EP5-2 最悪のスタートと激甘スイーツ

「くそっ、なんでよりによってこんな日に……!」


 夏の熱気に温められた通りを、浬は走っていた。


 今日は楓との、休日デートの日だった。


 なぜ走っているのか。それは、寝坊してしまったから。

 人生最大の失態だ、と浬は歯ぎしりした。


 前日の晩、浬は緊張して眠れなかった。

 最後に時計を見たのは明け方の午前四時半。

 そこからようやく寝付いて、目が覚めたのは午前十一時三十分。

 それが、待ち合わせの三十分前だった。


 このデートが決まったのは、ついこの間のことだった。

 ゆっくりと作戦を練る暇もなく、あれよあれよという間にデート当日を迎えてしまった。

 だから昨夜は、浬の心臓がうるさく高鳴り、なかなか寝付けなかったのだ。


 初めは期待で胸を膨らませていた。しかし、この日のことを考えるにつれ、不安が徐々に大きくなった。


 もし楽しんでもらえなかったらどうしよう、ダサいデートで愛想をつかされたらどうしよう。そんな思いが浬の頭の中をぐるぐると回っていた。


 待ち合わせ場所が見えるところまで着いて、浬は左腕に着けた安物の腕時計で時間を確認した。

 十二時を十分過ぎていた。遅刻だった。


(最悪だ。初っ端の休日デートから遅刻するなんて)

 浬は頭を抱えた。


 ふと、ズボンのポケットから振動を感じた。


 浬はこの時になってようやく、遅れることを楓に連絡していないことに気が付いた。

 目の前のことに頭がいっぱいで、そんなことも気が付かなかったのか、と浬は悔やんだ。


 浬は震える手でスマホを取り出し、通知を見た。


 液晶には楓からのメッセージが表示されていた。


「どの辺おる?」と、ただ一言。

 飾り気のない、最低限の用件だけ伝えるような言葉。


 全身の血が凍りつくような感覚を覚えて、浬は一瞬目がくらむような感覚に陥った。

 そうして、「ごめん、ちょっと遅れてる。もうすぐ着くから」と震える指を押さえながらメッセージを送った。


 待ち合わせ場所に着くと、楓の姿があった。

 右を見、左を見、まるでミーアキャットのように首を伸ばしてそわそわしていた。


「ごめ……、ん、待たせちゃった」


 浬が息を切らしながら駆け寄った。

 そこで、楓がいつもと違う雰囲気を纏っているのに気が付いた。


 女の子らしいひらひらとした白いワンピースが眩しく、いつもの快活な楓のイメージはすっかり鳴りを潜めていた。

 言うなれば海岸にたたずむ薄幸の少女のような。儚さという薄い膜のようなもので身を包んだ、「清楚」という言葉がぴったりと当てはまるようなそんな雰囲気だった。


 しきりに浬が頭を下げるのを見て、楓は困ったように言った。

「ううん、大丈夫やから、顔上げて。私も今来たところやから。……ぐふふ」


 突然、清らかな雰囲気を歪ませて楓が不敵な笑みを浮かべた。

 少なからず怒っているだろうと予想していた浬は、予想と違う楓の反応に戸惑った。


「ど、どうしたの急に」

「実はこのやりとり、ずっと憧れやってん。なんちゅうか、めっちゃ恋人っぽくてええやんか。……ぐふふ」


 その瞬間、楓の清楚な雰囲気は吹き飛んだ。

 やはり、いつもの楓であった。


「な、なるほど。でも、そのやり取りこの間もやったような気がするんだけど」

「そうやったっけ? まぁ、何回やっても、ええもんはええんよ。ほんま、発明した人は天才やぁ」


 それぞれのカップルが勝手に言い始めただけで、誰が発明した、というわけでもないと思うのだけど。浬はそう言いかけて、口をつぐんだ。


 目の前の楓の表情を見ていると、そんな小難しいことが少しずつどうでもよくなってくる。


「あと、今来たのはほんま。実はな、私も五分くらい遅刻しててん。ごめん」

「そうだったの?」


 楓は顔の前で手を合わせ、頭を下げた。

 浬は、こわばっていた体の血が巡り始め、じんわりと指先まで熱を帯びていくのを感じた。


「そうそう、だから遅刻はお互いさまと言うことで、な?」


 そう言って楓は浬の顔を覗き込んだ。


「……ふふ、そうだね。ありがとう」

「さあ、切り替えて今日を楽しもうやあ」


 楓の笑顔は、まぶしかった。


 浬は思った。

 楓は、人に気を遣わせない天才だ。


 自分が学んできた恋愛術なんて、ほとんど役に立たなかったけれど、これまで楽しくやってこられているのは、まさしく楓のおかげだった。

 いつもあるがままに自分をさらけ出してくれる楓の無邪気さに助けられ、なんとかこれまでうまくやってこれているのだ。

 浬は改めて楓のことを大事に思う気持ちが大きくなるのを感じた。


「ここのパンケーキはな、一見地味やけどめっちゃおいしいねん」


 そう言って楓は浬を店内に促した。

 浬はここで初めて、待ち合わせた場所がカフェであることに気づいた。


 楓はこなれた様子でレジに向かい、コーヒーとパンケーキがセットになっている、Aセットを注文した。


「浅見くんは? うちのおすすめは、このやっぱAセットかなあ。でも甘いのが好きならパフェがついてくるBセットも良いかも」

「なるほど……」


 楓のエスコートは完璧だった。浬は舌を巻いた。


 相手に判断を委ねておきながらもおすすめを提示して、選択しやすくする。

 まさに浬の愛読書、「迷わせない会話術512選」(選択肢が多すぎてどれを使えばいいのかそもそも迷ってしまうのだが)に書いてあったことそのままだった。それを楓は天然でやってのけたのだった。

