第37話 開戦!
その夜カジノに訪れた客のほとんどは、自分を幸運だと思っただろう。
ガーデンテラスに現れたのは桃色の愛らしい天使を連れた、真っ赤な月の女神。
男性はもちろん、女性までもが目を奪われ息を呑む。
歩みは楚々としても妖艶であり、深い鍔の下から控えめにのぞく涼やかな目元は扇情的でもあり、その魅力の虜にならない者はいない、まさに神の祝福を一身に受けた美女。
「………………」
「あの、チップの交換を………」
ジュリアに催促されたボーイはようやくバースから視線を戻し、慌てて鞄を受け取る。
「もも、申し訳御座いません!あの、今すぐ…」
その手際の悪さに、バースはくすりと笑ってみせた。
蠱惑的な微笑に、またボーイは見惚れて手を止めてしまう。
(……バース様すごい。まるで別人みたいに堂々としてらっしゃるわ。)
そこにいるのは人見知りして怯える陰気な女ではなく、ミステリアスなオーラを放つ貴婦人だ。
その従者らしくあれ。
本音では、まるで早鐘の心臓を吐き出しそうに緊張しているジュリアも、精一杯顔を澄ませて胸を張る。
テラダから見れば、その意識したエレガンスは子供の背伸びにしか見えないのだけれど。
テラス前の一面ガラス扉が開放されているカジノは、屋内からテラスの隅々までランタンが連なり、夜の山中にあって昼のように明るい。
エントランスホールにはネズミレースに歓声を上げる人々、矢刺しの的を囲み、1つ矢が放たれる度に一喜一憂する人々、それを遠巻きに眺め酒の肴にして談笑する人々がひしめいている。
遊蕩に耽る人の合間をゆるりと滑り抜ければ、シンメトリーの螺旋階段の中二階に3つの卓。
お目当てのカード遊戯場だ。
踊り場の手摺にもたれ、一つの卓に注目する。
「トップスですね。」
ボーイがバースの視線の先を見て呟いた。
丁度、ディーラーが3つのデッキを器用に混ぜ合わせて、今からゲームが始まるという所。
「………行かないのですか?」
ジュリアの疑問に、バースはゆっくりと頷いた。
「少し、見てからにするわ。」
──────────
綺羅びやかな馬車が並ぶエントランスで、御者や召使いを装ってフラリフラリとテラスを横断する、ミゼットとムタ。
東の倉庫を視界に入れながら、少しずつ人の波を逸れていく。
到着早々、バラ園で逢瀬を楽しもうという大胆なカップルの後をこっそり追い、イヌマキの生け垣に隠れる。
「……ラウルの話ではバラ園の北に物置小屋があり、使用人用の細道が私邸の勝手口に繋がっています。」
「物置小屋で待機して、合図を待つんでしたよね?」
「そうです。……が、問題が起きているかもしれませんね。」
「問題ですか?」
ミゼットは生け垣の隙間からホテル、倉庫、物置小屋を確認する。
「情報では、今夜リベラはレプロスに行って不在のはずですが、エントランスにリベラの馬車がありました。それから警備配置も情報と違う。カジノには常に二人の聖人がテラスにいるはずですが見当たらなかった。更に、巡回しているはずの傭兵がカジノにいました……恐らく、傭兵全員を南のホテルの警護に回し、聖人は私邸で待っているのでしょう。」
「待って……るん、ですか?」
作戦が漏れたのかと、ムタは顔を青くして喉を鳴らす。
「ええ。酔狂な事に、リベラは聖人全てを私邸に集め、迎撃させる気のようですね。」
「ぼ、僕らが来るのを知っているって事でしょうか?」
「我々か、それともチアゴ部隊か……。物見遊山を気取って、痛い目を見なければいいですがね。」
不意をついたと思っていたのに、敵が待ち構えている。
表情が強張るムタの頭を、ミゼットは優しく撫でて微笑んだ。
「あなたは、必ず私が守りますから、心配いりませんよ。」
ミゼットに、オラウの影が重なる。
まさしく命懸けでムタを庇っていたオラウ。
そして、何も出来なかった、勇者ですらなかった自分。
ムタはミゼットの手を取ると、頭を撫でるのではなくこうするんだ、と言わんばかりに、拳にして叩いた。
「島では、何も出来ませんでした。でも、今日は違う。考えて、考えて、僕に出来る戦い方を準備してきました。後は、勇気だけだ。ミゼット様に守ってもらうのではなく、僕達は一緒に戦いに来たのです。」
ミゼットは目を丸くする。
強い決意が宿る真っ直ぐな眼差しに、子供だと
「ええ、そうですね。共に、健闘しましょう。」
──────────
チアゴ特殊作戦部隊の名を一躍知らしめたのは、正教会が50年に渡り繰り返し行っている「宣教の旅」と呼ばれる、いわゆる侵略戦争の中の激戦だった。
東征軍にとって最初にして最大の難関が、東の諸国群の入口とされるチャンタという小さな国。
チャンタは断崖絶壁の裾野に居住する山岳民族の堅牢な砦だった。
切り立った崖は大軍で侵攻出来ず、荒野には地下道が広がり、神出鬼没のゲリラ的な夜襲に正教会は手をこまねいていた。
砦の案内をさせようと懐柔も試みたが、女子供ですら背を撃ち、罠にはめ、東征軍に靡く者は一人もいなかった。
宣教を放棄し、殲滅を選択した本営が投入したのが
彼らのずば抜けた身体能力は絶壁をものともせず、優れた嗅覚と統率力で潜伏する敵を次々と暴き、破竹の勢いで制圧していった。
武装する者は女子供にも容赦は無く、作戦が完了した時、生存者はわずかな乳幼児ばかりだったという。
宗徒らしからぬ無慈悲さと残酷性は瞬く間に国内外に広まり、畏怖と嫌悪から呼ばれるようになったのが彼らの異名だった。
彼らは命令を忠実に実行する。
そして、敵の抗戦が激しく苛烈なほど、慈悲を捨てられる。
初めは確かに忠誠だった。
しかし今、彼らが心躍り求めるのは、猛獣の狩りだった。
リベラ邸の北、静謐そのものの夜の森の中で、いつの間にか潜んでいる複数の影。
闇に溶け込み、時を待っている。
険阻な岩場、視界の悪い市街や山林、狭い屋内、そして夜こそ、彼らの土俵である。
今夜、自分達のステージで待つのは、極上の獲物だ。
「楽しませてくれよ。」
狩りの始まりだ。
チアゴの犬笛が響き渡った。
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