第9話 空気ノイズ

学祭が終わって2週間が過ぎた。俺は部室のソファーに座ってある計画を立てようとネット検索していた。するとそこにミーアが入って来て慌てた様子でこちらに向かって来た。


「大変だよ、カナタ」


またこいつは下らないことをさも大げさに言う名人なので話半分に聞いておこうとネット検索したまま首を向けずに聞く。

「で、何が大変なんだ」


「サキが、いやサキに男ができた」

はは~ん、なるほどな。この間の学祭の時打ち上げに参加せず用事があると言って去って行ったのは男ができたからか。


「そっかぁ。まぁ親友のお前はショックかもなぁ。でも尾形のやつ、性格はさておき見た目は案外いいからそりゃ彼氏の一人や二人できるだろう。高校時代だって結構いろんな男と付き合っていたんだろ?」


ミーアは鋭い目つきで俺を睨んで切り返して来た。

「はぁ?それ誰から聞いたの?サキのこと見た目で勝手に判断しているでしょう。あの娘はねぇ、高校一年の時に好きだった男子生徒に思い切って告白したんだけど振られちゃって、それからずっと自信なくして高校3年間誰とも付き合わなかったんだよ」


え?そうなの?尾形のやつ、俺には恋愛マスターみたいな顔して上から目線で説教垂れてきたくせに自分も異性との交際経験がなかったのかよ。


「ごめん。そうとは知らずなんかイメージで言っちゃったよ。でもそれなら尚更喜ばしいことじゃん。お前も友達の幸せを祝福してやれよ」


「分かってるよそんなこと。でも今はまだ驚きと寂しさで気持ちをコントロールできないからカナタにこのやり場のない想いをぶつけにきたの」


なんだそりゃ、俺はサンドバッグか。

イーサンが入ってくるとミーアの怒り?の矛先はそちらに向かいイーサンに向かって捲し立てていた。そんな2人を尻目に俺は検索を続けていた。


「ちょっとカナタ、人の話も聞かずにさっきから何を見ているの?」

ミーアが俺の背後に回り端末を覗き込もうとするので俺はホロディスプレイを壁に投射してみんなにも見えるようにした。

ディスプレイには星の輝く夜空を背景に高くそびえ立つような道路がまるで空中に浮いているように印象的に映し出されている。その上に大きな文字でこう書かれていた。


『天空ハイウェイ』


ミーアとイーサンもアホ面でその文字を呟く。


「そう、2年前に完成した小豆島にある高さ300mのまさに天空に浮かぶ高速道路。特に海上の真ん中にあるサービスエリアから臨む日の出は圧巻らしくSNSでも話題と」


説明をしているとちょうどテオとトビアスも入って来たので俺は改めて皆に提案する。


「学祭も終わってちょうどいいタイミングなんで皆んなで思い出作りに旅行に行きたいなと思っていて。温泉旅館とかもいいかな~って思ったんだけどここはひとつ今話題のスポットに行ってみるのもいいかなぁって」


俺は端末を操作して天空ハイウェイを紹介する動画をホロディスプレイに映す。


「おお、すげえー」


美しく幻想的な光景に一同感嘆の声を上げる。


「こういうイベントもいいよね。音楽関係以外でみんなとどこかに出かけることってなかなかなさそうだからいいと思う」

テオが先陣を切って賛同してくれた。それに続いて他のメンバーも提案に乗ってくれたので俺は話を纏めるべく皆に向かって話す。


「じゃあ予算とか旅の栞は俺が作っておくからみんなは向こう1ヶ月のスケジュールを教えて。日程の調整はミーアお願いしていい?」


「オッケー」


「車はイーサンよろしく頼むよ」


「了解ー」


こうしてミレニアム音楽同好会としては初めての音楽以外のイベントが決まった。


「あ、シオンさんどうする?」

ミーアが思い出したように尋ねる。


「さっきメールきてこの後こっちに顔だしてくれるみたいだから直接話すよ」


それから俺たちはきっかり2時間バンド練習をして一汗流したところでグダグダの談笑タイムに突入。ちょうどそこにシオンさんが合流してきたので俺は先ほどの旅の計画のことを話す。


