悪役令嬢メロスティーヌ

砂塔ろうか

悪役令嬢メロスティーヌ

 悪役令嬢メロスティーヌは激怒した。

 必ずや、かの邪智暴虐の悪役令嬢を止めねばならぬと決意した。

 メロスティーヌには他人が分からぬ。メロスティーヌは、コミュ障である。家庭教師の語る帝王学など、何度転生しても実践できぬだろう。けれども孤独には人一倍敏感であった。


 きょう未明、メロスティーヌは家を出発し、馬車に乗ってシラクスの悪役令嬢ディオニ家の屋敷にやってきた。きょうのメロスティーヌには父も、母もない。兄はもちろん、付き添いの執事さえいない。いつもは頼れる妹もきょうは来ていない。

 孤独である。馬車の御者について来るよう命じれば「家の品格を疑われるから」とにべもなく断られてしまった。

 だが、ここで帰ってはなんのために尻を痛めてはるばる十里も離れたシラクスに来たのか分からない。


 そんなメロスティーヌにも、友人がいた。侯爵家の息子セリヌンティウスである。彼はよく、メロスティーヌの屋敷に遊びに来ており、コミュ障精神が芯まで染みついて抜けなくなったメロスティーヌといえども、彼とは親しい関係にあった。

「……?」

 だが、今日はセリヌンティウスの姿を見ない。当てが外れて不安に心痛め、やむなく、メロスティーヌは置物の真似をすることにした。瞬き一つせぬその姿は真に迫るものがあり、他の客たちをにわかに震え上がらせていた時である。

 夜会の様子がおかしいことに、メロスティーヌは気がついた。会場のあちこちで同じような話が囁かれていることにも。


「あの令嬢、ディオニソース! また使用人を処刑したらしい」

「今度はどんな理由で?」

「自分を嘲笑している、というのだがこの家の使用人はみな、しっかりとした良い使用人だ。とてもそうは思えぬ」

「前にもこんなことがあったらしいが……これで何人目だ?」

「30人は下るまい。今や次は自分の番では、と嫌な空気が一日中、使用人の間に満ちているそうだ」

「なんて恐ろしい……いつか、使用人だけでは済まなくなりそうだな……」


 ディオニ家は数ある悪役令嬢家の中でもとりわけ強い権力を持つ家である。その権力は、侯爵家を凌ぐとさえ言われていた。

 いつか使用人だけでは済まされなくなる、という話は十分に現実味があった。


(なんて恐ろしいところに寄越したんだ……)


 瞬きをして、メロスティーヌが両親への怒りを滲ませた時である。メロスティーヌの背を、何かが叩く。背後からはどんどんどん、とくぐもった音。やがてそれはさらに大きくなり、次の瞬間、メロスティーヌの身体が吹っ飛んだ。メロスティーヌの背後には、扉があったのだ。

