み込む。
他の雑用を一切しなくなったことから、私は朝から夜までこの原稿に付きっ切りになっている。そうしている間に、じわりじわりと何かが浸食してくるような気がして落ち着かない、のだ。
「……怖いんですよ、自分の中に、佐藤が入り込んでくる気がして。」
む、と口を結び、社長が私の顔を覗き込んだ。私も背が低いほうではないけれど、社長は高身長なので自然とそういった感じになる。側から見れば私を社長が口説いているみたいに見えるかな……寝不足の頭は、どうも人との会話に集中できなくなるらしい。
「百合子ちゃん、ひっどい顔してるよ。」
「……元々こういう顔です。」
そうじゃなくて、憔悴した顔してんだよ。ますます心配そうな顔で覗き込まれる。
「本当ならね、ちょっと休載にして、一週間くらい休んで欲しいんだけどね。君にまかせっきりにして申し訳ない。」
頭を下げられたが、私は頭を横に振る。これは割り切れない私の性格の問題だから。それに、休載なんて今一番脂が乗ってるのに出来るわけがない。
と思ったが、休載どころか発行すら出来ないことになるとは、この時には思いもしなかった。
終電ギリギリの深夜残業の次の日の朝、午後勤にしてぐっすりと眠っていた私のスマートフォンが、早朝に突然鳴り響いた。番号を見れば、相手は社長。不満を隠さずに電話に出る。
「もしもし……午後勤なんですけど」
「ごめん。それは知ってるんだけど。事務所が荒らされちゃってさぁ」
声は暢気だが、内容はちっとも暢気じゃない、慌てて最低限の身だしなみを整えマンションを飛び出し、タクシーを拾う。
たどり着いた事務所が入っているビルの前には沢山の警察官の姿と、マスコミ、野次馬が見えた。
「今、立ち入り禁止なんで」
「ここの従業員です!」
それは失礼しました、と囲ってあるロープを上げられ、それをくぐって事務所にたどり着きドアを開けた風景は中々のものだった。
パソコン類、特にノートパソコンはハンマーか何かで散々殴られたようにバキバキに壊されている。デスクなどは破壊されては居ないが、書類などがあちこちに床を埋め尽くすようにばら撒かれている。
「あ、百合子ちゃんごめんね、早かったね。」
「そりゃ急ぎますよ……」
元々金目のものは置いていないが、パソコンと書類以外を荒らされた様子は無く、データの破壊などを目的にした犯行ということはすぐに分かった。
「データとか、大丈夫かな。書類はめぼしいものは元々置いてなかったから平気なんだけど。」
ノートパソコンは諦め、デスクトップのほうを調べる。どうやら犯人はそれほどパソコンに対する知識が無かったらしく、本体はあまり破壊されていなかった。
「データはあちこちに分散して保存してありますし、デスクトップはハードディスクは壊されて無い様なので、データに関しては問題ないと思います」
ただ、し。
「あー、じゃあ機材を買いなおして、それにデータ移植して……こりゃフルスピードでも二週間かかるな」
その時男性の声が聞こえた。『先輩』と。私や社長を先輩と呼ぶ関係者は誰も居ない。首をかしげていると、社長が私に聞こえないようにと小声でその相手、刑事に睨みを利かせた。
「馬鹿、先輩って呼ぶな。」
「あ、すみません」
興味津々となるのはライターとしての本能か。しかし、社長は私から顔を背けている。なんなのさ、ますます知りたくなるじゃん。だがこちらも他の刑事や警察官から色々と話を聞かれ、それを聞く暇もない。
なんせ昨日最後にこの事務所を出たのは私だ、ある意味重要参考人のようなもの。それにしても。
「私、セキュリティちゃんと設定してから帰りましたよ。タイムロスがあるとはいえ、10分程度でここまで破壊できますかね?」
「あ、それね、セキュリティー会社のミス。百合子ちゃんがちゃんと設定した記録は残ってるんだけどね、通報がバグったらしいんだよね。」
はあ、とため息をつく。何のために毎月安くは無い料金を払っていると思うのか。
「だから、今回壊されたものとかの請求はあっちに出来るよ。せっかくだから最新型の買う?」
「どうとでも好きになさってください……」
原稿の下敷きは私用のパソコンに入っているが、どちらにせよ二週間はなにもできない、ということで。
アルバイトの子たちには悪いけど、二週間休みで、一旦休刊するよ。なぁに、データが残ってるなら機材揃えばすぐに出来るさ。そんな話をしていると、私の事情聴取の番が回ってきた。社長からアルバイトにいたるまで、それぞれ個々で事情聴取をしているらしい。
失礼します、そう言って入った応接室には、さきほど社長を先輩、と呼んだ刑事がいた。ラッキーとは思ったが、慌てるな。いきなり聞いてもシラを切られるだけだ。
「えーっと、川代百合子さん、で間違いないですね?」
「そうです」
昨夜はこの時間に帰られた、ということで間違いないですね?何か帰る前に異変や、屋外に不審な人物などは見ませんでしたか。予想していた質問に一つずつ淡々と答えていく。退勤時間はセキュリティ会社のほうで把握しているらしいが、念のために、と。
そのほか諸々の質問をされ、それに私はわざと朗らかに、時には不安そうに返事を返していく。30分もする頃には、場の空気はかなり軟らかくなった。これでもライターだ、そういうことはお得意ってこと。
「そういえばさっきちらっと聞こえましたけど、四之宮社長とはお知り合いなんですか?先輩、って仰ってましたので」
あちゃー、刑事が頭をぽりぽりと掻く。聞こえちゃったのか、俺怒られちゃうな。
「聞いたからには知りたいですよ、社長には絶対言わないんで」
山本、と名乗った刑事はどうも人がいいのかなんのか、言った責任を取るように話し出した。よくこれで刑事が務まるな。
「せんぱ……四之宮社長や、他の方には絶対に言わないでくださいよ」
刑事の先輩、ということは、社長は元刑事、ということ。
「あの人東大トップクラス卒業のバリバリのキャリア組なんですよ」
東大卒、は本当だったんだ。頭はいい人だと思っていたけども。
まあ、警視庁内でも有名だったんですよ、とにかく優秀な人でしたから。どんどん出世もしてましたしね。ただ一つ欠点があるとすれば、一生懸命すぎる人、ってことかな。
「とにかく普通なら先輩クラスの人は来ない現場にも顔出しまくってて。それこそ僕らの倍以上に靴底減らしてたんだじゃないかなぁ」
捜査は勿論、聴取も完璧でしたね。どんな犯人でもうまぁいこと誘導してて。あれは真似出来ないなぁ。
かっこよかったですよ、いいスーツばりっと着こなしてて。僕達みたいな下積み生活過ごしてきたようなノンキャリ組は最初はいい顔しなかったですけど、本人の気さくさや仕事ぶりで慕ってる人も多くて。
「でもね、同僚のキャリア組には嫌われてましたね」
管轄外でもどんどん頭突っ込むし、時には内部告発に近いこともしてましたもん。ま、でも順調に出世されてたのに突然辞表出しちゃって。僕らノンキャリ組は寂しいなぁって言ってましたけど、キャリア組は清々したんじゃないかな。
話せるのはここまでです、と言われ、また事情聴取に戻ったが、充分すぎるほどの内容だった。これで疑問に思っていたあれこれに説明がつくというもの。
私が話を脱線させたと言うことはあるが、事情聴取は思ったよりもかなり長くなった。
「終わりました……。遅くなってすみません」
「あはは、仕方ないよ。あらかた今日やることは終わったし、アルバイトも帰らせたから喫茶店で飯食おうか、お腹すいたでしょ」
寝不足のままあれやこれやと普段はやらないことをしたせいで、かなりのクタクタ、おまけにお腹の音はぐうぐう鳴る。
「疲れました……火炎瓶事件の時もそうでしたけど、一日仕事ですよ」
「まあね、それが彼らの仕事だから」
いつものナポリタン大盛とパフェをばくばく食べながら、言葉少なに社長と向かい合う。
「長い割にはやる気なさそうでしたけどね」
「あはは、うちで出してるの、警察さんも絡むもの多いからねぇ。嫌われ者なのよ、うちの会社」
多分理由は、それだけではないと思う。内部告発とやらのせいか。ちいせぇ人間だな、とこぼしそうになる口を押さえる。
「で、相談と言うか提案なんだけどね。」
二週間事務所は利用できず、出社することも出来ない。別にリモートでも出来ないことは無いが、それも機材が無ければ無理。私の仕事自体は進められるけども。
