EP5-1 「気を遣っているように見える」

 夏休み前の最後の登校日。


 夏の日差しに温められ、歩いているだけでも体がじっとりとするほどの熱気が教室に充満していた。



 浬は、怒涛のように過ぎて行った一学期のことを振り返った。


 浬と楓が付き合い始めてから三か月ほど経った。

 初めはどうなることかと思っていたが、楓との関係に特にこれといった問題もなく、もう一つの不安要素だった、楓の人間離れした力も、ほとんど見ることはなかった。


 初めこそ普通に話すにも緊張していた浬だったが、あっけらかんとした楓の態度に引っ張られたのか、いつしか自然にふるまうことができるようになっていた。


 いまや、二人きりで長時間一緒にいたとしても変に緊張したりはしないだろう。


 ただ、彼女にも苦手な話題あって……。


 浬の脳裏に、耳まで真っ赤にした、楓の顔がふと脳裏に浮かんだ

「そそそうやんな、家族の紹介とかは早いやんな。まだ学生やしな。ちゃんと、段階を踏んで、それから……」


 色恋沙汰には疎いようで、恋愛がらみの話になると、しどろもどろになるのだった。


 浬は、自分の本棚にしまってあるいくつもの恋愛の指南書を思い出した。

 勉強したことは役に立っているのだろうか。

 あまり学んだこと役立った記憶はないが、これまでうまくいっているということは、学んだことがいかせているのかもしれない。


「ま、恋の先輩が引っ張ってやらないとな――」


 浬が独り言を言いかけたそのとき、


「おはよ、浅見くん! ……およ、どないしたん?」


 楓が浬の背後から話しかけた。

 突然話しかけられ、浬はびくっと体を震わせた。造りの古い学校の机がガタガタと大きな音を立てて揺れた。


「いや、なんでもないよ。急に話しかけられて驚いたんだ」

「そっかそっか。それでさ、今日も放課後一緒に帰ってもええかな?」


 放課後、一緒に帰る約束だった。

 ここ最近は、予定が合ったときに、当日約束を取り付けるということが時々あった。


「もちろん、いいよ」

「よかったあ、それじゃ、またね」

 そう言うと楓は浬にひらひらと手を振り、近田チカと苅間マリカが話しているところへ混ざっていった。


 楓と話すときの緊張感は、初めに比べていくらか緩和されてきていた。

 それだけ二人の関係が生活に馴染んできたということなのだが、それでもやはり、楓と話していると浬の気持ちは浮ついてしまうのだった。


「おっすー」


 高まった気分を台無しにするような声が聞こえて、浬は我に返り声の主へ振り向いた。


「なんだよ、シバケンかよ」

「なんだってなんだよ。……どうした、朝からニヤニヤして?」

「え、まじ、ニヤニヤしてた?」


 浬はそう言って、自分の顔を手でぺたぺたと触って確かめた。

 柴山の言う通り、頬の肉がいつもより隆起しているような気がした。


「やべーくらいニヤついてたぜ。見てらんねーよ」

「いいじゃんか」

「いいけど。そういや、最近相原と調子いいみたいだけど、どうなんだ?」

「順調だよ」

「ほんとか?」

「なんで嘘つく必要があるんだよ」


 そう言って、浬はつかの間考え込んだ。

 そう言えば楓と普通に話すことはできるようになってきたが、付き合ってから三か月も経つというのに恋人らしいことはあまりできていないような気がした。


「そう言えば、休日のデートはしたことなかったかも」


「おいおい……」

 柴山が、ため息交じりに言った。

「お前ら、ほんとに付き合ってんのか?」


 そういうと柴山は頬杖を突いて、浬を見た。柴山は普段からふざけてはいるが、時折浬をヒヤッとさせるような、確信をつく発言をするのだった。


「な、なんだよ今更」


 突然の問いかけに、思わず浬はしどろもどろになってしまう。


「ふうん……」


 そう言ったきり、柴山は、しばらく黙ってしまった。

 何かを言おうとして、躊躇しているようだった。


「何か気になることでもあるのか?」

「いや、気になるって言うか……」


 柴山は声を低めて言った。


「なんかこう、付き合ってるようには見えねーっていうか」


 柴山の目が浬の双眸そうぼうを捉えた。

 一瞬目が合ったのち、柴山はふいと目を逸らした。


「お互い、気を遣っているように見えるっつーか……」


 柴山はそう言って、かぶりを振った


「いや、わり。ただの俺の感想だから、気にしないでくれ。」

「なんだよ、それ」

「それよりよ、見たかよこの動画」


 柴山はそう言ってスマホの画面を浬に見せた。

 最近人気になってきている、モノマネ芸人の動画だった。


 その後すぐいつものような他愛のない話に戻ったが、柴山の「お互い気を遣っているように見える」という言葉は、しばらく浬の中に、しこりとして残ったのだった。


 *


 校門で五分ほど待っていると、楓はやってきた。


 楓は、満面の笑みを浮かべて浬に近づいた。

「ごめーん、待ったー?」

 言葉とは裏腹に、表情は浮ついていて、どことなく嬉しそうだった。

「ううん、僕も五分前に着たとこだから」

「待った? ってセリフ、恋人っぽくてええよなあ」


 何かをかみしめるように言う楓の様子に、浬も思わず表情を緩ませた。


「ふふ、そうだね」

「やろ? 浅見くんもそう思うやろ?」


 くだらない話をしながら、帰りの道を歩く。


 二人の距離は、確実に近づいている。浬はそう思った。

 柴山にはあんなことを言われてしまったけれど、自分たちは至極順調だ。


 ――お互い、気を遣っているように見える


 浬の頭に柴山の言葉が浮かんだが、すぐに振り払った。


 歩いていると、交差点の信号が赤になり、二人は立ち止まった。

 一度赤になると待ち時間が長いことで有名な交差点だった。

 立ち止まってお互い話題を探すような時間があってから、楓が思い出したように浬に尋ねた。


「そや、今週の土日って、予定空いてる?」

「今週末? うん、空いてるけど」


 そう浬が答えると、途端に楓がそわそわとしだした。

 しきりに自分の指先を、こすり合わせている。


 デートだ。

 浬は、直感した。


「良かったらさ、どっか遊びに行かへん?」


 うつむき加減で言った言葉だったが、浬はしっかり聞き取っていた。


「もちろん、いいよ。どこ行こっか?」


 なるべく、自然に、自然に。

 浬は楓の言うことを一切逃すまいと、神経を楓の口元に集中させた。


「ほんま! んーと、行きたいとこがあるんよ」

「へえ、どこ?」

「遊園地」

「いいね、いこう」


 そこから、会話は、弾んだ。

 何を見たい、どんなお土産を買いたい、ここで写真を撮りたいなど、お互いのやりたいことや見たいものは膨らんでいった。


 こうして二人は、声を弾ませて別れを告げた。


(今度の日曜日は、相原さんとデート、休日のデート……)


 心臓の鼓動が早まるのを感じた。

 恋人らしい時間を過ごせる、チャンスだと、浬は考えていた。


 その日からしばらく、浬は興奮して寝付けない日が、しばらく続くのだった。

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