第8話
『私、は……私を、救って、欲しいです』
彼女がそう口にしてから数日が経過していた。ただ彼女はあれ以降、口を開いてはくれていない。いつも何かを言いたそうに口を動かすが何も言葉は出ることなく、口を閉じる。その度に僕は話したくなった時で構わないと彼女に告げて、他愛もない話を彼女に聞かせる。その日もそうした出来事を終えて、何を話そうか迷っていると彼女がこう問いかけてきた。
「先生はどうしてこの場所に来たんですか?」
「ん? どういうことだい?」
「いえ……その、なんで私のカウンセリングなんて引き受けたのかと思って。普通に病院でお医者さんをやってらしたんですよね。それなのにこの場所に来るっていうのは、それなりにその場所を空けるっていうことで。そうしてまでなんでこの場所に来たのかなって。そう思って……。そうした人たちになんだか悪い気がしていて……」
いまだ僕に話せていないことを気にかけているのか、彼女が俯きがちに言葉を続けた。
「先生にはほかにも見ている患者さんがいて、だとしたら私がこうして先生の時間を取る度にその患者さんたちの治療は遅れて、迷惑になっているってことで」
どうも思った以上に気に病んでいたようだ。彼女の思いを解きほぐすように、僕は言葉を紡いだ。
「いや、それなら雨宮さんが気にする必要はないよ。……元々今、受け持っている患者さんは一人もいなかったんだ」
「一人も、ですか?」
彼女がそんなことがあるのか、という表情で僕を見ていた。確かにそれだけでは何か僕に問題があるような言い草になってしまう。そんな人間にカウンセリングをされているのではと、彼女が別の意味で僕を不安視してしまうかもしれない。誤解を解くように、説明をすることにした。
「ここに来る前、僕は大学にいて、そこである研究に携わっていたんだ。
人型形式における感情の意味的理解研究。これは感情というよくわからないものが人という形でどのように表出し、それがどのような意味を担っているのか、というのを解き明かそうとしたもので……まあ、一言で言えばアンドロイドの研究だった」
「アンドロイド、ですか」
「そう。研究所では親しみを込めてミームと呼んでいた。
感情というのは人という形から生まれたモノであり、それは人という形において意味があるモノだとして、なら人的な形に対しては必ず感情が宿るだろうということで、アンドロイド、ミームを作ったそうだ。僕はそこで、ミームに対して人を教えていた。
人というのがどういうモノか、人はどう感じるものなのか、とか。そんなことを教えていたんだ」
「なんだか、信じられない話ですね」
彼女が信じられないというような顔でそう問いかけた。まあ、そうだろう。
ミームの完成度は非常に高かった。だが、多くのメディアがろくに取り扱うことはなく、その結果表に情報が一切公開されることはなかった。そのため、一般にミームの存在、人と会話ができる、人を理解するアンドロイドの存在は知られていない。
彼女にミームの機能をいくつか話していると、当然のようにこんな疑問が投げかけられた。
「それだけのモノが作られていたのに、どうしてメディアは取り上げなかったんですか? それに先生も、それだけの研究に関わっていたのに、それがどうしてここに来ることになったんですか?」
「……研究が打ち切られたんだよ」
「?」
「まあ正しくは費用が出なくなった。その結果研究が続けられなくなって、研究室は解散。僕は父親の病院に戻るところだったが、その折にここの話をもらったんだ。
どうしてって顔をしてるね。それだけの研究が何故打ち切られたのか。
……雨宮さん。感情体仮説って知ってるかい?」
「はい。聞いたことがあります。確か、人の中に感情体と呼ばれるものがあり、それが人の感情を司っているとする、だったかと」
その言葉に頷いた。彼女の言う通り、感情体仮説は人の持つ感情とは、感情体と呼ばれる未知の生命体によって生み出されているものであるとする仮説だ。そして人としての真の在り方とは感情体という存在がなくなり、感情を喪失した存在、喪失者であるとする文章で締められている。
