第5話 愚者のインベンション
夏休みも終わり新学期に入って間もなく塚原教授からメールが来た。シオンさんのギターを直せる職人が見つかったとのこと。塚原教授のオンラインサロンには様々な人間が出入りしていてシオンさんの珍しいギターを直せる人もいるかもしれないと思い探してもらっていたが早速当たりがついた。
俺は詳しい話を聞くためにオンラインサロンにログインする。塚原教授がオンラインサロンとして利用しているVRネットワーク空間”Orbis"は全世界利用者数20億人を超える超巨大オンライン仮想空間で、利用者は専用のヘッドギアを装着して脳の視覚野と聴覚野に直接信号を送り、逆に中枢神経からは送られてくる脳波を読み取り自分の分身(アバター)を操作してオンライン上のサイバー空間を自由に移動する。もちろん住所コードさえわかっていればVR空間内のどこへでも瞬時にアクセスできる。
俺はOrbisにログインするとすぐに住所コードを打ち込んでオンラインサロンの舞台である「火曜会の館」に跳ぶ。そこは19世紀末のパリをイメージした小さな洋館で中は小ぢんまりとした広間が一つあるだけの簡素な造りになっている。広間の壁際にはアップライトピアノ、壁にはリュート族の弦楽器がずらりと並んでいる。
中に入ると塚原教授のアバターとギリシャ神話の彫像のようなアバターの人がテーブルを囲んで座っていた。
「羽山くん、ちょうど良いところに来てくれたね」
「どうも、メールありがとうございます。そちらの方は初めましてかな?」
よく見るとギリシャ彫像のアバターは口をポカンと開けたまま微動だにせず、どうやらログイン中に寝落ちしてしまったようだ。
「こちらはジョー・マクラフリン。リアルではNYに住んでいてハードコアやポストパンクのレビューばかり書いている変わったやつでね。さっきまで楽しくおしゃべりしていたんだが2,3分前に寝落ちしたよ。年のせいかね~、こいつもリアルでは80過ぎだし。最近会話の途中で寝落ちする奴が増えたよ」
Orbisでは安全のためログインしたまま寝てしまった場合自動的にログオフする仕様になっている。その際利用者はヘッドギアを付けたまま眠っている状態になり、自然に覚醒するまでヘッドギアに備え付けられた生体モニターが常に体の状態をチェックし見守ることになる。血圧や脈拍に何らかの異常があれば即座に消防に連絡が入ることになり、実際これにより一命をとりとめた年配の利用者は多いという。
「フルダイブ型のオンラインVR空間だと若者でも寝落ちするやつは結構いますよ」
「まあフルダイブといっても脳の機能を全てデジタル化してソフトウェアとして走らせている訳ではないからね。基本的にスクリーンを見てコントローラーを操作していた前時代のビデオゲームとやっていることはさほど変わらない」
「なるほど、しかし脳のデジタル化もそう遠い話ではなさそうですよね」
「その時人類は”不死”を手にする訳だが、私は脳のデジタル化までして生き延びたいとは思わんがね。そうそう早速本題に入るけど探していた楽器修理者、割と近場で見つかったよ。那須の方で古楽器の製造と修理をしている職人らしい。うちのオンラインサロンのメンバー「上松」からの紹介で彼の名前を出せばスムーズに話が進むようになっている」
「ありがとうございます。今度の週末に早速伺わせて頂きます」
そして週末。
修理工房のある那須までは車で行くことになり俺もシオンさんも車の免許を持っていないのでイーサンが車を運転して行くことになった。
と言っても実際運転するのは自動運転プログラムが組み込まれたAIが行うのでイーサンは運転席に座りボケーっとしているだけでよいのだ。それでも現行法では不測の事態に備え免許を持った人間が運転席に座る必要がある。
午前7時。イーサンはまず俺を拾いに大学の隣町にある俺の住んでいるマンションまで来て合流。そこから車で20分ほど走った所にあるシオンさんの家の近くのコンビニの駐車場で二人で待機していた。
「シオンさんの家って気にならない?」
缶コーヒーを飲みながらイーサンがおもむろに聞いてきた。
