第7話
人は決して他人の痛みを知ることはできない。それは言い換えれば自分の痛みは自分にしかわからないということだ。本質的で基本的なことではあるけれど、僕らはそうしたことを時々忘れてしまう。それは同じ人という形を持っているから、そう錯覚してしまうのだろう。同じ形を持っているのだから、同じ中身が入っているだろう、と。
けれど、違う。僕らの中身は一人一人違い、その中身はその人自身にしかわからない。なら、彼女の苦しみは彼女自身に話してもらわなければいけない。その点を僕は間違えていた。彼女の人となりを理解し、彼女の状況を明確にしようとしていたが、そうしてわかるのは僕の中で構築した、僕の描く彼女でしかない。それを元にして救われるのは彼女ではなく、僕の中の彼女像だ。それでは意味が無い。
スタンスを変え、それを彼女に提示する必要があるだろう。
つまり、一体僕は彼女にとって何をしようとしているのか、それを提示するのだ。
翌日、同じ公園で彼女のカウンセリングをすることにした。ただし、昨日と違いお互いの自己紹介は無しだ。
「少し、一緒に散歩をしてくれないかな?」
僕のその問いかけに、彼女は訝しみながらもゆっくりと頷いてくれた。
ルートは昨日と同じ道順にした。ただし、会話がないからひどく静かだ。昨日、利用したときにも思ったがこの公園を歩く人をほとんど見たことが無い。時たま利用者を見かけるが誰もが静かで、話をしている人は一人もいなかった。それはどうやらこのユーロモーション全体に言えることのようで、いつもひどく静かなのだ。
そうした静けさを感じながら気が付けば、先日信一と座ったベンチにたどり着いた。
「少し、休憩しようか?」
言葉少なに頷いた彼女を促し、ベンチに座らせた。
「何か、飲み物でもどう。飲みたいモノはあるかな?」
「いえ、特には」
「それじゃあ適当に買ってくるよ」
ベンチの近くに自動販売機があったため彼女から目を離すことなく、飲み物を買うことができた。とりあえずコーヒーとお茶を買って、彼女にお茶を渡した。
「どうも、ありがとうございます」
お礼を言いながら彼女がお茶を受け取った。その時、少しだけ僕の手に彼女の手が触れて、
「ッ!」
彼女が驚いたように手を引っ込めた。その拍子にお茶が地面に落ちてしまう。それを見て彼女が慌てたように、「すみません、すみません」と呟きながら急いでそれを拾い上げた。まるで僕が拾い上げ、再び彼女の手に触れることを拒むかのように。
どこか彼女の体が震えている気がした。片手で持ったお茶をしっかりと握りしめているが、その手に力が入りすぎていることが分かる。ペットボトルのラベルが力を入れ過ぎていることを証明するように、少しだけ歪んでいるのが見えた。
片腕による何かが原因で手を引っ込めたのだろうか、と思ったがおそらく違うだろう。彼女はそもそもお茶を僕から受け取る時点で少し手が震えていた。
それがどういう理由によるものなのか、それはわからない。ただ、確かなのは彼女の中で僕が何かしら恐怖の対象となっている、という事実だろう。その理由を知りたいと思うが、その前に僕はしなければいけないことがある。
「雨宮さん。そう言えばまだ、僕の立ち位置を説明していなかったね」
「立ち位置、ですか?」
「そう。カウンセラーと名乗るだけで、僕が雨宮さんに対してどういったことをする存在なのか、それを何も説明していなかったと思って」
それは最初に明示しておくべきだったのだ。ただカウンセラーというだけで、僕はそれを提示した気になっていたけれど、彼女からすれば僕はカウンセラーを名乗る見ず知らずの男なのだから。そんなよくわからない存在に何を話せるというのか。
ベンチに座る彼女に合わせてしゃがんで目線を合わせた。そして、こう言葉を紡いだ。
「ねえ、雨宮さん。君は話したいことはある?」
「話したいこと?」
「それかしたいこと、求めていることでもいい。君が話したいこと、したいこと、求めていること。僕は君のそういったものを手に入れるための手伝いをしたいんだ」
「手伝い、ですか?」
「そう。僕は君のことを否定しない。常に君の、雨宮さんの味方でいるから。よければ聞かせてくれないかな? 君は何が欲しいのかを」
彼女は僕から目を背けるように俯いた。沈黙し、手を振るわせながら、けれどゆっくりと彼女は言葉を紡いでくれた。
「私、は……私を、救って、欲しいです」
※
「はぁ……」
家に帰りつき、壁にもたれて溜息を吐いた。時刻を見れば深夜三時。飲み終わったのが十一時だったからアレから四時間も経ったのか。