「原稿はある程度進めてもらわなきゃなんだけど、今回の休みは全部有給にするからさ、一週間ほどゆったりしてきなよ。ほら、漫画も読む暇なくてって言ってたし、そういうの読んだり、買い物したりして気分転換して」
正直その提案はありがたかった。佐藤に、戦勝国裁判に入り込まれていくあの感覚から、しばらく遠ざかりたかったから。ここは一旦頭をリセットしないと、私のほうがおかしくなってしまう。
じゃあね、また二週間後。
そう言って社長が席を立ったすぐに、私はずっと行ってたみたかった温泉旅館を二泊三日で予約した。漫画と着替えを詰め込んで旅館に着いた私は、ゆっくりとお茶を飲んだ後に温泉に出汁がでそうなほどに浸かり、美味しい食事に舌鼓を打ち、あとは寝転がって漫画を読んで。
昼間は温泉街のみやげ物を冷やかしに行ったり、また部屋でごろごろしたり。
パソコンはあえて持って行かず、スマートフォンも乗換えと時間を確かめるだけ。
帰ってからは、美容院に買い物、とにかく時事ニュースはネットには極力触れな生活を一週間送った結果、『原稿を書かねば』ではなく、『原稿を書きたい』と言う気持ちになった。
資料を読み、赤線を引き、カタカタとキーボードを打つ。第四弾のテーマはもう決まっている。裁判の弁護側に踏み込んだ話。第三弾まで熱心に読み込んでいる読者なら、そろそろ歴史の話を増やしたほうが良い。
休みの途中、アルバイトから入った連絡は、戦勝国を裁けとのデモが行われている、ということだった。
「デモ、って言っても、随分人数少なかったし、だれも聞いてない感じでしたけどねー」
まあ、少人数なのは当然だろう。今の若者はこの程度では火はつかない。勿論ネット上では論戦がが交わされているが、実際に行動に移す人間は早々居るとは思えない。
もっと深く濃く、熱情的に。この小説を読んだ読者が、歴史を調べてみようと思う程度に仕上げなければ。
怖さが無い、と言うなら嘘になる。けれども、これは私と佐藤、私と歴史の戦いだ。飲み込まれず、私の文章を作らなければ。
二週間ぶりに出社した事務所は、本当に最新のパソコンが並べられていた。よく本気で買わせたな、とも思ったけれど、まああの社長ならそのくらいの言いくるめは出来るだろうし。その気になれば一応顧問弁護士も居る。
「見違えましたね」
「データとかの移植も全部終わってるからね、もう通常通り使えるよ」
そう答えた社長に、何か何時もと違うものを感じた。まあ、気のせいだろう、私も最新機種を覚えるためにパソコンの前にしばらく座っていた。
仕事をこなすアルバイト達もどこか楽しそうだ。あー、このパソコンパクりてぇな、ばーか、おまえパソコン如きで前科者になる気かよ。軽口を叩きあっているが、二週間のうちに溜まった仕事をさくさくとこなしている。この事務所のデスクが全て埋まるのも久しぶりだ。
そして数時間後、何時ものごとく喫煙室で、私が書き上げた第四弾の原稿の話し合いをする。
「今回は歴史に踏み込んできたねぇ。」
メインの題材の説明をする。今回のメインは、弁護人側。各国から集まった判事や検事に対し、あまりにお粗末で、最初から弁護人はお飾りのようなものだった。
びしりとスーツを着るA国側の弁護士に比べ、わが国の弁護士は庭に作った畑で出来たかぼちゃやサツマイモで空腹を満たして居る状態、顔色も悪く、格好もよれよれ。
おまけに弁護用の資料があまりに少なく、実際に逮捕されている戦犯たちもA国側の誘導によってとても重要な情報を漏らしている。判事と言えば、必死に検事と戦おうとする日本人弁護士の話も聞きやしない。A国側の弁護団とのすり合わせもうまくいかず。その間にも裁判は続き、なかには病気で亡くなったり、気が狂った(それも本人の作戦と言われているが)被告人もいた。
強大な力で押してくるA国や他国の検事や判事に対し、いかにわが国の弁護士は戦い抜こうとしたか、そしてそれを足蹴にされたか。
これだけ並べれば、不当な裁判であったことがさらに伝わりやすくなる。
「今まで熱心に読んでいる読者なら理解されるかと。そのうちBC級戦犯の話も入れます。」
そりゃまた話が広がるね、笑いながら何時ものように紫煙をくゆらしていた社長だが、今日は目が笑っていない。それに、今回の原稿についても何時ものように熱心に語ろうともしない。
そういえば聞きました?デモがあったらしいですね。
うん、暇だったから見に行ったけどね、すぐに警察に解散させられてたよ。
そうか、実際に見に行ったんだ。けれどどこか上の空。一般国民に事実を知る機会を!と言ったのは社長なのに。、まるで嬉しそうではない。世論が、ほんの少しだけ動いたのに。
私が消化不良な顔をしているのは分かっているだろう。けれど、これで行くと言われれば訂正も大してせずに発刊される。そうなればもう私の手からは離れる。
「あ、百合子ちゃん、俺ちょっと外出するから宜しく」
「はあ……ではこれは校正用に社長のデスクに置いときますね」
うん、と力なく返事を返し、社長はどこかへと出かけていった。
******
短い休刊から空けてすぐの新刊は、いつも通りに売れに売れた。ネットでの閲覧数も日を追って続々と増えている。
弁護士側の話題を入れたのは正解だった。不当な裁判を覆せ、そんな書き込みがSNSで飛び交う。A国その他の判事や検事との扱いの差を書いたのが功を成したのかもしれない。
こうした文章を熱心に読むタイプの人間は、想像力が豊かなタイプも多い。かぼちゃやサツマイモで耐え偲んで弁護に立つその人たちを、容易に想像できただろう。
戦犯の普段の暮らしも織り込み、さらに同情心などを掻きたてて行く
勿論、これはフィクションなどではない、という意見も上がってくる。中にはわざわざ英文に直してネットに流した人間もいるらしく、該当されると思われる国々の人々からまで、論争はごく一部ながらも世界で広まり始めた。勿論、これがフィクションだという姿勢は崩さない。
「おはよー、みんな揃ってるね。はい、注目」
朝礼はあってないようなものだが、引継ぎのためにそれっぽいものが行われる。そこで、社長が大きな紙袋をどん、と置いた。
「これ、金属探知機ね。これから郵送物とか荷物とか必ず全部これでチェックして。」
ざわざわと皆が喋りだす。私自身も正直驚いた。
まあ、空港とかで使うものほどの精度は無いけど、必ず実行するようにね。もれなく、だよ。うっかりは許さないから。
珍しく強い口調に、みんな押し黙る。私もその一人だった。たしかに先日の事務所荒らしで皆緊張はしていたが、まさか、そこまで。
「あの、金属探知機はさすがにやりすぎじゃないですか?」
喫煙所で、深く煙を吸い込んで吐き出した社長の表情は普段に比べてかなり硬い。
「百合子ちゃん、どうせ俺の前職聞いたでしょ、山本から。」
さすがにお見通し。だまって頷く私にまた社長が語り始める。
あのね、爆弾ってみんな大きいもの想像してるけどね、手紙くらいの薄い爆弾もあるんだよ。それで両手吹っ飛んだ人もいるの。だから用心するに決まってるでしょ。
「けれど、ここは日本ですよ?そんなテロとかみたいな……」
さらに社長の表情が固くなった。
「あのね、百合子ちゃん。ピュアなのはいいけど、ピュアすぎるのも問題だよ。君、一宗教団体が毒ガス作って一般市民を殺害したの、覚えてないの?」
人間に対する攻撃はね、復讐、欲、色々あるけれど、この武器の携帯すら許されない国でもどんな事だって起きるんだよ。
人体を溶かす薬は判子一つで買えるものもある。ドラッグストアに売ってあるもので毒ガスも作れる。
手段はね、いくらでも作れる。理由も同じくね。それが大きくなるのがテロ、更に大きくなったが戦争、だと俺は思うんだ。
「戦争とテロは違うと思いますが」
「同じようなものだよ。大義名分背負って、自分のしたいことをして作りたい国を、世界を、作るだけ。大空襲や原爆もテロみたいなもんじゃない」
「社長にしては随分大雑把な話だと思いますが。危険性はわかりますけど。
でも、この小説を書こうと言ったのは社長ですよ?」
そうだね、俺だね。 少し間をおいて、今度は悲しげな表情で返事をされた。もしや、社長は悔いているのだろうか?そうだとしたら、私がこの小説を書く意味は?書き続ける意味は?いらいらとタバコに火をつけた私と同時に、社長は灰皿にタバコを押し付けた。