「そりゃ気になるけど男二人で興味本位で女性宅に乗り込むのって失礼じゃない?」
「別に家に上がろうとまでは思わないよ。ただどんなところに住んでいるのかなってさ。外観だけでも見てみたいじゃん」
確かに外観くらいは見てもよかったか。シオンさんは別に警戒するでもなく俺たちに部屋番号まで書かれた住所を教えてくれていたのだし。
などと不毛な会話をしているうちにシオンさんがやってきた。茶色のアンティーク調のギターケースをキャリアーに乗せて俺たちの乗る車を見つけると小走りでやってきた。
「お待たせしちゃったかな。今日はよろしくね、二人とも」
「こちらこそよろしくお願いします」
女性に頼られるのはいい気分だなぁ、などと思いつつ俺たち一行は那須へ向かった。
那須まではおよそ2時間。俺たち三人は途中休憩を挟みつつピクニック気分でドライブを楽しむ。話題は尽きることがなく音楽、映画、最近みた面白い動画など次々に新しいトピックが飛び出してくる。
その中で驚いたのはシオンさんの音楽の幅の広さ。てっきりクラシックなどの静かで古典的な作品ばかり聞いているのかと思いきや前世紀の轟音ロック、ポストロックやポストハードコアを特に好んでディグっているとの事。ロック以外にも実験的な電子音楽やノイズミュージックまでシオンさんの音楽の守備範囲は俺の想像を遥かに超えていた。
「そうだ、せっかくだから私の作品聴いてもらえるかな」
そう言って彼女がかけた音楽に俺もイーサンも釘付けになった。ギターと声と2,3種類の電子音からなるシンプルな音楽なのだがパンニングをサラウンドで処理してありそれぞれの音がその位置関係を少しづつ移動していきリスナーを別次元の空間に引きずり込むような錯覚を与えている。
「これはちょと驚いたかも。シオンさんこんな実験的な作品も作るんですね」
俺は歎息しつつも自分の近くにこんなにすごいクリエイターがいることにワクワクしていた。
「確かに実験的ではあるんだけどどこかポップな印象もあるんだよなぁ。やっぱり女性の歌や声って惹きつけるものがあるよね」
イーサンは割とストレートなロックを好み普段はこういう実験的で音響派的なアプローチの曲には反応を示さないのだけれどシオンさんの曲には珍しく反応していた。
「ありがとう。二人の感想を聞かせてもらって何か自分の中でも手応えを感じたわ」
車は高速道路を降りて人気のない林道を走っていた。しばらく林道を進むと車は左折して舗装されていない土が剥き出しの道を車体を揺らしながら時速20kmで走り続けた。
「イーサン、住所本当にあっているの?なんかすげー山道に来ちゃったけど」
「間違いないって。車自体ちゃんとオンラインで繋がっているし、こっちでいいんだよ」
不安になってきた俺とイーサンとは対照的に左右に揺れる車にテンションが上がってきたシオンさん。
「遊園地みたいですごいね。ほら、羽山くん、ちゃんと摑まってないと頭ぶつけるわよ。なんならお姉さんに摑まっててもいいのよ」
からかわれるのも嫌いじゃないがシオンさんが相手だとどうも上手い返しができない。
「姉さん、そういうところっすよ、男が勘違いしちゃうのって」
俺ははにかみながらつまらないリアクションをとってしまう。そうこうしているうちに車は開けた空間に出ていた。そこは五つのロッジが連なるちょっとした集落のような場所だった。ロッジは全て木で出来ており都会の建造物にはない温もりを与えている。
「凄いわね、都心からたった2時間の場所でまだこれだけの自然が残っているのね」
自動運転のアナウンスが目的地に到着したことを告げると俺たちは車を降り、シオンさんは自分の手でキャリアーを降ろし辺りを見回す。車の音を聞きつけてか一番手前のロッジから男が一人出てきた。俺は近づいて男に話し掛ける。
「すみません、楽器を修理できる工房がこの辺にあると聞いて来たんですけど」
「君が羽山くんかい?」
「はい」
「上松から話は聞いているよ。散らかっているけどどうぞ上がって」
出迎えてくれたのはこの工房の店主の西音寺さんという50,60代の立派な白髭を生やしたおじさんだった。