 メロスティーヌの身体が高々と舞い上がり、会場にはディオニ家の令嬢ディオニソースが出てきたものだから騒ぎは大きくなってしまった。

 メロスティーヌは、ディオニソースに拘束された。


「私専用の扉を塞いで何をするつもりだったのか、答えなさい!」


 ディオニソースは静かに、しかし威厳をもって問い詰めた。その令嬢の顔は蒼白で、目の下のクマは、夜の闇のように黒い。


「あっ…………う、え…………」

 メロスティーヌはうまく答えられなかった。

「ふんっ。呆れた娘」令嬢は、憫笑した。「仕方ないわね。貴方のような身の程知らずには、私の力を教えてあげましょう。名前は?」

「…………あっ……め、メロスティーヌ」

 絞り出すような声でメロスティーヌが答えると、ディオニソースは「ああ、あの侯爵家の息子の許婚……」と不愉快げに呟いた。

「………………?」

「良いわ。では後日、また会いましょう。哀れなメロスティーヌ。あなたには死よりも辛い孤独を差し上げるわ」


 その晩、メロスティーヌは五体満足で家に帰された。

 やがて、数日後のことである。メロスティーヌのもとに招待状が届いた。差出人はディオニソース。


——メロスティーヌ。あなたの婚約者の処刑を執り行います。時刻は三日後の夕暮れまで。是非とも、見にいらしてくださいな。


 そんな手紙とともに、磔にされたセリヌンティウスの写真が同封されていた。


「…………あっ!?」


 メロスティーヌは即座に手紙の消印を確認する。日付は一日前。メロスティーヌは彼女にしては珍しく使用人に指示を出した。「あっ。す、すぐ馬車を出して!」

 セリヌンティウスを失ってしまう孤独を思うと、そうしないでは、いられなかった。


 だが、馬車は早々に止まることとなった。つい先日降ったばかりの大雨が川を氾濫させ、土砂崩れを起こし、木々を薙ぎ倒して道を塞いでしまったのである。

「あっ…………こ、ここから、先はっ…………歩きで、いきます」

 御者の制止を振り切って、メロスティーヌはドレスが泥にまみれるのも構わずひた走った。


 メロスティーヌは、コミュ障である。普段はおとなしく、潜むように、影になるように、誰の意識の俎上にも出ぬようにと生き続けてきた。

 歩くときは常に摺り足差し足。扉の開閉でも音を立てることは一切ない。メロスティーヌは、あらゆる場面において生活音を立てぬよう生きてきたのだ。

 読者諸氏が気付かなかったのも無理ないが、ディオニ家の令嬢が扉を叩き開け、身体が吹っ飛ばされた際も、メロスティーヌは完璧な受け身を取ることで落下音をほんの僅かも発生させなかった。それには常人とは異なる筋肉の使い方が要求される。

 なぜメロスティーヌに、しがないコミュ障悪役令嬢である彼女にそのような体捌きができたのか? 聡明なる読者諸氏ならばすでにお察しのことだろう。

 そう。メロスティーヌは忍者だったのだ。


 この世界、悪役令嬢の中には異世界の知識を持って生まれてくる者は珍しくない。メロスティーヌもまたその一人である。ただ、彼女が特殊だったのは、前世において超常の法——忍術を行使する忍者を生業としていたことだけ。


 メロスティーヌは忍者の末裔として、心が壊れるまで、否、壊れてもなお、ひたすらに忍術を叩き込まれた。武術、変装術、呪術、果ては房中術に至るまで。彼女が修められなかった忍術など、動物と心通わす必要のある、口寄せの術くらいのものだ。

 心を代償に修得し、しかし前世では終ぞ無意味なままで終わった忍術がいま、メロスティーヌの助けとなっていた。

 無意識レベルで繰り出されるは忍者の歩法。身のこなしは軽く、いかな激流もいかな大木も障害物たりえない。しかして表情は至って涼しく、口と手は九字を切ることに使われる。


「臨兵鬪者皆陳列在前——! 臨兵鬪者皆陳列在前——! 臨兵鬪者皆陳列在前——!」


 忍者は九字を切ることによって自身の身体能力を拡張する。いま、3度九字を切ることでメロスティーヌの膂力りょりょくは平常時の3倍になり、これは一般悪役令嬢の膂力の約12倍に相当する。ゆえ、メロスティーヌの通ったあとに小さく、大地を穿つような足跡が生ずるのもまた已むなきことであった。


 そんなメロスティーヌの行く道の先に、山賊の一段が待ち構えていた。


「げっへっへっへ! オレたちゃ山賊! ここを通る可愛い嬢ちゃんの足止めをするのが仕事さぁ!!」

「命令は足止めしろの一点! 嬢ちゃんはこちらの好きにしていいんだとよ!」

「……ちぃと想像してたのと違うが、想像してたのより随分と暴れ馬なようだが……仕事させてもらうぜェ! 悪く思うなよ!」


 20名余りの山賊がメロスティーヌに襲いかかる。メロスティーヌはコミュ障である。他人と話すときは必ず「あっ」が付く。しかし、乱戦は何より得意とするところであった。


 忍法、影分身。忍法、変わり身。忍法、火遁、水遁…………エトセトラ。


 時には姿を増やし、時には姿を消し、火を起こし、水を起こし、最後はその膂力をもって生首を量産する……メロスティーヌは忍者としての技量をいかんなく使い尽くし、無傷で20名余りの山賊を生首に変えてしまった。無論、火遁の術で火葬することも忘れない。それがマナーである。といっても、これは忍者ではなく悪役令嬢としてのマナーであった。

 ——悪役令嬢たる者、殺した者は自らの手で弔うべし。

 メロスティーヌが、はじめて帝王学で得た学びを実践した瞬間だった。


 果たして、二日後と言わずその日の、夕暮れ少し手前に、メロスティーヌはシラクスのディオニ家の屋敷に到着した。


 だが、メロスティーヌの本当の闘いはここからだった。

 メロスティーヌはコミュ障である。コミュ障とは、すなわちコミュニケーションを不得手とするということ。メロスティーヌはここに来て、ディオニの屋敷に乗り込んだことを後悔していた。だからと言って、ここで帰ってしまっては悪役令嬢の名折れ。なんとかしてこっそりと、誰にも気付かれぬよう忍術により処刑場へ忍び込んでセリヌンティウスを救い出さんとするメロスティーヌであったが……