完全に酔いは覚めていたが、そのかわりに疲れが体にはあり、今すぐにでも眠ってしまいたかった。ただそういうわけにはいかないだろう。聞こえてくるシャワー音を聞かないようにしながら帰りに買った水を口に含んだ。彼女が出てくるまでもう少し時間があるだろう。冷たい水で喉を潤しながら、状況を整理しようと思った。
彼女、最川イマの母親が死んでいるという言葉を聞いた時は最初、何を言われているのかよくわからなかった。酔いも手伝ってか、今一つ、目の前の横たわる人の体と死体という言葉が結びついてくれなかった。
ただゆっくりとではあるが目の前の現実がただ事ではないということだけはわかった。とりあえず警察への連絡が必要だろうとそう思い、携帯を取り出して連絡をした。多分、酔っていたからできた行動だろう。通常であれば取り乱し、何もできなかったに違いない。それからしばらくして警察がやってきた。簡単な事情聴取を受けた。酔ってはいたが受け答えははっきりしていたことと、叔父が警察に勤めていたことがあり、不審がられることはなかった。ただやはり酔っているという状況では問題があるとのことで、明日改めて警察に来て欲しいと言われた。
面倒だな、と思いながらも仕方ないと考えていた。まあ、それでこの件に片が付くならいいだろう、と。それくらいの心持ちでいた。ただ、話はそう簡単には終わらなかった。
問題があったのだ。僕ではない、彼女にだ。彼女はどうやら身分を証明できるものを持っていなかったようで僕同様、明日改めて警察に来るようにと言われていた。それだけなら話は早かった。本当の問題が起こったのは彼女との帰り道だ。
夜も遅いからと彼女を家まで送ろうとした。その段になって、彼女はこう言ったのだ。
「帰る家、無いんです」
「ん?」
思えばこの時、すべてを放っておけばよかったのだ。関わる理由なんてなかったのだから、何もかも無視しておけばよかったものを、どうして僕はこの時あんなことを言ってしまったのか。
彼女の言葉に流れる沈黙。それを破るように僕は彼女に、こう提案していた。
「それじゃあ、うちに来るかい?」
そして今に至る。
彼女を放っておけなかった理由はいくつかあった。明日、警察に言った際、彼女はどうしたと問われた時厄介なことになるかもしれないとか、この寒空の下、放置することに良心の呵責を感じたとか。いろいろと理由はあげられる。ただ、そうした理由以上におそらくあの時の、過去が関係していると思った。
思い出しそうになった余計なことを振り払うように水を含む。ちょうど、彼女がシャワーを浴びて出てきた。残念ながら女物の服はこの家に存在しない為、僕のシャツを貸していた。少し大きめなそれを着て、彼女は出てきた。
「あの、あがりました」
「あ、ああ。ベッド、使っていいよ。僕は床で寝るから」
彼女は小さく頷いた後、ベッドに腰かけた。それなら僕もシャワーを浴びようか。そう思い立ち上がったとき、彼女がこう問いかけてきた。
「……どうしてですか?」
「え?」
「この状況はどうしてですか?」
不思議な言葉で、彼女は僕を見上げてそう問いかけていた。その言葉に答える言葉は漠然とはあった。ただ、うまく説明できる気も、する必要性も感じなかった。
「理由はあるよ。ただ、言うほどのことじゃないから」
僕の言葉に、彼女は何かを納得したのだろうか。小さく頷いて、ベッドの上で横になった。よくわからない説明だっただろうに、納得したのか。まあ、それはお互い様か。僕からすれば彼女も少しよくわからない。母親が死に、家がない。それにしてはひどく落ち着いている。
そのことを問いかけようかと思ったけれど、何も言わなかった。今日だけの関係だと思ったからだ。明日、警察に行けばそれでこの関係はおしまいだ。深入りする必要はないだろう。そう思い、僕はシャワーを浴びるため、浴室に向かった。
気が付くべきだったんだ。この時点で僕はすでに深入りしているということに。もう後戻りができないということに。僕は気が付くべきだったんだ。
「国籍がない?」
翌日、どうせ目的は同じだからと二人一緒に警察へ行ったのだが思ってもいない状況が待っていた。
「そうだ。彼女、最川イマと名乗っている女性は調べた結果、どの国にも国籍がない」
そこは取調室の一室で、目の前には警察に勤めている叔父が座っていた。元々この件には関わっていなかったらしいが僕が昨日名前を出したせいで、召集されてしまったらしい。申し訳ないことをしたと思いながらも、叔父に僕は問いかけた。