「私、書きますよ。書き続けますよ。この小説が間違っているとは思いませんから」
「……うん、俺も間違ってないと思うから、これからも宜しくね」
一人喫煙室に残された私は、憮然としていた。
赤入れされた原稿を清書し、保存したころにはすでに終電の時刻を越えていた。
参ったな、タクシーで帰るにはお金がかかりすぎるし、漫画喫茶でも行って時間を潰すか、そう思ったときに、スマートフォンがブルブルと震えた。着信には、『リリィ』と出ている。社長の行きつけのスナック。恐らくは酔いつぶれた社長を迎えに来い、という電話だろう。
「もしもし、川代です。」
「あ、百合子ちゃん、遅くにごめんねぇ。おたくの社長さんすっかり酔っ払って寝ちゃったのよ。」
思ったとおり。店に入るとボックス席のソファーで社長が芋虫のように丸まって熟睡していた。
何時も悪いわねぇ、これ良かったら飲んで。差し出されたオレンジジュースを啜る。徹夜明けにはビタミンが染みるなぁ。
「さっきまでトイレとお友達になっててね、その後水を沢山飲ませたから、もう少ししたら多少はマシになると思うんだけど。」
社長は酒が好きだが、弱い。おまけに、この店に来たときは必ずぐでんぐでんになるまで飲む。
リリィのママは、妖艶、色気むんむんといったタイプではなく、どちらかと言えばシャキシャキとした人だ。それを好む常連客も多い。まあ、私は大抵他の客が引けてから迎えに行くので、そういった場面はあまり見たことは無いが。どうせ終電は行ってしまったから、そのままママと話し続ける。
「毎回すいません、今度からは意識があるときに追い出してください。」
「いいのよぅ、この人ね、うちで散々愚痴吐いて酔いつぶれるのがストレス解消ってとこだから。ストレスというより、自分の整理をしにくるのかな。」
いくら私が長い間柄とはいえ、話せないこともあるだろう。確かにこういった場所は必要なのかもしれない。今日のあの暗い表情、社長にも何か思い悩むことはあったのだろう。
「愚痴って言っても、私にはわかんないことをぶつぶつ言い続けるだけなんだけどね」
酔っても社外秘のことは言わないのか、それともママを信頼してるのか。なんとなくだけれど、羨ましいと思ってしまう。と、ママが思いついたように話し出した。
「ねえ、私も百合子、て言うのよ」
「えっ!?すごい偶然、ああ、だからリリィ」
「そうそう。ついでに言うとね、この人元旦那さん」
衝撃発言に目をまん丸くしている私を見て、ママ、は大笑いした。離婚どころか、結婚していた時代があったことも知らなかった。常連ということは、今でも関係は悪くないんだろうけど。
ママが話を続ける。初めて会ったのは合コンかなぁ。東大生相手だからってみんなワクワクしてて。私はあまり興味がなかったけど、頭数揃えるのに連れて行かれたのよね。
そこで、この人に初めて出会ったの。
「それで、お付き合いを始めた、とかですか?」
「そんなようなものだけど、ちょっと違うかなぁ」
突然ね、向こうから話しかけられて。百合子さん、ですか、いいお名前ですね、て。
あー、どうせ清純ぽいとかそういうくどき文句かな、て思ってたんだけど。
そしたらね、この人なんていったと思う?僕、百合の花が好きなんですよね、あの、花粉がついたらしつこく取れないところが好きなんですって。
「……それって褒め言葉になるんですかね」
「どうなのかしらねぇ。とにかく変な人、とは思ったわよ。」
そのあとね、すっごいぐいぐい来られてね。なんか断れなくて。そのまんま付き合って、結局結婚したのよね。
結婚生活は順調だったという。注目のキャリア、それなりに高額の給与、仕事人間とはいえ、妻を何よりも大切にして。
聞いた限りでは順調そのもの。けれど、別れの日は突然訪れた。
「いきなりね、警察辞めました、僕と離婚してください。貯金も何もかもすべて君のものにしてください、て言われて」
なんとなくだけど、理由は分かっていたの。この人が仕事の上でかなり危ないところに居ることは知っていたし、官舎でも奥様方の間で噂になってたしね。誰もが顔見知りの場所だもの、居心地の悪さは感じてたわ。結局はより危険な仕事になる分、私への被害を避けたかったんでしょうね。
「で、そのお金でこの店を持ったの。接客は好きだったしね」
まあ、出版社立ち上げたくらいだから隠し貯金はもっていたのかしらね。それで気付いたら、この人常連になってたのよねぇ。
私の知らない社長がどんどんと明かされている。有能なキャリア組の警部、ラブロマンスとその別れ。特に興味がないというよりは、社長がそういった話題になることを避けていたため、今まで聞こうとも思っていなかったこと。
四之宮浩二、という人間が、少しずつ見えてきた。
「あ、百合子ちゃん、タクシー来たみたいよ」
二人でまだ眠っている社長をタクシーに押し込んだ。何度もこういったことはあったから、住所は知っている。これ、百合子ちゃんも使ってね、とタクシーチケットを二枚貰い、ママに礼を言った。正直これはかなり助かる。
ドアを閉める寸前、ママは私の手を握った。
「この人のこと、宜しくね」
それは、どういう意味だったのだろう。会社の従業員として?それとも……なんだか変な感じ。惚れただのなんだの、そういったことから長く離れていたから、自分で自分の気持ちが分からない。社長のマンションまではタクシーで20分程度、目の前を走る車のテールランプを眺めながら睡魔に襲われつつ、なんとなくそんなことを考えていた。
タクシーが着く頃、やっとで社長が目を覚ました。といっても殆ど寝ぼけている状態。なんとかオートロックを解除させ、見かねたタクシーの運転手にも助けられながら部屋へと運ぶ。これ、手間賃です。いやあ、申し訳ない。多目のチップを渡すと、運転手はニコニコしている。
「よかったら待ちますか?メーター止めますよ」
「あ、大丈夫です、ありがとうございました」
そのまま帰っても良かったが、さっき嘔吐をしたということは、またしないとも限らない。恐らく大丈夫だとは思うけれど、万が一急性アルコール中毒でも起こせば大変だ。落ち着くまで見守る必要を感じる。
そうですか、それではありがとうございました、と運転手は帰っていった。今はネットで思う場所に深夜でもタクシーを呼べるから、それで呼んで帰ればいい。なんともありがたい時代だ。
「あー!重かった!」
ベッドに社長を転がすと、私はその辺にあった紙束を読んだ。1LDKの部屋には紙が散乱している。ネタのメモ、何かの下書き、興味を引かれるものばかり。散らかっている割にはゴミはそれほど無いのは、ちゃんと分別して出しているからか。そういうところに、細やかさが現れている。
あちらこちらへと散らばっている紙に書かれた文字はどれも美しい。字の美しさは生まれつきの才能とも言われるが、恐らくこの人は努力して美しい文字を書けるようになったタイプ。
そうしてあれこれ読んでいる間にも、ベッドに転がっていた社長は寝言をむにゃむにゃ言っている。
俺は書くぞ!絶対書くぞ!などと。リリィのママ、元妻、にあれこれと吐き出して、決意が固まったのだろうか。まあ、それならそれでありがたい。
そんな考え事をしていると、酔っぱらいの寝ぼすけが、突然ぱちりと目を覚ました。
「あれ、百合子、じゃない、百合子ちゃん?あー、トイレ!」
ばたばたとトイレに向う足はしっかりしている。これなら帰っても問題は無い。
「はー、すっきりした。あ、百合子ちゃん、明日午後勤でいいよー」
「言われなくてもそうしますよ。じゃあ、私は帰りますね、おやすみなさい」
そう言った私の腕を、再びベッドに転がった社長が強く掴んだ。なんだ、なんだろう、心臓がどきんとする。
「ねえ、子守唄歌って」
「はあ?」
子供か!たしかに子供っぽいところもある人だけど、これじゃぁほんとに子供だ。
「俺知ってるもん、百合子ちゃん歌上手いもん」
大学時代にコーラスや声楽のサークルに入っていたので、誰も居ない事務所ではついつい口ずさみながら仕事をしていた。まさか見られていたとは。それにしても、この状況はちょっとやばい気がする。
「俺あれ、シューベルトのアヴェマリア聴きたい」
「はああ?勘弁してくださいよ」
