ウィンナーコーヒーと八重桜
吾妻栄子
ウィンナーコーヒーと八重桜
「ウィンナーコーヒーをお持ちしました」
長い黒髪を束ねてアップにした、薄化粧した幼げな顔からしてまだ学生に見えるウェイトレスが微笑んで告げる。
「ごゆっくりお楽しみ下さい」
若草色の制服の華奢な背を見せて奥に去る。
ふっと息を吐いて手前に置かれたカップを見直す。
再就職活動の面接後に初めて入った個人経営の喫茶店。何となく甘い物を口にしたい一方で懐具合として飲み物一杯で済ませたい気がしたので、ウィンナーコーヒーを頼んだ。
だが、運ばれてきたのは想定していた「ホイップクリームを浮かべたコーヒー」というより「どうやら下にコーヒーが隠されているらしい山盛りホイップクリーム」だ。
ウィンナーコーヒーってこんなのだったっけ?
まあ、これで腹は多少膨れるから良かったと思おう。
昼飯もコンビニのおにぎり二つだったし。
スプーンを取り上げてまだ冷たさを残す生クリームを口に運びながら、ふとガラス窓の向こうを見やる。
四月半ばのオフィス街の午後はまだ白々とした陽光に包まれている。
ソメイヨシノは既に散って今は八重桜が盛りだ。
細い枝に小さな薬玉じみた薄紅の花が「咲いている」というより「盛られている」ように見えた。
満開の八重桜を目にする度に一重のソメイヨシノより艶やかで良いと思う一方で、花のボリュームに比して華奢な枝がぽきりと重みに耐えかねて折れそうで不安になる。
でも、まあ、いい。あの枝が折れようが木が倒れようが、自分はもう見えない所に行くんだから。
むしろ、花の綺麗に咲く日に死ねて良かったのだと思おう。
ガラス窓の向こうで白い
八重桜はやっぱり一重の桜より花弁が多いせいか、花吹雪も密度が濃い気がする。
集まって咲いている時には濃いピンクに見えるのに、散り行く花弁の一枚一枚は透けるように白い。
と、その花吹雪の向こうから現れて窓ガラスの隅に陣取る人影があった。
明るい茶色に染めた髪を巻き、高そうな桜色のワンピースを着て、メタリックロゼのスマートフォンを片手にフルメイクした笑顔で話す、まだ若い女性。
傍らには真新しい堅固そうな造りのベビーカーが置かれていた。
そして、頑丈そうなベビーカーに比していかにも柔らかそうなサーモンピンクのブランケットを掛けられた赤ちゃんの安らかな寝顔がこちらからも認められる。
どっかの金持ちの奥さんかな? そういえばこの近くには高級デパートも何軒かあった。
そう思う内にも、桜色のワンピースの背中が遠ざかっていく。
スマートフォンを片手に楽しげに笑う横顔はそのままで。
旦那さんでもすぐ近くにいて迎えに行くのかな?
まあ、直に戻ってくるだろう。
そう思いつつ、何とはなしに不安になってガラス越しにベビーカーを見やる。
赤ん坊は変わらず眠っている。
大福じみたふっくりした頬の、遠目にも可愛らしい赤ちゃんだ。ピンクの毛布だから、多分女の子だろう。あんな立派なベビーカーに大事に乗せてもらえる家庭に生まれたなら、この先もきっと幸せだろうなあ。
スプーンで掬った生クリームをまた口に含むとほんのり温まった甘さが広がる。
いや、俺だって客観的にはそんな貧乏で悲惨な家庭に生まれ育った訳じゃない。
実家のアルバムにある、黄色いベビー服の自分と今より遥かに若い父母の写真が頭を過る。
両親とも世間的には虐待親とかいうタイプではないし、わざわざ地方から東京の私大に出してくれた。
四年で無事卒業して、業界ではそこそこ評価の高い会社に入ったはずだったのに、半年も経つ頃には上司の怒鳴り声と連日のサービス残業で鬱気味になった。
それでもせっかく入った職場だし辞めてもっと良い所に行ける当てもないから続けようと思った矢先、会社そのものが潰れてしまった。
クリスマス前に無職になり、雀の涙ほどの失業手当てと貯金で食い繋ぎながら再就職活動してきたが、八重桜の季節になった今も内定は出ない。
地元に戻っても東京より仕事があると思えないし、もう今の部屋を引き払って実家に帰ることすら苦行に感じるほど疲れてしまった。
自殺なんて親不孝だとは何度も考えた。
それでも、それすらもう余計に苦しみを増す
今日の面接で多少でも望みがあればまだ生きようと思ったが、途中から「ここもダメだな」といつもの予感に襲われて、もう死ぬと決めた。
むろん、電車に飛び込むとか遺族にとんでもない額の賠償請求が来るらしい方法でやらかすつもりはない。
出来る限り、親には負担の行かないやり方で死のう。
やっぱり面接に向かう途中で通った近くの鉄橋から飛び降りるより部屋で首吊る方がいいかな?
鉄橋から墜ちた死体を回収するのだって何らか費用は発生するだろうし、それが故意の自殺なら遺族に相応の請求が行かないとは限らない。
やっぱり、これを飲み終わったら俺はアパートのあの狭い部屋に帰って首を括るのだろうか。
まだ幾ばくかクリームの白く浮いて残ったコーヒーカップを見下ろしてまた息を吐く。
異臭に気付いた近隣の住民や管理人が腐った自分の遺体を発見して目を背ける場面を想像すると、また暗鬱となった。
やっぱりあの鉄橋の上からにしよう。
そうだな、スマホで春の風景を撮るフリをしてうっかり落ちた風にして飛び降りれば……。
思案しながらガラス窓の向こうに目を移すと、白い花吹雪がひらひらとまたベビーカーに降り注ぐ所だった。
あのお母さん、どこまで行ってんだろう?
