絵堂 文の章
「行ってきます」
陽華里、夏と共に家を出る。昨夜の雨が嘘のように、空は青く澄んでいた。
夏とは小学校前で別れ、陽華里と二人で歩き出す。一緒に校門をくぐり、上靴に履き替え、教室に向かい、前後の席に腰掛けた。
やがてチャイムが鳴って、つまらない授業が始まる。
先生の呪文のような解説を右から左に聞き流しながら、窓の外に目をやる。朝日を反射させながら光る水溜り。さわさわと揺れる大木。美しく咲き乱れる花々。とても美しい。
「‥‥‥、ふみ、文!文姉さん!」
後ろからぐりぐりとペンで押されていることに気が付き振り返ると、陽華里が前、と顎で指す。
嫌な予感がしてそろそろと視線を前に向けると、案の定先生が、鬼の形相でこちらを見つめていた。
「すみませーん‥‥‥」
私はクラスメイトの笑い声のなか、教科書に隠れるように背中を丸めた。
私たち家族のルール、過去を詮索しないこと。
家族ではあるが、それ以前に私たちは他人であったということ。
心の傷を抱え、それでも必死に生きる家族の傷を広げないこと。
これがその、主な理由だ。
ただし、家族であるということは公にすること。
私たちは、たとえ名字が違ったとしても家族であり、最強の仲間なのだ。
「打てー」
「ナイスー」
部活動に励む生徒を横目に、私はそそくさと下校する。
ふと目が止まったのは、サッカー部の端で一人、黙々とトレーニングをする男子生徒。確か名前は、
彼に目が止まったのは、別に好きとか嫌いとか、そういうんじゃない。ただこの前、無神経なことを聞かれ、平手打ちをかましてしまったからなのだ。
『どして姉妹なのに、フローレスと名字違うの?』
ついこの間の放課後のことだったと思う。
私は活動の少ない写真部であり、吹奏楽部に所属する陽華里とは基本、放課後は別行動だ。和泉は最近足を怪我したせいで、部活に出ていないことが増えたようだった。その日も病院か何かで部活に行かず、教室に残っていたのだ。
名字のことを聞かれた場合、『いいでしょ、別に』と終わらせるように千草さんに言われていた。その日もそう返したのだ。高校生にもなってみれば、いろいろな家庭があることくらいわかるだろう。しかし彼は、『普通』の『幸せ』な家庭しか知らないようだった。
『ねえ、教えてよ絵堂』
これくらいならまだいいだろう。しかし酷かったのは、その次の一言だった。
『あ、まさか、虐待で生き別れたとかで里親家族?』
私はその一言を聞いた途端、頭に血が登った。カッとなると周りが見えなくなる。本当にその通りだと、今更考えたらそう思う。
パチン、と甲高い音がその場に響く。教室に誰もいなかったのが幸いだ。
和泉は、なぜ自分が叩かれたのか、わかっていないようだった。彼に背を向けると、振り返ることなく学校を出た。早歩きで歩いていく。
『文姉ちゃん?』
息を切らして歩く私に驚いた夏の顔を、今でもはっきりと覚えている。
なぜ私はあのとき和泉を叩いたのか、それが謎だった。私は虐待を受けて肉親と別れたわけではない。虐待を受けていたのは、陽華里だ。
私は陽華里に苦手意識を抱いていた。いつも静かでおどおどしていて、周りに合わせる陽華里はどこか、昔ここに来た頃の自分に重なる。
陽華里の過去を知っている。だから、おどおどする理由も知っている。けれど、陽華里を見ていると、どうしても記憶が蘇って苛立ちを覚えるのだ。仕方がないの一言で言い切ってしまえば、全て終わってしまいそうで、踏ん切りがつかない。
長いこと見つめてしまっていたのだと思う。私の視線に気がついた和泉は、こちらに視線をやる。ニヤリと笑ったように見えたし、無表情だったような、はたまた私なんて目に入らなかったようにも見えた。
私は和泉から視線を逸らし、校門を出た。
「えーどう!!」
大声で名前を呼ばれて振り返ると。
「‥‥‥げ」
私は思い切り走り出した。後ろにいたのが――和泉だったから。
「絵堂ー!なんで逃げるんだよー!」
待って待って!速くない!?和泉、足怪我してるんだよね!?
「な、夏ー!」
小学校の校門前で私を待っていた夏を呼ぶと、夏はぎょっとした顔をする。
「絵堂ー!ちょっと話すだけだからさあ!」
和泉っ、それ、誘拐犯の言葉です!