「やだ」
50代のおっさんの言葉とは思えないが、腕を掴む力は緩まない。ベッドライトだけにした薄暗い部屋、何か間違いが起こってもおかしくない訳で。けれども私の腕を掴む手の暖かさは、そんな下心は無い、本当に子供の様だった。
「寝たら帰りますからね。」
「うん。」
仕方なく、久しぶりにメロディーと歌詞を思い出しながら小声で歌う。目を瞑った社長は、ふーっとため息をついた。それほど長い曲ではないのに、結局半分くらいのところで私の腕を握っていた手が、ぽとりと落ちた。
その腕をそっとベッドに戻し、布団をかけなおして外に出る。夜空はほんの少し白み始めていた。
マリアよ、どうぞ私の祈りを聞いてください。
日本語訳を思い出しつつ、到着したタクシー の中で私は心臓のときめきを抑えながら、今起こったことを心の奥底に仕舞いながら、家路へと着いた。
そう、さっき起きたそれは、ほんのちょっとしたからかいの質問で。
寝落ちかけた社長を、さては私の事が好きですね?とからかった。どうせ聴いてないだろうと。
けれども、社長は私の目を見ながら、うん、と答えた。
私の心臓は、飛び出しそうなくらいにドキドキしてしまった。あの人に、恋愛感情なんて持ってない筈なのに。
酔っ払いの戯言だ、明日には覚えてないに違いない。ならば私も忘れよう。あの手の、暖かさも。家にたどり着き、シャワーで顔から何から流す。まったくもう、恋愛なんてやめて。あの人はきっと私の事なんてなんとも思ってないんだから。今夜の甘え方も、きっと酔っていたから誰かと勘違いしただけ。シャワーの熱い湯は、ほんの少しだけ涙が混じった。
******
翌日午後、出勤してきた私に社長は何時ものように、おはようと声をかけてきた。
「なんかさ、百合子ちゃんが俺を連れて帰ってくれたんだって?リリィのママから聞いたよ、迷惑かけてごめんねぇ」
「本当に迷惑でした。なんならボーナス欲しいくらいです。」
いつも通りからからと笑った後、俺これから弁護士と事務所荒らしの件で話しに行くからさ、そういって事務所を出て行った。ほらね、何にも覚えていない。早く忘れよう、早く。そう思いながらなんとなく昨日掴まれた腕を撫でた。
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。次の題材を書き始めたところだが、第一弾の文章から読み直す。これから書くことに対して、改めて私があの裁判について、そして戦勝国裁判について考えを確かめたかったから。
戦争の開始はわが国の奇襲とされる。宣戦布告が後回しになったこと、世界はそれを大きく非難した。
この国と同盟を組んだのは、I国とD国。特にD国では出自による非道な惨殺行為が行われ、それは世界の誰もが知っている。当然その二国に対しても裁判は行われたが、わが国と違うのは、首謀者が片方は自殺、片方は裁判が開かれることも無く、処刑されたこと。
当然わが国も残虐な行為は行った。それもあっただの無かっただのと論争がいまだに繰り広げられるが、C国や旧T半島での残虐行為は特に顕著である。
だが、この裁判はあくまで敗戦国を裁くためにあり、戦勝国が裁かれることは言葉のひとつも出てこなかった。
無差別爆撃、強力な新型爆弾の実験的投下、最南端での戦闘での民間人の殺害、それらを合計すれば民間人の死者数は大変なものとなる。
平和に対する罪、そう断罪するのなら、戦時下にひもじい思いをしながら、愛しい息子を戦地へと送り出しながら、勉学に励むことも出来ず、工場や砲弾の飛び交う野戦病院への奉仕を行いながら、ただ懸命に生きていた武器も持たぬ人々を一夜で焼き尽くしたことが罪だとはならないのか。
あの戦争に対しての私の印象は、ただただ悲惨なもの、という程度だった。
けれど今は違う。人が人を裁く、それはとても重大なこと。それゆえに公平さが求められる。
けれども、あの裁判を目の前で見ていた人、そのニュースを毎日何らかの方法で聞いていた人、彼らは果たしてその裁判を納得したのだろうか。焼け野原にバラック小屋を建てて何とか暮らしていた人、親を失い、しらみだらけで栄養失調でその辺で倒れて死んでいった子供達、それらの人々は大空襲や原爆の被害者そのもの。
「戦争だったから、負けた国だから」
それで済ませられるものなのだろうか。次の話のメインとなるBC級裁判は、T裁判より更に過酷なものだ。
戦勝国は、あの空襲を、原子爆弾を正義のためだったという。現に今のかつての戦勝国の若者に説明しても、彼らは己の国の所業を否定するだろう。勿論リアルタイムでそれを経験した年代も。
あの戦争の映画はいくつも作られている。漫画も沢山あり、小説も沢山ある。
そう、私は佐藤があのレポートを持ち込む前からずっとそれらを疑問視していたのだ。なぜ、世界全てが裁かれないのか、と。
「私はこれを書く運命だったのかな」
一人ごちると、少し離れた席に座って居た、うちでも古参のほうになるアルバイトがぼそりと返事をした。
「川代さんが書いていることも、あの佐藤って奴のレポートも、俺は分かるなーって思いましたよ。俺、ちょっとだけ現代史専攻してたんで尚更ですけど」
椅子ごと近づいてきた彼が、私にスマートフォンの画面を見せた。そこには英語が並んでいる。
「これ、あの小説が翻訳されて海外でも話題になってる、らしいっす」
なんかね、日本よりずっと海外で話題になってるらしいっすよ。まあ、旧T
半島とかC国はカンカンに怒ってるらしいっすけど、いつものことですよね。
「かつてのお仲間、D国とI国じゃ特に話題になってるみたいで。まあそりゃそうかなって」
なんか、日本より若い人が一生懸命らしくて。
そう言われて見せられた画像は、プラカードを掲げて行進している若者達。ただ、D国はあの戦争に対してはかなり過敏であり、謝罪をし、罪を償わねばならない、という意見が多いが、かつての政権の主義を掲げる危険人物も多い。
これは一時的なものかもしれないが、確かに海外の若者は自分の主張をしっかり持っている。その分そういった活動もわが国より盛んになるのかもしれない。
そんなことを話し合いながら、ふと思った。彼は次の春には大学を卒業し、卒業後の職も決まっている。
「ね、君さ、志望してた会社に内定決まったじゃない。あんな大きな出版社、うちなんかでバイトしてたってばれたら良くないんじゃない?」
ぎしり、思い切りのけぞって、空席の目立つ事務所をくるりと見た後、そこを指差した。あの事務所荒らし以来、アルバイトは激減してしまった。それはそうだろう。
「別にスタッフ名に俺の名前載ってるわけじゃないし、誰にもどこでバイトしてるなんて言ってないんで大丈夫っす」
それに、と言葉を繋げる。
「俺まで辞めたらこの会社潰れるし、俺、川代さんの小説好きっすから。だからまあ、社長と川代さんのお守は俺が卒業するまで続けますよ」
お守って何よ、言葉の通りですけど?軽口を叩く彼に淹れたてのコーヒーを手渡す。なんてありがたいんだろう。なんて優しい子だろう。きっと、この子は将来大きな仕事をする。その場に私一人だったならば、涙がこぼれたかもしれない。
「社長、アルバイト集めるって言ってるからさ」
「あー、助かります。あ、コーヒーどうも」
そしてそれぞれのデスクに戻り、作業をしている間に社長がドーナツの箱を持って帰ってきた。
「ただいまー、お疲れさん。これ好きなの食ってね。あ、百合子ちゃん、ちょっといい?」
わー、俺の好きな奴ばっかり!喜ぶアルバイト君を置いて、何時もの通りに喫煙室で打ち合わせが始まった。
一通りの仕事の流れを説明する。そして今話題にしていた話を、何気なく世間話として話すと、社長はふむふむと頷いた。
「彼、ほんと一生懸命だよね。あの子道のりは険しいかもしれないけど、きっと出世するよ。」
「ですよね。」
次の原稿の話、世間話、そんな話をして。ふと、社長が口をつぐんだ。
「ねえ、なんであの戦争が起こったんだと思う?」
突然の話題の振り方に、私も口をつぐむ。なぜ……急激に軍備を拡大し、大国との戦争に勝ち、世界に台頭してきたこの国に危惧を覚えた国々が経済制裁を加えてきたので仕方なく……
「まあ、それもあるんだけど、一番の要因は国民だよ。」
私は多分間抜けな顔をしていたと思う。国民が、戦争を選ぶ?
