EP7-1 楓の様子がおかしい
ピピピピ
硬く鳴り響く目覚ましの音で、浬は目を覚ました。
時計を見ると、もういつもの起床時間を20分は過ぎていた。
夏休みが終わり、今日から新学期が始まるというのに、起きる気力が湧いてこない。
目を閉じると、つい先日見せた楓の表情が目の裏に焼き付いていた。
――ごめんな、もう大丈夫。追いかけてきてくれてありがと
あの日、大丈夫、大丈夫、と楓は繰り返した。
でも、表情はまるで大丈夫、と言っているようには浬には見えなかった。
その悲痛な表情は助けを求めているようにも見えたし、これ以上関わらないで、と言っているようにも見えた。
ぎりぎりと歯がきしんだ。
浬は無意識のうちに、食いしばっていた。
(お互い気を遣っているように見える、か……)
いつだったか、柴山に言われた言葉が浬の頭の中を巡った。
言うとおりだった。
自分は、楓に気を遣わせてしまっている。
本当は、ありのままを受け止めて、対等な存在でなければならないのに。
悩みを共有し、不安を和らげて上げられる存在でなければならないのに。
楓は、比較的素直な性格だと、浬も思っていた。
素直に喜ぶし、素直に照れる。
だけど、素直に浬に対して怒ることはなかった
このことが、浬の胸をチクリと刺した。
(気を遣わせているのはお互いじゃなくて、僕の方だけなのかもしれない)
立ち上がると、全身から力がするりと抜け落ちてしまったような感覚が浬を襲った。
何もやる気が起きなかった。
浬はだらだらと朝の用意を済ませて、学校へ向かった。
その日は、いつもの倍は登校に時間がかかっていた。
*
乾いた涼やかな風が吹いた。街に植えられた木々は色づき始めている。
浬の重苦しい気持ちとは裏腹に、気持ちの秋晴れだった。
学校に着いたとき、楓はいつも通りの快活さで浬を迎えた。
むしろ、いつもより元気なくらいだった。
「おおー、浅見くん、おはよう!」
顔いっぱいに笑顔を咲かせて、楓は浬の肩をポンと叩いた。
「お、おはよう……」
なんだろう。
浬はいぶかった。
いつもの笑顔なのに。いつもの、元気な楓なのに。
見ていて痛々しい。そんな気がした。
「お? どうしたん? 元気ないやんかあ! 昨日夜更かししたんか? それはあかんなあ。文化祭の準備もせなあかんのやし、体調崩すようなことしたらあかんよ!」
「ありがとう、大丈夫だよ」
「そうかあ? 元気がないときは私が励ましてあげるから、必要になったらいつでも言ってやー!」
やはりおかしい、と浬は思った。
どうも、無理して明るく振舞っている感じがするのだ。
この期に及んで、自分は気を遣わせてこんなことをさせてしまうのか。と浬は激しく落胆した。
事実、その日からしばらくは、楓の様子は変だった。
外をぼんやりと眺め、まるで授業を聴いていない。
やっと教科書を手に取ったと思えば、同じページを行ったり来たり。ノートをとったかと思えば書いては消しての繰り返し。
ホームルームを使ってクラスのみんなで演劇の打ち合わせをしていたときも、どこか上の空だった。
楓は、決して不真面目な生徒ではない。
授業中はぴんと背筋を伸ばして先生の話を聞いているし、生徒の半数が寝ている世界史の授業だって、ふんふんと目を輝かして聞いていた。
しかし、最近は完全に心ここにあらずといった様子で、まるで身が入っていない様子だった。
数学の授業なんて、ひどかった。
黒板に書かれた問題の答えについて、先生に指名されたとき。
答えられない、と浬は思った。
その日真面目に授業を聞いていた浬でも分からなかったのに、この様子の楓ではきっと答えられない、と思ったのだ。
楓は「はい……」とだけ呟いてすっと立ち上がり、何を思ったのか、
「森鴎外です」
なんてわけの分からない答えを言った。
呆気にとられて硬直する先生を尻目に、相原さんは席に着き、再び視線を窓の外に向けた。
教室が笑いに包まれるなか、楓だけは何が起こったのかまるで分っていない様子で、ただぼんやりと座っていたのだった。
*
「はい、じゃあみんなまた明日」
その日のすべての授業が終わり、担任の挨拶を皮切りに、クラスメイト達が一斉に立ち上がり教室の外出ていく。
教室には、何人かの生徒が残るのみとなった。
楓はいまだに呆然としていて、頬杖を突いて外を眺めていた。
そんな彼女を心配してか、苅間マリカと近田チカが、様子をうかがいながらおずおずと話しかけた。
「ねえ楓、今日、帰りにどこか寄ってかない?」
苅間が言った。
「あぁ、あんたらか……」
楓が、目線だけ苅間に向け、気のない言葉を返した。
「ああ、って! もう、最近変だよ楓」
「ありゃ、そうかいな。これでも普段通りに振舞おうとしてるんやけどな」
「振舞おうとしてる、って。それがもう変じゃん。ね、チカ?」
「あはは、それは言えてる」
苅間と近田は、互いに心配そうに顔を見合わせた。
近田が、楓の顔を覗き込むようにして言った。
