第11話
本来、僕の役目は彼女、雨宮小糸のカウンセリングであったはずだった。だが、それは今になって違う側面を帯び始めたように思う。
この場所でのみ使われている感情抑制剤、ロスト。その秘密。信一はかつて医学を志し、医者になろうとしていた。ならこのロストに一切の効果がないことを知っているはずだ。それを知りながら、何故利用しているのか。
そうした疑問と同時に、あいつはこのロストには効果がある者とない者がいると言った。現に効果がない人として彼女、雨宮小糸がいる。本来ロストに医薬品としての効果は無いのだから彼女の在り方が正しいはずだが、この場所ではどうも効果があるほうが多数派だということだ。
どこか正しさと間違えが裏返ったようなこの状況。ある意味、最もおかしいのはこの場所ということか。すべての疑問にケリを付けなければ彼女のカウンセリングも前へ進めない気がしていた。そのためにはあいつに、桐原信一にすべてを問いかけるしかないだろう。
そう思っていた時だ。人がぶつかるような音が壁越しに聞こえた。そして突然、隣室から彼女、雨宮小糸の悲鳴が聞こえた。
部屋を出て、隣室に走った。彼女の部屋の前に来るとやはり、人と人が争っているような物音がする。
「雨宮さん!」
扉を叩き、呼びかけるが返事はない。聞こえていないのか? ドアノブに手をかけると、鍵がかかっていなかった。一瞬、躊躇したがその時再び彼女の声とは違う、男の声が聞こえたため、ためらうことなく扉を開けた。
「雨宮さん、大丈夫ですか!」
部屋の中に入れば、そこにはスーツを着た六十は間近だろうと思われる男が彼女を地面に押し付けていた。
「先生!」
「あ? 先生?」
彼女の呼び声に、男が僕の存在に気が付いたのか、振り返りこちらを見た。その眼はどこか血走っており、酷く興奮しているようだった。そして、その体制のまま、
「なんだ、あんたもこの子目当てで来たのか? 本当は一人がいいんだが、まあいい。あんた手伝えよ。この通り、珍しく抵抗しやがってな」
何を言っているのかわからなかった。どういう常識、どういう知識、どういった倫理観でこの男は話しているんだ?
「あんた。何言ってるんだ?」
「なにってそりゃあ、これからこの子を……」
「いいからそこからどけよ。話はまずそれからだろう!」
男の話を聞く気も起きず、途中でその声を遮った。そんな風に言われると思っていなかったのか、男は驚くような顔をしながらも、ゆっくりと彼女を解放して離れた。ただその顔はどこか納得いかないように僕を見続けている。そして僕に近づき怒鳴ってきた。
「あんた、一体何の権利があって俺の行為を邪魔するんだ?」
「何の権利って、人としてやっていいことと悪いことの区別もつかないのか?」
六十を間近に控えながら一体どんな人生を歩めばこんな言葉が出てくるのか、わからなかった。そんな僕の言葉に、男がさらに何かを言おうとした時、彼女が口を挟んだ。
「あの! 最初に言ったように、私、今は喪失者じゃないんです」
その言葉に、男は苦虫をかみつぶしたような顔をした後、
「先生……なるほどね。今はこいつのモノになったというわけか」
「いえ、その人は……」
「別に、もうどうでもいい。気も削がれたし」
そう言うと、男は悪態を付きながら外に出て行った。出て行く間際、忌々しそうな眼で僕を睨みつけていった。出て行った男と入れ替わりで、何人かの管理局局員が部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか?」
彼らの登場に気が抜けたのだろうか、彼女が倒れそうになったため、僕は慌てて、彼女を支えた。ただその体が小刻みに震えていた。その震えを僕は最初、恐怖からくるものだと思ったが、どうやら彼女は僕に触れられていることに恐怖を感じているようだった。彼女の体制を整えてあげながら、僕は彼女から離れた。
「ごめん。嫌だったかな」
「あ、いえ。そうではなくて……」
何かを話したそうにしていたがうまく言葉が出ないようだった。彼女の様子を察して、僕は首を振った。
「無理に話さなくてもいいよ。ただ、一つだけ教えてくれないかな。あの男は何者?」
「あの人は……あの人はお客様です」
「お客様?」
言葉の意味はよくわからなかったが先ほどの行為。そして、彼女が男性に触れられる際に震えていることからなんとなく想像はできた。どうやら問いかけることが一つ増えたようだ。……問いただす必要がある。
「あの、大丈夫ですか?」