理由は様々だけどね、自分の国が強いってのはやっぱり嬉しいもんだし、旧S国以外との戦争ではそれなりに金も入ってきたわけでね。けれども多数の死者を出した旧S国との戦争では、殆ど何も得られなかった状況だったんだよ。
そうなれば、国民の不満は溜まる。戦争をすれば必ずこの国は勝つ、そして豊かで強大な国になる、そう思ったんじゃないかな。
「それは……そうかもしれませんけど、軍部ではあの先制攻撃には最後まで否定意見があったわけで……」
「でもさ、それも世論や一部の思い上がった軍人達は無理やり進めたんだよね」
考えてもご覧よ、D国だろうがI国だろうが、独裁者といわれる人物を選んだのは国民、だよ。
今はネット論争やちょっとしたデモ程度で済んでいるけど、この国みたいに消極的な国ばかりとは限らないわけで、あの頃の敗戦国だった国の過激派が、何かを起こす可能性もあるんじゃないかと思ったりするんだ。
社長の話は分かる。けれどもこの平和な今現在、いくら世界的にあの小説が広まっても大きな動きがあるとは思えない。
「ま、そんなことは俺らにはどうしようもないんだから、とりあえずやることやって本を出すだけだよ。原稿、後で赤入れして渡すから。」
「分かりました。じゃあ、デスクに戻ります」
喫煙室に一人残った社長が何を考えているのかは、私は分からなかった。
「さて、やるか」
第五弾の原稿は社長の返事待ち、私はクライマックスに差し掛かるストーリーを頭の中で組み立て始めた。
あと二つの号で、この連載の最後となる。短い連載ではあったが、これだけ大きな反響を受けるとは、書き始めた頃には思ってもみなかった。ふと、足りない資料が必要なことを思い出したので、外出時間を貰い、国会図書館まで足を伸ばすと、普段は気にも留めなかった標語のようなものを見つけた。
「我らは真理を知り、真理は我らを自由にする」
顔なじみになった職員が、それをじーっと見つめている私に声をかけてきた。
「これ、聖書の中の一節とも言われるんですけど、良い言葉ですよね」
その言葉に深く頷く。私は元々国文科を選ぶ程度には読書が好きだ。今まで沢山の本を貪り読んできた。その本たちの中から、いろいろな事を学び、事の真相を覗くことも出来た。そして真相を知るたびに、自分の操る言葉はどんどんと膨らみ、それらを自由に動かせるようになり。
そう、真理を知らせることが、私達の仕事。もっとも戦勝国裁判はフィクションという形をとっているが、もしもこれをきっかけに歴史を学ぶ人、戦争という最大の矛盾に疑問を持つ人、そういう人が増えてくれればいい。
「て、今日思ったんですよね」
何時もの喫煙室打ち合わせで言うと、社長はうん、と頷いた。
「まあ、今の若い人たちがそんな大きな動きを見せるとは思わないけど、小さな動きでも起きれば良いよね。で、次の話はどうするの?」
図書館で借りてきた本を見せる。それはB級C級戦犯の解説本。不当な裁判と主張するのならば、当然これは入れなくてはいけない。
捕虜への虐待など、今度はもっと直接的な話題になる。
「なんかそういう映画ありましたけど、上からの命令に逆らえず、って言う人も多かったんじゃないかな、て」
「ああ、あったねぇ。俺もあれは何度か見たよ。知ってる人、割といるかなぁ。」
「社長が、戦争を起こしたのは国民だ、って仰いましたけど、確かにその部分はあると思います。
それを抜きにしても、やはり不公平さはありますから」
敵がいれば、殲滅しろ。そう押し付けられ、自らは望まない行為であり、切れないのならばお前を切ると脅され、震える手で軍刀を振りかざす、ついこの間まで一般市民であった、兵士。
あれは仕方なかった、そういう人はきっと沢山いただろう。それでも罪は罪、しかも一方的な裁判で。
「まあ、日本で作られる戦争映画や漫画、本はどうしても日本が悲惨だった部分だけを抜き取りがちだけどね。
でもそんな映画を見ても、行動に移す人間は居なかったんだよな」
戦争にまつわること、それはタブー視されている。
その上今この国は不景気によって疲弊し、貧富の差はどんどん広まり、もっとも活発に動くべき若者はもうそんな気力も無ければ、興味もないだろう。
根深い。その一言だ。あの裁判や戦犯たちはタブー視され、それがなぜかと関心をもつ余裕のある若者もいない。けれども本誌の連載は後一度で終わる。だから、私は書かなくては。
ラストのテーマは最初から決めてる。いかにあの時代の国民が、国が、不平等に裁かれたのかを力強く強調する。
非戦闘員で死んでいった人々の数、裁判により裁かれて処刑された人々の数、それらをもう一度大きくセンセーショナルに。他国の処刑者やその他諸々の人数や人口比率と比較した数字を書けば、それはさらにリアリティを纏って読者の心に響くはず。ネットでの論争が表に出るかもしれない。入ったばかりで落ち着かないアルバイトの騒ぎやSNSの情報を見ながら私は最終稿を書き上げた。
発行の前日、事務所ではまたちょっとしたパーティーが行われた。なんせ連載小説など載せたことのない本誌が、短い回数とはいえ続き、売れに売れたからだ。デスクの上には、今度はデリバリーの中華が並んだ。
「川代さん、俺フカヒレって初めて食いましたよ、いやー、感謝っす。」
紙皿にこんもりと盛った料理を頬張りながら、にこにこと例の古参のアルバイト君が笑う。多すぎるのでは?と思った料理も彼らならば綺麗に食べつくすだろう。
「君には特に頑張ってもらったからね、このフカヒレを全て食べる権利がある!」
「あは、社長みたいなこと言わないでくださいよ」
最後の仕事を終え、私もゆったりとした気持ちで料理を楽しむ。本当ならば酒も飲みたいところだが、パーティーが終わった後にまだやりのこしがある。どんっと置いてある紹興酒も私が飲まなくても空になるのは見えている。
「そういや、またデモがあったの、聞きました?」
「うん……今度は少し大きめみたいだったわね」
ネット上の論戦はどんどん過熱し、その中でも活動的な人々が小さなデモを繰り返している。警察にすぐに解散させられる上、すでにお国のお抱えのようなものになったマスコミはそれを放送もしない。まあ、そんなものかな。むしろよくやれたな、という気持ちのほうが大きい。
「あー、脂っこいものの後にはタバコよね」
そう呟いて喫煙所で思いっきり煙を吸い込んでいると、社長が入ってきた。
「終わったねぇ」
「終わりましたねぇ」
お疲れさん、いえ、社長もお疲れ様です。そんな応答を繰り返しながら、私はずっと考えていたことを社長に告白した。
「社長、私この小説、戦勝国裁判の続きを連載したいです」
まだまだ、書き足りない。膨大な歴史の資料を読み込むうちに、私の頭にはどんどんと文章が浮かんでくる。つまり、私はこの小説にすっかりはまり込んでしまったらしい。
「考えとくわ」
うーん、と考えた後、その一言だけを残して、社長は部屋を出て行った。
******
連載最終回の発売後、徐々に忘れられ、落ち着いていくのだろう、そう思っていた戦勝国裁判は、連載中より更に話題になった。主に論争しているのは若い世代であり、それも以外だった。
「今さ、貧富の差がすごいでしょ、その不満をぶつける先がほしいんだよ。」
デモの回数と人数はほんの少しだけ増えた。海外諸国から見れば、デモとも言えない様な代物だが。
が、国民の意識は少し、極ほんの少しずつ、変わっている。流されやすい国民性だ、ワイドショーなどに取り上げられればそれを見る人々の考えは少しずつ影響を受け始める。
「A国は、この問題を考えるべきです」
インタビュアーに答える若者がテレビ画面に映る。勿論盛り上がりそうな意見ばかりをえらんでいるのは分かる。けれども一番驚いたことは、その話題がテレビで取り上げられるようになったこと。
今までの有料ネット閲覧は第一弾から最終までどんどんと売り上げが上がっていった。ネットという媒体の大きさに、今頃ながら驚く。それと同時に、海賊版的に海外で流れたものの閲覧数もこの国をしのぐ勢いで増えているらしい。
中でも驚いたのは、戦勝国であるA国でも話題に上り始めていること。人種差別を受ける有色人種の人々がA国の態度に物申すようになってきた。先の対戦中でも黒人部隊は差別されていたという事実もあり、そのうえB国での過酷な介入戦争でも彼らは戦争反対を唱えていた。だが、貧しいものは軍に入って稼がねばならない、という矛盾も当然起きる。
そんな歴史を抱えながら生きてきた有色人種のA国民は、わが国と同じように貧富の差で喘ぐ中、不満が爆発してきたのかもしれない。
だから、だからこそ、私はもっと踏み込んだ題材を書きたかった。今までの小説の内容よりもっと強く、激しく。
社長からのOKが出ていないからには会社では書けないが、家に帰るとひたすらプロットを練る、そんな暮らしを続けている。
私が通常勤務に変わった分、喫煙室での打ち合わせは無くなったが、なんせ喫煙者が私と社長なのでブッキングするのは常の事。大抵は世間話で終わるが、仕事柄時節の話題も当然ある。
「次の選挙の候補者見た?」
「見ましたよ、びっくりしました」
