<短編> 煌めく自販機に照らされて

赤黄 緑

煌めく自販機に照らされて

あぁ、人生とは何と残酷で、無慈悲で、つまらないものなんだろう。

 

 自分で言うのも何だが、俺の取り柄は真面目さだ。真面目さだけなのだ。この二十年余りの人生の中で何度『君は真面目だね』と言われただろうか。

 

 俺は勉強ができるわけでも、運動ができるわけでも、はたまた容姿がいいわけでもない。小中高大、この真面目さだけを武器に頑張ってきた。成績も中間ぐらいにはいた。友人も一人二人ではあるがいたのだ。

 

 しかし、社会人である今、彼らと連絡を取ることはない。それどころか、現時点で人間関係というものをほとんど有していない。上司と部下、先輩と後輩、当方と先方。この関係しかないのだ。

 

 俺は会社でも所謂ぼっちだ。最初こそ形式的に誘ってもらったものの、その回数はどんどん減った。ここ最近、と言ってももう二年くらいはほとんど行ってないかもしれない。強いて言えば忘年会ぐらいだ。

 

 もちろんこの人間関係の薄さの一因は俺にある。俺は高校の時に好きな女の子がいた。それを友人に話した。告白したいと思っていると。

 

 しかし次の日、その噂は瞬く間に学年中に広まっていた。大多数が知っているため、ほとんどの人間はその噂の出どころが分からなかっただろう。しかし俺には分かった。そのことを話したのは彼にだけだったから。

 

 真面目だけが取り柄のガリ勉の俺が好意を抱いている、この噂は彼女自身をも傷つけた。所謂茶化しだ。彼女自身、俺を完全拒絶しているわけではなかったと思うが、その茶化しは思ったよりも長く続き、彼女まで学校生活が過ごしにくくなっていたらしい。そしてその彼女をさっきの俺の友人、いや、裏切り者は助けた。そして付き合い始めた。それを知った時、俺は何も、誰も信じられないことに気づいた。数少ない、俺を擁護し、優しくしてくれた友人もいた。でも、どうせこいつらも俺がいない時に俺の反応を思い出して笑っているんじゃないか、馬鹿にしているんじゃないか、そう思えてならなかった。

 

 この時から俺は人を信じられなくなったのだ。親切にしてもらっても、何か裏があるんじゃないかと、何を企んでいるのかと、その優しさを素直に受け止められなくなった。今もなお、この傷、この恐怖心は無くならない。

 

 上司から任された仕事を、他の社員の談笑をよそに黙々とこなし、家に帰るだけ。こんなつまらない人生だ。

 

 最近では家に帰っても、電源のついていない真っ黒なテレビ画面をただぼーっと見つめている。いや、もしかしたら、俺は画面ではなく、そこに映る惨めで、醜くくて、救いようのない自分自身を眺めているのかもしれない。

 

 今まで何度も自殺を考えた。極端にいじめられているとかではない。しかし、生きている意味もわからない。この虚無感から早く解放されたかった。でもどうしても一歩が踏み出せない。痛いだろうな、苦しいだろうなと考えるとどうしても実行に移せない。

 

「なんか、甘いもん飲みてぇな」

 

 ふと思い立ち、電源オフのテレビ画面から目を外し、冷蔵庫を開け、その扉の裏、ボトル置き場に目を向ける。そこにあったのは一昨日買ってきた2Lの緑茶。その横には缶ビールが2本。そしてパックの牛乳。

 

「買ってくるかぁ」

 

 何となく独り言を呟いてしまう。返事なんて返ってこないのに。

 

 時計に目を向けると短針はまもなく1を指そうとしている。こんな時間にはスーパーはやっていない。少し足を伸ばしてコンビニまで行くという手もあるが、そこまでする気力はない。やはりすぐそこの自販機がいいだろう。

 

 財布とスマホと鍵だけを持って、パジャマのまま外に出る。上はトレーナー、下はスウェットパンツ。これならそこの自販機に行くぐらいは問題ないだろう。

 

 俺が住んでいるのは住宅街の端に佇む築十五年ぐらいの比較的新しいアパートの2階だ。階段を降りて、住宅街を1分ほどぼちぼち歩くと公園がある。その公園のそばに、俺の目当ての自販機は設置されている。

 

 やれやれ、見えてきた。ここらは公園だというのに住宅街と違ってろくに灯りがないため、逆に自販機の煌々と光るその姿が遠目にも分かる。

 

 ん? 誰か人がいるな。なんか自販機の前でウロウロしてる。え、何、怖いんですけど。

 

 少しずつ近づき、自販機の灯りのおかげで見えたその顔は、俺より少し年下くらいの女性だった。

 