「その、どういうことですか。確かに彼女の母親は外国人に見えました。その点で言えば彼女もどこか日本人には見えない外見でしたが。だからといって国籍がないということにはならないでしょう」
叔父は僕の問いかけに唸りながら首を振った。
「申請を出さなければ国籍は手に入らない。現に日本においても一万人ほどの無国籍者は存在する。ただ、彼女が一体どうしてそういう状態になったのか、彼女の母親がどうして死ぬ羽目になったのか、それはまだわからない。今後調査が必要だ」
その関連で昨夜の状況についてより詳細な取り調べを受けることになった。僕と同時並行で彼女も取り調べを受けており、この彼女の話からようやく昨日の状況の詳細が明らかになってきた。本来であればそれは関係のない者が知ることはできない情報であり、何より無関係の僕にはその情報は知る必要のないことだった。なのに、その情報を僕は叔父に頼み込み、聞きだした。……彼女との関係を保ち続けようとした。
そうして僕は自らの選択で彼女と関わりを持つことになり、知ったのだ。彼女のこれまでを。
彼女の母親は娼婦だった。元々生まれた国――叔父は国までは教えてくれなかったが、彼女の見かけからアジア系であろうことは推測できる――で個人で売春をやっていたようだ。特に団体などに所属することもなく、それ以外に生きていく術を知らなかった。
そんな中、ある男が何かの折に彼女の元を訪れ、彼女を買った。それだけであれば一夜の関係で済んだが、男は女に日本に来ないか、と持ち掛けた。そこで結婚しよう、とも言ったとみられる。そこに恋愛感情があったのかどうか、それはわからない。
ただ結果として彼女は男の手引きで日本に渡った。
元々売春は生きていくための手段でしかなく、そこから抜け出せるのなら何でもよかったのだろう。女は喜んで日本にやってきたが、そこで待っていたのは男の家で行われる甘い結婚生活ではなく、八畳のボロアパートだった。
男は女に結婚の準備をするから、しばらくここで生活していろ、と告げたらしい。そして生活するための手段として、男は知り合いのキャバクラを紹介した。そして時たま男はその部屋を訪れて、女を抱いていたようだった。
男にとって女は少し手の込んだ遊び相手でしかなかったのだ。
ただ、それでも女は満足していたようで、売春で稼ぐ以上の金をしゃべるだけで手に入れられるということで喜んでいた、と彼女の同僚は言っていたそうだ。
当然、言語の壁はあったようだが、時間がそれを解決してくれたそうだ。
しかし、そんな生活がいつまでも続くわけがなく、ある時、女は一人の子供を身ごもった。当然ながら男の娘だった。それが彼女、最川イマだ。
この事実を伝えた時から、男は部屋を訪れなくなった。逃げたのだ。
それから彼女の母はひどく苦労したようだ。金回りがいいとはいえず、見ず知らずの土地で子供を産んで、女で一つで育て上げた。どうもこの際、出生届などの書類提出を知らなかったことにより、イマの国籍は存在しないらしい。同様の関係で、彼女は学校にも通っていなかった。そのことからも察せられるようにその生活は非常に大変だったようで、家賃の滞納をしていた。数日前、アパートを追い出され、ホームレス同然の生活をしていたらしく、いつまでも続く生活ではなかった。
そして、その限界が来て、彼女の母親は倒れ、亡くなった。
この事実から事件性は否定された。ただ彼女の国籍がないことについては問題が残った。が、調査時に彼女の血縁上の父親に関して居場所が分かった。
日本国籍は、
出生の時に父または母が日本国民であるとき、
出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であったとき、
日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき、
のいずれかに該当すれば成り立つ。そして彼女の場合、父親が日本国籍保持者だ。ただし、上記条件に加えて、父親に関してはそれが法律上の父親である必要があり、それが結婚していない関係だった場合、父親が娘を認知しなければいけない。
いくつかの問題を孕みながらも、最終的には男は彼女を娘として認知、彼女は日本国籍を取得した。同時に、父親の親戚に頼み、彼女の後見人となってもらった。
気が付けばそうして僕は彼女に深入りしていた。事実をこうして列挙しただけでも何故、と思わされる。僕自身、よくわからない衝動に突き動かされた行為であり、その理由をうまく説明することができず、理解できていなかった。
そして彼女に関わった僕自身がそんな状態であれば、その渦中にいる彼女自身が疑問に感じることは明白だった。