「なっ……」

「…………」


 処刑場にて、メロスティーヌは午後の紅茶時間ティータイムを楽しんでいたディオニソースとはち会わせた。ディオニソースは紅茶のカップを落とし、驚愕に眼を見開く。


「なっ……あなた一体何者っ!? 私の雇った精鋭山賊は!?」

「……………………」


 メロスティーヌのドレスには、泥こそ付いているが血は一滴として付着してない。どうしてディオニソースに「メロスティーヌが山賊を鏖殺した」などと推測することができただろう。


「…………そう、そういうこと」


 コミュ障のメロスティーヌが答えられずにいるうちに、孤独な悪役令嬢は独り合点した。山賊が、ディオニソースを裏切ったのだと。


「やっぱり、他人のことなんか信じられないわね……」

「…………あっ、え、その…………」

「正直、あなたのことをみくびっていたわ。いいでしょう。召喚サモン! 悪役令嬢諸法度ブック・オブ・ザ・レディ!」


 ディオニソースが手をかざすと、その手の平の上に厚手の本が形成された。悪役令嬢諸法度。悪役令嬢が悪役令嬢であり続けるためのルールが記載された「悪役令嬢の魂そのもの」とも言える本である。黒く、汚れの滲んだその装丁は、さながら孤独と猜疑心に蝕まれたディオニソースの心を象徴するかのようである。


「私が悪役令嬢諸法度これを出した理由、当然、あなたもお分かりでしょう? さあ、決闘よ! あなたも速く、己の悪役令嬢諸法度を出すがいいわ! 一ページ残らず、壊してあげる」


 悪役令嬢諸法度は悪役の魂そのもの。それが壊されるとはすなわち、悪役令嬢としての死を意味する。


「……召喚しょうかん悪役令嬢諸法度悪しき令嬢の掟書き


 メロスティーヌははっきりとそう唱えた。しかし、メロスティーヌの悪役令嬢はどこにも出ていないように見える。ディオニソースは嘲笑する。


「はっ。怖気付いたの? いいわ。ならば私の法度に塗り潰されて、消えなさい」


 ディオニソースが悪役令嬢諸法度を開き、詠唱を開始する。悪役令嬢にのみ許された、悪役領域を展開するつもりなのだ。悪役領域の内部は、術者の思うがままの世界である。悪役令嬢諸法度を持たぬ一般人が取り込まれてしまえば、廃人化は免れない。


 いま、ディオニソースは詠唱を終えて己の悪役令嬢諸法度を閉じようとしている。悪役令嬢諸法度を閉じることで、領域が展開されるのだ。一方のメロスティーヌに目立った動きはない。ゆえ、ディオニソースは油断した。してしまった。

 これから領域を展開するというその瞬間、まだ領域が展開されてないにも関わらず、ディオニソースは勝利を確信し、メロスティーヌの動きに、メロスティーヌの意図に気づけなかった。

 それは、一条の流星のようであった。メロスティーヌは忍者である。忍者特有の異常な膂力と精密なコントロール能力をもってすれば、右手一つで銃と同等の攻撃が可能だ。メロスティーヌの発した弾丸はディオニソースの胸元に、その前で今に閉じられんとする悪役令嬢諸法度の間に入り込む。


 ——パタン。


 メロスティーヌの弾丸は、ディオニソースの悪役令嬢諸法度に食われた。ディオニソースの悪役令嬢諸法度が閉じ、領域が展開される。


 それは名もなき宮殿。玉座のみがぽつんと存在する、虚しいところだった。壁も床も柱も、豪奢な彫刻に彩られたそれらすべては今にも崩れてしまいそうな程に、朽ちている。

 唯一、玉座のみが無傷であり、ディオニソースはその玉座に座っていた。ディオニソースがその白く細い手を上げると、彼女の背後に巨大な、老人の腕が現れる。年老いた印象はあれど屈強な、古代王の腕である。


「安心なさい。あなたは私の、私だけの人形としてかわいがってあげる。私を裏切らず、私を笑わず、どんな時でも私の味方をしてくれる、お人形に!」


 そして、その腕をメロスティーヌに向け、一息に振り下ろした。


「悪役令嬢執行術が十三! 王様の耳はロバの耳ミダス・タッチ!」


 王様の耳はロバの耳ミダス・タッチ——それは触れたモノすべてを黄金の人形に変える呪いの力である。ディオニソースは、この力で己に歯向かう者を皆、人形にしてきた。誰一人として、この呪いの力から逃れられた者はいない。