西音寺さんは工房を簡潔に案内してくれた。五つあるロッジのうち四つは工房の作業場と作った楽器を展示するギャラリーになっていて、一番奥のロッジだけが住居スペースになっているとの事。俺たち三人は一番手前の作業場のロッジに通された。
「それが直して欲しい楽器かい?」
シオンさんのギターケースを見やり西音寺さんが尋ねる。
「はい。祖父から譲り受けた大事なギターなんですけどトラブルに巻き込まれて破損してしまいました。全て私の責任なんですけどギターに罪はないので早く直してあげたいなと」
ケースからギターを取り出し西音寺さんに渡す。ギターを手にした西音寺さんは色んな角度からギターを観察したあと椅子に座ってチューニングをする。
「ああ、ペグがやられているねチューニングが出来ない。でもボディーもネックも擦り傷はあるものの致命傷には至っていない。これなら問題なく修理出来そうだ」
シオンさんは安堵の表情を浮かべ、俺とイーサンも互いに目配せして少し張り詰めていた緊張の糸をほぐす。
「通常なら一週間ほどギターを預かって修理するんだけど今他にオーダーもなくすぐに修理に取りかかれるから半日待ってもらえれば今日そのまま持って帰れるけどどうする?」
西音寺さんに尋ねられこちらを伺うシオンさん。
「僕らは大丈夫ですよ。今日一日予定空けてあるし。な、イーサン」
「もちろんオッケー。ネット回線もちゃんときているからゼミの課題もやれるしね」
「二人とも付き合わせちゃってごめんね。それじゃあ西音寺さん、よろしくお願いします」
話が纏まると西音寺さんは室内にあるインターフォンを使って誰かを呼び寄せる。
「今うちのスタッフを一人呼んだから工房内を見て回るといい。珍しい楽器もある。試奏が出来る楽器も置いてあるから気になったら遠慮せず触っていってくれ」
そういうとギターを手に持ち工房内の奥の作業場の方へ入っていった。しばらくするとヨーロッパ系の顔立ちの優しそうな中年の男がやって来た。
「こんにちは。ここのスタッフのシュナーベルと申します。今日は一日お世話係を仰せつかったのでよろしくお願いします」
身にあまるほどの丁寧な日本語にたじろぎつつ、我々三人はシュナーベルさんの案内のもと工房を見て回ることになった。
「わぁー凄い。壁一面楽器だよ。リュートにテオルボ、プサルタリー。これは何だろう、蛇みたいな、管楽器?」
「それはコルネットというルネッサンス期の管楽器ですね」
ギャラリースペースの扉を開けた瞬間珍しい楽器群が目に飛び込んできて子供みたいにはしゃぐシオンさん。知らない楽器を見つけてはシュナーベルさんを質問責めにしている。
通されたギャラリーは中央にチェンバロ、壁一面に古楽器が陳列されてあり部屋の隅には畳まれた椅子が何脚か置いてあった。
「あの、ここってもしかして演奏会とかもされるんですか?」
イーサンが隅に置かれていた椅子を見やり尋ねる。
「はい。月に一度近隣の方を集めて演奏会を開いています。中には噂を聞きつけて遠方から来られる方も結構いますよ」
チャラッ、とチェンバロの音が鳴り響く。
「あ、すいません。勝手に触っちゃって」
シオンさんが立ったままチェンバロの鍵を弾いていた。
「構わないですよ。よかったら弾いてみます?」
「いいんですかぁ!っていっても私鍵盤楽器はあんまり得意じゃないんですよ。そうだ羽山くん、君ピアノ弾けたわよねちょっとチェンバロ弾いてみてくれない」
俺は何となくこうなることを予想していたので二つ返事で引き受ける。
「いいですよ。最近ギターばかり弾いていてちょっと腕なまっちゃったかもしれないけど元々はピアノ専門なんで」
俺は椅子を引いて高さを調節し、軽く鍵盤の感触を確かめてから一呼吸置いて弾き始める。
バッハのインベンションとシンフォニア 第一番
教育目的で作られた向きもあるが楽曲の持つシンプルで美しいメロディーは人気があり今ではプロの演奏家のプログラムに入ることも珍しくない佳曲。
俺は左右の音量のバランスに気を付けつつ独自の解釈で過剰に緩急をつけ一気に弾ききる。
数秒の残響の余韻が消えると一同から拍手をもらう。
「お上手ですね。今度うちの定期演奏会でも弾いてもらいたいです」