「とんでもない内容の仮説で、当初こそ馬鹿にされて見向きもされていなかったんだけど、ある時を境にこの仮説が影響力を持ってね。そして、結果僕らの研究が追及を受けたんだ。お前たちの作っているそのアンドロイドの感情とは何か、本当の感情か? とまあ単純に言えばそんな感じで。それに対して僕らは答えを持たなかった。感情の正体も、アンドロイドの中に感情体がいるのか、証明も説明もできず、結果的に研究が打ち切られたんだ」
「……なんだか、やりきれないですね。そんなわからないことを責められてもって感じがします」
「そうだね」
短く、彼女の言葉に答えた。実際やりきれなさはあった。当時、研究所にいたメンバーは誰もがやりきれない思いをした。あまりにも突然の打ち切りだったからだ。抗議をしたが結局聞き入れられず、研究所は閉鎖。アンドロイドもその電源を落とさざるを得なかった。
……ちなみに、感情体仮説はどうやらこの場所、ユーロモーションにも少し関係があるようで、この場所の建設に関係していると言われている。感情体仮説において定義されていた真の人的存在、感情を喪失した存在、喪失者。そんなありえない存在だが、それを生み出すことができると言われる唯一の方法が感情抑制剤、通称ロストの存在だ。
そしてこの場所ユーロモーションはそうした感情体仮説などというモノに踊らされた一部政府官僚が莫大な額の国家予算を投じて、ロストの使用を許可、喪失者を作るための宗教施設だ、という噂話がある。
また感情体仮説が力を持ち始めたのは感情抑制剤、ロストの登場以降とされている。そういう点ではある意味、あの研究はこの場所の存在によってつぶされた、ということもできるのか。
関係のないことを思っていると、彼女が僕を見て、こう問いかけてきた。
「それで……本当のところはどうなんですか?」
「本当のところ?」
「アンドロイドの感情、です。それは説明も証明もできないモノだったんですか?」
「……そうだね。できなかったんだ。僕らには。
ミームは僕らと完璧にコミュニケーションを取ることができ、その見かけを除き、完璧な人だったと言える。おそらくチューリングテストにもパスできたと思うよ。それぐらい、彼女は人を理解し、同時に理解しようとしていた。
ただ、だからと言ってそれで彼女に感情がある、と判別はできない。彼女は限りなく人間的であったけど、その中に感情があるかどうかを証明も説明もできない。
何故なら僕ら事態が感情とはなんであるかを理解できていないからだ。感情の定義がないんだ。そうしたものを僕らは作れる時代に到達したにも関わらず、感情を、より広く言えば人を、僕らは理解していない。今だよくわからないんだよ」
だからこそカウンセラーという職業が成り立っている、とも言えるんだけどね。そう笑いながら僕は答えた。ただ、彼女は、
「よくわからない、ですか……」
何かを思いつめるように、遠くを見つめて、こう呟いた。
「多分、それはわからないんじゃなくて、何もないんだと思います。……いえ、ごめんなさい。ほかの人はどうかわかりません。ただ、少なくとも私はそうなんです。私には何もないんです」
どこか苦し気に言葉を紡ぐ彼女。その様に一瞬、言葉を止めようかと思ったが、彼女はそれを望んでいないようだった。僕を見ることなく、彼女は失われた右腕を見た。そこにあったはずの何かを見るようにして、彼女は言葉を続けた。
「私はカラッポで、何も手にできないんです。こんな片腕では、何も持つことができず、掬うことはできない。掬う傍からこぼれていって、無くなってしまう。何も持てない、何も持っていないんです。……だから本当にカラッポになろうと思ったのに、私にはそれすらもできなかった」
彼女の話、その詳細はいまだ分からない。結局彼女はその日、それ以上の言葉を紡ぐことはなかった。一体何が彼女の中で枷となり、言葉を紡げずにいるのか。
ただ一つ、最後に彼女は呟くように言葉を口にしていた。おそらくそれは自然に出たものだったのだろう。僕に聞かせる気はなく、独り言のような言葉で、彼女はこう口にしていた。
「私には、失うこともできない」と。
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