第6話

 彼女をアパートに送り届けた後、少し考えていた。彼女の言葉やその態度について。

 初めて彼女を見たときから感じていたことではあるが、やはりどこかちぐはぐな印象を受ける。

 通常、自殺願望があり、自殺未遂をしでかしたということはその人がその時点において抱え込んでいるあらゆるものに絶望しているということを指す。それは他者からどう見えるかは別として、本人の中では確かな事実だ。現在に幸福は無く、未来においてそれが幸福に転じる希望もない。世界のあらゆるものが自分に悪意を成す敵であり、味方はおらず、ゆえに救いはない。そうした絶望状態だからこそ、人は自死という選択を選ぶ。

 ただ、彼女の今の状況を簡易的に見た限り、そうした状況に陥っているとは思えない。カウンセラーという存在を嫌悪することはなく、会話を拒むことはない。問いかけられれば答え、何よりカウンセリングを拒否してはいないのだ。事実だけを抜き出せば、彼女は自らの回復を願っている、求めていると捉えられる。しかし、握手は拒み、何より彼女自身からそうした言葉や積極性は見受けられない。けれど、彼女が最後に呟いた問いかけと言葉は積極性と捉えられるか?

 このカウンセリングの目的は彼女が自殺に至った動機、問題を明らかにして、それを解消、解決、最終的に通常の生活を送れるようにすることだ。そのためには彼女について知らなければいけないが、現状の情報だけでは何もわからない。

 もう少し彼女について、特に自殺時の状況に関して知っておくべきだろう。そう思い、僕はユーロモーション管理局、昨日最初に案内された信一の職場に足を傾けた。

 ビルの内部は少数の人が忙しく業務に奔走していた。到着して受付で要件を告げると、忙しいから部長室に直接来て欲しいということだったので、こうして案内板を元に部長室を目指している。忙しそうにしている人々に当たらないようにと気を付けながら、ようやく部長室にたどり着けた。ノックをすると、どうぞ、という声が聞こえたので中に入った。

「……酷いな」

 中は書類の山だった。応接用の机とソファーが一つ。その奥に仕事机があり、そちらも書類の山が築かれていたが、絶賛処理中のようでいくつかの資料を眺めながら信一が座っていた。僕の声に気が付いて、書類を山に戻した。

「これでも片付いているほうだ」

「いや、どこからどう見ても片付いていないだろう。パソコンはないのか?」

「ここに入る際、電子機器の持ち込みを禁じられただろう? それは何もゲストや居住者だけに適応されるわけではない。……まあ、それは冗談で一応パソコンはある。だが、基本的にユーロモーション内では外部ネットワークへの接続が禁止されているんだ。その関係でメールを送れないこともあり、こうして書類が多くなり、溜まっていく」

 信一の言葉に、ここに入る際の携帯電話、パソコンなどの電子媒体を全て入り口で預けなければいけないことを思い出した。機密保持の観点からなのだろうがかなり驚いたものだ。しかし、まさか職員までもとは。

「ちなみに入場の際、携帯も預けろと言われたんだが、ここには外への連絡手段って無いのか?」

「さすがにそれはあるさ。この建物に公衆電話が五台ほど。だが、携帯はない。これは局員もそうだ。ただ局員同士の連絡手段としてPHSを持たせている。だから外部に連絡する場合、公衆電話を使うしかない。ちなみに公衆電話でも硬貨は使えない。支払いはすべてユーモだ」

「なんてアナログな」

 PHSって今は何年なんだ。いや、けれど専用のカードでしか使えない公衆電話はある意味最新か?

 信一の言葉に呆れながらそんなどうでもいいことを思った。彼もそう思っているのか、笑いながら、

「まあ、仕方ないさ。この国はいまだコンピューターの扱いが苦手なようだからな。一度構築されたシステムを変えるということが苦手なんだ。……ただそれは一度構築されたシステムはなかなか変えられない、ということでもある。一長一短だよ、何事も」

 疲れを見せながらも、そうした言葉を言えるということはそれなりには元気なようだ。その様子に安心して、ソファーに座った。

「で、何しに来たんだ? まさか暇だからしゃべりに来たわけじゃないよな」

「まさか。どうも忙しいようだから手短に聞くよ。……雨宮小糸さんが自殺をしようとした際の話を詳しく聞かせてもらえないか?」

「彼女が自殺しようとした際、つまり状況が聞きたいと?」

「ああ。より正確に言うなら、彼女は本当に自殺しようとしたのか、ということを聞きたいんだ。さっき、彼女と話をしてきたがどうもしっくりとこないんだ。昨日、初めて話した時からそうだった。自殺未遂をしたというには落ち着きすぎていると感じていた。当初それは彼女があらゆる事柄に対して無関心なのだと思っていたが、それにしてはこちらが問いかければ答え、カウンセリングを拒否することもなかった。自殺をするようには見えない、というのが今の印象でね。

 だから聞きたいんだ。彼女は本当に自殺しようとしたのか。それは自殺ではなく、本当に未遂だったんじゃないか、と」

 僕の話に何かを悩むようにしながら信一は聞いていた。そして何かを思い出したのか、書類の山を漁り、一枚の紙を取り出した。

「確かに、お前の予想は当たっているかもしれない。これは彼女の体内チップ、ロスティアの記録だ。位置情報や彼女の健康状態から問題が発生した場合、このロスティアから局員に連絡がいくようになっている。

