第5話

 夏休みの特別な思い出は灯と海に行ったことと、司と大阪まで行ったこと、そのふたつだけだった。

 ただそれが不満かと問われたらそうではないと答えられる。

 友達を作る気のないわたしにとっては充分な思い出だ。

 司とのメールは相変わらず交わし続けている。

 今時のチャットアプリの連絡先を交換しないままでいたのは、わたしがチャットアプリを使用していなかったからだ。

 ただ、もしわたしがチャットアプリを使用していても、わたしたちは連絡先を交換することはしなかっただろう。

 『共犯者』は捨て垢メールで連絡を取り合うくらいの距離が丁度良い。

 灯に関しては、やはり相変わらず謎のまま。

 会うことがないのだから当然と云えば当然なのだが。

 夏休みの間、わたしは何本左腕に線を刻んだか判らない。

 ただ、可哀想なくらいズタズタになってしまったことは確かだ。

 わたしなんかの左腕にならなければ良かったのにね、なんて他人事のようなことを思った。

 二学期に入っても、一学期と同様灯との奇妙な関係は続いた。

 教室ではほぼ他人。だけど特等席では秘密を共有するかのような存在。

「灯さん……わたしと一緒に居て詰まらなくないの」

 ある日ぽつりと呟いたそれは嫌味っぽくなかったか。

「詰まんなくないけど?」

 何も気にしないような答えに、どうしてと問いを重ねる。

「んー、答え難い」

「どうして」

「いや、云ったら気持ち悪がられる」

「そこまで云ったんだったら教えてよ」

 何を聞いたらわたしが気持ち悪がるのか、余計に知りたいじゃないか。

 詰るように唇を尖らせてから、ハッとする。

 慌てて「別に良いけど……」と無関心を装う。

 灯のペースにハマってはいけない。

 わたしはあくまで灯とはただのクラスメイトという知人。不必要な詮索は御法度だ。

「ねぇ、陽和ちゃん」

「なに」

「海、楽しかった?」

「………」

「私はね、楽しかったよ。陽和ちゃんと海行ったの」

 笑顔の灯に、わたしは「そう」としか返せなかった。

 灯は相変わらずわたしに笑顔を見せた。

 眩しい、太陽のような笑顔を。

 そんな笑顔に照らされれば照らされる程、わたしを包む陰は濃くなるばかりだった。

 十月の学祭は準備期間を含め当日と辟易しつつも何とか乗り越えた。

 灯との関係は相変わらず。

 近過ぎず遠過ぎず、友人と知人の間を彷徨う奇妙な関係。

「ねぇ陽和ちゃん、ウチの学校天文台があるの知ってる?」

「知ってるよ。だってこの辺の公立校で天文台があるの、ウチの学校だけでしょう?」

「じゃあさ、今度の土曜日に天文部が天文台で天体観測するのは?」

「そうなの? それは知らない」

「一般生徒も入れるんだって」

「へぇ」

 先に続く台詞は判った。

「一緒に行かない?」

 ほら、やっぱり。

「……でも、門限が」

 明確な門限なんてウチにはなかったけれど。

 そういうのはもっと仲の良い子と行けば良いんじゃないか……と云い掛けてやめたのは前科があるからだ。

「わたしと一緒に行ってもきっと楽しくないよ」

「何でそう決め付けちゃうかなぁ」

「だって……」

 確かに星空を見るのは好きだけれども、だからといって詳しい訳ではないし、灯がわたしと星を見て楽しめるとも思わなかった。

「これは立派なか課外授業だよ。門限くらい許してもらえるよ」

 それはまあ、そうなのだが。

 それでも渋るわたしに、灯はじゃあ、と顔の前で手をパチンと合わせた。

「一緒に行って欲しいの。お願いします」

「…………」

 そんなに天体観測をしたいのだろうか……。

 しかしだから何故わたしを、というところなのだが。

「……判った」

 頷いてしまったのはどうしてだろう。

 灯の前だと頑なな自分の意志がゆらゆらと揺らいでしまう。

 友達にはならない、という意志だけは絶対的に揺るがないけれども。

 土曜日は午前授業だけ。天体観測は夕方六時集合だったから、わたしは一度家に帰った。

 もうすっかり長袖でもおかしくなくなった季節。

 セーターの左袖を捲くって淡く自嘲する。

 こんなの見たら幻滅するだろうな。否、された方が楽なのかも知れない。

 灯の隣にわたしは相応しくない。

 わたしのような卑屈な日陰者は灯の隣に居るべきじゃない。

 そう思ったら自分がとてつもなく嫌になってきて、わたしはカッターを握り締めた。

 夕方何食わぬ顔で学校の昇降口に向かう。

 灯は先に到着していた。

「良かったー、来てくれた」

「約束、したからね」

「うんうん」

 満足そうな灯はわたしの左腕のことなんか知らない。

 天体観測は七時頃から行われた。

 初めての天体観測は少なからずわたしの心を弾ませた。

 灯もそのようで、星を見る前から目を輝かせていた。