入り口にいた局員が再度、問いかけてくる。その人に向けて、彼女をお願いした。局員は女性だったから大丈夫だろう。彼女を見ると頷いているから、どうも問題はなさそうだ。頷き返して、僕は目的地に向かうことにした。
ユーロモーション管理局、その部長室へ。
「信一、ロスト……いや、ここユーロモーションとはなんだ?」
部屋に入り、前置きも無く信一にそう問いかけた。業務中だったため、信一は書類を見ており、面倒そうな顔でこちらを覗いていた。
「突然なんだ。業務中だぞこっちは。常識を考え……」
「ロストの中身を調べさせてもらった」
「……この間の手紙はそういうことか」
すべてを察したような顔で書類を机において、こちらに向き直った。だが、
「それで? だからどうしたというんだ」
いまだ、しらを切り続けるようで、平然とした表情でそう答えてきた。その様に腹が立ったがそうして直情的になったところで奴が口を割らないことは知っている。
改めてこちらが持っている事実を提示した。
「感情抑制剤、ロスト。あれに医学的な効果がないことはわかっている。あの中身は生理食塩液、いわゆる点滴で使われる中身と大差はない」
「だが現実問題、ここにはそれを投与して自殺衝動を抑えることに成功している。まあ雨宮小糸さんには効果が無かったようだが。その一名を抜き出して、ロストに効果がないというのは少々難しいのでは?」
その通りだ。一体ロストがどうしてそのような効果を発揮しているのか、それは今もってわからないことだ。ただ、それを投与された人がどうなっているのか、それはこれまでのことから僕にもわかる。
「……そうだな。お前の言う通りだ。ロストにはどうやら何かしらの効果があるようだ。それは認めたとしよう。ただ、その場合、ロストの効果については疑問がある」
「ロストの効果?」
「感情抑制剤、という名前と自殺願望の人を抑えるということから僕は当初、このロストを一種の精神安定剤のようなモノだと思っていた。事実、このユーロモーションという街はひどく静かだ。
だがな、同時にこうも思った。あまりにも静かすぎないか、と。喧嘩は愚か、無駄話の一つも聞こえない。それは人と人との関わりを嫌った人々が集まっているから、そうなっているんだと思っていたが、どうもそれが大人だけでなく、ここで生まれたいわゆる第二世代の子供たちに関してもそうなのだと、ある時気が付いた。
あり得るか? 子供が一切しゃべらないんだ。学校のグラウンドで、運動をしているところを見たことがあるが、誰もが黙って、揃った声をあげていた。まるで軍隊のような規律が生まれていたさ。
そして極めつけは、運動の最中、ケガをした子供がいたときのことだ。結構な血が出ていたが、ケガをした本人はいたって平然とした顔をしていた。覚えてるか? 僕らがナイフで遊んで、ケガをした時のこと。お前、血が出て泣いてたよな? 僕も混乱して、涙が出たし、どうしていいかわからなかった。だというのに、その子供たちは誰もが一様に平然とした表情をして、先生が治療をするのを見つめるだけだった」
「……だから、なんだと。まあ、確かに異様な光景に見えたかもしれないな。だが、ここはそういう場所だ。俺たちがいた外とは違う、」
「最後に一つ。ついさっきのことだ。雨宮小糸さんが、お客様とか言う男に襲われていた」
「……」
「おそらく、あの男は昨日来ていたお偉いさんの一人なのだろう。確か言ってたよな、一泊するって。でもおかしくないか? このユーロモーション内に宿泊施設はどこにもないんだ。空いている社員寮でもあるのかと思って確かめたが、空きは無かった。そもそも大型バスで来ているんだ。一人や二人じゃないだろう。それなりの大人数で来ている。となれば、どこか泊まる施設が必要なんだ。なのに、それはどこにもない。
考えたくはなかったさ。ただおぼろげながら答えが浮かび上がってくる。ロストという薬品、アレは打たれるとおそらく人の感情、意識とでも呼ぶ何かが欠落するんだろう? そして、このユーロモーションにはそうした欠落した人が集められており、政府のお偉方が、お客様としてやってくる。宿泊施設もないこの場所に。そして女性を襲う。
……一体なんだ、この異様な場所は。お前は一体、何に加担しているんだ。黙ってないで、何か言えよ。なあ、信一!」
「……」
信一はしばらく無言だった。こちらをじっと眺め、何かを考えるように、僕のことを見つめていた。やがてゆっくりと口を開いた。
「なあ、夜。この場所に来た時、俺はお前に聞いたよな。覚えてるか?」
「……人は人を救えるのかな? そうお前は問いかけた」
