小田 花乃の章
くあぁ‥‥‥。
私は大きなあくびをした。講義ってつまんない。じゃあどうして大学に入ったのかって言われると、学ぶためではあるのだけれど。
二回生はこれで三回目。単位が取れなくて二度も留年してしまった。まあ、それは私が悪いんだけど。
でも一つ、言い訳させて欲しい。千草さんは里親だから、私は十八までに生みの親のところに帰るか自立するかしなければならない。私の両親は失踪したため行方知れず。かつての父、
私は教育学部の心理科で学んでいる。ゆくゆくは千草さんと同じように里親になりたいと考えているから。まあ、お兄ちゃんにやんわり話しただけで、千草さんや文を始めとした妹弟には話していないけれど。
いずれ千草さんは、結婚してこの家を出て行くことになるであろう。そうなったとき、文たちを育てる人がいなかったら、私たちはバラバラになってしまう。私とお兄ちゃんは大人だからいいとして、文たち子供は、望もうと望まざるとに関わらず、他の里親、もしくは施設に送られてしまう。そんなこと、私は絶対に嫌だ。
「かんちゃんせんぱーい、今日遊べますかー?」
「ごめーん、今日は帰らなきゃなんだー」
高校のころの後輩で現在は同じ二年生、初等教育学科で学ぶ、
「そうです、かんちゃん先輩に聞こうと思ってたんですよ」
「なにを?」
荷物を整理する私は茉帆ちゃんのほうを見ずに答える。
「家から大学も遠いし、それにどうしてわざわざ、他人と暮らしてるのかなって」
私は手に持っていた水筒を落としてしまう。ガタン、という大きな音に、講義室ににいた数人の学生が私の方を向く。
「ごめんね、茉帆ちゃん。そのことは時間がないからまた今度」
バイバイ、と手を振ると、変なこと聞いてごめんなさい、さよなら、と手を振り返してくれる。そんな茉帆ちゃんの視界から早く消えようと、足早にキャンパスを飛び出した。
言えるわけないじゃない。私は家族に固執しているだけなんて、茉帆ちゃんにも、誰にも。
「あーあ、やな態度取っちゃった」
「誰に」
子供三人組と千草さんが寝てしまい静まり返ったリビングには、私とお兄ちゃんしかいない。
「茉帆ちゃんに。なんで他人と暮らしてるのって聞かれて、誤魔化しちゃった」
お兄ちゃんが私に紙パックのジュースを投げてくれる。サンキュ、と受け取りストローをさす。
「俺も花乃と同じく、ここに固執してるんだけどな」
でもお兄ちゃんは、もうちゃんと独立してここにいるだけだから、私とは違う。きちんとストレートで大学も卒業してるし。
「それもあるんだけどさ」
私はジュースを一気に半分くらいまで飲む。柑橘の味が、私の胸をすっと通り過ぎていく。
「もしかしたら、小田のおじさんがフラッと帰ってくるんじゃないかって、そんな気がするの」
お兄ちゃんが、眉尻を下げた。お兄ちゃんは私の隣にドカッと座った。プシュッとプルタブを上げ、お兄ちゃんお気に入りのトマトジュースを流し込む。私はあれが苦手だ。だってなんか、変に甘いんだもの。
「俺も思ったことある」
だって、俺の父さんでもあるから、いつか帰ってくるって信じちゃうんだ、と。私はなんだか泣きたくなった。
私はお兄ちゃんの肩に頭をのせ、体重をかける。
「花乃?」
「‥‥‥ん」
お兄ちゃんはトマトジュースの最後の一口を飲み切ると、サイドテーブルに空き缶を置いた。
「重い」
「お兄ちゃん、それ失礼だよ」
私はくすくすと笑う。肌で感じるお兄ちゃんの体温が、すごく心地よかった。
寝ている夏と陽華里、文を起こさないように、夏の机の引き出しを開けた。文は千草さんの、陽華里はお兄ちゃんの、そして夏は私のお下がりの机を使っている。
確かこの辺に‥‥‥。几帳面に整頓された引き出しの中を荒らさないように、奥の方に腕を入れた。ふと思い出したのだ。まだ小中学生の頃、小田のおじさんに宛てた、出せぬ手紙を書いていたことを。
「あったあった‥‥‥」
軽く五十通はある紙の束。夏に見つけられなくてよかった。
私はそれを持って、自室へと帰った。お兄ちゃんはもう寝てしまったようで、すうすうと寝息をたてている。
その紙束を、押し入れにある思い出の詰まった段ボール箱へと投げ入れた。スパン、と押し入れを締め、口角を上げた。忘れないけど、忘れるんだ。
「かんちゃん先輩、お昼一緒に食べません?」
いつもと同じように茉帆ちゃんが私を訪ねてきてくれる。私は一度、小さく深呼吸をした。
「うん、食べよう」
私は立ち上がり、茉帆ちゃんのほうに小走りで行く。茉帆ちゃんはいつもと同じ、人懐っこい笑みを浮かべていた。
「あー、いいなあ!かんちゃん先輩、今日サンドイッチだ!」
「えへへ、妹が作ってくれたんだぁ」
茉帆ちゃんはサンドイッチが好物で、物欲しそうな目で私のお弁当箱を見つめている。
「じゃあ、茉帆ちゃんの卵焼きと交換しよう。私食べたい!」
「いいですよ!やったあ!」
私は茉帆ちゃんの好物、いちごのサンドイッチを差し出し、卵焼きを受け取る。今朝あたしが焼いたんですよ、という卵焼きを口に入れると、甘めの卵焼きで美味しい。妹さん、お料理上手ですね!と褒められ、自分のことじゃないのになんだか嬉しかった。
もうすぐ次の講義が始まる。他愛のない会話が尽きてしまった一瞬だった。
「かんちゃん先輩、昨日聞いたこと、もう一回聞いてもいいですか?」
茉帆ちゃんはうんしょ、と私の方に体を向ける。
「どうして他人と一緒に住んでるんですか?」
茉帆ちゃんは少し緊張した面持ちで私を見つめていた。私はふっと頬を緩めない。
「私は血が繋がってなくても、家族が大好きだから。他人じゃないよ。私にとって、大切な家族なんだ」
そう口にするとなんだか素直になれた気がして、すっとした。胸の中で渦巻いていた黒いものが、消えたような気がする。
血がつながってるとかないとか、そんなの関係なくて、私は家族が大好きなんだ。‥‥‥出てっちゃった『父』こと小田のおじさんも。
茉帆ちゃんは私に抱きついた。彼女の柔軟剤の、花の甘い匂いが鼻を掠めた。
「話してくれて、ありがとうございます。ずっと不思議に思っていたんです、かんちゃん先輩、勉強も大変なのにバイトして、家にお金入れて。大変なのにわざわざって。勝手に勘違いしてごめんなさい‥‥‥あたし、先輩のこと好きです」
どんなことでも、私を思っていてくれたことが、とても嬉しい。私は茉帆ちゃんの背中に腕を回した。
「私も、茉帆ちゃんのこと好きだよ。茉帆ちゃんが『かんちゃん先輩』って呼んでくれると、すっごい嬉しい」
お互いに体を離すと目があった。なんだかおかしくて、顔を見合わせて、大笑いしてしまった。中庭には、大きな笑い声が響いていた。
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