 俯きながらウロウロしている。何か考え事をしているのだろうか。こちらには気づいていないようだ。

 

「あ、あの、どうか、したん……ですか……? 」

 

 恐る恐る声をかけてみた。すると彼女は少し驚いた様子で勢いよく顔を上げ、申し訳なさそうな表情を見せた。

 

「あ、あの、お金、落としちゃって。真っ暗で見えなくて」

 

 自販機はその仕様上、明るいのは上半分。そのため、灯台下暗しを体現するかの如く、自販機の真下とその周辺は真っ暗だ。

 

「あぁ、じゃ、じゃあ俺スマホあるんで、ライトつけますよ」

 

 俺はズボンのポケットに収めていたスマホを取り出し、デフォルトの懐中電灯をオンにした。

 

「あり、ますかね。なんか転がった感じですか? 」

 

「音的に自販機の近くだとは思うんですけど、もしかしたら下に入っちゃったかも」

 

 下、というのは自販機と地面の隙間だろう。幸い、この自販機は下に5センチぐらいのブロックが挟まっており、仮にこの下に何かを落としても、見えさえすれば何とか取れそうだ。

 

「あー、じゃあ、そうですね、ちょっと見てみます」

 

「え!? だ、大丈夫ですよ! 汚れちゃいますから! 」

 

「いや、いいんですよ」

 

 今まで散々嫌な思いをしてきた。不本意ながら迷惑もかけてきた。誰かのために自分が汚れるなら本望だ。まぁ少し土が付くくらいだけど。

 

 俺はその場にしゃがみ込み、頭を横に傾けながら体を落とし、右手のスマホと共に自販機の下を覗いた。


「あれ? 落としたのっていくらでしたっけ? 」

 

「あ、500円玉です」

 

「500……円……玉……。ん? あれ」

 

 なんか光った気が……

 

「あ! ありましたよ! 」

 

「え! 本当ですか! 」

 

「えーっとじゃあ、俺取るんで、スマホだけ持っててもらっていいですか? 」

 

「はい! わかりました! 」

 

 俺は一旦起き上がり、右手のスマホを彼女に預け、再び体を落とす。

 

 彼女もしゃがみ込んで、俺の要望どおりライトで自販機の下を照らしてくれている。

 

 俺は手を伸ばした。目一杯伸ばした。届ど……け……!んーーーー……!と、届いた! 俺は必死に中指を内側に曲げ、体の方へ弾く、弾く、弾く。

 

「うーーぃ取れたぁ」

 

「おおー! ありがとうございます! 」

 

 小さくパチパチと拍手をしながら頭を下げられた。俺は少し目を背け、彼女へ500円玉を、彼女は俺にスマホを返した。

 

 仕事における形式的な礼と店員から言われるマニュアルフレーズを除いて、お礼を言われたのなんていつぶりだろうか。

 

「どうか、しましたか? 」

 

 しまった、また人生に絶望していた。しかも人前で。

 

「なんか、嫌なこととかありました? 」

 

「い、いや、何でもないです、ほんと」

 

「そう、ですか。勘違いならごめんなさい。似た表情をしていたので」

 

 彼女の言葉が気になり顔を上げると、自販機の灯りが彼女の悲しげな微笑みを照らしていた。


「似てるって……誰に。お友達? 彼氏さん? 」

 

「……私です。鏡に写った私の顔……。私と同じなのかなって」

 

 何を、言っているんだ、この人は。俺と同じだと言いたいのか。この人が、俺と、同じだと。ふざけるな。同情か? こいつは同情してこんなことを

ほざいているのか? この惨めな俺に。やめろ、そんな安っぽい同情、俺は求めていない。お前に何が分かる。俺の何が分かる。分かるはずなんてない。こんな出会って数分の人間が、俺の苦しみを分かるわけがない。分かってたまるか。

 

「私、実は今日、自殺しようって思ったんです」

 

「……え? 」


俺は思わず頭を上げた。彼女が俺と同じはずがない。俺と同じ思いをしているはずがない。そう思っていたが故に、今の彼女の言葉は衝撃だった。

 

「なんかもう、何で生きてるのか分からなくて。信用できる人もいないし、目標とかがあるわけでもないし、そもそも、生きてて楽しくないですし。でも、なかなか実行に移せなくて。その程度のことも出来ないんだなってまた悲しくなって、飲み物でも買って気分転換しようと思って外に出たらお金失くすし。もうほんとに踏んだり蹴ったりで。でも、あなたが私の落としたお金を一緒に探してくれて、私のために土まで付けてくれて。その、嬉しかったんです……」

 