僕の言葉に、信一はゆっくりと頷いた。
「そうだ。そしてな、夜。俺は人を救いたいんだ」
僕にはわからないその言葉。それを呟いた後、ゆっくりと信一は説明を始めた。
「ロストの正式名称は感情体殺害薬、ロストという。それは人の中にあると言われる、感情体を殺すものだ」
「俺が初めてロストの存在を知ったのは、今から四年前のことだ。
お前も知っているだろうが、学生の頃、俺はモーションというNPO法人でボランティア活動に参加していた。そんな時、親父からモーションの理事が活動を拡大させようとしておりそのための人材を募集していると聞かされた。俺は断ろうと思っていたんだが、親父が半ば強制的に話の場をセッティングして、俺は話を聞かされることになった。
俺に話をしに来た奴は名前を樋口将嗣といった。現、ユーロモーションの管理局長をやっている。つまり、今の俺の上司にあたる人だ。
そいつは俺に対してこう話を切り出した。
この世界には死にたくないと望んでいる人がいる。と。
俺は何を当たり前のことを、と思った。当然だろう。誰だって死にたくはないのだから。それを察したのだろう。男は続けてこう言った。
ただそうした人の中に、同時に死にたいと望んでいる人もいるのだ、と。
訳が分からなかった。そして男もわからないと言った。そう言いながら男は言葉を続けた。
ただそういう人種が一定数存在する。死にたくはないが、生きていたくもない。いわゆる生きているのが苦痛な人々というのが、この世界には存在する。
それをただ、怠惰な者ということもできる。本質としてそれは何もしたくはないが、死にたくもないという人々を指すからだ。
けれど同時にその人々はそうせざるを得ない理由があるのかもしれない。
例えば、
学校、職場における人間関係に何かがあったのかもしれない。
単純に人と関わるのが苦手な人かもしれない。
人が嫌いなのかもしれない。
人の生み出した現行の社会システムは何をするにしろ、生きていくために他者との関わりを必要とする。学びにしろ、仕事にしろ、ただ生きていくにしろ、どこかで人と関わらなければ人はこの社会システムの中で生きていくことはできない。
ゆえにこの社会システムにおいて人と関わることを嫌悪する人間はそのあらゆる面において、生きていくという行為、それ自体が苦痛となる。本来システムというのはそれを利用するものが利用しやすいように、好ましいように存在するものであるべきはずが、そうした一部の者にとってはこの社会システムはどうしようもないほどの苦痛を生み出すシステムになる。
この世界にはそうした社会システムに容認されない者が必ず存在する。しかし、彼らには逃げ道は存在しない。この世界で人が生きていくためのシステムはこの社会というシステムしかないからだ。けれど彼らだって別に死にたいわけではないのだ。君が言うように、人は誰だって死にたくはない。だが彼らには生きていく場所がない。
そうして生きる場所も、逃げる場所も無くなった者たちはその状況ゆえに、こう感じるわけだ。
死んでしまいたい、けれど生きていたくはない、と。
そして、そう感じてしまった者たちが選ぶ道は二つだけだ。
苦痛を感じるシステムに迎合し、社会の中で生きていくか、
それを否定し、一瞬の苦痛を受けいれ、死を選ぶか。
往々にして、多くの者は後者を選ぶ。
男はそう告げた後、そうしたこの世界は、社会は間違えていると、言った。俺はその言葉には賛成だった。
システムは確かに万人のモノ足りえない。欠陥も存在するし、不満点だって存在する。ただしそれは利用者によって克服可能なモノだと思っていたからだ。
頷いた俺を見て、男は僕らがやろうとしていることは、そうした人々を救うことだ、と告げてきた。そして奴は話始めたんだ、この場所、新たなる理想郷、ユーロモーションについて。
システムの中で生きていくことが苦痛な者たちを救うために必要なのは彼らが生きていける状況を作ることだ。そして大切なのは彼らがそうして生きていながら苦痛を感じない、ということが必要だった。苦痛を感じたままではいつか自死を選んでしまうかもしれないからね。
問題はこれをどうするべきか。当然だが、社会システムの在り方を変えることはできない。現行のシステムは大多数に受け入れられているシステムであるから、それを変えてしまい現行のシステムで生きている人々が苦痛を感じてしまったのでは本末転倒だ。
それならどうすればいいのか。