「な、なつ‥‥‥」
私は肩で息をしながら夏の前で止まる。もう体力の限界。さすがインドア。ミジンコ並の体力だ。
「追いついた」
和泉は私の隣に涼しい顔をして立つ。さすが、怪我してるとはいえサッカー部。
「絵堂、少し話そうぜ。その小さい子もいていいし」
小さい子、と言われてムッとしたご様子の夏。
「‥‥‥わかった。夏も行こう」
私は逃げることを諦め、和泉について近くの公園に歩いていった。夏はその間、和泉をにらみ頬を膨らませ、ご立腹のようだ。
仕方がないので自動販売機でりんごジュースを買ってあげる。途端に夏は顔を輝かせて、和泉のことを忘れたようににこにこ嬉しそうに飛び跳ねた。
公園のベンチの右端に和泉、左端に私と、夏を挟むようにして座る。なんだか男子の隣に座るのは気が引けたからだ。
「この前はごめん」
和泉は額を打ちつけそうな勢いで、ガバッと頭を下げた。本当にわかっているのだろうか。
「俺多分、無神経なこと言ったんだよね。あんまりよくわかんなかったけど」
わかってないのかよ。私は心の中でツッコミを入れる。
「結論から言えば、そうだね」
「俺が言っちゃいけなかったことってなんだったんだ?」
私は盛大にため息をついた。めんどくさい。なぜ和泉に教えなければならないんだ。
「『虐待』ってワードじゃない?」
私は夏の顔を見る。夏は私の顔を見る。夏にはあまり聞いて欲しくない。辛かった過去に加え、陽華里の過去の話まではしたくない。
「夏、帰ろうか。話終わったからさ」
私は夏の手を引いて立ち上がった。
「絵堂、また明日話せない?今度は二人で」
私は無視をして公園を出た。過去を詮索させたくない、されたくない。仲良くもないクラスメイトに、そんなこと言いたくない。だって彼には、私たちの胸の痛みなんて、知るよしもないんだから。
「なあ絵堂、今日の放課後話そうぜ!」
「絵堂、暇ー?」
「俺明日部活行くからさ、見ててよー」
絵堂、絵堂と連呼する和泉。私はイライラを隠せない。
でも、一方的だったのが変わったのは、ある日のことだった。
「絵堂、あのさ。今日は俺から話ししても、いいかな?」
もしかして、と思った。この人ももしかしたら、本当の親子じゃないんじゃないだろうか。根拠のないただの直感だった。
私は少し悩んで、頷いた。
この前と同じ公園のベンチ。夏はいない。一人分の隙間を開け、和泉の隣に座っていた。
「この前さ、三者懇あったじゃん」
一学期の成績確定のときのことだろう、私はうなずく。
「そのとき絵堂、俺、フローレスの順だったじゃん」
確か、私と陽華里の部活の時間が合わず、その順番になったのだ。
「母親と全然似てないし、すごく若いし‥‥‥もしかしてって思った」
血の繋がりは、全く無いもの。似てなくて当然だ。
「‥‥‥私、両親いないんだ」
ポツリとそれだけ言ってしまう。なぜだか和泉には話してもいいような気がしたのだ。
「その人、やっぱり里親ってこと」
「うん、そう」
「俺も、養子なんだ」
私は驚いて、和泉の顔を見た。すると、やっとこっち見た、と和泉は少し笑う。
「父親は知らない。生まれたときからいなかった。母親は俺を育てきれなくて、子供のいない遠い親戚の家に入れられた。そりゃ、本当の息子みたいに可愛がられて、大切に育てられたんだと思う。俺は苦労してないからきっと、普通の家と同じ暮らししてるんだと思う。でもさ、やっぱり他人って思ったらどこか、一線引いちゃうんだよな。こっから先は踏み込んじゃだめだってことがお互いにわかっているから。だからなんだか苦しい」
和泉も、そうだったんだ。だから名字の違う、不思議な姉妹に興味を持ったのか。
「話してくれてありがとう。‥‥‥じゃあ今度は、私の番だね」
同じような過去を持っているから、少し信用できる。心の痛みをきっと、こいつならわかってもらえる。
「私の両親は亡くなったんだ」
和泉が固まった。重い話に感じるのだろうか。私は気にせず続ける。彼が教えてほしいと言ったのだから。
「小さい頃のことだから、はっきりとは覚えてないんだけどね。交通事故で、即死だったって。二歳だった私は、その日祖父母の家に預けられてたみたい」
お葬式の二人の表情は穏やかで、今にも『文』って、いつものように笑いかけてくれるんじゃないかなんて思った。そのときの二人の顔だけは、鮮明に覚えている。
「その後何年も、父方の親戚と母方の親戚をたらい回しにされたけど、誰も私を引き取ってはくれなかったんだ。みんな自分の生活に精一杯で、私を育てきれなかったんだろうね。私は孤児院の前に捨てられて、今の親に引き取られた。そして八歳のときに、陽華里と出会った」
和泉はごめん、と一言、絞り出すように言った。泣きそうなほどに顔を歪ませる。
「そんな顔しないでよ。過去のことだし、気にしないで」
「気にしないことなんて、できるわけないだろ。なんで絵堂は、そうやっていられるんだ?辛くないのか?両親が死んで、自分がもののように扱われて、可哀想だと思ったことはないのか?」
――ない、なんて言えない。思ったことはあるから。辛いから、悔しいから、泣きたくなるから。‥‥‥でも。
「私たち家族は、同じような過去を背負って生きてるんだ。私だけじゃないから」
「絵堂は、誰かに泣きついたことはあるか?」
泣きついた‥‥‥こと?
「どうしても辛いことがあったとき、誰かにすがりついて、泣いたことはあるか?」
――なかった。
目の前が、少しだけ歪んだ。ブランコのオレンジ色が、滲んだ。
私はここにきた頃、今の陽華里みたいにオドオドしてた。辛かったって口にすることはできなかった。口にすればみんな、私から離れてくって、そう思ったから。
「俺を頼ってく――」
「『わいずみ』!文姉ちゃんになにをした!?」
声のした公園の入り口に目を向けると、夏が、怒ったように顔を赤くして立っていた和泉は驚いてぽかんとする。同じく私も。
「帰ろう、文姉ちゃん」
私は夏に手を引かれ、公園を出た。
『俺を頼ってく――』
その言葉を最後まで聞くことはできなかったけれど。
ありがとう、和泉。
私の心には、ずっと姿を隠していた温かい太陽が、顔を出していた。
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