もう寒い季節じゃないといったって、あんな所にいつまでも置いておくのが赤ちゃんに良いとは思えない。
「捨て子」という言葉が不意に浮かんだ。
いや、いかにも生活やつれした母親ならともかくあんなお洒落で裕福そうなママだし、見るからに立派なベビーカーに乗った赤ちゃんが捨て子ということはないだろう。
ようやくクリーム部分を食べ終えてナプキンで口を拭う。
まあ、俺も安物とはいえ一応はちゃんとしたスーツ着て朝出てくる時に磨いた靴履いてるし、通りすがりの人が窓ガラス越しにちょっと見かければ、これから死のうとしている失業者とは思わないだろうな。
そう思うと、何となく「コーヒーを飲んで寛ぐサラリーマン」に見せたい気もしてゆっくりとカップを持ち上げる。
と、窓ガラスの向こうに華奢な若草色の制服姿が現れた。
あれ……?
驚く内にもウェイトレスはベビーカーを押して移動する。
――カラン、カラン。
入り口のドアが開いて、アスファルトと草花の甘い匂いを含んだひんやりとした風が音もなく流れ込んでくる。
思ったより外は肌寒いみたいだ。
「外は心配なので、お母さんが戻られるまでこちらで預かります」
ウェイトレスはこちらに向かって詫びるように告げた。
「ああ」
自分は咎める立場にないのだと恐縮する思いとこの子も外のベビーカーに気付いていたのだという驚きが同時に訪れる。
「フエーン、フェフェフェ……」
不意にベビーカーの中から泣き声が上がった。
困惑した空気が大人二人の間に流れる。
まだ二十歳前に見えるウェイトレスは意を決した風にブランケットを捲る。
――カチッ、カチッ。
シートベルトを外す音が響く。
桜色のベビー服を着た小さな赤ん坊の頭を支えるようにして彼女は抱き上げた。
「フエエエエン」
「大丈夫、ママはすぐ帰ってくるから」
ウェイトレスは制服の胸で泣く赤ちゃんの背を擦った。
自分は何もしなくていいのだろうか。客だからこのまま飲み終えて代金を払えば責められることはないけど。
そんな思いを抱えつつ、クリームのすっかり溶け込んだ、コーヒーというよりカプチーノやカフェオレに近い薄褐色の液体に口を着ける。
程好い甘苦さだ。
一気に飲まずに良く味わいたい気がした。
――ピーポー、ピーポー、ピーポー……。
窓ガラスの向こうでパトカーが走り去っていく。
近くで事故でもあったのかな?
「フエエエン」
サイレンの音が遠ざかる一方ですぐ近くから赤ん坊の泣き声が大きくなる。
「ごめんね、ミルクかな、オムツかな」
ウェイトレスは赤ちゃんを抱きかかえたままあたふたとベビーカー下部のバスケットを覗き込む。
「あの」
カップをカチャリと置く音が手元で響いた。
「俺が代わりに見ようか?」
子守りなどしたことはないが、どうせ自分にはコーヒーを飲んで店を出たらもうやることがないのだ。
ほんの
赤子を抱いた彼女は固まった風に見返す。
――カラン、カラン。
ドアが開いて、肌寒い空気と共に警察官二人に挟まれた桜色のワンピースの女性が入ってきた。
おや、これはあのお母さんじゃないか。
だが、先程見かけた時とは打って変わってどこか怯えた表情をしている。
「あなたの赤ちゃんですね?」
「はい」
新たに店に入ってきた三人のやり取りを驚いた面持ちで見守っていたウェイトレスは、しかし、意を決した風に彼らに歩み寄ると泣いている赤ん坊を差し出した。
「ごめんね」
若い母親は泣きながら赤ん坊をワンピースの胸に抱き締めて繰り返す。
「ごめんね、赤ちゃん」
泣き止んだ赤ちゃんはじっと円らな瞳を見開いて母親を見上げている。
警察官は苦笑いして母親の肩を叩いた。
「こんな可愛いお子さんがいるのに死んだら駄目ですよ」
死んだら……?
それまで頭の中で繰り返していた言葉なのに改めて他人同士の会話に紛れ込んでいると異様な響きを持っていた。
「ママは気持ちが弱いから本当に馬鹿なことを」
明るい茶色にカラーリングされた髪が乱れ、念入りに化粧が崩れるのも構わずに母親は赤子に頬ずりする。
そうだ、自分も死のうとしていた。
このお母さんを嗤ったり責めたりする資格は自分にはない。
ふと視線を感じて振り向くと、ウェイトレスがこちらに向かって労るように微笑んでいた。
俺なんか、何もしてないのに。
口の奥に甘さと苦さが思い出した風に温かに蘇った。
窓ガラスの向こうではまだ八重桜の枝が微かに揺れていた。
*****
「私もあの日はバイト初日で怒られてばっかりでもう辞めようかと思ってたの」
甘く温かなコーヒーの香りが漂う中、妻は苦笑いしながら淹れたてのコーヒーにホイップクリームを盛っていく。
「でも、色々あったから、辞める気もなくなった」
桜の花模様を施した二つのお揃いのコーヒーカップには、瓜二つの生クリームの小山が築かれた。
「俺も何とか踏み止まれたよ」
漸く寝入ってくれた赤ちゃんの娘をベビーベッドに寝かせてブランケットを掛ける。
「じゃ、飲もうか」
あれから七年経つが、出会った記念日に必ず二人で飲むのはウィンナーコーヒーだ。(了)
ウィンナーコーヒーと八重桜 吾妻栄子 @gaoqiao412
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