「天空ハイウェイ、そう言えばちょっと前に話題になってたよね。いいセンスだわ。で、私も一緒に連れていってくれるの?」


「ええ、もちろん。みんなで思い出を作りましょう」


シオンさんとミーアは早速何を着ていくかで盛り上がっている。男衆は相変わらず好きなバンドの新譜の批評合戦を繰り広げており”ああいつもの光景だなぁ”などとしみじみ思いつつも、俺はもう一つ話しておかなければならないことを思い出し立ち上がる。


「ちょっといいかな。今日はもう一つ決めておきたいことがあって」


「なんだ、改まって」

会話を寸断されたトビアスが眉間に皺を寄せてこちらに向き直る。


「うん、俺たちの同好会も結成して半年。本来なら20人くらい人を集めて色んなバンドが自由に組めるようサークル化したかったんだけどまあそれはそれ。で、ミレニアム音楽同好会として今やっているバンドを本格的なオリジナルバンドとして活動していこうかなと思っています。そこで改めてバンド名をちゃんと決めようかと」


眉間に皺を寄せていたトビアスも話の内容を聞くなり真剣な面持ちで応える。

「それは俺も考えていた。大学の外で活動するならどっちみちバンド名はちゃんと決めておかないといけないしな」


それから俺たちは小一時間、バンド名のアイデアを出し合って議論した。

色々なバンド名が提案されたが何か一つグッと来るものがない。決め手にかけるのだ。


アイデアを絞り出すのに疲れてきた時、ミーアが何気無く口にした一言が皆の琴線に触れる。


「空気ノイズ」


「え?!」


「いや、カナタが書いた曲の歌詞に「空気のノイズ」ってフレーズがよく出てくるじゃん。いっそそれをバンド名にするのはどうかなって」


「ああ、なるほど。『空気のノイズ』じゃなくて『空気ノイズ』なら確かにバンド名としてしっくりくるね」

関心したようにテオが頷く。


「少し青臭い感じはするけど今までの案の中では一番しっくりくるかな」

トビアスもこのバンド名に傾きかけている。


「うん、語感とイメージがバンドの音像に合っていると思うしいいと思うよ」

イーサンも頷きつつ俺に同意を求めてきた。


「ねえ、彼方。『空気ノイズ』いいんじゃない?」


俺は冷静に分析してみる。確かに空気のノイズというフレーズを俺は3回使っている。そこにはオンライン空間に溢れるデータとしての音楽に対するカウンターアクションとしてのリアルな空気の振動する音楽という意味が込められている。このバンドで表現したいリアルな生の”音楽”という点でも合致している。語感も英語と日本語のハイブリッドでどこかエスペラントな雰囲気も出ている。いける。

あとは既にバンド名として使用されていないかのチェックだ。俺はすぐに端末の検索エンジンに「空気ノイズ バンド」と入力。100件分の検索結果を見ても空気ノイズというバンドはヒットしなかった。検索結果をホロディスプレイでも共有する。


「よしっ、じゃあバンド名は『空気ノイズ』で決まりで!」


「異議なし」

皆声を揃えて応える。そうと決まればすぐにやらなければならないことがある。


「俺は24時間以内にバンドの公式サイトを立ち上げるは。SNSの公式アカウント作るの誰か頼まれてくれてもいい?」


「それは俺がやるよ」

トビアスが手を挙げてくれた。


「それじゃあ私は学祭のライブ動画を編集して簡易的なPV作るね」

ミーアは得意の映像編集に名乗りを上げてくれた。


「私もバンド名のフォントとロゴを作ってみるわ」

なんとシオンさんも協力に名乗りを上げてくれた。


「ええっ、いいんですか?何か色々巻き込んじゃって申し訳ないけど助かります」


「私も皆んなの役に立ちたいしね。それにフォント作るの好きなのよ。何パターンか見本作ったらデータ送るわね」


バンドメンバーに加えてシオンさんも応援に回ってくれる。俺は自分が初めて組んだバンドにちゃんと名前がつけられた事により、今まで曖昧だった自分の音楽人生のヴィジョンが明確になっていく気がした。なんというか、正しいエネルギーの放出先が決まったような手応えを感じた。

