西広 千草の章

『千草、ごめん。それから、二人を頼んだよ』


私の胸に未だに残る、『父』の声。そのとき、私はまだ二十五になったばかりだった。最後に見たのは、小さくなってゆく『父』の背中だった——。



「千草母さん、おかわりいる?」

『娘』の文がそう私に声をかける。

「‥‥‥いいわ、大丈夫」

胸が一杯で、ごちそうさま、と口の中で呟くと、足早に自室に飛び込んだ。



私を育ててくれた父は十二年前、うちを出ていった。私を引き取るとき、彼は『小田』とだけ名乗った。小田のおじさん。それが父のあだ名だった。現在は六十歳くらいではなかっただろうか。父は花乃の親族。失踪した花乃の両親にかわりに、引き取り育てていた。しかし、花乃が十歳のとき、父は家を出ていった。私はちょうど、里親になるための研修を終えた頃で、父にかわり私が『母』として育てることになった。父は私たちと縁を切ったわけではないようで、生活に必要なお金は月一回で振り込まれ、二ヶ月に一回程度で手紙が届く。住所は新潟だったこともあれば沖縄、サンフランシスコだったこともある。さすがに国外から届いたときは、驚いてのけぞってしまった。手紙の内容は、鈴太郎や花乃、私のことでもあったし、どこで情報を得たのか、私が里親になって引き取った子たちのことでもあった。返事を送ったことは一度もない。



私は今日届いた手紙を取り出した。



拝啓

新緑の候、元気にお過ごしでしょうか。

私は元気に暮らしています。


さて、久しぶりのお手紙ですね。まずはじめに、夏くんのことについて書こうと思います。夏くんはもう、小学二年生になったんですよね。時の流れは早い。あんなに小さかった子が、もう二年生。されど二年生。まだ子供です。のびのびと過ごせるように、力になってあげなさい。


次に陽華里さんについてです。陽華里さんは、そろそろ自分の過去と向き合わなければなりません。陽華里さんは、部分的にしか生みの親のことを知らないと聞いています。辛い思いをさせてしまうかもしれない、傷を広げてしまうかもしれない。でも、いずれ向き合わなければならない過去を、千草の口から話してあげることが、一番傷つかずに済むんじゃないかと思います。千草のやり方でいつか、伝えてあげて欲しいです。


そして、文さんのことについてです。文さんは五人の中で一番、「親の愛」を受けて育ったと思っています。親戚の間をたらい回しにされ、辛い思いをしたと思うし、小さすぎて親の顔も思い出せないかもしれないけれど、やはりどこか、四人とは違う、心の暖かさを持っていると思っています。


続いて、花乃のことについてです。花乃には本当に申し訳ないことをしたと思っています。千草には迷惑をかけたよね。両親が失踪、私も出ていってしまったことで、花乃の傷を広げたかもしれません。きっと泣きじゃくったでしょう。可愛くて人懐っこくて、でも誰よりも繊細な心を思っているから。でもここまで成長したのは花乃の心の強さと、千草の支えがあったからだと知っています。


それから、鈴太郎のことについて書きます。鈴太郎は本当に頑張り屋だ。きっと、働きながらも妹、弟の面倒を見ているんでしょう。でも鈴太郎は、辛いことを口に出せないでいる。涙が溢れた時は、本当に危ない時だ。寄り添ってやりなさい。小さなSOSに、気がついてあげなさい。


最後に千草、君についてです。千草、まずごめん。何度も手紙に書いたけれど、ごめん。辛い思い、沢山させてきてしまいました。まだ二十歳過ぎた頃で、里親にもなったばかりだったのに出て行ってしまって、鈴太郎や花乃のことまで任せてしまいました。自分の時間なんてなかったよね。それと千草、ありがとう。急に出て行った私を認めてないかもしれないけれど、鈴太郎、花乃、そして文さん、陽華里さん、夏くんを育ててくれて、ありがとう。でも、自分の人生を、自分のためにも生きて欲しい。これが生き甲斐なんだというのならば、責めたりしない。でも、これが『義務』だと思っているのならば、自分のために、時間を使って欲しい。最後に父親ヅラをさせてくれ。

家のことは気にしないで、自分の幸せを掴みなさい。


さあ、不思議に思ったでしょう。どうして私が出て行った後に引き取った、文さん、陽華里さん、夏くんのことを知っているのか。私は現在、いろいろな事情で親とともに暮らせなくなってしまった子どもたちを救うために働いています。その中で出会ったのが文さん、陽華里さん、夏くんです。千草が彼らを引き取ったことを聞きました。きっと三人は千草のもとで、鈴太郎、花乃とともに、輝かしい未来をつかめるだろうと期待しました。もちろん今も。

