フローレス 陽華里の章

「陽華里姉ちゃん、僕の靴下、どこ?」


夏はそう、あたしに声をかける。洗濯をするのはあたしの仕事だから、いつもの場所にない靴下の行方を聞いたのだろう。


「いつもの場所に入れたよ」


それだけ言うとあたしは自分の部屋に引っ込んだ。

あたしはよく、言葉が乏しいと言われる。

でもこれは仕方がないことで、家族の中では認められているつもりだ。

あたしは、文にあこがれている。文は周りの目を気にしたりしない。羨ましかった。でもきっと、文はあたしに対して、苦手意識を抱いていると思う。自分の意見をはっきりと言えず、いつももじもじとするあたしのことを、心底嫌っていると思う。

でもこれは、何度も言うけれど、本当に仕方がないと思う。



教室に忘れ物を思い出し、後ろのドアから入ろうとすると、そこで文と和泉洸平が話しているのを見て、回れ右してドアの影に隠れてしまった。悪いことをしているわけではないけれど、なぜだか反射的に。


『あ、まさか、虐待で生き別れたとかで里親家族?』


その一言のあと、間髪入れずにパチンと甲高い音が響いた。

あたしは右肩に鈍い痛みを覚え、そこをぐっと抑えた。古傷?‥‥‥ううん、違う。医者は完治したと、何度も言った。これは、心の傷だ。

誰かが教室を出ていった。遠ざかっていくのは、見慣れた、文の背中だった。

右肩の痛みが和らいだことに気が付き、そっと手を離した。まだズキズキと痛むけれど、心のどこかに、淡くて優しい色が広がっていた――。



あたしの母は日本人、父はアメリカ人で、アメリカで生まれ育った。詳しいことはよくわからないのだが、生まれたときから父との二人暮らしだった。父は小さな会社を経営していたが、あまりうまくいってないようだった。

あたしは、ことあるごとに殴られた。父と過ごした七年間、もう殴られることが、日常茶飯事だったような気もする。

アメリカでは、五歳から教育を受けなければならない。しかし父は、その年齢になっても学校に通わせてはくれなかった。飼っていた鶏の世話をさせられるか、狭くてじめじめする地下室に閉じ込められているか。そのときは父の会社はとうに倒産しており、次の職を見つけるわけでもなく、一日中酒を飲んではあたしを殴り蹴り、俺の人生は終わったんだと怒鳴り散らした。

そんななか、あたしは一度だけ助けを求めたことがある。雪の降る、寒い冬の日の夜のことだった。父が深い眠りについたあと、あたしは部屋を抜け出した。隣の家まで二キロ近くある。あたしは裸足で走った。痛い、足の裏が痛い。でも、懸命に走った。走り切ることができれば、きっとこんな思いをしなくてすむと信じて。

――後ろから大きな声で名を呼ばれ、肩を震わせた。振り返ると、怒りで目が血走った、父が立っていた。長靴を履いた父は、ずんずんと大股で私のほうによって来る。逃げることだってできたかもしれない。逃げれば、振りほどけたかもしれない。だけどあたしの足は、動いてくれなかった。足の裏に強力な磁石が張り付いたように、そこから動けなかった。

パシン、と高い音があたりに響いた。父は流暢な日本語で言う。人でなし、と。父に引きずられるように家へと連れ戻される。思い切り地下室に投げ飛ばされ、あたしは右肩から着地‥‥‥というのはおかしいか。そのとき、嫌な音がした。バキ、と。おそらくこのときに右肩の骨が折れたのだろう。

それからは、地下室から一歩も出してはくれなくなった。あたしの右肩を、父は何度も殴った。弱っていることを知っていたのだろうか。

数日後のこと。あたしは日本に売り飛ばされた。袋に入れられ、船に詰め込まれ、日本に入国した。もう、どうなったっていい。あたしはもう、全て諦めてしまっていた。父から離れたって、いいことなんて待っているはずがない。

そんなあたしを見つけてくれたのは、四、五十代と思われる小太りのおじさんだった。あたしを引っ張る汚いアメリカ人に向かって言ったのだ。何をしている、と。彼らはギクリとし、おじさんを見た。アメリカ人の一人が飛びかかり、それを合図とするように何人かも飛びかかった。ああ、救世主もやられてしまう。そう思ったが、意外にも彼はすごい身のこなしであたしの方までやってくる。


「Do you want help(助けてほしいかい)?」


おじさんはカタコトの日本語英語でそう言った。


「はい」


あたしは何度もうなずいた。

おじさんは日本語話せたか、と呟きあたしの手を取ると、小脇に抱え、駆け出した。かなりのおじさん、しかも小太りであるにもかかわらず、すごいスピードで驚く。

気がつけばもう、アメリカ人はあたしたちを見失っており、追いかけては来なくなった。おじさんがすぐさま通報し、後で聞いたことだが、あの人たちや、あたしを売った父も、捕まったそうだ。

おじさんはすぐに千草母さんを紹介してくれ、あたしの母親として育ててくれることになった。

でもあたしの心のなかに植え付けられていた恐怖は、何かあるたびに蘇る。

意見をはっきりと言えなかった。いつももじもじとして、誰かのあとについてまわる。吹奏楽部に入ったのも、中学時代に強引に誘われて入部、高校でも同じような理由で入部したのだ。



「自分の意見、言えたらいいのになぁ」

「いいんじゃない、そのまんまで」


西日の差し込む静かな教室。自分の席に腰掛け、誰にともなく呟いた言葉にそう答えたのは、教室に入ってきた文だった。文はあたしの前の席——自身の席に腰掛ける。


「でも‥‥‥うざいでしょ、嫌いでしょ、文は、あたしのこと」

「‥‥‥」


文は何も言わなかった。無言は肯定を示す、か。あたしはゆるゆると笑みを浮かべた。

だよねぇ、と言って立ち上がろうとすると、そんなことない、と言った。あたしはストン、ともう一度、席に腰掛けた。


「うん、私、陽華里のことがちょっと‥‥‥苦手。ここに来る前、私親戚たらい回しにされて。嫌われないか心配で、陽華里みたいにおどおどしてた。だからその頃が嫌でも思いださされて、イライラしてた」


驚いた。文がこんなに正直に話してくれるとは思わなかった。

ただの八つ当たりだよねって眉尻を下げて苦笑いする文。けれど、でもね、と切り替えるように言う。


「今はね、私陽華里と一緒にいられてよかったってそう、思ってるよ」


あたしは顔を上げ、まじまじと文の背中を見つめた。


「陽華里がそういう性格だって、八年もいたらわかるよ。家族だし。‥‥‥それにね」


文の顔は見えないけれど、後ろから見える耳は、西日のせいなのか、恥ずかしさなのか、真っ赤だ。


「陽華里は私のこと、わかってくれるから。辛いことがあったとき、一番に気がついてくれる。私も口下手だから、誰かと話すことが得意じゃないけど、陽華里と一緒にいると安心するんだ。心が落ち着く。ホッとする」


あたしは今度こそ本当に、立ち上がった。文は気がついているのかいないのか、振り返らない。ゆっくりと文の前に立った。


「あたしも」


文は顔を上げた。西日のせいなんかじゃない。文の顔は、血が駆け巡って真っ赤だった。


「あたしも文と一緒にいると安心する。うまく話せないけど、隣に文の体温があるだけでホッとする」


それに――そう言いかけて、やめた。あたしはふふっと小さく笑った。


「どうしたの?」


文が不思議そうにあたしの顔を覗き込む。


「なんでもない」


絶対に言わないよ。クラスの子の発言からあたしを庇ってくれて、嬉しかったなんて。

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