『空気ノイズ』俺はこのメンバーとなら本物の音楽を追求していける。そんな青臭い確信も今なら本気で言える気がした。


今日はその始まりの日だ。


翌週。

俺とトビアスは塚原教授の講義を受けるため冬の足音のする大学構内を背中を丸めて歩いていた。思えば最初にこいつと出会ったのも塚原教授の講義がきっかけだった。初めは感じの悪いやつだったしまさかこいつと一緒にバンドを組むことになるとは、運命とはよく分からないものだ。今でも意見の対立はよくあるけどなんだかんだでお互いの才能を認め合っているし、互いの欠点も補い合っているいい仲間だ。

今日も今日とてバンドの新曲のことについて喋りながら歩いているとトビアスが向かいの歩道の方を指差して視線を誘導する。


「おい、あれ」

俺たちのいる歩道から小さな池を挟んで反対側の歩道にシオンさんと知らない男が歩いていた。それもどことなく親密な雰囲気で。


「あれ、シオンさんじゃん。隣の男誰だろう。知ってる?」


「知らね。あの娘前も違う男と歩いていたけどやっぱり人気あんのかね。ああいう少し不思議系の異性とか」


「どうだろ」

俺は少しとぼけた感じで返答する。心の動揺を悟られぬよう逆に質問する。


「トビアスはどうよ。シオンさんみたいなタイプ」


「美人だとは思うが恋愛対象ではないな。ていうか女性を品定めするみたいに評するのあまり好きじゃないんだ。こういう話はやめてくれない」


「ああ、すまん」

お前が最初にそういう話を振ってきたんだろうが!と突っ込んでやりたかったがそういう雰囲気でもなかったのでやめておくことにした。




「前世紀までは盛んに議論されていた問題がある。女性の社会進出と出生率の低下の因果関係だ」

本鈴のチャイムと同時に塚原教授の授業は唐突に始まる。俺とトビアスはいつものように最前列の席で講義にじっと耳を傾ける。


「女性の社会進出は20世紀に入ってから始まり特に1980年代以降は加速的に進んでいくことになる。だが1980年代以降は女性の社会進出のみならず他にも様々な変化が人類社会に訪れる。コンピュータの進化、普及。インターネット。労働環境の変化。気候変動にグローバリズム。こういった様々な要因から女性の社会進出だけを取り出して出生率の低下と結びつけるのは少し強引にすぎる。もっともこの問題も21世紀には無用のものになる。人工胚、人工出産の進化、普及だ。これにより人口減少や少子化は食い止められ安定的かつ計画的に人口を調整することが可能になった。それも女性の身体への負担をなくして。にもかかわらずこんな興味深いデータがある」

そう言って塚原教授は大型ディスプレイにグラフを映し出した。


「これはとある広告代理店が20代から50代の女性にアンケートをとったグラフなんだけど、一番上の設問に注目して欲しい。

『あなたは現代の社会を生きやすいと感じますか?』

これに”いいえ”と答えた女性が72%。そして次の設問。

『現代に於いてなお男性優位社会は前世紀から変わっていないと思う』

この設問に”はい”と答えた女性、実に70%。結婚や出産といったこれまで女性を”家庭”という軛から繋いでいたものを外した現代ですらなお、これだけの女性が社会を男性優位に動いていると感じ生きづらさを感じている。君たちにも思い当たる節はないだろうか。例えば世に溢れる性的コンテンツ。それらを『ヘテロの女性向け』『ヘテロの男性向け』に振り分けるとそのほとんど80%を占めるのが『ヘテロの男性向け』コンテンツなんだな。あからさまな性的コンテンツ以外にもこの徴候は見られる。