「……どうしてですか?」
それは彼女が初めて僕の家に来た時、問いかけた言葉と同じモノだった。
今、彼女は僕の部屋にいる。本来、彼女の部屋は隣の部屋だ。
これまで義務教育を受けていない彼女は今年の四月から近くの中学校に編入することになっている。学校との距離、頼れる相手がいるということで、先日隣の部屋に引っ越してきたばかりだった。
そうした状況で彼女は僕の部屋を訪れて、何も言うことなく、玄関口で僕を見ていた。そして、ようやく出てきた言葉がそれだった。
「そう、だよね」
説明する言葉を持たず、沈黙を選ぶことしかできない。
問いかけることしかできない彼女と答えることができない僕。
ただ、彼女には知る権利があると思った。同時に知ってほしいと思っていた。僕の中にある言葉にできない何かを。拙い言葉で、形の無い感情に形を与えるように僕は言葉を紡いだ。
「違うと、思ったんだ」
「違う?」
「そう。あんな終わり方。君のお母さんの最後。ああいう終わりは違う、間違えているって。そう思った。それで、君にはあんな終わり方をしてほしくないと感じた」
「それが、私を助けてくれた理由ですか?」
彼女のその問いかけに、僕はよくわからず、首を捻った。
「どうだろう。そうしたことを思ったのは確かだけど、本当はもっと単純だったのかもしれない。……多分、君に笑ってほしかったんだと思う」
「私が笑う?」
僕の言葉に今度は彼女がわからないという表情で首を捻る。そんな彼女に、僕はゆっくりと自分の思いを確かめるように、過去を思い出しながら説明する言葉を紡いだ。
「昔、一人の少女を救った友達がいたんだ。
そいつは俺の幼馴染で、子供の頃からよく一緒に遊んでいて。今も親友で。そんな奴が中学の時、学校からの帰り道にある公園でずっと一人でいる少女を見つけたんだ」
脈絡なく、突然始めた僕の話を、彼女はよくわからないといった表情で見ていた。ただ問いかけることはなく、黙って僕の話を聞いてくれるようだった。彼女のその意思を確認して、僕は話を続けた。
「その子はずっと一人だった。一人で、いつも暗い顔をしていた。俺はそれを見て、その子はそういう顔なんだって思った。つまり、俺の中で彼女はいつも暗い顔をしているものだって、その時そう思ったんだ。
だけど、その友達が彼女を助けたんだ。彼女のその暗い顔には理由があってその理由から彼女を救い出した。その子はその後、そいつの義妹になって何度か会う機会があった。
それでその時に見たその子の顔は笑顔だったんだ。その顔は幸せそうな笑顔で、俺には一瞬その子が誰なのかわからなかった。でもやっぱりその子はあの時、公園でいつも一人で、俯いていた暗い顔のあの子なんだ。
それを見て、思ったんだ。彼女はこんな顔もできるんだって。
そして最初に君を見たときこう思ったんだ。この子にも笑ってほしいって」
言いたいことがうまくまとまらなかった。ただ言葉を紡ぐうち、自分の気持ちがはっきりとしてきていた。シンプルになり始めるその言葉を紡ぐために、俺は言葉を続けた。
「初めて君を見たとき、酷く虚ろな表情をしている子だと思った。言葉は短く、シンプルで、声音に感情が無くて、酷く無機質で、起伏みたいなものを何も感じられなかった。
母親が亡くなって、家も追い出されて路頭に迷っているのに、君は焦った表情一つせず、平然と答えて、その様にはどこか、世界がこんなものだって思っているようで虚しかった。それからいろいろあって国籍を取り戻しても、学校に通えるようになって、自分の生活を取り戻しても、君は何も変わらなくって。
最初から君のイメージは変わらなくて、それは今も続いている。ただ、最初にそれを理解したとき、思い出したんだ。親友が助けた彼女のことを。彼女の笑顔のことを。
そして思った。もしあの時みたいに、あいつがやったようなことをすれば、あいつが彼女を助けたみたいにすれば、君も彼女みたいに笑ってくれるのかなって。
……それはつまり、俺はずっと君に笑ってほしいって思っていたってことで、」
言葉がうまく出ない。まとまらない言葉を並べたてながらも、それでも最後のその言葉だけは形にする必要がある。俺が彼女と関わろうと思った理由。それをどうにか形にまとめ上げ、その言葉を口にした。
「俺は、君のことが好きなんだと思う」
彼女に思いを告げたのは彼女と出会ってから一年後。桜が色鮮やかに咲き誇っていた四月のことだ。
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