EP2 楓のことを知らなければならない

 楓と付き合うことになって、一週間ほど経った。


 かいりは歩いていた。

 足元のアスファルトは雨でぬれていた。どうやら夜の間に降ったらしい。

 厚い雲で覆われた今日の空は灰色で、見る人をどことなく暗い気分にさせる、そんな色だった。


 そんな中、浬の足取りはただ一人軽かった。


 灰色の空も、アスファルトの濡れた匂いも、薄く広がった水たまりも、気にならない。

 なぜなら、今の自分は、今までの自分とは違うから。


 ――「やからさ、あの、もしよかったらやねんけど……」

 ――「……付き合お?」


 脳裏に、夕日に焼かれて、いっそう顔を赤くしていた楓の顔が思い浮かんだ。

 今の自分には、恋人がいる。その事実が、浬の気分を高揚させていた。


 校門をくぐり、自分の教室を目指す。

 雨と古ぼけた木の匂いが入り混じる見慣れた廊下も、今の浬には世界のセレブが通るレッドカーペットのように感じられていた。


「お、浅見くん、おはよっ」


 教室に入ってすぐ、楓は浬がいるのに気がつき、明るい声をかけた。


「あ、おはよう」

 自然に挨拶を返せただろうか、と不安になりながら浬は言った。


 恋人同士なのだから、もっと堂々と話していい。そうは思うのだが、一度意識してしまうと普段の自分はどんな声だったか? こんな口調だったか? など考えてしまい、余計に意識してしまうのだった。


 楓と付き合い始めて一週間。

 生活が一変してしまうのではないかという懸念はどうやら杞憂だったようで、やってきたのはいつも通りの日常と、ほんの少しの変化だけだった。


 いつも通りの時間に登校して、いつも通りに授業を受ける。

 ただその合間に、楓と一言二言、会話をするだけだった。


 それは喜ばしいことだったが、何かとんでもないことが起こるのではないかと身構えていた浬を、なんとなく拍子抜けさせた。


 ――「私な、黙示録<アポカリプス>なんよ」


 あの日、楓が見せた普通ではなかった。

 しかし、あれ以降の楓は極めて普段通りで、翼を生やして空を滑空していたように見えたのは、自分の見間違いだったのではないか、と浬は次第に思うようになった。


「あ、チカおはよー」

「楓、おはー」

「あれ、今日はマリカ一緒じゃないん?」

「マリカは寝坊。どうせ、そのうち来るでしょ」


 楓が、クラスメイトの近田チカと話している声が聞こえる。


 先週席替えがあったので、楓と浬の席は離れてしまっていた。

 浬は、楓たちの様子をじっと見た。


 近田チカは真っ黒なショートヘアで、いつも右側だけ髪の毛を耳にかけている、目つきの鋭い女の子だ。実は彼女のことを、浬は少し苦手に思っていた。

 ちょっときつめの見た目と、ぶっきらぼうな話し方が相まって、どことなく怖い人、という印象があったのだ。


 ふと、浬はあることに気が付いた。


(あれ、もう一人のほうはどこだ?)


 浬は目であたりを探った。

 いつも一緒にいるはずの、あいつがいない。


 そうしていると、


「だぁー、遅刻するかと思った!」


 一人の女子生徒が教室の扉を乱暴に開け、教室に飛び込んできた。

 くりくりに巻いた明るい長い髪を垂らし、肩で息をしている。

 胸元のボタンを開けて着崩した制服をパタパタを動かして風を送っている。


 苅間かりまマリカだ。


「はあぁ……、あぶなかったあ」と、苅間マリカは大きく息を吐いた。

「はー、惜しいね。遅刻して先生に怒られていれば、マリカのしょんぼり顔が見れたのに」と、近田チカ。

 楓が間に入り、二人をなだめた。

「こらこら、そんなこと言わんの。おはよ、マリカ」

「かあー、楓はやさしいねえ。涙が出てくるよ。それに引き換えチカは……」

 と、苅間マリカは、まるで演劇のような調子で大げさに言った。


「一緒に登校しようって言いだしたのはマリカのほうしょうが。私、あんたを待ってたせいで十分も無駄にしたんだから」

「十分で何が出来んのよ。どうせ私を待ってる間、またバカみたいに弟とイチャコラしてたんでしょうが」


 苅間マリカと近田チカの言い争いが始まった。


「お、弟は関係ないでしょ! あんたもどうせ昨晩は、激烈ヘビースモーカーのバイトリーダーと“なかよし”してたんでしょうが。煙の臭いが移ってんのよ」

「な、あたしたちはそう言うのじゃねーし! てか、先輩を悪く言うなっつーの!」

「あんたら……」


 大声で言い争う近田チカ(ちかだちか)と、苅間マリカ(かりままりか)。

 髪の毛が黒くてスレンダーな方が近田チカで、髪の毛が明るくてグラマーな方が苅間マリカだ。


 楓と仲が良く、何かと一緒にいる彼女たちを、浬はひそかに「取り巻きーズ」と呼んでいた。

 彼女たちはいわゆる「ギャル」に分類されるような女子で、楓とはまるでタイプが違いそうなものだったが、不思議と彼女らは気が合う様子で、いつも一緒にいるのだった。



「なーに女子の方ずっと見てんだよ」

 誰かに頭をコツンを叩かれて、浬は顔を上げた。


「聞いたぜー、お前相原と付き合ってるんだってな」

「シバケンかよ……。うるせ、ほっといてくれ」


 柴山健一。中学の頃はサッカー部で、浬と中学校からの友人だった。

 人懐っこい犬のような顔と、興味のあることになると夢中であちこちを嗅ぎまわる様子から、仲の良い何人かの生徒からはシバケンと呼ばれていた。


「応援しようって素直な気持ちで言ってるんだぜ? 気持ちだけでも受け取っとけ」

「気持ちだけでも、っていうのは受け取る側が言うもんだ」

「あ、そうだったか?」

 そう言って柴山は調子良く笑った。


 気付けば人の内面までするっと入り込んで、親密な関係になってしまう。そんなところまで犬みたいなやつだ、と浬は柴山に対してそんな印象を抱いていた。


 柴山に構わず、浬は観察を続けていた。

「なんかあの三人、仲いいよな。全然タイプ違いそうなのに」

「相原と、近田と、苅間か。ま、小学校からの友達なんてあんなもんじゃねーか?」

 浬の言葉に、柴山は別に大したことではない、という口調で答えた。


「え、まじで?」

 浬は危うく椅子から転げ落ちそうになった。


「そうなのか?」

「おいおい。浬、お前そんなことも知らねーのかよ」

「逆に、なんでシバケンはそんなこと知ってるんだよ」

「秘密の情報ネットワークのおかげ……、なんつってな」

 柴山は、ニッと笑った。


 確かに言われてみれば、取り巻きーズは意外なほど楓と一緒にいる。

 見た目はギャルそのもので、楓と相性のいいタイプには見えないのだが、小学校からの友達ということはよほど仲がいいのだろう。

 気の置けない友達であることが浬にも推測できた。


「お前なんも知らねーじゃん」


 柴山は笑いながら浬の肩をポンと叩いた。


「……たしかに、僕は相原さんのことを何も知らない」


 浬が見せた思いのほか深刻な表情に、柴山は口をつぐみ、やさしく声をかけた。


「まあ、そういうのは、これから知っていけばいいさ。俺にできることがあれば協力するぜ」

「そうか」

「おうよ」

「じゃあ、頼む。放課後、付き合ってくれ」

「え?」


 浬は、目線を楓から動かさずに言った。

 知らなければならない。浬の頭の中はそのことでいっぱいだった。

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