EP6-5 近いはずなのに遠くに感じる
「き、休憩……!」
一通りリオと遊んだ後、浬はリオにそう告げた。浬は物足りなさそうに駄々をこねるリオをシュウとアキトに託し、へとへとになって楓の場所へ戻った。
「あはは、お疲れみたいやね」
「ごめん、役に立たなくて……」
「ううん、助かっとるよ。ありがと」
楓は優しい言葉で浬をねぎらった。
それだけで浬はいくらか報われた気持ちになるのだった。
「次俺だって!」
「ええ、僕まだやってないよ」
「わ分かった、分かったから、泣くなよ」
弟たちの声がする。
シュウとアキトは家庭用のゲームを取り合っているようだった。
弟たちを見ていて、ふと、ひとつの疑問が浬の頭の中に浮かんだ。
「そういえば、弟たちは関西弁じゃないんだね」
「ああ、それなあ……」
楓の肩がぴくっと動いた。
「こっちに引っ越してきたの、私が小学生のころやってんけど……。そのときはまだシュウもアキトも小さかったし、リオはまだ生まれてなかったから。それで、こっちの言葉に慣れてしもたんや」
楓は仕上げ作業の終わった衣装を畳みながら言った。
「でも、私はなかなか慣れへんくて、もういいや、と思ってずっとこの言葉遣いで行くことにしてん」
「そうだったんだ。相原さんのその言葉遣いも、僕は好きだよ」
「お、おおお、それは、ありがと……」
楓は戸惑ったように手をばたつかせ、顔を赤らめた。
その反応を見て、浬はクサいことを言ってしまった、と思った。
「懐かしいなあ……」
「そういえば、取り巻……、苅間さんと近田さんも同じ小学校だったよね」
「あの子ら、小学生のころから派手でなあ。私も最初は怖かったんやけど……」
楓は、噛みしめるように言った。
「でも、こっちで、私の居場所をくれたのはあの子らなんよ」
「居場所……?」
予想していなかった言葉に、浬は口をつぐんだ。
「今でこそ普通に暮らせてるけど、昔は、いろんなものを壊してばっかりで、それで仲間外れにされてしまうこともあってなあ」
楓は、じっと自分の手のひらを見つめた。
今、楓は何を考えているのだろう。
分からなかった。
「でも、あの子らは、家が近いってだけで私と仲良くしてくれて。一緒にいてくれて」
「ほんとに、嬉しかった」
楓は、うつむいたまま呟いた。
声はいくらか掠れていた。
浬は楓の様子を横目で伺ったが、その横顔は垂れた髪の毛で隠され、表情を読み取ることができなかった。
「そうだったんだ」
浬はやっとのことで言葉を絞り出した。
あたりさわりのない、何の意味もない、相槌の言葉。
それで精いっぱいだった。
「だから、二人とあんなに仲が良いんだね」
浬は、続けた。
黙っていると、沈黙に耐えれそうになかった。
「そう。やから、あの子らは私にとって、かけがえのない親友なんよ」
楓は、笑った。
いつもの笑顔のはずなのに。いつもの楓の魅力的な表情のはずなのに。
どこか影があるように浬は感じた。
ひょっとするとそれは、楓の表情そのものが問題なのではなく、浬の中にあるもやもやとした感情が原因なのかもしれないと浬は思った。
あの二人は、楓にとってかけがえのない存在。
なら、自分は?
