第3話

 灯は相変わらず週に二、三度わたしと昼休みの三十分くらいの時間を共に過ごした。

 かといってわたしたちが特別親しくなることはなかった。

 否、わたしが仲良くなる気を見せなかっただけだ。

 灯からしてみれば何故? と思うところだったかも知れないが、そこは敢えて深く掘り下げられなかった。こういうところはまあまあ好ましいと思う。

「陽和ちゃん、化学一番だったの凄いねー」

「灯さんこそ英語と現文一番だったじゃん」

 灯は実力テストの結果通り、やはり勉強が出来た。クラス内の平均順位はもちろんのこと、学年の順位も一番。

 お陰でわたしの順位は想定内のひとつ、ふたつ下。

 思わず舌打ちせずにはいられない自分は醜い。

 まあ、昔からそうだ。何事においても一番にはなれないのがわたしなのだ。

 とても、とても悔しいけれど。

「陽和ちゃんは家で結構勉強してる派?」

「あんましないかな……予習が必要な英語とかくらいだけ……」

 それは嘘じゃない。わたしは家で勉強をするのが好きじゃないから課題やら絶対必要な予習がなければ家では勉強しない。学校の定期試験は授業さえまともに出ていればどうにかなるというのがわたしの信条だ。

 きっと灯もそうだろうと思って特には訊き返さなかった。

 普通の友達なら、きっとここで訊き返して話を繋げるのだろうけれど。わたしたちは友達じゃあない。

 だがしかし、と思う。それならわたしと灯の関係にはどんな名前が付くのだろうか、と。

 クラスメイト、ではある。そんなクラスメイトの中でも一番交流の深い灯はわたしにとって何という存在になるのだろう。

 出会ってもう二ヶ月が過ぎていたけれど、連絡先は交換していないまま。

 ただのクラスメイトというには少々距離が近く、だからといって友達とは云い切れないこの関係は不思議な関係だ。

「陽和ちゃん、夏休みの予定は?」

「特にないかな……」

 お弁当箱を片付けながら返せば、そっかあと灯が体を伸ばす。

「ね、一日だけでもどっか遊びに行かない?」

 行かない、と即答しかけて止めたのはどうしてだろう。

「例えば、どこに?」

「ん〜、夏らしく海とか?」

「わたし水着持ってないよ」

「あ、私も持ってないや」

 提案しておいてそれはないだろう。

「あー、でもほら、朝早い海とか!」

 早朝の海って静かで結構良いもんだよ、と笑顔を咲かせる灯に、早朝の海になんて行ったことがあるのかと思わず問う。

 だってこの辺りに海はない。

「おばあちゃん家が海が近くてね。夏休みに行くと朝早くに散歩しに行ったりするんだ」

「……なら、おばあちゃん家に行った時に行けば良いんじゃ……」

 小さなツッコミに、灯は右手の人差し指を左右に振った。

「陽和ちゃんと行きたいの」

「何で?」

「んー? 何となく」

 ほらだって私陽和ちゃんのこと好きだし。

 咲いたままの笑顔が眩しい。眩し過ぎて網膜が灼けそうだ。

 それにしたって、わたしのことが好きだから、というのは理由になっていない気がする。

「ね、アオハルしに行こうよ」

「アオハル?」

「せいしゅん」

 あぁ……判り難い云い方をしなくても良いじゃないか。

「高一の夏は一度きりだぞ!」

 ま、私は二回目だけどね、とおどけて見せる灯の声にほんの少しだけ切なさを感じた。

 本来なら高二の夏休みを過ごしている筈だったのだから。

「そうだ……灯さん、前のクラスメイトとは遊ばないの?」

 それは訊いてはいけないことだと気付くのは一瞬の半分遅かった。

「皆クラス別になっちゃって、それぞれ仲良い子出来ちゃったみたいだからさー」

「あ……」

 ごめん、という言葉は笑い声で掻き消された。

「でも自分もクラス別れてたらどの道そうなってただろうからねー。それに、個別に連絡取ったりは全然してるよ。夏休みも遊ぼうとは云ってるし」

 それはそれ、これはこれ、で。私は陽和ちゃんと遊びに行きたいんだけど、一回だけでも駄目?