 これは、ディオニ家の祖先が神から賜ったとされる特別な力だ。逃れられるはずがない。

 だが、メロスティーヌは動じなかった。

 バチッ、と稲妻のごとき音がすると、メロスティーヌの頭上に振り下ろされんとしていた腕が弾かれる。ディオニソースは動揺を隠すこともできずメロスティーヌに問うた。


「な、なによ……これはっ」

「…………領域が発生する直前、そちらの悪役令嬢諸法度に、私の悪役令嬢諸法度を噛ませた。いま、私の周囲を覆うのは私の領域。そちらの領域ではなく、ね」

「バカなっ!? そんなことできるハズが——っ」

「私は心に大きな傷を負っていて、誰にも認識されたくないと、思うようになった…………だから、私の悪役令嬢諸法度は、豆粒ほどの大きさしかない」

「突然饒舌になったかと思えば、なによその冗談……悪役令嬢とは支配者! 誰からも認識されないくらいに小さな悪役令嬢諸法度だなんて————ッ!?」


 ばひゅんと、弾丸のようなものがディオニソースの右肩を打ち抜いた。忍者並みの動体視力があればあるいは、その弾丸がむりやり巻物状にされた一冊の本であることに気付けたかもしれない。


「私の悪役令嬢諸法度は豆粒ほどの大きさだけど、鉄のように固く、ずっしりと重い。指で弾けば、それは銃弾にも匹敵する威力を持つ。……精神だけのこの世界なら、私でも普通に話せる。……ディオニソース、セリヌンティウスを開放して。殺すなら、私を殺せばいい」

「いっ、嫌よ! どうせそんなこと言って、隙を見て私を殺すつもりなんでしょう! あの、お姉さま方のように!!」

「姉に、殺されかけたことが……?」

「話したくない話したくないっ! 話したくないわっ!!」


 ディオニソースがメロスティーヌから離れていく。玉座が遠くなり、またたく間にメロスティーヌは遥か遠くの、どことも知れぬ山の中に追いやられていた。

 この空間は、その大半がディオニソースの領域である。メロスティーヌの領域は、メロスティーヌ自身を包み込む程度にしか存在していない。ゆえ、ディオニソースの領域操作によって、ディオニソースとメロスティーヌの距離は今や十里、二十里と言わず大地と月ほどの距離になっていた。

 だが、メロスティーヌは走る。逃げるディオニソースを捕まえねばならぬのだ。ここで逃がしてしまっては、意味がない。

 無論、セリヌンティウスは救える。だが、もはやそれだけでは駄目なのだ。

 メロスティーヌはコミュ障である。ゆえ、孤独には人一倍敏感だった。

 いま、ディオニソースは自ら深い孤独の闇の奥底へと落ちようとしている。セリヌンティウスに救われたメロスティーヌが、それを見過ごすわけにはいかない。


 メロスティーヌは九字を切れるだけ切った。九字は切れば切るだけメロスティーヌの力を高めてくれる。だからメロスティーヌは切れるだけ切った。

 そうして臨兵鬪者皆陳列在前を唱えること1000回と少しした頃。どこまでも続く山道の途上で、いつかの山賊たちがメロスティーヌの前に立ちはだかった。無論本物ではない。ディオニソースの生み出した木偶人形だ。


「悪役令嬢どもはいい金ヅルだぜぇ~~~~っ!」

「金払いが悪くなったらとっ捕まえて売っちまえばいいんだからナァ~~~!」

「俺たちゃ山賊! カネと女が全て!!」


「——邪魔ァっ!!」


 悪役令嬢執行術が一、燎原の浄火。


「ディオニソースに取り入ってやるぜぇ~~~~!」

「悪役令嬢諸法度出したら奪って燃やしまうんだ!!」

「俺たちゃ山賊! カネと女が全て!!」


「——邪魔ァっ!!」


 悪役令嬢執行術が二、渾天の殲燼。


「あの口と家柄しかねえガキなら簡単に騙せるぜぇ~~~!」

「悪役令嬢って連中はどうしようもないバカばっかだからなァ~~~~!!」

「俺たちゃ山賊! カネと女が全て!!」


「——邪魔ァっ!!」


 悪役令嬢執行術が三、征滅の神火。


「…………ハァ、ハァ、ハァ……っ」


 山賊どもはまだまだ湧いて出てくる。表現は違えど要旨はすべて同じで、彼らは悪役令嬢を下に見ているらしい。

 悪役令嬢執行術を十まで使ったところで、メロスティーヌの前に新たな敵が現れた。

 いつしか、風景は山の中から屋敷の中に変わり、そこは、ディオニソースの住まう、ディオニ家の屋敷だ。その、薄暗い廊下でメロスティーヌは三人の悪役令嬢と対峙した。その顔は真っ黒に影で塗り潰されている。だが、口もとだけは、そこに茫と浮かぶようにしてあった。