 今日は何とか流星群の日なのだそうだ。

 こんなに早い時間から見られることは滅多にないから学校で天体観測を行えるようにしてもらったのだとは地学の教師談。

 集まった生徒は二十人くらいか。

 代わる代わる天体望遠鏡を覗いては感嘆の溜息を洩らす。

 灯も例外ではなかった。

 わたしより先に天体望遠鏡を覗いた灯は、次にわたしを手招いて天体望遠鏡の順番を譲ってくれた。

 五分程覗いていたら、星がひとつだけ流れた。

 それで満足したわたしは、また次の生徒に順番を譲った。

 流れ星に願いを乗せると叶う、というのは最早幼稚園生でも知っているようなこと。

 わたしは星に願った。

『早く死ねますように』

 短く、ただそれだけを。

 天体観測は九時までの予定だった。

 全員が星を見終えたら天文部の顧問による星にまつわる話が続く予定だ。

 それが果たして楽しいのかどうかは判らなかったけれど、参加してしまった手前聞かずに帰るのは失礼だろう。

 ちょいちょい、と袖を引かれて振り向けば、灯の笑顔。

「流れ星、見れた?」

「……うん」

「何かお願いした?」

「……うん」

「何お願いしたの?」

「……秘密」

 へらり、躱すように笑ったら、灯はそれ以上追及してこなかった。

 その代わりに、なのか。灯は不意にわたしの左腕を掴んだ。

 いっ、と微かな悲鳴を灯は聞き逃さなかったとばかりに少々険しい顔をして見せた。

「先生の話、サボろっか」

「……でも」

「もっと大事な話を聞かなきゃいけない気がする」

 大事な話、だなんて。そんな話はない。

 駄目だよ、って肩を竦めたら、灯はまた強くわたしの左腕を掴んだ。さっきよりも少し強く。

 その親指が丁度わたしがさっき印した痕を捉えていたから。わたしは唇を噛んでそっと頷いた。

 後から思えば頑なに拒否すれば良かったのにと思わなくもない。

 こっそりと天文台を出て、ひっそりといつもの場所に行く。

 埃臭さが落ち着く場所だ。

「話って、何?」

 先取った台詞に、灯は眉を顰めた。

「ずっと、左腕さすってたね」

「……そう?」

 それは無意識だった。本当に。自覚はこれっぽっちもなかった。

「痛いの?」

「……」

「ねぇ、左腕見せて」

「……やだ」

 その拒絶は灯にすべてを打ち明けたも同然だっただろう。

「怒らない。馬鹿にしない。否定しないから見せて」

 薄暗い夜の中、踊り場の窓から薄っすらと射し込む月明かりがわたしたちをほんのりと照らす。

 暫しの沈黙。ややあって沈黙に負けたのはわたしの方だった。

 そろり、セーターの袖を捲くって見せる。

 おざなりに貼り付けたガーゼは淡く赤が滲んでいた。

 灯は特段表情を作るでもなく、そっとわたその左腕のガーゼに手を当てた。

「痛いね」

「……痛くないよ」

 嘘じゃない。本当に痛くはないのだ。

「痛くないことが、痛い証拠だよ」

 意味が判らなかった。

 月明かりはわたしの白い腕の醜い傷を暴露するように照らしていた。

「いつから?」

「覚えてない」

「自分が、嫌?」

 何故そんなことが判るのだろう。

「どうしてそんなに自罰的になっちゃうの?」

 そんなの……そんなのは、だって……。

「わたしは死んだ方が良いから」

 だけど死ぬ勇気がなくて傷を付けるに留まっているだけで。

 本当ならさっさと動脈を確かめて切り刻めば良いのに。

「何で死んだ方が良いの?」

「……死ねって云われてたから」

「誰かに云われたらそうするの?」

「死にたいのは、自分の意志」

 消えたい、死にたい、もう存在していることすら嫌なのは最早誰に云われたからではなくて、単純に自分がそう思うからだ。

 不必要な存在は、燃えるゴミのように捨てられて然るべき。

「わたし一人が居なくなったって、世界は何も変わらないし、歯車の噛み合わせも狂わない」

 そんな社会の中で生きていることが苦痛で仕方がないのだ。

「陽和ちゃん」

「なに」

「私は、陽和ちゃんが居なくなったら困るよ」

「なんで」

 返した言葉は棘を孕んだ口調になってしまった。

「だって、好きだから」

 意味が判らなかった。

「好きって、灯さんはわたしのことを、好きって云うけど……わたしのどこをどう見てそんなことが云えるの」

 いよいよ咎めるような口調になってしまったわたしはきっと腹を立てたのだろう。

 何も知らない癖に、わたしを好きだと云う灯に、いっそ無責任ささえ感じたのかも知れない。

「好きって想いに、理屈はないよ」

 いつになく真面目な声に言葉を詰まらせる。

「敢えて云うなら……一目惚れしたから、かな」

 その台詞は普段のように明るい口調だった。

「一目惚れ、って……」

 灯は女で、わたしも女だ。

「あ、でも一目惚れって云っても恋愛的な意味じゃなくてね」