 それでだ、自殺未遂時の記録では位置情報を利用して彼女がアパートから飛び降りようとしている際の時間が記録されている。これによると三分間ほど、ベランダで立ち止まっているようだ」

「それはどれくらい正確なんだ? 例えば外の景色を見るために外に出ても自殺未遂と判定されるのか?」

「いや、それは無い。彼女の場合、位置がベランダから宙に浮いている状態だったため自殺と判定された。手すりの向こう側に立って、身を投げ出そうとしながらも手すりを握っていた状態だったんだ。これは発見時の局員がそう証言しているから間違えはない」

「三分、か。微妙なラインだな」

 僕の言葉に信一が頷いた。

「自殺するための意思を固めているとも考えられるし、迷っているとも考えられる時間だ。果たして止められたから未遂になったのか、元々未遂だったのか、難しいな」

「ただ、その可能性はあるわけだな」

 彼女が元々未遂であった可能性。それを心に留めて、信一に礼を言った。

「ありがとう。とりあえず知りたかったことはそれだけだよ」

「大して役に立てなかったみたいで、悪かったな」

「いや、いいさ。また、何かあったら聞きに来るよ」

 そう言って立ち上がり部屋を出ようとした時、もう一つ聞きたいことがあるのを思い出した。振り返り、問いかけた。「そうだ、その公衆電話ってこの建物のどこにあるんだ?」


 公衆電話は管理局の一階にあった。カードを入れて、番号を押した。驚くことに相手はワンコールで出てきた。だというのに、

「光? 夜だけど……」

「どちら様でしょうか?」

 受話器からは義妹の辛辣な声が返ってきた。

「いや、どちら様って君の義兄だけど」

「さあ、携帯にさんざんかけたのに折り返しは無く、今日まで妹に心配をかけ続けた兄など、私は知りませんねえ」

 お前は僕の何なんだ。そう思いながらも、連絡を怠ったのは確かだ。携帯が使えないことを入る前にメールで送っておいたが、昨日直接伝えておくべきだった。

「あー悪かったよ。ただ、メールに書いてただろう? 携帯の持ち込みができないって」

「そんなことあるんですか? そこは電波が入らない絶海の孤島ですか?」

「まあ、当たらずも遠からずだな」

 ふざけた話をしていると溜飲が下がったのか、義妹は一度溜息を吐いた。

「ともかく、無事でよかったです。それで信一さんとは会えました?」

「うん、会えたよ。何かと忙しそうだったから、そんなに話はできてないけどね」

 そうですか、という彼女の優し気な声が聞こえる。その様子から一人でもしっかりやっているのだと思えた。まあ元々彼女が来てからは家事全般を請け負ってもらっていたからそれほど心配することはなかったのだが。

 電話の目的はこちらの状況を伝えることと義妹の様子を伺うことだったため、目的は達した。そろそろ切ろうかと思ったとき、彼女が少し声のトーンを落としながら、こう問いかけてきた。

「あの……それで、カウンセリングの方はどうですか?」

 仕事についての話であり、彼女としては問いかけにくかったのだろう。声はひどく遠慮がちだった。ただそうしてでも知りたかったのだろう。問いかけには力が込められていた。とはいえ、まだ始まって一日目だ。

「光、気になるのはわかるけど、まだ始まったばかりだよ。それにそう簡単に患者の内容を話せるものでもないしね」

「そう、ですよね。すみません」

 彼女は少し落ち込むように、けれど納得したようにそう言葉を口にした。ただ、その直後、「……ただ、どうしても気になってしまったんです。それで、もしかしたら何か私にもできるんじゃないかって!」

「……」

 彼女の言葉は僕らの過去に繋がっている。普段思い出すことはない僕らの関係性、その始まりの場所へ。彼女の問いかけはそれゆえだろう。元々ここに来る前、あの資料を見たときから、彼女は気になっていたのだ。自分と似た状況の少女を。けれど、

「光、彼女と自分を重ねてはいけないよ」

 ただそれはあくまで似ているということに過ぎない。外見的に同じであってもその内面まで同一であるとは限らない。

「そんな! 私は別にそう考えては……」

 光が僕の言葉に慌て、強い言葉で否定した。彼女の言葉に僕は優しくこう返した。

「わかってるよ。光がただ優しさで、彼女を心配してそう言ってるのは。ただ、彼女の苦しみは彼女のモノだ。君がかつて体験したモノとは似ていようとも違う。だから、君の経験で彼女を救えるかどうかはわからないんだ」

 光の言葉はただ単純に彼女、雨宮小糸のことを心配しての発言なのだろう。けれど、そこで彼女が彼女のことを同一視することは決して違う。彼女の苦しみはあくまで彼女のモノであり、光の苦しみは光のモノだ。光が救われた方法が必ずしも彼女にとっての救いになるとは限らない。人という生き物はそういうモノだ。……そこまで考えて、僕は思った。それは僕自身もそうだったのではないか?

「そう、ですね。兄さんの言う通りです。すみません、私……」

 光が申し訳なさそうにそう謝ってきた。けれど、謝るのはこちらの方だった。

「謝らなくていいよ、光。僕も、どうやらわかっていなかったみたいだから」

「? どういうことですか?」

「ごめん、僕も間違っていたんだ。それと、ありがとう。光のおかげで、どうするべきかわかった気がするよ」

 光はよくわからないような雰囲気だったが、最後に「助けになれたのでしたら、幸いです」と小さく、笑ってそう言った。

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