 無感情な声が、三人ののっぺらぼうの口から発される。


「ディオニソース。お前には何もないのよ」

「カリスマも、権力も、悪役令嬢に必要なものすべて」

「愚かで、無様で、悪徳のなんたるかを知らない妹よ」

「悪役にはなれぬ哀れな娘。分不相応な力を手にした妾の子」

「お前は、何も持つべきではないのよ」

「だから、お前には何もない」

「お前は道具。悪役令嬢ではないわ」

「「「だから、その命さえも——私が摘み取ってあげましょう」」」


 三人の悪役令嬢が悪役令嬢諸法度を召喚した。一人は石版。一人は箱。一人は神殿。どうやらこれら、本とは到底呼べぬ代物こそが、彼女たちの悪役令嬢諸法度らしい。


「悪役令嬢執行術が十、目には目を、歯には歯をコード・オブ・ハンムラビ

「悪役令嬢執行術が十、汝に災厄を、我に福音をパンドーラー・ボックス

「悪役令嬢執行術が十、女神に祝福を、都市に守護をパルテノン


 メロスティーヌに襲い来るのは自動報復の法、数多の災厄である。その一方で、三人の悪役令嬢は福音と絶対的な守護を手にした。メロスティーヌがその忍者膂力で攻撃をしたところで、女神の守護を受ける三人の悪役令嬢には通用しない。それどころか自動報復の法によってメロスティーヌは自分が攻撃したのと同等のダメージを受けることになるだろう。

 悪役令嬢執行術は永遠ではない。いつかは術が解除される。だがメロスティーヌを襲う数限りない災厄がメロスティーヌを待たせてくれない。全身にまとわりつくバッタ、局所的な大雨、暴風、砂塵。ふと見れば、メロスティーヌの白く清らかな手は疱瘡に蝕まれ始めていた。


「臨兵鬪者皆、っ——」


 九字を切ることさえできない。


 メロスティーヌに、この状況を打開する術はないかに見えた。さすがにもうだめだと、メロスティーヌの心を諦めの二文字が過る。


(ごめんなさい……セリヌンティウス……あなたみたいには、なれなかった…………)


 悔悟した瞬間。メロスティーヌの脳裏にセリヌンティウスと初めて出会った時の記憶が蘇える。当時、彼は侯爵家の娘という扱いだった。悪しき霊を寄せぬため、女装させられていたのだ。ゆえ、はじめセリヌンティウスは、メロスティーヌに対して同じ悪役令嬢として接してきていた。

 黙りこくるばかりで気味が悪く、異世界の記憶を持つメロスティーヌは誰からも腫れもののように扱われている。そんな状況のなかで、何の衒いもなく、何の見返りもなく話しかけてきてくれたのはセリヌンティウスただ一人だった。

 幼き日のメロスティーヌは、セリヌンティウスに憧れた。傍から見ればどんなにか不気味であったろう己に、当然のように話しかけてきてくれて、対等に接してくれたセリヌンティウスのようになりたいと、決意したのだ。


 誰かを孤独から救うものになりたいと。


(……そうだ……まだ、ディオニソースが救われてない……)


 全身は病に蝕まれ、四肢からは蛆が湧いている。もはや、立っていることもままならぬ状況で、それでも「まだ」とメロスティーヌは思う。


(まだ、誰も救えてない)


 悪役令嬢諸法度は支配者のための力。他者を捻じ伏せるモノである。だが、もしも。法によって人を救えるのだとすれば——。

 それは例えば、かつてセリヌンティウスから受け取った暖かさを炎として、ほかの誰かに与えるような、そんな力があったなら。


 瞬間、メロスティーヌの全身を炎が包んだ。それはこれまで山賊たちを葬るのに使ってきた攻撃的なものではなく、優しく、傷を癒すような炎である。メロスティーヌの胸からひとりでに出た悪役令嬢諸法度、それは文庫本程度の大きさになり、巻物状に歪められた本の状態から真っ当な一個の巻物に変じていく。巻物が開くと、空白だった場所に言葉が刻まれはじめた。

 新たに、悪役令嬢執行術の十一から十三——灯火の継承、滅魔の救炎そして——


「……十三番目の、悪役令嬢執行術」


 十三番目の悪役令嬢執行術は本来存在するはずのない術だ。その多くは神からの贈り物として先祖から継承され、その一族はカナンの者と称される。だが、メロスティーヌの一族はカナンの者ではない。つまりいま、ここに現れた悪役令嬢執行術はメロスティーヌが己の祈りによって手にしたものなのだ。


 滅魔の救炎によって疱瘡から回復したメロスティーヌは、十三番目の悪役令嬢執行術を行使すると先へと進む。あとには、石版も匣も神殿も、何も残ってはいなかった。


 メロスティーヌは走る。壁があればこれを壊し、蝗害に阻まれればこれを焼き、砂嵐に遭えばこれを耐え。かつては忌み嫌った忍者装束を纏い、黒い風となって駆け抜けた。そうして、夕暮れの景色の中で、とうとうメロスティーヌはディオニソースのいる一人ぼっちの宮殿へと帰ってきたのだ。