例えばマンガやアニメ。一見何の変哲も無い日常系の作品と思いきやよく見ると登場人物のほとんどが可愛らしい女の子といった具合に。或いは異世界冒険もののファンタジーで主人公の男以外は全員女の子。まさにハーレムだな。こうした偏った性的指向のコンテンツに我々は無自覚的に晒されている」


講義が終わり俺とトビアスはその内容について議論しながら歩いた。


「男性優位社会が今でも続いてるって正直あんまりピンと来ないんだよな。トビアスはどう?」


「もともと人間社会ってさあ、概ねどの地域でも文明が始まってからは男性優位の社会システムを採用してきたわけじゃん。それがちょっと文明が進歩したからってたかだか100年や200年で男女平等になるなんて、それこそ男性視点の勝手な思い込みなんだよ」


そういう考えもあるのかと思い俺はあえて反論することはしなかった。さらにトビアスの話は続く。

「男はその無自覚的な加害性をもっと自覚するべきだと思うよ。特にヘテロの男は女性を性的に消費したいという欲求を常に抱えている。解せないのはそうした欲求が満たされなかった男がミソジニーに陥るケースだな」


「ミソジニーって何だっけ?」


「女性嫌悪だよ。塚原教授の講義を受けているのに勉強不足だぞ、羽山。その対義語はミサンドリー、男性嫌悪。だけど実際にネットで検索されるのはミソジニーの方が圧倒的に多い。このことからも現代でもなお女性蔑視の風潮は連綿と続いているのが分かる」


「なるほどねぇ」

俺はトビアスの説明に感心しつついたずら心でついいらない一言を呟いてしまう。


「なんかその言い回しだとトビアスがミサンドリーみたいだな」

言ってすぐ後悔したがトビアスは何も答えず。俺たちは無言で枯葉落ちる大学構内を俯きながら歩き続けた。


その週末に皆のスケジュールが調整され天空ハイウェイへ行く日程が決まった。12月の最初の週、大学の創立記念日が金曜日にあり全学休講になるのを利用して金土日の3日間で行くことになった。

当日、イーサンが車を出して皆をピックアップ。陸路ではるばる天空ハイウェイのある小豆島を目指す。車は自動運転で高速道路に入り俺たち6人はお菓子を持ち寄って遠足気分で車の長旅を楽しんでいた。シオンさんに至ってはお酒も持ち込んでいたけどイーサンに気を遣って開けようとはしなかった。いかに自動運転とはいえハンドルキーパーであるイーサンがアルコールを飲むことは法律で禁じられているから。

車は途中京都の茶屋に寄ったり神戸で食事をしたりしながら鈍行で進み香川県に入る頃には夜もとっぷりと更けて午前0時を回ろうとしていた。予定では真夜中に天空ハイウェイに入りそのままサービスエリアで車中で仮眠をとり、朝日が昇るのを皆んなで見てから小豆島のホテルに9時にチェックインする手筈になっている。

関東から小豆島に向かうには本州から出ているフェリーを使うのが最短ルートだが、今回の旅の目的である天空ハイウェイは香川県側から小豆島にかけられた橋なので俺たちはやや遠回りをして香川ルートから天空ハイウェイを目指す。

香川を東西に走る高徳線を抜けて海沿いの道に出ると夜の海に浮かぶ巨大な橋が見えてきた。天空ハイウェイだ。夜の海の遥か彼方まで続く巨大な建造物を目の当たりにして俺たちのテンションは真夜中にも拘わらず最高潮に達する。

興奮はそのままに天空ハイウェイに続く入り口ゲートを抜けるとジェットコースターのような急勾配の坂が俺たちを出迎えた。車はどんどん高く登って行き俺たちは子供のようにキャーキャー騒ぎながら進んでいった。

急勾配が終わり道路が水平になると今度はどこまでも続く光に照らされた道が眼前に現れる。頭上には今まで見たこともないような明るさの冬の星座が輝いていて俺たちは言葉を失い、車中は先ほどとは打って変わって水を打ったようにしんと静まり返った。

