第5話

「改めて、今日から雨宮さんのカウンセリングをします、花菱夜です。よろしく」

「……雨宮小糸です。よろしくお願いします」

 挨拶と共に彼女へと差し出した右手は一瞥されただけで無視されたが挨拶は返してくれた。拒絶しているようでありながら、すべてを拒んでいるわけではない。どこかちぐはぐなその在り方を頭の片隅にメモして、右手は降ろした。握手しなくていいと思ったからか、彼女に少し安堵のような雰囲気がうかがえた。

 時刻は午前十一時。場所は昨日、信一と話をした公園だ。

 初回ということもあり部屋の中で、とも考えたが警戒されていることを考えればカウンセリングということを意識させないほうがいいだろうと思い、こうして外に出てきた。

 彼女と並んで、公園を散歩しながら話をする。

「まあカウンセリングだから、と身構えないで欲しいけど……そう言って警戒を解く人はいないよね」

「そう、でしょうね」

 やはり会話は成立している。話をしてくれる気はあるようだ。ならばゆっくりと関係を構築していこう。彼女の言葉に頷きを返して、言葉を続けた。

「うん。だから、と言うわけでもないけど、まずは自己紹介からしていければと考えている。お互い、今はまだ名前しか知らないからね。相手がどんな人間か知らなければ何も話せない。少なくとも関係を築くことは無駄ではないと僕は思うのだけど、どうだろう?」

「えっと……構いませんが、」

 彼女は僕の問いかけに少し悩み、「私、あまり話せることがありません」と答えてきた。自己紹介を嫌がってはいない。ただ自分が話せることが無いことを困っている。彼女の積極性を壊さないように気を付けて、僕は言葉を紡いだ。

「何でもいいよ。言いたくないことは言わなくていいし、言いたいことは言っていい。当然ほかに言いふらすことはしない。秘密は守る。……とはいえいきなりでは何も思いつかないだろうから、最初は僕からでもいいかな?」

「あ、もちろん、どうぞ」

 彼女の話を促す視線が僕を見る。拒否をするわけでも、嫌悪感を示すわけでもない。どちらかと言えば積極的にこちらの話を聞こうとする態度に見える。彼女のその様子を確認しながら、僕は話を始めた。

「それじゃあ、何から話そうかな。……まずは職業、は知っているように精神科医だ。医者になろうと思ったのは父がそうだったから。昔から人を救う、そうした父の在り方に憧れていてね。それで気が付いた時には医者を志したんだ。まあ、父は内科医だけどね」

「どうして内科医を目指さなかったんですか?」

「ちょっとね、子供の頃にいろいろとあって、利き腕をダメにしちゃってるんだ。日常生活に支障はないんだけどね」

「腕、ですか」

 彼女が存在しない自身の右腕を見つめながら、そう呟いた。気持ちとしては暗くなっているように見受けられるが、状態としては落ち着いている。この流れで彼女の失われた手について触れてみようかと考えたものの、時期尚早として話を続けることにした。

「まあそうした理由もありながらそれでも医療に関わりたくてね。それで精神科医を選んだんだ。人と関わり、直接ではないかもしれないけど人を救える、助けることができる職業だと思ってね」

「……失われた、と思わなかったんですか?」

「え?」

 彼女が突然立ち止まり、不思議な言葉を呟いた。彼女に合わせて立ち止まり、視線を向ける。向かい合う形となり、彼女が言葉を続けた。

「元々、お父さんと同じ職業に就こうとしていたんですよね? それで腕がダメになってその道が断たれた時、すべてが失われてしまった……カラッポになってしまったって、そう思わなかったんですか?」

 その問いかけは初めて聞く彼女の思いが籠った言葉に感じた。おそらくその問いかけに彼女の今を理解するための何かがあるのだろう。慎重に、言葉を選びながら僕は彼女の問いかけに答えた。

「……そうだね。確かに最初、目の前が真っ暗になったことを覚えているよ。ただしばらくして思ったんだ。僕がやりたかったことは父のような医者になることじゃなくて、父がやっていたこと、人を救う、ということだったんだって」

 僕の答えに彼女はどう思ったのか。詳しくはわからなかった。ただそれが彼女にとって納得のいくものではなかったのだろう。低い声音で、彼女はこう言葉を紡いだ。

「そう、ですか。……私にはそう思えるものが何もないです。カラッポなんです、私」

 呟く彼女の言葉は何かを語ってくれるものだろうかと考え、僕は沈黙を選んだ。けれど結局彼女はその日、それ以上の言葉を何も語ってはくれなかった。

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