「ディオニソース!」


 己を呼ぶメロスティーヌの声に、玉座で独り、膝をかかえていたディオニソースはびくりとした。顔を上げて、入口が開いたのを見て目を見開いた。


「嘘……メロスティーヌ……っ!? どうして、ここまでっ……その、その格好は一体!?」

「そんなことはどうでもいい。ディオニソース、あなたを連れ戻しに来た」

「なっ、何を考えているの……? そんなこと言って、私を痛めつけるつもりでしょう!」

「しない。そんなことは」

「嘘! きっと私には想像もつかない方法で、私を痛めつけるんだわ! ——あ、悪役令嬢執行術が十三! 王様の耳はロバの耳ミダス・タッチ!」


 老人の腕がメロスティーヌを襲う。だが、メロスティーヌは忍者の膂力でひたすらに避け続ける。ディオニソースは次第に焦れて、絶叫する。


「一体、一体なにがしたいの!?」

「あなたを助けたい」

「信じられないわ! あの、山賊たちも、お姉さまたちも、あなたは葬ったのでしょう! 他人を助けるためにそこまでするなんて、信じられない!」

「私が……この状況なら、私がその気になれば、あなたの首を落とすこともできる」

「なっ……」

「だけど、そうしないで、一定の距離を保っている。それが、私があなたを攻撃しない意思表示になると……そう、受けとってほしい……」


 メロスティーヌの動きはすでに、ディオニソースの目には追えないほどになっていた。つまり、殺そうとすればいつでも殺せるというのは、紛れもなく事実なのだ。ディオニソースは腕を動かし続けたまま、語る。


「……お姉さまがたには、あなたのような身体能力はなかったわ。ただ、相性がいいからって、悪役令嬢執行術を発動させては、私を弄んでいた…………あなたも、そうなのではなくて?」

「どうすれば、信じてくれる」

「……私に、信じさせてくれるの?」

「そのために来た」

「そう…………なら、証明して」


 どこからともなく、ディオニソースの周囲にのっぺらぼうの人形が8体出現する。その中には先ほど突破したばかりの悪役令嬢3人——ディオニソースの姉たちの姿もあった。


「悪役令嬢執行術が十、守護人形タロス。腕だけじゃない。この人形たちが、あなたを攻撃する。私と話をしたければ、この全てを破壊することね。……もっとも、その中に一分いちぶでも暴力を見い出したなら、私はあなたを信じることは永遠になくなるわ。だから、私を救いたいと願うなら、ここから去りなさい。そして、二度とここには現れないで」

「そんなことはしない」

「達者な口。外のあなたとは大違い。……やれ」


 8体の人形すべてが、悪役令嬢諸法度を召喚する。ただでさえ、ディオニソースの姉三人の執行術は凶悪だったというのに、その倍以上の執行術がメロスティーヌ一人を敵と看做して襲い来る。だが、メロスティーヌは動じることなく、じっとその場に立ち続けていた。

 メロスティーヌの悪役令嬢諸法度が、音もなく開く。


「悪役令嬢執行術が十三、悪役令嬢に焚書をいま再びの創世を


 ぼそりと呟いたその時。人形たちの悪役令嬢諸法度が燃え尽きて消えた。彼女らの悪役令嬢執行術はその効力を失い、消滅する。


「…………え?」

「ディオニソース。あなたの不幸は、悪役令嬢であることを押し付けられたことだったんだ。きっと、あなたは本来、心優しい人だった。なのに、よりにもよってカナンの者の証、十三番目の執行術を継承してしまった」

「……やめて」

「だから、姉たちにはいじめられ、家の中でも、疎まれるようになった」

「やめて」

「対外的にも、必要以上に警戒されてしまった……そうなんでしょ?」

「やめて!って言ってるのに!!」

「——だから、あなたを悪役令嬢の呪縛から解き放つ」

「え?」


 顔を上げたディオニソースの疑問を置き去りにして、メロスティーヌはディオニソースの悪役令嬢諸法度に触れた。己の悪役令嬢諸法度である巻物を槍のように構え、


「あなたの悪役令嬢諸法度は神の座に通じている。そこで、私の十三番目の術を発動させる」

「な、なにを言って……」

「これでもう、あなたは苦しまなくて良くなる。だから、行かせて」

「わ、私が許可を出さないうちから行こうとしてるじゃない! なんなのっ! なんであなたは、そんなことをするのっ! あなたに殺されても、私は文句言えない! それだけのことをしたのに!」

「……私は、怒ってるの。激怒したの。許せないの。たしかに、初めはあなたに激怒した。だけど今は、あなたを苦しめ、孤独にしたこの世界の条理に激怒している。だから——さようなら」