シュナーベルさんに褒められていい気分になっていたところをシオンさんが釘をさす。
「バロック音楽の解釈としては賛否が分かれるところね。でも私は嫌いじゃないわよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべて俺の肩に手をやる。
その後も俺たち三人は色んな楽器を試奏させてもらった。シオンさんは弦楽器を、イーサンは打楽器を。
「この太鼓いい音するなぁ。皮の鳴りが生々しいっていうか」
「それはフレームドラムですね。最も古い楽器の一つですが、最近のデジタル加工された打楽器ばかり耳にしている人がこのドラムの音を聴くと新鮮味があるといってその魅力に取り憑かれていくんですよ」
そういって器用にフレームドラムを叩き出すシュナーベルさん。うまい。この人も只者ではない。
「おいくらですか、このフレームドラム」
「2万2千円です」
「僕これ買います。バンドのドラムだけじゃなくてマルチパーカッショニストを目指します」
イーサンも俺やシオンさんの影響を受けてより色んな音楽に対する視野が広くなってきているようだ。
シュナーベルさんがフレームドラムを梱包している間三人で談笑していると扉の外の方で人の気配を感じた。俺は何の気なしに扉を開けると外の方にデニムのエプロンを着けたちょっと変わった顔立ちの年齢不詳の男の人が立っていた。
「あの、こんにちは。スタッフの方ですか?」
男は黙ったままこちらを見つめている。するとシュナーベルさんが慌てた様子でこちらにやって来た。
「龍斗さん、こちらにいらしてたんですね。午前の作業は終わりましたか?」
男は黙ったままこくこくと頷く。どうやら工房のスタッフのようだが何か普通の人とは違う独特の雰囲気を感じる。俺は気になってシュナーベルさんに尋ねる。
「あの、この方は?」
「マスターの息子さんです。実は生まれつき障がいを持ってましてね。初めて見られる方は驚かれるんですけど、うちでは工房のスタッフとして一緒に働いています」
そうかそれで独特の顔立ちや雰囲気を発していたのか。
「そうだったんですね。ここの工房は楽器だけじゃなく人間も珍しい方がいらっしゃるんだなぁ」
シュナーベルさんが苦笑する。俺は初めて見る障がい者にちょっと興奮して変なテンションで話しかける。
「あの、リュートさんでしたっけ?はじめまして俺羽山っていいます。分かります?そうだ、よかったら記念に動画撮らせてもらってもいいですか?リュートさんみたいな障がい者って珍しいからMVの素材としていいアクセントになるかも」
そう言って俺はリュートさんの承諾もちゃんと得ないうちにリストバンドの端末を外して動画を撮りはじめる。するとちょうど休憩で出て来た西音寺さんが俺たちの様子を見るなり飛んでやって来た。
「おい、君、何をやっているんだ」
俺は西音寺さんの怒気を含んだ声に慌てて上ずった声で弁明する。
「すみません、息子さんの障がいが珍しかったものでちょっと記念に動画を撮らせて頂こうかと」
西音寺さんは怒りを通り越して呆れ果てた様子で一言
「今日はもう帰ってくれないか」
俺は恥ずかしいことに、西音寺さんの怒りに触れてはじめて、自分がいかに無礼で他者の尊厳を踏みにじることをしてしまったのかと気付いた。しかし気付いた時にはもう遅かった。
「申し訳ございません。自分全然そういうこと知らなくて、本当にリュートさんを傷つけるつもりはなくて」
何度頭を下げても謝罪の思いは受け入れてもらえず。事態に気づいたイーサンも駆けつけて西音寺さんに頭を下げる。
「すみません。年長者の僕がついていながら息子さんに大変嫌な思いをさせてしまいました。彼はまだ未成年なので全ての責任は僕にあります、申し訳ありません」
西音寺さんは顔を背けたまま無言で立ち尽くす。
その時シオンさんが俺とイーサンの間をすっとすり抜けてリュートさんの前に出て深々と頭を下げた。
「連れが大変な非礼を働いてしまいました。申し訳ございません。リュートさんのご心傷いかばかりかとお察しします」