 小首を傾げる小動物的仕草にはどこか狡さを感じる。

 ね、一回だけ、と。頻りに繰り返す灯の真意は一体どこにあるのだろう。

「……判った」

 一回だけね、と。わたしは灯の熱意に折れて夏休みの一日を灯と共に過ごす約束をした。

 その晩わたしは久し振りに左腕をずたずたにした。

 腕の下に敷いたノートにはボタボタと赤錆色が水溜りを作っていく。

 ばか、ばか、ばか。

 わたしの馬鹿。大馬鹿野郎。

 例え友達でなくても、ちょっと苦手だなと思っている人相手にでも失言は許せない。

 灯が気にしていなくても、わたしは大いに気にしてしまう。

 前のクラスメイトは、だなんて馬鹿な発言も良いところだ。

 だって前のクラスメイトと懇意にしているならお昼にわたしに会いになど来ないだろうから。

 もし、わたしに会いに来ない日に前のクラスメイトとお昼を一緒に食べていたとしても、あの場であの問いはない。

 自分の無神経さが嫌になった。

 わたしはいつも余計なことを云う。

 だからあまり人と喋りたくないのだ。

 余計なことを云って無為に人を傷付けてしまうことがあるから。こういうところもほら、イジメられていた原因のひとつになる。

 わたしには人を思い遣る心が足りない。

 ああ、ああ、嫌だ、嫌だ。わたしなんか嫌いだ。大嫌いだ。わたしなんか居なくなれば良いのに。わたしなんか死ねば良いのに。

 ごめんなさい、と初めて灯に対して思った。

 やっぱりわたしと関わらない方が良いんだよ、と。

 わたしと距離が縮まれば縮まる程きっと嫌な思いをさせるに違いないのだから。

 お願いだから。お願いだからもうこれ以上近付かないで。

 わたしはこれ以上わたしに幻滅したくないし、灯にも嫌な思いをさせたくない。

 幻滅されたくもない、とまで考えて、はたと手を止める。

 幻滅されるも何も、わたしと灯はそんな感情の行き来する関係ではない……のに。

「信じ、てなんか、ないよ……」

 そうだよ。わたしは灯のことを信じてなんかいない。友達でもない。だけど、一方的に好意に近いものは抱かれているようで……。

「やだ……」

 意味判んない。何これ。わたしは何で灯に幻滅されたくないなどと考えてしまったのだろう。

「違う。ちがう、わたしは一人で良いのに」

 そう。一人で良いのだ。

 誰とも深く付き合わないで、わたしは空気のように三年間あの学校に存在していたいのだ。

 だというのに。

「なんか、へん……」

 どうしてか判らないけれど、胸の奥が熱した鉄を注いだように熱くて重たくなった。

 それに反して、傷口から流れる赤い涙は冷ややかに腕を伝って落ちた。

 自分のことなのに自分が判らない。

 そうなるから、人付き合いは嫌なんだ。


 夏休みに入って一週間後。

 わたしと灯は約束通りほぼ始発に近い電車に小一時間揺られて一番近場の海に辿り着いた。

 朝早いとはいえ、真夏の盛りの太陽は既にジリジリと肌を焦がす。

「陽和ちゃん、暑くないの?」

「うん……日傘代わり?」

「成る程ね」

 わたしの嘘に何を疑うこともなく頷く灯に嬉しいような悲しいような……。いや、悲しいって何だ。

 悲しいことなんて何ひとつないだろう。

「予想通り、あんまり人居ないね。ラッキー」

 何がラッキーなのだろう、とは問わず、とてとてと浜辺に近付いていく灯の後をゆっくりと追う。

「折角だから足だけ入ろ」

 そう云ってサンダルを脱ぐ灯。脱いだサンダルは右手に。そして彼女の左手がわたしの右手を掴む。

「ほら、陽和ちゃんも」

「う、ん……」

 急かされるよう、わたしもサンダルを脱いで左手に持つ。

 素足に触れるサラサラの砂は熱くて、湿った砂を踏みに自然と足が動いた。

 どろり、水分を含んだ重たい砂が足の裏を湿らせたかと思ったら、足の甲を撫でるように海水が被さってきて、足底をさぁあっと攫っていくような感覚。

 海に来るのなんていつ振りだろうか、と思ってからハッとする。

「手……!」

「ん?」

「ん? じゃなくて、手、離して」

 足を止めて繋がれたままだった右手を軽く振ったら、逆に強く握り返されてしまった。

「良いじゃん、このまんま歩こう」

 朗らかな声に、でもと表情を渋らせる。

「誰か見てたら……」

「別に何とも思わないよ」

 それは灯の主観であり、一般的な人間の客観視では「何とも思わない」ではないと思う。

 いや、それともわたしの「何とも思わないことはない」という主観が間違っているのか。

「陽和ちゃん、波、気持ち良いよ」

 歩こ、とまた手を引かれて、わたしはどうにも拒絶し切れないまま灯の拘束を受け入れた。