 メロスティーヌは、もう身体のほとんどをディオニソースの悪役令嬢諸法度の中に埋めていた。そして今、顔すらも本の中に吸い込まれて右手だけが別れを告げるために残されている。


「バカっ! なにを——」


 ディオニソースはメロスティーヌの手を掴んで引き上げようとする。だが、それはついに果たされなかった。領域内には、ぽつんと立ち尽くすディオニソースとばさりと音を立てて落下した悪役令嬢諸法度があるのみである。


 メロスティーヌは木造の、古びたお堂の中に正座していた。

 神の座は当人に認識しやすいカタチで認識される。メロスティーヌにとってはこの、古びた、神もなにもいないようなお堂こそが神の座だったのだ。


「ここは……毎朝お参りをしていた…………そして、去勢させられた、場所……」


 ——くノ一不足解消のため。あの男は、そう言っていた。

 メロスティーヌは全身にじっとりとした嫌な汗を感じた。トラウマになっている場所に来たのだ。胸に穴が空いたかのような痛みを覚えつつも、彼女は悪役令嬢諸法度を開く。お堂の奥に飾られた火天——アグニ神の掛け軸に一礼して、そこに記された文字列を読み上げる。

 それは彼女がまだだった頃に、忍者修行の最初に暗唱させられたお経だった。といっても、既存の仏教の経典に乗ってるようなものではない。彼の忍術流派のオリジナルである。それを平坦な調子で淡々と読み上げる。転生してからの十数年間は一切口にしてこなかったものだが、もう魂に刻み込まれているのだろう。息をするようにすらすらと次の言葉がでてきた。


 そうして、経を読み終えたところで、背後から声が聞こえた。


「そうだ。お前はそれで良い」


 メロスティーヌの、前世の祖父である。壮健な老爺で齢は不詳。戦前から生きているとか、文明開化を体験したとか、本能寺の変に協力したとか、天海僧正その人であるとか、胡乱な噂の絶えぬ人物であった。


「お前は、立派なだ。儂としても誇らしいことこの上ない。が、この領域で再びまみえようとは思わなんだ」


 かっかっか、と笑う。そのさまはかつての姿そのままで、メロスティーヌはそれが幻ではないのだと確信する。


「疑問だった……どうして悪役令嬢のあの世界でも九字が効力を発するのか……それは、あなたのせいだったんですね。おじいさま」

「くく。ならばなんとする」

「いえ。良いのです。……ただ、忍術は永久不滅の法とはならない。それだけは覚悟していただきたい」

「応よ。何言ってもだんまりだったお前が言うんだ、記憶しておこう」


 頷くと、老爺は霞のようにかき消えた。


「んじゃまあ愛弟子の顔も見れたところで、儂は退散するわい。……ここでは、望みを持たないモンは呑まれるだけ。せいぜい気ぃ付けろ」


 その言葉を残して。


「…………まあ、いい。今は悪役令嬢だ」


 自身の過去に対する心の整理はもうついた。これで、世界を書き換える準備は万全だ。


 お堂の奥、神筐しんきょうと呼ばれた竹製の箱を開けると、そこには白磁の肌をした娘が眠っていた。その顔はディオニソースに似ている。

 彼女は目を開けると、ただ、こくりと頷いた。


「悪役令嬢諸法度が十三、悪役令嬢に焚書をいま再びの創世を


 神筐は今、さながら棺のようである。メロスティーヌの放つ炎によって原初の悪役令嬢は永遠の眠りにつかんとしている。その穏やかな慈顔を見れば、彼女もまたディオニソース同様、本来は心優しい娘だったのだと分かる。


 せめて安らかな眠りを。そう祈り、メロスティーヌは瞑目した。

 パチパチと、残り火の爆ぜる音も消えた頃。メロスティーヌは目を開ける。そこにはもう、燃え滓も残らない。ふと、手もとを見れば広げていたはずの巻物、メロスティーヌ自身の悪役令嬢諸法度は半分ほど燃え尽きていた。

 それは、もう半分は残っているということである。


 法を完全に消しさるには時間がかかる。そういうことだとメロスティーヌは理解し、巻物を進捗棒プログレスバーの代替として膝を抱え、じっとその時を待つことにした。


 …………どれほどの時が経っただろう。否、ここに時間の概念はない。詮ない話である。

 巻物の長さは、確かに短くなっている。だが、ふとした時に見ると長くなってるようにも見えた。まるで逆回しのように、灰が巻物の一部に戻ることすらあった。

 だが無秩序に時が巻き戻るかと言えばそうでもない。現に、原初の悪役令嬢、彼女はもう、ここにはいない。復活することもない。

 おそらく、この世界の時間は事象を単位とするのだ。今はまだ「悪役令嬢という法が消滅した」という事象には至らない。ゆえにその前前段階の事象たる「悪役令嬢という法が消滅しつつある」事象のさなかにあり、それを満たしてさえいれば、巻物の長さは関係ないのだろう。