選べる選択肢は一つだ。現行のシステムに容認されない者たち、つまり少数派の人の在り方を変えることだ。むろん、それが自分でできるのなら誰だって苦労はしない。そのために用意されたのが、感情体殺害薬、ロストだ。
感情体仮説って知ってるよな。一時期話題になった人の中に感情体と呼ばれる生命体が存在し、それが人の感情を生み出していると書いている仮説だ。ロストはそれを元にして作られた薬品で、投与するとその人の中にある感情体を殺してしまうそうだ。それが何を意味するかは分かるよな。そう、お前が言った通り、ロストを投薬された人間は感情を失う。
人が感じるあらゆるものは元をただせば感情、というたった一つの言葉になる。嫌悪感も幸福感も、苦痛も悲しみも、愛情すらも。すべては人が感じる感情だ。
世界から疎外される人々が自死を選ぶのはそうした事柄を感じるからだ。ゆえにもし、それが消せたとしたら? 人と関わる際の嫌悪感や人を嫌いという感情、生きていることに感じる苦痛や悲しみ、それすらも消せたなら。彼らは死を選ぼうとはしなくなる。自死することが無くなるわけだ。
少し戻って、そもそも人が社会というシステムを作った理由を考えよう。社会というシステムは何故、必要なのか。それは人がより良く、効率的に生きていくために作られたシステムだ。人という生き物は厄介で、ただ生きていくということができない。生きていくには食事、つまりエネルギーが必要となってくる。さらには外部環境から身を守り、病気や災害から自らを守り、生きていくためには、衣服や住居を必要とする。衣食住、基本的なモノだ。同時に我々は進化したため、様々な娯楽まで求めるようになった。絵画、小説、映画、他本能的な肉欲や美への欲求……。数え上げればきりがないが、ともかくそうしたものを効率よく満たすために社会というシステムが作られた。
話を戻して、ロストを使い感情を失った人々。ここでは彼らのことを喪失者と呼んでいるからそれに倣い、そう呼ぶことにする。この喪失者には感情が存在しない。だが、彼はあくまで人だ。つまり、生きていくためには食事を、エネルギーを必要とする。残念なことにいまだ人の文明は無尽蔵にこの世界に住むすべての人々に恒久的な食事を提供できるシステムを持ちえていない。となれば、彼らへの食事は別途用意しなければいけない。そうしなければ彼らを餓死させてしまい、これまた本末転倒な結果を生む。
そこで考えられたのがここ、ユーロモーションという施設だ。彼らを利用し、農業を実施させれば自分たちで自分たちの食料を生産できる。彼らは幸い感情が無い。それは欲望の喪失を意味し、必要以上のモノを求めない。
完璧なシステムだった。社会というシステム、その枠組みから外れた人々を救う新しいシステムの完成だった。……だが、そういうわけにはいかなかった。
世の中というのは人手不足だと言われるが、それは人がしたがらないだけであり、仕事を選ばなければ案外どこにでも仕事というのは転がっているモノだ。
例えば永遠と続く事務作業。同じ工程の繰り返し。
例えば肉体関連。娼婦や男娼など。
既存のモノだけではない。人が感情を持ち、生きている以上、不満点というモノは発生し、それをどうにかして解消したいと考える。ただそれを解消する際、労働として対価を払えるかどうか、それが労働として成り立つかどうか、が問題だ。
例えば、一日二十四時間、文句を言わず、道具のように業務をこなしてくれる存在。
例えば永遠と男性の、もしくは女性の道具として性欲処理をする存在。
どうだろう、そんな仕事が成り立つだろうか? 当然成り立たない。もしかすると金額によっては成り立つかもしれないが、それを求める人間はできるだけ安価にそれを手に入れたいと願うわけだ。当然現状はその業務をどうにか処理しているわけだからな。
ただ欲しいには欲しいんだ。安価で、そういう存在が。
そこで喪失者だ。彼らには感情が無い。だからどれだけでも使える、自由に使える。感情が無いからどんな仕事にも文句を言わず、嫌悪感も示さない。条件は人として生かすだけ。食事を与え、生きていく上で最低限の状況を与えておけばいい。
彼ら喪失者は生きていけ、仕事を欲していた者はそれを肩代わりしてもらえる。ウィンウィンの関係だ。
そう、ここはそういう場所なんだよ、夜。もうわかったよな。歴史の授業で習っただろう? 人でありながらどれだけでも使える、自由に使える、まるで誰かのモノ、所有物とされる人を指す言葉。奴隷。
そうだ、ユーロモーションは奴隷の製造工場だよ」
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