「いつもなら何も考えなくても元気いっぱいなのに。最近はなんかこう……、考えて元気出そうとしてる感じ」
「あんたらはほんまに……」
楓が大きく息を吐いた。
「ほんま、あんたら二人にはかなわんわあ」
楓の表情は、安堵しているように見えた。
浬は、苅間と近田の二人に嫉妬した。
相原さんの心の内側にすっと入り込み、手を差し伸べる。
それはいかにも自然体で、まさに、理想の親友像だと思った。
観念したように、再び大きく息を吐き、楓は二人を見た。
「ま、最近いろいろあってなあ。ちょっとそんな気分ちゃうねん。心配してくれて、ありがと」
ありがとう、と言われた二人は、互いに顔を見合わせて、その後相原さんの顔をまじまじと見ていた。
そして、噴き出すようにして笑った。
「アッハハ……、なんだー? 楓が素直に認めるなんて、怪しいぞー?」と、苅間。
「ほんと、楓は分かりやすいよね」
「なんやの、失礼な。私はいつでも素直ですよーだ」
不機嫌そうに口をとがらせる楓を尻目に、二人はゲラゲラ笑っていた。
苅間が言った。
「楓は、気を遣って強がっちゃうんだよね。弱みを見せないというか」
近田が、それに同調する。
「そうそう、だから、周りも気を遣っちゃうの」
「よー言うわ、あんたらが私に気を遣ったことなんてないやろ」
「アハハ、間違いない」
苅間と近田の二人はそのまましばらく笑っていた。
やがて、楓も釣られるように笑いだした。
苅間が、はーおもしろい、と目尻に溜まった涙を指で拭いながら言った。
「楓が言いたくないならそれでもいいよ」
「そうだね、また元気になったときに教えてよ」と、近田。
「ほんま、ありがとうな」
楓は、憑き物が落ちたようなすっきりした表情に見えた。
苅間は自分の学生カバンをリュックのように背負い、楓の背後を指さした。
「それじゃあね、楓。ほら、あんたのフィアンセが待ってるよっ!」
苅間がポンと楓の背中を叩くと、楓が背後に視線を向け、ぎょっとした。
「あああ浅見くん、お、おったんか……」
「気づいてなかったの?」
近田が意地悪く笑った。
「ずーっといたよ?それじゃ、ジャマものは退散するとします。また明日ね!」
「ちょっと、フィアンセって!」
楓の言葉を無視して、近田と苅間は騒がしく教室を出ていった。
がらんとした教室に浬と楓の二人だけが残った。
「あいつら、意味わかって言ってんか……?」
楓が、苦々しく言葉を絞り出した。
いくらか顔色がマシになったように、浬には見えた。
(そういえば、話しかけるのはいつも相原さんからばかりだったかもしれない。僕は受け身で、人任せで……)
浬は、楓の方へ歩み寄り、声をかけた。
「あ、相原さん」
緊張で、少し舌がもつれた。
浬が声をかけると、楓は一瞬体を硬直させ、そして弛緩させた。
「浅見くん。な、なんやろ?」
「今日、デートしよう」
「うん、そうやなあ、うんうん……て、え、ええええ!?」
楓は椅子から転げ落ちる勢いで大きくのけぞった。
浬自身も、自分の口から「デート」という意外な言葉が出てきたのに自分自身で驚いた。半分、ヤケになっているのかもしれなかった。
*一緒に帰る
放課後、通いなれた道を歩きながら、浬と楓の二人は、どこかちぐはぐな会話を続けていた。
「今日、涼しいね」
「そうやなあ、もうすっかり秋やあ」
少しの沈黙。
「文化祭、うまくいくといいね」
「そうやなあ、マリカもチカも頑張っとるし、頑張りが報われたらええなあ」
会話がぶつ切りになり、なかなか続かない。
「……あのさ、言いたいことがあるんだけど」
「え?」
浬は立ち止まり、楓に向き直った。
楓は呆気に取られた様子で、浬を見た。
「こういう言い方すると偉そうに聞こえるかもしれないけど……、その、僕のことをもう少し信頼してほしいんだ」
浬は一つ一つ言葉を選ぶように言った。
「多分僕に言えない悩みとか、なにか僕が知らない事情があるんだと思う。だけど、もし苦しんでいるんだとしたら、僕のことも頼ってほしいんだ」
浬は、楓の目を見据えて言った。
もはや、これまで気にしていた、話し方だとか、相手を喜ばせる、なんてことは頭から消え去っていた。ただ頭に湧き出てくる正直な気持ちを、切々と伝えた。
「なんで?」と楓が言った。
心臓が握りつぶされるような緊張感を感じながら、浬は頭に浮かんだ言葉をそのまま言った。
「だって僕は、相原さんのことが好きだから」
再び沈黙が訪れた。
しばらくそうやってお互いに黙っていると、楓が短く言った。
「分かった」
そして、
「返事は、ちょっとだけ時間もらっていい? 文化祭が終わるまで。それまでに、気持ちの整理つけとくから」と言った。
浬は頷き、そして二人は再び歩き出した。
文化祭が終わったころ、二人はどういう関係になっているのだろうか。
分からない。
でも、文化祭が終わった後は何かが変わる、そう思いながら浬は空を見上げた。
空は、真っ赤に焼けていた。
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