イーサンが気を利かしてサンルーフボタンを押してくれたので車の天井は透明なガラス窓になり降り注ぐ星の光が車内にも差し込んだ。皆で座席のリクライニングを少し倒して走る車の中で夜空を眺めていると、流れ星が北東の空に現れスッと消えていった。


「ねえ、今の見た?」

ミーアが視線を夜空に向けたまま尋ねる。皆無言で頷く。


「よかった。おじいちゃんがね、『流れ星を見るのにはセンスがいる』って言って20歳までに流れ星を見たことがない人はセンスがないから芸術や表現の道は諦めた方がいいって言ってたんだ」


「20歳までってなかなか厳しい年齢制限だな。根拠はあるのかな」

本当は根拠なんてどうでもよかったけど俺は話をつないでみた。


「きっとおじいさんが言いたかったのは下ばっかり向いて視野狭窄になっている奴より空を見上げてロマンの一つでも語れる奴の方が芸術家としては向いているって言いたかったんじゃない。年齢制限はよく分からないけど」

トビアスが穏やかな口調でミーアをフォローする。


「ありがとう、トビアス。そう言ってくれて嬉しいよ。私も真意は分からないけど多分そんな意味合いだと思ってた。年齢制限は、まぁ昔の人だし今とは比較できないけどやっぱり80歳くらいで人生が終わっちゃってた世代とは年齢の感覚が大分違うよね」


「ほんとうね。私達の世代って一体何歳まで生かされ続けるのかしら」

シオンさんは厭世的な声音で誰にともなく問いかける。


「でも人間の平均寿命はどんなに頑張っても120年以上は伸びないって聞いたことがあるよ」

イーサンが得意げに答える。


「確かに肉体には限界があるけど脳のデジタル化の技術が進んだら仮想空間の中で永遠に生きられる。更に技術が進めば人間の体を完全に再現したロボットも出てきてソフトウェア化した脳を移植すれば現実世界でだって永遠に生きられるかもよ」

そうした未来を望むとも望まぬとも表明せず、俺は淡々と起こりうる現実を語る。


「脳や意識のデジタル化って最近よく耳にするよね。僕らが生きている間に実現可能になるって話だけど正直僕は怖いな。なんかそこに手を出したら人間はもう生き物と呼べない気がして」

テオは夜の海を眺めばがら率直な不安を吐露する。普段は音楽の話ばかりしているのでこういう話を皆でするのはとても新鮮だ。きっと夜の海と空の星々がそうさせたのだろう。


40分ほど平らな道をひたすら走り続けると前方に一際大きな光を放つ空間が見えてきた。天空ハイウェイの中にあるサービスエリアだ。敷地面積は普通の高速道路の大型サービスエリアとほぼ同じくらいあり何百台もの車が停車していた。海側のエリアには真夜中でも売店や飲食できるカフェ、レストランが営業していて賑わいを見せていた。俺たちはカフェで温かいコーヒーをテイクアウトして売店エリアの先の仄暗いスペースにあるテラス席で日の出を待つことにした。そこは星を観察できるようにと他の場所に比べて照明の数が少なく、立っていると夜の海の黒さと空の星の瞬きに吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

頬に当たる風は冷たかったけど最新のヒートテック素材で全身を包んでいたので寒さは感じなかった。

日の出までまだ2時間はある。俺は車で仮眠を取ることを提案したが皆眠くないと言ったので外で談笑しながら待つことになった。きっとこの特別な夜が終わるのをどこかで逡巡しているのだろう。