若い候補者が一気に増え、その中でも差別的な裁判を改めるべきだ、そう唱える候補者が増えた。
タブーと言われてきたこの話題が、まさかそこまで影響を与えたことはさすがに驚く。鬱屈とした空気が纏っていた近頃を、変えたい、変える、という意思を持つ人間が増えてきたのだ。
「まあ、当選は無いと思うけどさ」
「でも投票率は上がるかもしれませんよ」
「そうだねぇ、良いことではあるんじゃない?」
そうこうしている間に、なんと事務所が移転されることが決まった。警察が重い腰を上げて事務所荒らしの犯人を追った結果、どうやら大きな暴力的な思想組織に繋がっていることが判明したからだ。
「右ですか、左ですか?」
「それはまだ調査中ってどこかな。K国やC国出身者も疑われてるみたいだけど、まあそれは数としては少ないよね」
引っ越しても誌面に住所載せるから一緒なんだけど、今度はセキュリティももっとキチンとしたところに頼むから」
新しい事務所はたしかにキチンとしていた。いや、キチンとしすぎているほどだ。
窓は密閉式で開かず、投石やバールで殴るなどの力を加えても割れないもの。監視カメラはあらゆる角度につけられ、金属探知機もどこをどうして手に入れたのか、空港などで使うレベルの物に変えられた。
「あーあ、せっかく綺麗な事務所になったのに、俺、今日ここ卒業っすよー」
季節はめぐり、人があわただしく入れ替わる時期になった。彼の退職日である今日は休みのアルバイトも入れ替わり立ち代り訪れては、花やプレゼントが積み上げていった。
「俺ってこんなに人望あったんすかね」
「君なら、きっとあの大会社でも上に進んでいけるわ。苦労が待っているとは思うけど、君なら出来る。
早く君の名前が載った書面みたいからさ、頑張ってよ。」
お互い少し涙ぐみながら、握手を交わす。
「君の行く航海が幸福でありますように」
「ありがとうございます、川代さんの航海の無事を願います」
******
「なんだか寂しくなりましたねぇ」
「彼、殆どうちの社員みたいなもんだったもん。よくあれで大学の単位落とさずに内定も取れたよね。あらゆる意味で賢い子だよ」
それには全く同意。むしろうちのようなところで働き続けてくれたのが奇跡のようだ。
事務所には私と社長しかいない。次の連載が決まってない限り、前と同じことを繰り返すだけ。それなら毎日アルバイトを入れる必要もない。
「そういえば今日、タクシーで来いって仰いましたよね。いくら引っ越しても私、自力でたどり着けますよ」
「あー、それには理由があってね。百合子ちゃんもう帰るでしょ?」
こっちに来て、そう言われて付いていった先にはコインパーキングがあった。事務所の目と鼻の先だ。そしてそこには、真っ赤なスポーツカーと若い女の子が立っていた。
「紹介するね、スリーさん。君のボディーガードとして今日から通勤同行を彼女にお願いするから」
「は?ボディーガード?」
「うん、俺もつけてもらった」
そのスポーツカーの横には大きなジープが止まり、そこには整った顔立ちの若い男性が立っている。
「初めまして、これからお二人のガードをさせていただきます。私の事はワン、彼女はスリーとお呼び下さい」
いかにもがっしりとした筋肉が付いた男性のほうはともかく、女性のほうは華奢で、いわゆるパンクファッションに身を包んでおり、真っ赤なピンヒールを履いている。これでボディーガード?あと、特徴的なのは、二人ともどちらも目立つ金属製のベルトをしていること、か。
「スリーちゃんね、こう見えてもものすごーく優秀だから。会社の行き帰りは彼女にお願いしてあるから」
じゃ、俺はワン君とちょっと打ち合わせあるから、君は帰ってね。
そう言って社長が事務所のあるビルに入って行くのを見届けると、スリーさん、が、スポーツカーのドアを開けた。
「申し訳ありません、本来なら後部座席に座っていただくのですが、この車後部座席が狭いので、助手席でお願いします」
スポーツカーらしい低い座席に乗り込みドアを閉めると、スリーさん、が運転席に座った。
「あの、スリーさん」
「スリーとお呼び下さい。川代百合子様ですね、宜しくお願いします」
ブオン、低いエンジン音を立てて駐車場から滑り出る。車は見るからに早そうだが、制限速度を守って滑らかに運転している。その姿は手馴れたものだった。
「川代様、どこかお立ち寄りになりたい場所はございますか?」
「あ、えっと、無いです。あと、様はつけなくていいですよ」
マニュアル車にも拘らず、なめらかなギアチェンジで全く揺れを感じさせない。なんて運転が上手いんだろう。と、それはそうとして。
「あの、ボディーガードなんて聞いてなかったんですけど、どうして?」
ミラー越しに少し困ったように彼女が微笑む。
「私どもはただ雇われている立場ですので、それはなんとも。後日四之宮様から説明があると思います。
……ところで川代さん、私達は三人でこの仕事をしているのですが、もう一人の名前は何だと思います?」
「え、え?……えーっと、ワン、に、スリー、……もしかして、ツー?」
「その通りです、単純でしょ?」
思わず大笑いしてしまった。仕事上偽名やコードネームは必要かもしれないが、あまりに単純すぎる。
ねえ、その服と靴可愛い、どこで買っているの?そうですね、H駅周辺が多いですよ。あー、あそこってそういう系統のショップたくさんあるものね。大笑いしたのと、久しぶりの女性との会話で私はスリーとすぐ馴染んだ。
「ベルトはお揃いなのね、何か意味があるの?」
「うーん、それはおいおいお見せすることになると思います。」
やがて車はマンション前に止まり、まるでエスコートされるようにドアを開けられた。
「明日は通常通りの出勤時間と伺っておりますが、間違いございませんか?」
「ええ、宜しくお願いします。」
それでは、と彼女は走り去っていった。いきなりボディーガードなんて。それも事前説明一切無し。明日は社長をとっちめなきゃ。快適な通勤はありがたいけども。
翌朝、出勤時間にスマートフォンが震える。
「川代さん、お迎えに上がりました。エントランスでお待ちしております。」
見た目はとても若く。本人も20代前半だと言っていたが、どこか落ち着きのある彼女と共にする通勤時間は居心地の良いもので。
「すごーい、混む時間帯なのにこんなに早く着くなんて!」
「一応都内のメインの場所の抜け道は覚えてますので。」
実は、ここのところ怪しい車につけられていることが何度かあった。それも彼女は素晴らしいドライビングテクニックで撒いたおかげで何も起こらなかったが、少しの恐怖は感じた。だから、この通勤は、本当にありがたい。
「それでは私は他の任務に向いますが、何かございましたらすぐご連絡ください」
車を降り、事務所に入る。居るのは相変わらず社長だけ、新しいアルバイトを増やす気配は見えない。
とはいえ今出している本誌はどうでも良いゴシップか、過去の掲載を再掲載したものばかり。私と社長でどうにかなるものの、売り上げはずどんと減った。
「相変わらずネット閲覧で戦勝国裁判を連載したものは売れています。次の連載のプロットも作ってるんです」
そう何度言っても、社長は次の連載のOKは出さなかった。単行本化の希望も多いが、それも首を横に振って終わり。
あの夜を過ごした次の日からとても張り切っていたのに、またしてもどこか上の空で、沈んだまま。所詮雇われの私は社長がイエスと言わない限り。動くことは出来ない。
ボディーガードの件もそう。理由を聞いても、事務所荒らしの件があったから、としか説明されない。たしかに大きな団体が後ろに控えているとは聞いたが、やっとのことで動き出した警察のパトロールもあり、それほど危険だとは思えない。尾行されていたことを継げた時には社長も顔色を少し変えたが、スリーたちを余程信頼しているらしく、大丈夫だよ、そう告げただけだった。
「色々ね、あるのよ。あ、俺弁護士と打ち合わせあるからちょっとでかけるね。不用意にドアを開けないでね」
「子供じゃあるまいし、大丈夫ですよ」
社長の外出時間がこのところ、増えている。と言っても取材をしているわけでは無さそうで。やることを終えた私はなんとなくネットサーフィンをしていた。戦勝国裁判に関しての論争はさらに勢いを増している。元々SNSなどを熱心に使っている層は、こういった政治などの論争も多い。そしてますます増えてくるのは、次のシリーズを始めて欲しい、という意見。
書けるのなら私も書きたい。セキュリティ万全のこの事務所なら、アルバイトたちへの危害もまず心配は無いはず。今まで忙しかったのが一気に暇になった分、私の不満もどんどん増してきた。それを何度言っても、社長は聞く耳すらもたなくなった。
そんな日々が続いたある日、出勤すると、スーツを着た社長が事務所で待っていた。
取材か、新しい連載に関しての何かの報告か、ワクワクとした表情を隠せない私に向って社長は静かな声で話し始めた。
「川代さん、大事な話があります」
苗字で呼ばれるのは何十年ぶりだろう、しかも畏まった口調、心臓がドキドキする。まさか、甘い話?