するとリュートさんは笑顔でシオンさんに頷く。そうして今度は西音寺さんの方に向き直り深く頭を下げる。
「息子さんへの非礼心よりお詫び申し上げます。今日のところは引き上げさせていただき後日改めて謝罪に伺わせていただきたく存じます」
シオンさんは俺たちの方を向き厳しい目で合図する。
「二人とも荷物まとめて」
俺たちがロッジに戻って荷物をまとめようと歩き出すと西音寺さんが重々しく口を開いた。
「待ちたまえ。ギターの修理ももうすぐ終わるそこの商談室で待っていなさい。私も少し熱くなりすぎた。シュナーベル君、遅くなったがリュートと皆さんに昼食の準備をしてやってくれ」
商談室と呼ばれる奥から二番目のロッジで俺たちは昼食を頂くことになった。食事は断ろうかと思ったが、そうするとシュナーベルさんやリュートさんが食事を取りづらい雰囲気を作ってしまうと思い甘んじて厚意を受け入れることにした。
俺たち三人はスープとパン、フレンチトーストを食べた。こんなに味のしない食事ははじめてだ。
「このパン、地元で人気のベーカリーショップのなんですよ。美味しいでしょう。よかったらおかわりもありますので」
俺たちに気を遣ってシュナーベルさんが話しかけてくれた。
「あんまり気にしなくていいですよ。不幸な事故といいますか。羽山さんも悪気があってやったことじゃないし」
自覚がない悪ほど悪いものはない。俺そのものの素の人格が他者をひどく傷つけてしまったのだから。リュートさんはほとんど喋ることはなくシュナーベルさんにだけ二言三言話しかけている。
「龍斗さん、お客さんが来るととても喜んで。今日も皆さんに来て頂いて自分の制作した楽器に触れてもらって幸せみたいです」
「なんか、色々すみません」
イーサンが申し訳無さそうに返事をする。しばらくの沈黙の後室内のインターフォンが鳴ってシュナーベルさんが話をしている。
「修理が終わったみたいです。みなさん準備ができたら修理工房の方に行きましょうか」
そうして俺たち三人は、修理工房でギターを受け取り問題なく弾けることを確認させてもらってから帰り支度をはじめる。修理したギターや購入したフレームドラムを車に積み込み、見送りをしてくれた西音寺さん、シュナーベルさん、リュートさんに改めて深く頭を下げてお礼とお詫びを伝える。
「今日は本当にすみませんでした。自分の無自覚な無神経さがリュートさんをはじめ皆さんに不快な思いをさせてしまいました」
「もう済んだことだ。いつまでも気にしなくていい」
西音寺さんは白いあご髭をいじりながら静かに答えてくれた。
「時に君たち、歳はいくつなんだ」
「自分は今年で19になります。シオンさんが20、イーサンは30過ぎだっけ?」
「俺は28歳だ。勝手に30代にするな」
なるほどといった感じで頷く西音寺さん。
「そうか、みんな30前か。それじゃ分からんよなぁ。今からちょうど30年前に遺伝疾患矯正法というのが制定されてね。出生前診断で障害があると判明した子供を出産することが法律で禁止されたんだ。うちの子はこう見えて31歳でね。法律が施行される直前に生まれた最後の世代なんだよ」
俺たち三人は西音寺さんの話に聞き入った。
「もっともそんな法律が制定される前から出生前診断で障害があると分かった子供を堕胎する人は増えていて障がい者の数は年を追うごとにどんどん減っていった。私が子供の頃は街中でもよく障がい者を見かけたしそういう子供たちを集めた特別支援学校もあった。しかし法律が制定されて30年、最近ではほとんど障がいのある子を見かけなくなったねぇ」
俺は衝撃を受けた。そんな法律があったことも知らなかったし、学校の授業でも全く触れられていないことに。
「一口に障がい者といってもその障がいの度合いや出来ることの範囲も人それぞれなのに、見た目や普通とは違うことを理由に社会で受け入れてもらうのが困難で。私はもともと大手楽器メーカーに勤めていたんだけど息子の就職先が見つからなかったので12年前に脱サラしてこの工房を作ったんだ」
「そうだったんですね」
俺は自分の無知を深く恥じ入るとともに西音寺さんの言葉の重みを心の奥深くでしっかり受け止めようと思った。