「楽しいことをしている時にふと我に返って無性に寂しくなる事ってない?」

手にしたコーヒーに視線を落としながら呟くように切り出すテオ。


「ああ、分かる、あれでしょ。この楽しいイベントもあっという間に過ぎ去ってまたいつもの日常に帰っていくんだなぁ、と思って寂しくなるやつでしょう」

ミーアは目を細め寂しさを噛みしめるように答える。


「あれか、日曜日の夕方になるとかかるやつ」

イーサンがこちらに答えを求めるように見てくるので俺は渋々答える。


「それはサザエさん症候群だろ。まぁ似ているけど少し違う気もする」


「過去に囚われたり未来を悲観したりするのは人間の基本的な性質の一つよね。哲学書や自己啓発本なんかによく『今を生きる』なんて書いてあるけど実際に今だけを感じて生きるのってとても難しい。そもそも『今』って何なのかしらね」

シオンさんの問いかけは哲学的すぎて誰も答えることはできなかった。

俺は別の視点で切り込んでみる。


「それで言えば『同時』って何なんだろうって考えたことがあって。音楽には必須の概念だと思うんだけど厳密に『同時』を追求しても絶対に誤差というか、レイテンシーが発生するよなーって思って。そう考えると音楽のリズムにグルーヴを感じたりするのってある種の錯覚なのかなと」


「異なる二つの場所でなる音に勝手に関連性を見出して遊び始めたのが音楽の最初だとすると全ては錯覚でもあり現実でもあるんじゃない。星座だってそうじゃん。バラバラに並んだ星々を勝手に繋いで物語を作ったり」

トビアスは夜空を指しながら指摘する。


「ジョン・ケージだ」


「そそ」


俺とトビアス二人だけで納得していたのでミーアが訝しげに尋ねる。

「誰、ジョン・ケージって?」


「西洋音楽の中に東洋哲学や易、偶然性を取り入れた20世紀の実験音楽の大家だよ」


「ミーアにはまだ早いな」

俺がケラケラ笑いながらからかうのでミーアは憤慨して啖呵を切る。


「何だよ、ちょっと音楽詳しいからってあんまし調子に乗るなよ、お二人さん」

ミーアの言い回しが芝居ががっていたので俺たちは一斉に吹き出す。


「おいおい、笑うとこじゃないぞー」

そう言いつつミーアの顔からも笑いがこぼれる。

とりとめのない会話を続けていると東の空が少し赤黒く輝き出しているのに気づいた。夜明けだ。地上300メートルの日の出は性急だ。太陽の淵が地平線から顔を出したかと思いきや刻一刻と周囲の空を朱色に染め上げ一気に今日という一日を連れてきた。俺たち6人は立ち上がり昇っていく太陽を直視した。

それは朝日とは思えない熱量で俺たちの頬を焦がし向こう100年忘れられない輝きを以って心に焼きついた。


「なんかとっても音楽をやりたい気分」

シオンさんが何気なく呟いた一言に俺は反応する。


「あ、そう言えば車の中にギターがあったような。ねえ、イーサン?」


「あるよー。あんましいいギターじゃないけど。あとフレームドラムもある」


シオンさんはいつになく目を輝かせて誘う。

「素敵。イーサンよかったらセッションしない?」


俺は車からギターを持ってきてシオンさんに渡す。イーサンはフレームドラムを取り出して即興でリズムを刻み始める。


「そうそう、いいわねぇ。そんな感じで4拍子のリズムを鳴らし続けて」

イーサンのリズムに合わせてシオンさんがギターを爪弾く。一小節の同じフレーズを2回づつ繰り返しながら進んでいく愛らしい舞曲。俺は思わず踊り出したくなる衝動に駆られテオとトビアスの手を掴んでくるくる回り始める。


「おいっ、やめろって」  「はははっ、ちょっと待って」

変な踊りで絡んでくる俺の動きから逃げ回る二人。ミーアは”良いMVの素材になる”と言ってずっとカメラを回していた。

オレンジ色の空が辺りを包み込み冬の朝だというのに汗で上気した顔はお風呂上がりのようにツヤツヤと輝いていた。

”今”というものがどういうものかよく分からないけどこんな美しい瞬間を積み重ねていければ過去も未来も悪くはない、そんな風に思えた。

また素晴らしい今日が始まる。

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