そんな希望は次の瞬間ぶち壊された。
「川代百合子さん、本日付で会社都合の退職ということにさせていただきます」
本来なら一ヶ月前に言わなければいけないけど、その一か月分の給与と、会社都合の退職による退職金は後日振り込みます。そう淡々と説明され、私はそれを飲み込むまでに数秒かかった。何か失敗はしたか?いや、していない。それなら懲戒免職になるはず。
「どうして、ですか?」
「理由はまた伝えます。次の就職先も斡旋します。君ならどこでもやっていける」
そう言われた瞬間、私は爆発した。
「次の就職先なんて自力で見つけます!
今は説明できないってどういうことですか!?ネットでの閲覧件数はどんどん増えてます!マスコミもこの話題を取り上げ始めて、いまや全国的な話題になってるんですよ!?
そりゃ確かに大きい動きはありません。でもこの間の選挙での投票率、社長も驚いてましたよね!?草の根活動じゃありませんけど、じわじわと、ほんの少しずつ、世論は動いてるんですよ!今こそ次の連載を始めるべきじゃないですか!
それに、それに、国民の意識を変えたい、そう仰ってあの連載を始めようと言ったのは社長御自身です!」
私がどれだけ訴えても、無駄だった。社長は顔色も変えずにただ首を横に振るだけ。
「たしかにね、ほんの少しは動いているよ、この国は。
でもね、これが限界なんだよ。これ以上大きな動きをしようとする 人間なんてね、この国には居ないんだよ」
……これ以上何を言っても無駄なのは、分かった。この人がこういう話し方をする時は、周りがなんと言おうと決して意見を変えない。
「それが社長の本音からの言葉とは思えません。本音を仰っていただけないのなら、私は仰ると通りに退職します。
あとはご自分でお好きなようにしてください」
社長が、少し悲しい笑顔で窓を指差した。その窓越しに見えるコインパーキングには、赤いスポーツカーが止まっている。つまりは、もう帰れ、ということ。
窓越しの風景が曇りだした。窓ガラスが曇っているわけではない、私の目に、涙が滲んでいる。
「それでは今までありがとうございました。」
涙目を見られぬよう、私は下を向いて事務所から出た。
下で待っていたスリーが、そっとハンカチを渡してくれる。
「貴女も理由は言えないんでしょう?」
彼女も少し困った笑顔を返した。
「どうぞ、お乗りください。退職されてもボディーガードの契約はそのままですので。」
いつもはお喋りに花が咲く車内は、今日はとても静かだった。
******
退職して三日後。スリーから電話がかかってきた。あの日からベッドに潜ったまま動かず、他の電話も無視していたが、それはなぜか出ないといけない気がした。やめて、お願い、私の考えすぎであって。
「大変心苦しいお話なのですが……本日未明、四之宮様がお亡くなりになりました。
今から担当者と共に参ります」
ボディーガードが単独行動を止めたにも関わらず、どうしてもと言って昨夜散歩に出た社長は、すぐ近くの公園で何者かに刺殺された。戻らない社長を探した担当のボディーガード、ワンがすぐに発見したが、そのときには事切れていたという。体中から血を流して。
「私の責任です、大変申し訳ございません!」
そう言って土下座するワンを立たせて、私は事務所へと向った。悲しい、苦しい、辛い、どの感情も生まれなかった。到着した事務所には、事務所荒らしのときの倍近い警察官が立っていた。
「すみません、部外者の方はご遠慮ください」
「あ、その方はいいんだよ、お通しして!」
見た事のある顔の刑事、そうだ、社長の後輩だという、山本という刑事だ。
「このたびは誠に……」
黙りこくっている私を、彼は人が居ないところに連れて行った。
「川代さんがすでにご退職されているのは存じています。本来なら機密事項になりますが、いずれマスコミにも発表されるかもしれませんし。」
事務所荒らしを行ったのは、とある暴力的カルト組織だった。
過激派で警察からも要注意されていたが、彼らは自分の組織とは全く関係ないチンピラを金で雇って犯行を犯した。
だが事務所荒らしはすぐに露呈し、大した危害も加えることが出来ぬまま終わった。
「次はもっときつい事件が来る、そう思って先輩、四之宮社長は強い危機感を抱いて民間のボディーガードをつけたんです。情けない話ですが、事務所近隣のパトロール程度しか、僕らには許されませんでした。」
確かに会社に抗議や脅迫めいた手紙やメールは届いていた。その度に社長は山本さん、に報告していたらしい。
「その集団、先輩が現役時代に重要人物を検挙したことがあったんです。ですから普段から先輩や僕は注意をはらっていたんです。おかげで今回の犯人もすぐ見つかりましたが、もう、遅くて。」
表向きはこちらの会社で出した本に対する抗議と犯人は供述しているが、私怨も混ざっていたのだろう。
「悔しいです。本当に悔しいです。あんな死に方、しちゃいけない人だったんです」
山本さんは、ぼろぼろと涙をこぼした。
それでも、私は何の感情も浮かばず、ただ呆然としていた。突然のボディーガード、退職命令。ペンネームで書くことを指示されたのも、きっとこうなることを予測していたから。いずれ私が作者と知れて被害に遭う前に、全てを片付けたかったから。
「これで組織の大元に切り込むことは出来ます」
そう言われても、私はちっとも嬉しくない。復讐したいという気持ちも涌かない。
己の身にも危機が迫っているというのに、昨夜社長はボディーがーとが止めるのも聞かず、無理やり単独行動に出た。
「これじゃあ、全て私の身代わりってことじゃないですか」
自殺だ。私を守るために。そんな守る価値があるかも分からない私を守るために社長は人身御供のように死んだ。きっと事務所荒らしの頃から、私が尾行されていたことから、全てを分かっていたから。
事情聴取を終え、そのタイミングを計らったかのようにスリーが外で待っていた。
「犯人のいた組織はかなり大きい上、国政に携わる人間とも繋がりがあると言われています。
ご心痛のところ申し訳ございませんが、当座の荷物だけを纏めてください」
次のターゲットになりうることもある、だから居場所が分からないように、スリーが所属する会社が選んだホテルを転々とすることになった。外出も止められたため、私は一日中ぼぉっとホテルの部屋に篭っている。涙は、相変わらず出ない。自分の感情が自分では分からない。
そんな一週間を過ごした頃、スリーから面会したい人がいる、という知らせを受けた。それは、わが社の顧問弁護士だった。
「このたびは誠に……」
見慣れた老紳士に頭を下げられ、私も下げる。選ばれた場所は、今宿泊しているホテルのロビー。スリーがさりげなく周りを警戒している。
「こんな時に、で申し訳ありませんが、四之宮社長様から川代様にお渡しするものがございまして」
それは、遺言書のようなものだった。私への退職金などがつらつらと書いてある。それは通常の会社ならありえないほどの金額。……こんなもの、いつ用意をしていたのだろう。
そのほかは、会社の今後は大手出版社に戦勝国裁判の全ての権利を任せること、その収益の中から数割私への報酬が入るようにすること、そのほかの事は弁護士に一任してあり、その指示を受けること、など。
川代さんが生活に困らないために、そう仰って隠し資金があったんですよ、と老弁護士は悲しそうに説明した。
「本当に、本当に惜しい方を失くしました」
聞けばこの弁護士は元裁判官で、社長の警察時代を知っているのだという。
すごかったですよ、仕事に対する執念は。もはや才能と言えるレベルでした。どんな難解な事件でも必ず証拠を引っ張ってきて。仕事柄警察関係の方には沢山お会いしていますが、あれほどの人物はもう出ないだろうと思います。そう述べてコーヒーを一口啜った後、紙袋と封筒を差し出された。
「封筒は、自分の身に何かがあれば渡して欲しいと言われていたものです。紙袋は、『リリィ』のママ、から手渡して欲しいと。どちらも一人の時に開封して欲しいとのことでした」
何度も振り返っては頭を下げる弁護士を見送り、私は一人部屋で封筒を開けた。そこにはあの美しい文字が並んでいた。
『百合子ちゃんへ。
この手紙を読んでいるということは、僕はもうこの世には居ないということですね。寂しい限りだな。
僕は警察という仕事はとても好きでしたが、警察という組織にはどうしても馴染めませんでした。だから、国家権力ではなく、自分自身で、ペンという武器で戦う道を決めました。もう知っているかもしれませんが、元妻、リリィのママにも大きな迷惑をかけました。いや、でもそれ以上君に迷惑をかけていたなぁ、だめな社長だね。
僕のペンは、弱すぎました。こうなってしまった以上、僕のペンは負けたことになります。
でもね、百合子ちゃん、君のペンは強い。僕のなんかよりもっともっと強い。
これはお願いになります。とても迷惑なお願いになりますが、君はその君のペンで、戦い続けてください。
きっと、君なら、君のペンなら勝つことが出来ます。
最後まで面倒をかけて本当にごめんね。君と過ごした20年間はとても素晴らしいものでした。感謝してもしきれません。
そしてあの夜のアヴェマリア、本当にありがとう。
僕は、君の事が好きです。心から好きです。故に20年も束縛してしまった僕を許してください。
どうぞ、お元気で。君の航海に幸多き事を祈ります。
四之宮浩二』
涙が、出た。やっとで、やっとで。それは止まることを知らず。
今更愛の告白なんて。死者からの愛の告白なんて。
社長のことが好きなのは、私は分かっていた。分かっていながらも、それを隠し、無かったことにして過ごしてきた。
本当に、愛していた。あのスーツ姿も、よれよれのポロシャツ姿も、からからと笑う笑い声も、ペンを回す癖も、私と同じタバコを吸う姿も。
でも、今それがなんになる。こんな事のなるのなら、玉砕覚悟で愛している、と一言告げればよかった。
でも、あの人は永遠に戻らない。私にこんな思いを遺して去ってしまったまま。
「社長、私のペンは、強くありません」
散々泣いて、涙が尽きるほど泣いた後、リリィのママからという紙袋を開けた。
「これって……」
それは、小さな綺麗な袋に入ったもの。振ると、カラカラと乾いた音がする。そしてそこには請求書で見慣れた少し癖のある文字の手紙。
『百合子ちゃん、これを渡していいのかとても迷いましたが、やっぱりお渡しします。多分中身の想像はついていると思いますが、私が彼の遺族から無理やり分けてもらった、彼の遺骨です。
ご迷惑でしたら、煮るなり焼くなりなんとでもして下さい。もちろん私に送り返してもらってもいいです。
四之宮は、私の元夫ではありますが、離婚してからは戦友、というようなものでした。恋愛感情ではなく、友人でした。
彼は、百合子ちゃんに惚れてました。私の店で毎日惚気るくらい、百合子ちゃんの話をしていました。
あ、嫉妬とかじゃないからね!あの人とはもう友人だから!