 そんな、本気で言ってるのか。たった落とした小銭を探しただけ、たった隙間に入り込んだ小銭に手を伸ばしただけ、たったズボンと手のひらに少し土をつけただけ。たったそれだけだ。たったその程度のことに、彼女は涙を浮かべながら『嬉しかった』と、そう言っているのか。

 

「ご、ごめんなさい。こんな話」

 

「いや、いいんです。全然。それに、さっきあなたが言ったこと、当たってるんです。俺もあなたと同じ。人生に絶望して、生きる意味も理由も分からなくて。あなたがさっき俺に礼を言ってくれた時、ありがとうございます、だなんてありふれた言葉なのに、あなたの言葉だけは違ったんです。一瞬だけ、その絶望を忘れさせてくれた。素直に嬉しかった」

 

 こんなにも、思ったことを口にしたことなんてあっただろうか。俺の心の黒雲を朝陽の如く貫いてくれ彼女になら、言っても構わないと思った。彼女なら受け止めてくれる、そう思った。何も理由なんてないのに。

 

「やっぱり。同じような顔してましたもん。私にはわかります」

 

「お見通しってやつですか」

 

「はい! 」

 

 彼女の顔が眩しく見えたのは自販機の灯りではなく、その笑顔のせいだろう。

 

「にしても、春といっても、まだまだ夜は冷えますね。早く買って帰らないと風邪引きますよ? 」

 

「そうですね。何買うんです? 」

 

「私は……そうですね、このあったかいカフェオレですかね」

 

「カフェオレ、良いですね」

 

 俺は自分の財布から取り出した100円玉を硬貨挿入口に押し込み、ボタンを押した。

                      

 「お兄さんもカフェオレにしたんですね」

                      

 「いや、俺はコーヒーはブラックしか飲まないですよ。これはあなたに。俺の与太話に付き合ってくれたのと、俺に生きる希望をくれたお礼です」

 

 俺はそう言いながら、右手のあったかいカフェオレを差し出した。

 

「ありがとう、ございます」

        

 彼女は照れながらも、それを受け取ってくれた。

 

 すると彼女は自販機に向き直り、さっきの500円玉を入れ、ボタンを押した。

 

 彼女はガタンと音を立てた取り出し口に手を伸ばして缶コーヒーを手に取り、釣り銭を引き摺り出して俺に向き直った。

 

「はい、ブラックコーヒーです。お礼です。あなたと同じ、私の与太話を聞いてくれたことと、生きる希望をくれたことへです。私こう見えて、結構義理堅いんです! 」

 

 えっへんと胸を張って伸ばされた左手のブラックコーヒー、甘い飲み物を買いに出てきたわけだが、受け取らないわけにはいくまい。

 

「ありがとうございます」

 

 俺はそのブラックコーヒーを受け取った。

 

 いい大人が互いに100円の缶コーヒーを奢り合う、その姿は何とも滑稽で、自然と笑いが込み上げてしまう。それは彼女も同じらしい。

 

「フフフ、面白いですね、この光景」

 

「フフ、そうっすね」

 

 しばらく二人で笑い合った。

 

「じゃあそろそろ冷えてきたんで、帰りましょうか」

 

「そうですね、今日はありがとうございました」

 

 そう言いながら、彼女は再び頭を下げた。

 

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

 俺も頭を下げ、お互い反対方向、それぞれの家へと向かう。

 

 家に着くまで振り返ることはしなかった。もしそれをしたら、名残惜しくなってしまうから。明日、また飲み物買いに行こうかな。もしかしたらまた会えるかも。いや、明日だとあからさまか。じゃあ、明後日? ん? いや明々後日? 

 

 

   

     

       

         

           

             

               

                 

                   

                     

                       

                         

                           

                             

                 

「ったくさぁ、その話何回目だよほんとに。さっすがに聞き飽きたわ。酔うたびにそれじゃん」

                      

「母さんとの馴れ初めを聞きたいって言ったのはお前だろー? 」

                      

「いや言ってないから。父さんいっつも唐突に話し出すから。しかも長い。びっくりするぐらい長い。なのにもう人に教えられるぐらい覚えてしまった自分が憎い」

                      

「短い言葉なんかで、母さんと初めて会った時の衝撃と感動は言い表せんよ」

                      

「ふーん。まぁ、その日生きることに関しても意味を見失ってた父さんが、明日、明後日、明々後日のことまで考えられるようになったんだから相当なんだろうな、母さんとの出会いは」

                      

「あぁ相当なもんだよ……。ま、父さんもそれまで彼女なんて出来たことなかったから、周りが彼女持ちだからって気に病むことはないさ」

                      

「うるせぇよ……。気にしてなんか……ねぇし……。あ! でも案外母さんはあんまり覚えてなかったりしてな! 」

                      

「なっ! い、いや、そんな、はず、は、ない……。か、母さーん!?」 

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