ちょっと長くなってしまったので、これでおしまい。


季節の変わり目です。お体にお気をつけてお過ごし下さい。

                 敬具

西広千草様

  小田和仁

令和2年5月7日



頬が生暖かいのを感じる。拭ってみると、涙が伝っていた。

私は目を閉じて、の言葉を思い返す。


『千草、僕と結婚しないか』


自然と頬が緩むのを感じる。

――でも。

私はこのまま出ていって、良いのだろうか。文も、陽華里も、夏も、まだまだ子供だ。鈴太郎や花乃だって、自立しているわけではない。父が気にしないで、と言ったとしても、不可能だと思う。考えさせてと言ったとき、彼は、大丈夫、千草が里親としても考えなければならないことは知っているから、と言い、帰っていった。

彼は河原かわはら壱太いった。私の高校時代からの友人で、その頃から付き合っていた、もう長い付き合いになる人だ。壱太のことは好きだ。一緒になることに、不安はひとつもない。しかし、母である私が、別の幸せを掴むこと、果たして子供たちはどう感じるだろう。


「千草さん、なにかあったの?」


一番最初に気がついたのは、付き合いの長い鈴太郎だった。姉弟時代から共に過ごしていたため、少しの変化にも気がつく。


「鈴は、すごいねえ」


私は話すことにした。鈴太郎ならば、無断で妹弟に話したりしないだろう、責めたりしないだろう。


「私ね、プロポーズされたんだ」


鈴太郎の笑顔が、固まったように感じた。鈴太郎はブラコンで、いつも妹弟の心配ばかりしているが、元・姉にも働くのか、そのブラコンっぷりは。私は少し呆れる。


「知ってるでしょ、高校からの、壱太」


鈴太郎は小さい頃、壱太によく可愛がってもらっていたから、悪い印象はないだろう。


「壱太さんなら、いいんじゃない?」

「うん、そうだね。でもね‥‥‥」

「俺たちのことかな、千草さんが悩んでるのは」


私は一瞬、息を止めた。本当にすごい。鈴太郎はすごい。


「そうだね、うん、そうだ」


鈴太郎は少し、悲しそうな顔をしたように見えた。千草姉さん、そう弱々しく呼びかける。


「頼ってよ」


腹の底から絞り出したような声だった。俺、里親じゃないから、夏も陽華里も文も育てられないけど、これから研修受ければなれるからさ、千草姉さんばっか背負んなんでよ、俺らは仲間なんだからさ、と。


「鈴‥‥‥」

「どうせ、私だけ幸せになっていいのかななんてこと考えてんでしょ。そんなことありません。俺は今も幸せです。千草姉さんが幸せでいてくれれば、花乃が、文が、陽華里が、夏が笑っていれば。離れたってそうしてくれていれば幸せだからさ。千草姉さんが、いつも俺たちを支えてくれていた千草姉さん、ううん、千草母さんが、幸せを掴むこと、俺は、俺らは大賛成だよ‥‥‥な、花乃、文、陽華里、夏」


鈴太郎はドアの外に向かって呼びかけた。控えめにドアが開く。顔を覗かせたのは、申し訳無さそうな顔をした四人だった。


「ええ‥‥‥聞いてたの‥‥‥」

「ごめんね、千草母さん。鈴太郎兄さんがこそこそ行くから気になっちゃって‥‥‥」

「これは100%、お兄ちゃんが悪い」

「それはおかしいだろ!俺は千草さんの様子が気になっただけだし!」

「僕たち聞き耳立ててない!たまたま聞こえただけ!」

「そ、‥‥‥そう、そう!」


口々に言い訳をする四人。私はおかしくて、思わず吹き出してしまった。それが鈴太郎、花乃、文、夏と伝染し、ついにはあまり笑顔を見せることはなかった陽華里までも、声を上げて笑い始めた。私の部屋にはしばらく、幸せな笑い声が、響いていた。



「新婦、入場」


私は小田のおじさんとともにゆっくりと歩みを進める。友達、後輩、先輩、同期、それから家族。たくさんの人の笑顔に囲まれながら、壱太のところへと歩いてゆく。みんな笑っている。幸せそうに笑っている。私も自然と笑顔を浮かべ、その笑顔に見入っていた。



「千草、本当におめでとう」


何年ぶりかに再会した父は、少し痩せたようで、でも相変わらず元気そうだ。


「おめでとう、千草母さん」


ちょっぴり涙ぐんでそう言ったのは、まだ小さな夏。


「千草母さん‥‥‥あの‥‥‥」


うまく思いを伝えられず、まごまごする陽華里の頭をそっと撫でてやると、嬉しそうに、でも少し寂しそうに、笑った。


「笑っててね、千草母さん」


文は泣きはらしたような真っ赤な瞳に私を映した。


「大好きだよ、千草さん」


花乃は優しい笑顔を浮かべ、


「幸せになってね、千草姉さん」


鈴太郎は少し寂しそう。


「お前もな」


鈴太郎の頭を小突きながら言うと、鈴太郎が笑った。花乃が笑った。文が笑った。陽華里が笑った。夏が笑った。そんな私たちを見て父も、優しく笑った。

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