彼は貴女に告白することも出来ないくらい、不器用な人でした。
だからというわけではありませんが、百合子ちゃんの近くに置いてあげてくれたら、とても嬉しいです。強がりなのに寂しがりで臆病なあの人も、きっとそれなら安心していられると思います。
私の勝手なエゴに巻き込んでごめんなさい。
もし、いつか落ち着いてお話が出来るようになったら、良かったらお店に来てください。二人で散々あの人の悪口を言いましょう。
百合子』
その晩、私は泣きながら、枯れた涙を搾り出しながら、それらを抱いて眠った。夢に彼は、出てこなかった。
******
社長が死んでから49日の日にちが経った頃、私はボディーガード会社が探し出したセキュリティが厳重なマンションに住んでいた。
社長を契約期間内のうちで守れなかったことに対するボディーガード会社からの違約金、膨大な退職金、大手出版社から入金される収益、生活は何もしなくても出来た。
戦勝国裁判は名前を変えて、単行本化された。ベストセラーとなったその本の題名は、『きずあと‐勝利の痕‐』
ついに海外翻訳本まで発売されたその本は、全世界で話題に上ることになった。
つけっぱなしのテレビからは、各地で起きているデモや戦勝国に対するテロを流し続けている。
わが国は、といえば、影響を受けた人々が以前より大きいデモを行う程度で、社長が言ったとおりにそれほどの変化は無かった。それでも、少しずつだが、世論は変化しつつある。
「私の強いペンってことかな」
ぼんやりと、いつの間にか運び込まれた私の家具の上にある、彼を見上げる。社長は、あの世からこの様を見ているのだろうか。
ふと、着信音がなる。なんとなく読んでいた漫画の束の下からスマートフォンを引っ張り出す。そこにはスリーと表示されていた。社長が死んでからも私へのボディーガードの依頼は有効らしく、定期的に電話が来る。
「はい、川代です。」
「スリーです。お話があるのですが、今お時間宜しいですか?」
その話の内容とは、なんと、佐藤に関することだった。私に面会したいと、アクセスしてきたらしい。
「場所が特定されないように連れて来ます、カーテンなどは全て閉めておいてください。
勿論お嫌であれば、この話は断ります。」
私は一言答えた。連れて来てくれと。
それから数十分ほど後か、玄関を開けたそこにはスリーと、目隠しされた佐藤が立っていた。
「いやあ、目隠しまでされるとは思いませんでしたよ。ああ、この度はご愁傷様です。」
おや、あれは社長様ですか?線香は……無いようですね、ちょっとご挨拶だけでもさせていただけますか。
その特徴の無い顔を見ていると、頭にどんどんと血が上るのを感じる。それを抑えるように私はコーヒーを淹れ、佐藤の前に置いた。
本当に残念でしたよ、聡明で活動的で素晴らしい方だったのに。並べ立てる世辞に、ついに私は切れた。
「あんたねぇ、あんたがやったこと分かってんの!?人にあんな題材渡して小説書かせて。あんたが高見の見物している間に社長は死んだのよ!?」
おや、という顔を見ると尚更腹が立ってくる。
「ペンの力は強い、ペンで戦うと承諾されたのは社長さんのほうですよ。私はただ、事実を届けただけで、それを書いてくれとは言ってません。残念な結果ではありますが、社長さんのペンが負けた、ということでしょう」
その瞬間殴り倒そうとした私をすばやくスリーが止める。
「面会時間は終了です。今私の同僚に貴方の護送を頼みました」
数分も経たないうちにワンがインターフォンを鳴らした。佐藤はまた目隠しをされ、去っていった。
「どうして!どうして止めたのよ!」
「川代さんを犯罪者にするわけにはいきません」
そうクールに答えられた後、スリーはベルトに手を触れて少し笑った。
「もっとも、ここじゃなければ私はこれで彼を殴っていたかもしれません」
スリーたちが何時も身につけているベルトが何らかの武器だということは聞いている。釣られて、私も弱く微笑んだ。
「ところで川代さん、キッチンをお借りしていいですか?」
そう言って彼女はなぜかキッチンに向かい、私はぼぉっと社長の遺骨を眺めていると、、10分ほど経った頃、出汁の良い香りが漂い始めた。
トン、と目の前にどんぶりを置かれる。そこには月見うどんが入っている。
「すみません、食材を勝手に使わせていただきました。あまりお食事をされていない様子でしたので」
たしかに社長が死んでから、あまりちゃんと食事をしていない。体重は激減し、体力も無くなっていた。何も食べられない、そう思っていたのに、目の前の月見うどんはとても美味しそうで。
「ご馳走様、すごく美味しかった」
「それは良かったです。これで胃が落ち着いたら、もっとしっかりしたものをお作りします。安全なデリバリー会社などもメモに書いておきましたので」
またキッチンに彼女が消えた後、私はお腹に温かいうどんを入れたことで、心が落ち着き始めた。
洗い物を片付けた彼女に、ふと問う。
「ねえ、これもボディーガードの一環なの?」
「川代さんの命を守るのは、警備だけでは無いですから」
にっこり微笑んだその顔は、やっぱり年にそぐわず穏やかで。二人でお茶を啜り、私は佐藤が最後に振り向きながら言い残した言葉を思い出した。
「私にはね、戸籍上では繋がっていない祖父が居たんですよ。頭文字を、T、と言うんですがね」
その頭文字を持つものは、当然すぐ分かった。閉じっぱなしのノートパソコンを引き寄せ、立ち上げる。
「私は字が下手だから、これで戦うわ」
きっと川代さんならできると思います。それでは、と去りかけたスリーを呼び止めた。
「ねえ、スリー。私と貴女はあくまでもボディーガードとそれを雇っている関係なのかしら?」
きょとん、目を丸くした後、にっこりと彼女が微笑んだ。
「それを超える間柄になれば嬉しいな、と思っています。」
一人になった部屋で、少し考えた後、キーボードを叩く。
『ある男の系譜』
戦おうではないか。あの人が、社長が自分より強いと言ってくれた私のペンは、必ず勝つ。
きずあとは、勝利の痕に出来るものなのだから
終
きずあと‐勝利の痕 百合川リルカ @riruka3524
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