自分は、楓にとっての「何か」になることが出来ているのだろうか。
自分は、楓にとっての何なのだろう。
かけがえのない存在になれているのだろうか。
考えたところで答えは出ないし、そう考えること自体が楓に対して失礼だ。
そうは思っても、浬の思考はとどまるところを知らず、霞がかった頭の中をぐるぐると駆け巡った。
黒く、どろどろとした底抜けな不安が浬の胸を浸した。
そんなことを考えてしまう自分に、嫌気がさした。
「ねーちゃん! みてこれ、すっごい!」
不意に、八歳の弟、アキトの声がして浬は我に返った。
アキトは興奮気味にテレビを指差した。
テレビを見て、浬は思わず息をのんだ。
画面いっぱいに広がる、赤い炎と黒煙。
次々に画面が切り替わる。どれも、森全体を飲み込まんばかりに燃え盛っていた。
山火事のニュースだった。
「世界的にほぼ同時に起こった山火事は、多くの森林を焼き――」
アナウンサーの無機質な声が聞こえる。
「やべーじゃん!」
「ファイヤー! ファイヤー!」
シュウとアキトは見慣れない光景に、興奮気味に騒ぎ立てた。三歳のリオはまだ何のことかよくわかっていないようだった。
「大変なことになってるみたいだね」
浬は、何気なく、相原さんのほうを振り返った。
浬はどん、と胸を叩かれたような衝撃を受けた。
楓は、これまで見たことのない表情をしていた。
顔からは血の気が引き、浅い呼吸は浅い。
楓が浮かべるいつもの瑞々しい笑顔とはかけ離れた、恐怖とも、絶望ともつかない表情がそこにあった。
「あ、相原さん?」
浬と目が合い、はっとした楓はすぐに顔を伏せた。
僕の声につられ、彼女の弟たちも振り向く。
「赤い、雹……。燃える、森林……」
消え入りそうな声で、相原さんは呟いた。
やがて僕たちの視線に気づいた楓は、すぐに表情を取り繕って言った。
「あ、ああ、大変やな! こりゃ大変やあー」
楓は、曖昧な表情を浮かべていた。
目線は散り、いつもの真っ向からぶつかってくるようなまなざしは鳴りを潜めていた。目に力はなく、うつむきがちだった。
「よし、ねえちゃん自分の部屋掃除してくるわな」
そういって引き延ばしたような笑顔を作った相原さんは、ぱっと振り向いて顔をそむけて、二階へ上がっていった。
「あ、相原さん……」
浬は、困った。
こういう時、どうすればいいのかわからない。
こういう時はなんと返事すればよかったのだろう。
頭の中にある恋愛指南書のページをめくり、対処法を探す。
でも、肝心の答えは出てこない。
どうしたものかとまごついている浬の傍に、いつの間にかシュウが立っていた。
シュウは先ほどまでとは打って変わって、とても十三歳とは思えないほどの大人びたまなざしで、浬を見た。
「この……、ポクポク念人」
戸惑う浬をみて、やれやれ、と肩をすくめながら、シュウが言った。
「頼りないってことだよ」
「それってひょっとして、朴念仁って意味?」
「んなことどうでもいいんだよ」
シュウは深いため息をついた。
「あんた、姉ちゃんのカレシなんだろ。行ってあげてくれよ。リオたちの相手は自分たちでするからさ」
シュウはそう言って、「ほら、いけよ」とポンと僕の背中をたたいた。
その姿は、先ほどまでからは想像もつかないくらい、大人びて見えた。
「ありがとう……、僕に任せておいてよ」
浬は、戸惑い半分、そう言った。
言葉とは裏腹に、唇は細かく震えていた。
気づけば、浬は無意識に拳をぎゅっと握りしめていた。
階段を一段ずつ上がる。
浬は耳を澄ました。嗚咽を漏らす音が聞こえた。
浬は、重苦しい空気が、全身にのしかかるような感覚を覚えた。
部屋まではあと数メートルなのに、とても遠く見えた。
一歩、一歩、足を動かし、声が聞こえる方向へ向かう。
やがて階段を上り切り、扉が正面と右側に見えた。
正面の扉から、声がした。
浬は正面の扉に近づき、ドアに手をかけた。
何と声をかければよいのだろう。
ドアに手をかけたまま、動けない。
ほんの数十秒のことであったが、浬にはそれが何十分にも、何時間にも感じられていた。
「うちの弟たち、見てどう思った?」
不意に、扉の向こうから声がした。
楓の声だった。
浬は驚き、ドアノブから手を放してしまった。
「どう思ったかって……、かわいいと思うし元気だし、ふつ――」
「普通の、兄弟やろ?」
浬の声を遮り、楓は言った。
その言葉は宙づりになって、二人の間に中途半端にぶら下がった。
「ほんまに、普通なんや。なんてことない、普通の家族」
楓は言葉を続けた。
「でも、私だけは普通じゃない」
浬はその言葉でようやく、楓の涙の理由に気付いた。
まぶしいほどの純白の翼。宙に浮いた、楓の姿。
細かい事情は浬には分からなかったが、きっとそのことを言っているのだろう、ということは分かった。
ドアの向こうから、鼻をすすり上げるような音が聞こえた。
「ごめん、せっかく来てくれとんのに、こんな話して」
「う、うん。全然大丈夫。」
浬は戸惑っていた。
分からない。
こんな時、どうすれば良いか、分からない。
共感してあげる? アドバイスしてあげる? 抱きしめてあげる?