 巻物は進捗棒プログレスバーにならない。

 メロスティーヌは嘆息した。


 世界は徐々に霞がかっていく。ふと、自分の手を見れば透けかかっているのが分かる。

 ——望みを持たないものは呑まれる。

 老爺の言葉を思い出し、メロスティーヌはそれも良いと笑った。


「別に、世界に新しく追加したい法があるわけじゃない。私は、悪役令嬢しはいしゃじゃないんだから」


 ただ、人の輪の中で、普通に生活できたらそれでいい。その普通さえ、けっきょく、叶うことはなかったけれど。

 不思議なもので、今はその結果にも概ね満足している。

 それでも、ディオニソースを救うことができた。いつかのセリヌンティウスみたいに、困ってる女の子を助けることができたのだ。かつて、自分が「男として」抱いた憧れをついに果たすことができた。もう、思い残すことはない。


 存在のすべてがかき消えそうになっていると、メロスティーヌに聞き覚えのある声が聞こえてきた。それは力強く、彼女の名を呼ぶ。


「メロスティーヌっ!」


 お堂を破壊して飛び込んできたのは、セリヌンティウスである。その手には、キラキラにデコレーションされたスマートフォンを握っている。


「迎えに来たよ、メロスティーヌっ!」

「なっ。セリヌンティウス!? どうしてここに! それに、そのスマホは、まさか……」

「ああ。僕も、転生者なんだ。そして、今までずっと隠していたんだけどね、僕は女なんだよ。悪役令嬢だ。このスマホがその証。ただ、侯爵家に悪役令嬢が生まれたと発覚しては色々と不都合が生じるのでね、性別を偽って、隠してきた」

「そうじゃ、なくて……あなたも、転生者なの?」

「ああ。これ? うん。そうだよ。僕は前世で、君に救われた女の子だったのさ」

「でも、女の子を助けた覚えは……」

「男装していたから分からなかったんだろう。いやあ、ここも懐かしいなあ。このお堂!」

「え、来たことあるの?」

「あのあと、僕も君に……くノ一に憧れて忍者になったんだ。まあ、お師さまにはくノ一として扱ってもらえなかったのだけどね」


 男としてさまになりすぎてたらしい、と彼——もとい彼女は言った。


「さあ、行こうメロスティーヌ! 今度は、僕が君を助ける番だ! 僕は君を、ここから救いに来た!」

「…………っ」


 涙が、こぼれる。

 ずっと無意味だと思っていた。自分が忍者として成してきたことの意味を、自分自身で肯定することができなかった。だが、今、はじめて。


「はいっ!」


 忍者をさせられたことに、自分の前世に、意味を認めることができた。


 セリヌンティウスの手を取った瞬間、世界が爆ぜる。いくつもの、鮮やかで喜びと希望に満ちた光が、さながらメロスティーヌを祝福するかのように咲きほこる。

 耳を澄ませば、メロスティーヌを祝福するいくつもの声。


「おめでとう。おめでとうメロスティーヌ。そしてさようなら、悪役令嬢」


 セリヌンティウスに手を引かれながら、メロスティーヌは小さく「ありがとう」とつぶやいた。


 かくして、メロスティーヌとセリヌンティウスは再び、ディオニ家の処刑場へと戻ってきた。しかしいま、メロスティーヌやセリヌンティウスを処刑しようとする者は一人もいない。そもそも、そこは処刑場ですらなかった。

 目を見張るような薔薇園の真ん中だった。清純な令嬢然と、かわいらしい立ち姿でメロスティーヌとセリヌンティウスの二人を出迎えるのはディオニソースである。

 彼女は涙を流しながら拍手して、二人を出迎えた。

 孤独の渦中にあった頃の彼女では到底できぬ笑みを前にメロスティーヌとセリヌンティウスは感涙し、そしてディオニソースを入れた三人でひしと抱き合った。

 そうするうち、メロスティーヌの黒き忍者装束は風に吹かれ塵となる。ディオニソースは手に持っていたマントをメロスティーヌにかぶせてやり、その裸体を隠した。ディオニソースの行動に首をかしげたメロスティーヌに、セリヌンティウスは優しく言う。


「メロスティーヌ。今の君は裸なんだよ。もう忍者装束を着る必要はないんだ。そのマントで身体を隠し、君の着たい服を着るといい。きっと、ディオニソースが用意してくれる」


 最後の悪役令嬢は、ひどく赤面した。


(了)

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悪役令嬢メロスティーヌ 砂塔ろうか @musmusbi

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