第8話

「今日、元気ないよ?どうしたの?」


 彼のマンションで過ごす休日の土曜日。


 私の顔を、心配そうに覗く彼がいた。


「んっとさ、仕事で……」

「仕事、辛いの?」

「うん」

「そっか……頑張っているんだね」


 せっかくの休日、彼が家に誘ってくれたのに、私は暗い顔でしかいられなかった。

 仕事が辛すぎて、我慢の限界が来ていた。

 社会が生きづらく、苦しく、もう、おかしくなりそうだった。


 麗がいるから、まだ生きられる。


 そう思って、今日まで生きている。


 でも、それでも、辛くて苦しい。

 生きられても、苦しいもんは苦しいのだ。



 彼が入れてくれたホットミルクを片手に、私は言葉を漏らしてしまう。


「仕事辞めたい……」


 そんな私に、彼は言ったのだ。


「なら、辞めてしまえばいい」


 その言葉に私は驚いた。だって、仕事は続けなければいけないのだから。新人の頃は三年は続けなさいと母は怒った。三年を超えたら、良い会社なのだからとちゃんと続けなさいと父が厳しく言った。


 辞めたらお金も入らなくなってしまう。この会社でダメな私は他で生きられるかもわからない。辞めて逃げて、私はダメな人間だなんて認めたくはない。


「続けないと……いけないよ……」


 私の言葉に彼は少し怒って言葉を返す。


「そんなことはない。いけないことなんてない!続けていくことが普通とは限らないよ、君が生きる為に、逃げたっておかしくはない」

「でも、でも……辞めたって、次、いつ仕事が見つかるかも、私が仕事をちゃんと出来るのかも、自信がない。怖い。できない。怖くて辛い」


「もう、自信が無いの……」


 社会の黒い波は、私の自信をそぎ落としてしまったのだ。何もできない、役立たずだと、沖へ追いやったのだ。


 しかし、彼は突然、また、私を救う。


 優しく、強く、驚く言葉を放った。




「じゃあ、ここで一緒に暮らそう」


 


「逃げて、自分と向き合う時間を作ろう。特別な自分を、受け止めてあげて欲しいよ。その為に、俺の家で、一緒に暮らすのはどうかな?」



 彼は私の両手を特別な片手でぎゅっと握った。



 それは、私に向かってやってくる、優しく光る、救いの手だった。



 耐えられない、黒く渦巻く感情が、いつも溢れて私を闇へと落としにきていた。彼は、それを打ち消すようにいつも、私を助けにやってくる。



「辞めるからって、逃げたからって、負けではない。自分の特別を、認めるのを怖がっちゃだめだよ、絶対、自信の持てる何かはこれからあるよ。今が狭い世界なだけだ」


 私はきっと、自分が怖くて、前に進めていないだけのかもしれない。




「……ねえ、どう、かな?ダメじゃない、でしょ?」




「ダメじゃないよ、ありがとう」



 そんなの、ダメじゃないに決まってる。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る