 浬は感動していたが、それを表に出さないように努めた。


「じゃあ僕もAセットにしようかな」


 浬は、楓のオススメに従い、同じものを注文した。


 注文を受け取って席に着く。

 席に着くや否や、パンケーキに手を付けようとした浬を楓は右手で鋭く制止した。


 まるで居合の達人のような動きだ、と浬は思った。

 もし彼女の右手にナイフが握られていたなら、きっと浬の首は真っ二つにぶった切られていただろう。


「ちょっと、一瞬だけ待って!」


 そう言うと楓はカバンからスマホを取り出し、細かく角度を変えながら写真を撮った。

 女の子が甘いものを食べる前に必ず写真を撮るという儀式は、都市伝説ではなかったのだ。浬は妙に感心した。


「相原さん、SNSとかやってるの?」


 楓は、ぶつぶつ言いながら画面をのぞき込み、ホイップクリームが添えられた二枚のパンケーキを撮影していた。


「映え」の世界は、なんとなく近寄りがたい。

 ハイカーストのイケメン美女たちのテリトリーであり、そのようなものとは縁のないと思っていた浬にとっては、まるで異質なものだと感じられていた。


「うんにゃ。やってない」

「あ、そうなんだ。その写真って何に使うの?」


 SNSに上げないのだとしたら何だろう。食事管理でもしているのだろうか。

 訝しむ浬をよそに、楓はクックックと、戦隊モノの悪役みたいな音を喉の奥で鳴らした。


「ふふん、これな、チカとマリカに送り付けたんねん。あの子ら、絶対嫉妬すんでー」


 にやにやと画面を操作しながら、楓は意地の悪い声を出した。

 あの二人なら何を言ってもいいだろう、という関係性が構築されているのだろう。言葉の調子から、そういうことがなんとなく感じ取られた。


 ――お互い気を使ってるように見える


 柴山が言った言葉が、浬の胸に棘を刺した。

 自分は苅間や近田のように、楓との関係性を築くことが出来ているのだろうか。

 自分は、楓にとってどんな役割なのだろうか。


「おまたせ、ありがと」

 一通り写真を撮り終わった後、楓は満足した様子でスマホをしまった。


「ほんなら、いただきまーす」

「いただきます」


 楓の様子を見て、浬は考えるのをやめた。

 楓の表情を見ていると、今役割だとかそんなことを考えるのがとても無粋なことであるように思えた。

 今デートしているこの瞬間に集中しよう、と浬は思い、頭を振って雑念を振り払った。


「おいしそー」

 楓がまるで人生で初めてパンケーキを見たかのような反応をした。


 浬も目の前のパンケーキに手を付けた。

 ナイフでパンケーキの端の方を小さく切り、口へ運ぶ。

 柔らかいスポンジは口の中で潰れ、丸みのある滑らかな甘さが口の中に広がった。


「あ、これ美味しいね」


 浬が思わず素直な感想を言うと、楓は嬉しそうに頷いた。


「そうやろ、そうやろ。でもな、ちょっと物足りんのよなあ。もうちょっと甘くてもいいと思わへん?」

「そう? 僕はこれくらいがちょうどいいと思うけど……」


 楓に目線を移したとき、浬は度肝を抜かれた。

 同時に、このパンケーキのことを「物足りない」と評価した理由が腑に落ちた。


「相原さんってその、結構甘党なんだね……」


 楓のトレイには空のコーヒーシロップの容器が十個ほど散乱していた。

 パンケーキの方にも、一人分にしては大きなガラスの容器に入れられたメイプルシロップがすべて注がれていた。

 シロップの海に、パンケーキの島が二つ、浮いている。


「そうかいなあ? みんなこんなもんやで?」

「そ、そうなんだ」


 楓は舌が痺れそうなほど砂糖が入っているであろうコーヒーをじっくりと味わうように飲んでいた。


「はぁーおいしいなあ」


 まるで真冬に暖かい緑茶を飲んだ時のようにほっした楓を見ていて、糖尿病にならないだろうか、と浬は心配した。


「あ、そうや」

 楓が言った。


「それ、もし使わんのやったらもらってもええかなあ?」


 それ、と指さした先には、浬が余らせたメイプルシロップがあった。

 結局このとき楓は、浬の分のメイプルシロップまですべて使い切って、それを残さず平らげたのだった。

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