帰りの車中、俺はイーサンとシオンさんに謝った。
「まぁ気にするなとは言わないよ。ちゃんと反省すべき事だし。しかし僕も知らない事がたくさんあった。今日のことはよい社会勉強になったと思うほかないよね」
イーサンは頭の後ろで手を組んで少し疲れた声でフォローしてくれた。
「よく小さい頃学校の先生に『人の気持ちになって考えてみなさい』っていって怒られたことない?」
シオンさんが前方の景色を眺めながら話し出す。
「はい、あります。俺、興味深い物を目の前にすると周りのことに気が向かず知らず知らずのうちに他者を傷つけてしまったりするんです」
「今回の件で羽山くんが想像した他者の気持ちってマスター、西音寺さんのことばかりじゃない?」
言われてみれば確かにその通りだ。自分でも気付かなかった本質を射抜かれたような気がして言葉が出なかった。
「一番の被害者は言うまでもなくリュートさんよね。でも羽山くんが真っ先に抱いた罪悪感は西音寺さんに向けられたもの。なんでかしら?」
俺はシオンさんの問いかけに答えるべく自分の心の内を探る。
ああ、そうか。
「リュートさんの気持ちが想像できなかったんです。障がいのこともあったし、見た目や話し方も今まで自分が見てきた普通の人とは違っていて、彼が何を考え、感じているのか分からなかった」
シオンさんは慈愛の中に冷徹さを包んだ瞳で俺を見つめる。
「それが君の想像力の限界ってところかな。羽山くん、本は読む?」
唐突な質問に少し狼狽して答える。
「あ、いや少しは読むけどつい漫画ばっかり読んじゃうかな」
「もっと本を読むといいわ。本は想像力の幅を広げてくれる。犬や猫、植物にだってなれるし君が今まで経験したことのない感情も教えてくれる」
西日が車内をオレンジ色に染め上げていく。彼女の真っ直ぐな言葉は俺に考え続けることの忍耐と自分の卑小さを受け止める勇気を与えてくれる気がした。
「それと世の中には学校では勿論調べなければ誰も教えてくれない事がたくさんあるわ。特に今の日本は安定した社会インフラを維持する代わりに不都合な情報は積極的には報道しない。そうした言わば出来レースのジャーナリズムを国民の多くが受け入れてしまっている。彼らの多くが情報をただ受け流すだけで自分からは調べたりもせず発信もしない。羽山くん、君には社会に対して能動的であって欲しいわ。よく調べ、よく考え、多くを伝える。君には期待しているんだから」
その翌週、俺は講義終わりの塚原教授のもとに行き事の顛末を説明し謝罪した。
「そうか。今の若い人たちは障がい者をみた事がないのか。色々考えさせられる出来事だったねぇ。遺伝疾患矯正法なんて聞こえはいいけれどやっている事はナチス政権の優生政策となんら変りはない」
「ナチスですか」
俺は塚原教授の舌鋒の鋭さに少し驚く。
「法律が制定される30年前、私は多様性の観点からその法律を批判した。しかし『人の人生や家族を担保に入れてまで遺伝子的、生物学的な意味での多様性を確保するなど非人道的だ』と逆に糾弾されてね。確かにそれも一理あるなとは思うんだが、私は全ての生き物、障がいのあるなしに拘わらず生きているだけで意味があると思っているんだ。それこそ突然変異も含めて。それを人間の尺度で『これはいる』『これはいらない』などと決めつける事自体傲慢だと思うんだ。君はどう思うかね?」
俺はここ数日、色んな人の立場になってこの件を考えていた。だけどそんなに簡単に答えが出るわけもなく、
「ずっと考えていたんですが、正直まだ分からないです」
「そうか」
塚原教授は講義で使った資料を纏めてカバンに入れる。
「でもずっと考え続けようと思います」
カバンを掴む手を止めて一言
「羽山くん、社会に対して常に能動的でありたまえ。どんな未来が君たちを待っていようと、自分たちで選択した未来以上に価値のある未来などない」
そう言って手を振りながら講堂を後にした。
俺は塚原教授とは反対の方向に歩きながら聞き覚えのあるフレーズを口で転がした。
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