 太陽の光が燦々と降り注ぐ青空の下を、わたしたちは何を喋るでもなく黙々と歩いた。

 時間が経つにつれて足に掛かる水温が温くなっていくのは慣れか、気温の上昇の所為か。

 わたしの腕を引きながら、彼女は一体何を考えているんだろうと思った。

 何も喋らないで人の少ない朝の浜辺を二人手を繋いで歩く。

 そこには一体どんな意味が隠れているのだろう。

「あっついねー」

 灯がやっと喋ったかと思えば、そんな他愛のない台詞。

「暑いね」

「海、青いね」

「……うん」

「空も青い」

「そうだね」

「青と青に挟まれて、私たちは今サンドイッチの具みたいだ」

 意味が判らなかった。いや、きっと深く考えてはいけない洒落なのだろう。

「このまま端っこまで歩く途中で青色に融けたらどうする?」

 首だけで振り返る灯は悪戯な顔でそんなことを訊いてきた。

「青に融けたら……」

 それは、融けて消えてなくなるということだろうか。

 そうだとしたら……。

「融けられるなら、融けてしまいたいな……」

 それで、白い雲みたいに水平線に浮かびたい。

 特別色のない表情で淡々とそう答えたら、灯はふふと肩を揺らした。

「雲みたいにか、それは良い案だ」

 ふわふわ漂って、その内細かい粒子になって散って空と海に融けていく。何だかロマンチックだね。

 そう云って空を仰ぐ灯。

「でも私は陽和ちゃんに融けられたら困るから、この辺で折り返そうか」

 くるり、わたしを軸にして反転した灯は、また同じようにわたしの手を引いたまま来た道を戻った。

 困る、か。何でだろう。何が困るんだろう。

 判らない。灯の考えていることは何ひとつ判らない。

 サンダルを脱いだ場所まで戻る頃には遊泳客がちらほら浜辺に散らばり始めていて。

「丁度良いね」

 と、灯はわたしの手を離してサンダルを履いた。

 わたしは離れた手の平を三秒見詰めてから灯に倣うようサンダルに足を差し込んだ。

 他にどこかへ寄るのだろうか、と思ったけれど、一歩前を行く灯は真っ直ぐ駅の改札に向かった。

 空席の目立つ電車の中。隣に座る灯はご機嫌な表情で、しかしペラペラと何かを喋る訳でもなく、今度は夜の海にも来たいね、なんてそんなことを云った。

「夜の海は黒に融けてしまいそうになるんだよ」

 楽しそうに、しかし悲しそうにも聞こえる声音でぽつりと呟いてから、灯は席端のポールに側頭を預けて目を閉じた。

「……」

 何なんだろう。何がしたかったんだろう。

 ターミナル駅で別れてからわたしは最寄りの路線の電車の中でぼんやりとついさっきまでの時間を思い返す。

 海の匂いがする、と自分の髪の毛に指を通したら、潮風に長く当たっていた所為か、毛先が少しだけキシキシした。

 わたしたちは相変わらず連絡先を交換しないままだったから、今日の行動にどんな意味があったのかを問う術がない。

 否、あっても訊かなかったかも知れないけれど。

 昼過ぎに帰り着いた家には誰も居ない。

 心無し肌もベタつく感じがしてシャワーを浴びた。

 部屋着にしているノースリーブのワンピース一枚でベッドに転がる。

 右側を下にしたら、左腕の傷が目に入って思わず顔を顰める。

「汚い腕……」

 自分で汚している癖に、何を今更、という感じではあるが。

 先日刻んだ傷はかさぶたになって半分浮いている。

 剥がしてしまいたい衝動に駆られるが、これを剥がしてしまうと痕が余計に目立ってしまうから我慢する。

「海に行って何がしたかったんだろ」

 というか、そもそも特に何も喋らずただ歩いていただけの何が楽しかったのだろう。

「わっかんないな……」

 わたしと出掛けたいと云ったのも。

 その先が海だった理由も。

 ただ歩くだけで解散になった意味も。

 何も判らない。

 これを文学的に考察しろと云われたら、大層な難題だ。

 しかし数学的に解を求めろと云われるのはもっと難解だ。

「灯さんにとって、わたしは一体何なんだろ……」

 それと同時に。わたしにとって、灯は一体何なんだろう、とも思った。

 繋がれていた右手を左手で撫でる。

 何で手を繋ぐのだろうかとは思ったけれど、嫌な気持ちにはならなかった。

 イジメに遭って以降他人との物理的接触を避けてきたから、必要時以外で同性同士手は繋がない、というわたしの感覚が普通ではないのだろうか。

「わからん……」

 寝返りを打ってタオルケットを被る。

 朝早かったから、睡魔が手をこまねいてきたのだ。

 少し寝よう。左腕の傷を無意識に右手で覆って。わたしは睡魔の誘惑に意識を委ねた。

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