頭の中の恋愛教科書をいくらめくっても、答えは出てこない。
考えても、考えても、その薄っぺらい言葉しか思い浮かばない。
それでは、心に留まらない。
頭に浮かんだ言葉すべてが意味のない文字列に見えて、目が滑り、これだというものが見つからない。
しばらくすると、扉があいた。
ガチャン、と無機質な音が響いた。
「ごめんな、もう大丈夫。追いかけてきてくれてありがと」
楓は、表情を努めて取り繕おうとしていた。
目の周りを真っ赤に腫らして、瞳を潤ませていた。
吹けば崩れ去ってしまいそうな華奢な笑顔を浮かべて、楓は立っていた。
何か言わなければ。
そんな思いに駆られて浬は、
「きっと、偶然だから」と言った。
言いながら浬は、自分自身に腹立たしさを感じていた。
体の表面の薄いところを撫でるような、薄っぺらい言葉しか吐けない自分が憎かった。情けなかった。
自分はショウに言われて、ここに来た。
でもここに来たところで、楓の気持ちを楽にしてあげられることは何もできなかった。
自分は、楓にとっての何物にもなれないのか。
黒く、ドロドロとしたものが、浬の胸を満たした。
そのとき、
ピンポーン、という間延びした音が鳴った。
「楓ー、ごめん遅くなって」
外から呼びかける声がした。近田だった。
楓は一瞬、迷ったような表情を見せたが、やがて
「うん、偶然やんな。うん、じゃあもう悩むの終わり」
と言うと、胸の前でパン、と手を叩いた。
そして立ち尽くす浬の横を通り、階段を下りていった。
楓が扉を開けると、近田は中に入って、玄関の靴の数を見て言った。
「あれ、まさかマリカと柴山、まだ来てない?」
「そうなんよ、チカが二番目」
「あいつら、いつまで寝てんのよ……。ま、いいや。ついでに買い出しさせよっと」
近田はそう言うと、素早くスマホの画面に指を滑らせた。
浬のポケットが震えた。
スマホを取り出してみると、近田からグループチャットに、「寝坊組の二人、来るときこれ買ってきて」と、メモ帳のスクリーンショットと一緒にメッセージが送信されていた。
「また誰か来たぞ!」
8歳のアキトの声がした。
ドタドタと廊下が騒がしくなる。弟たちが3人そろって、近田を出迎えた。
「わあ、今日もかわいいねー!」
「うお、なんだオマエ!」
近田はかがんでアキトに目線を合わせると、ガシッと体を掴み、擦り付けた。
アキトは嫌がるそぶりを見せたが、まんざらでもなさそうだった。
近田にはどうやら年下のかわいらしい男の子がツボらしい。
「げげっ、浅見。居るなら先に言いなさいよ」
近田が浬に気づき、急いでアキトから離れた。
しまった、と顔を歪ませていた近田だったが、楓と浬を交互に見て、ふっと真顔になり
「あんたら、何かあった?」と言った。
楓は、一瞬浬の方に気づかわし気な視線を送り
「そんなことない。なんもないよー」
と返すと、笑顔で近田を家の中に迎え入れた。
口調こそ明るかったものの、その表情はとても「なにもない」という表情ではなかった。
楓に気を遣わせてしまっている。
その事実が、余計に浬の心を深々と突き刺すのだった。
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