 そう云われて、だったらその言葉は使い方が間違っていやしないだろうかなどとぼんやり思う。

「理屈抜きに、ただ単純に陽和ちゃんのことが好きだと思ったから、わたしは昼休みに陽和ちゃんに会いに来るんだよ」

 一緒に居たいな、って、そう思うから。

 だからね、と左腕を柔らかく撫でられる。

「陽和ちゃんが痛い思いをしたら、私も同じ部分が痛くなる気がするんだ」

 それは腕だけじゃなくて、心もね。

 続いた言葉にそんなの後付けだ。偽善だ。そう思うのに、わたしの視界は微かに揺らいだ。

「陽和ちゃんがわたしを友達にしたくない気持ち、判るとは云わない。だけど……」

 そこで一度言葉を区切って、灯はわたしを真っ直ぐに見詰めた。

「友達じゃなくても、大事な人が存在する場合もあるっていうことは、知っておいて」

「…………」

「ねぇ、私もね、流れ星見たよ」

腕から滑る手が私の手の指に絡まってくる。

「何をお願いしたか教えてあげようか?」

 別に要らない、と思った。それでも灯は小さく笑って続けた。

「陽和ちゃんが幸せになれますように」

「…………」

 何だそれは。何で自分のことを願わないんだ。

 わたしに幸せなんて、訪れちゃいけないのに。

「私に陽和ちゃんの行動を制限する権限はないって判ってる。でも、そこまで自罰的にならなくても良いんだよ」

 陽和ちゃんの存在理由は私の傍にあるから、と。

 何だ、それじゃあまるで告白みたいじゃないか。

「私の勝手だけど。私は陽和ちゃんに存在していて欲しい」

 私って我儘だから。悪戯めかしてそう云う灯に、本当に我儘だと思った。

 そんな我儘をわたしが聞かなきゃいけない理由はない。

 ない、けれど。

「……そう」

 俯いたまま、わたしは上履きの爪先を見下ろした。

 少しだけそうしていて、灯はわたしの手を軽く引いた。

「そろそろ先生の話終わるかもね。帰りの点呼あるかも知れないから戻ろうか」

 その言葉にわたしは素直に従った。

 その夜はもうカッターを握ることさえ億劫だった。

 ベッドに転がって無意味に傷を眺める。

「汚い腕だ」

 こんな腕を見ても嫌悪感を示さなかった灯が不思議だ。

 わたしならきっと嫌なものを見てしまった、という顔をしてしまうだろう。

「好き……一目惚れ……」

 云われた言葉を反芻する。

「存在理由、か……」

 そんなものどこにもないと思っていたから、少し……いや、大分面食らった。

 それはきっと、本来のわたしが希求して止まなかったものなのだと思う。

 けれども、それをわたしがこの手にして良いのだろうかという疑問は拭えない。

 否、自分はそんなものを手にしてはいけないのだという思い込みがあった。

 司には大抵のことは何でも話すわたしだったけれど、この夜のことは何となく云えなかった。

 すじこさんにも、余計なことを云われたくなくて、このことは私の心の中に留めるだけにした。

 週明けからはまたいつもの日々が戻ってきた。

 灯は傷のことに一切触れてこない。

 今まで通り、昼休みに会いに来る時は他愛ない話をしながらコーヒー牛乳を啜っていた。

 朝の風が頬を鋭く引っ掻くようになってきた。

 もう期末試験の時期だ。

 きっと今回も灯が一番を取るだろう。

 わたしは三番か四番を取るに違いない。

 その予想は見事に当たった。

 もうこの時期の一年の勉強は学んでいないだろうに、灯の成績は依然としてトップ。元より頭が良い証拠だ。それは話をしているだけでも頷けた。もう成績で僻むことはなかった。

 終業式はクリスマスだった。

 だからといって何がある訳じゃない。高校生にもなって、サンタはやってこない。

 終業式を終えて冬休みの課題を貰って「さようなら」の挨拶をする。

 昇降口を出たすぐのところで、背後から名前を呼ばれた。

「灯、さん?」

 振り返れば、にこにこ顔の灯がわたしを手招いた。

 何かと近寄れば、手を出してと云われる。

 ミトン型の手袋をはめた右手を出したら、トン、と落ちてきたのは小さなサンタの赤いブーツ。

上部のメッシュ部分からチョコレートのパッケージが透けて見えた。

「メリークリスマス」

 花の咲くような笑みに、わたし何も持ってないよと返そうとしたら、私があげたいだけたからと強引に握らされた。

「良いお年を」

「……灯さん、もね」

 じゃあまた新学期にね、と校舎へ戻って行く灯の背中を見詰めながらわたしは何とも云えない気分になった。

「良いお年を、か……」

 わたしは彼女に新年の挨拶をすることはないだろう。

 だって、わたしはお年玉を貰ったらすぐに司と大阪まで心中しに行くのだから……。

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