第2話
学校、及び学級という小さな世界の中にもコミュニティは複数存在する。そのコミュニティは派閥となり、時に牽制し、時にぶつかり合う。
くだらない争いだ。他人を貶めて一体なんの利があるというのだろう。
高校では友達を作らない、と決めたわたしはどのコミュニティにも所属しなかった。
クラスの中でただただ息を潜め、空気のように振る舞い、一人読書に耽る。暗い地味女だと思われているだろうが、それで良い。
わたしは群れる気などさらさらないのだから。
どのコミュニティにも属さない、という点に於いては灯も同様だあった。
しかし彼女はわたしとは違う無所属派だった。
灯は人当たりが良く、どこを行き来しても邪険にされない器用さがあったのだ。
あっちから声が掛かったかと思えば、こっちから声が掛かる。
ひとつ歳上というのもあるだろうか。
灯はクラス内で非常に頼りにされる存在だった。
まるで青空に浮かぶ太陽みたいだなと思った。
キラキラしていて、暖かくて……。
でも日陰暮らしのわたしにとって灯は眩し過ぎたし、暖か過ぎた。
ギラギラと照り付けて、じりじりと肌を焦がすような、そんな存在。
嫌いな訳ではない。けれども少し苦手かも知れないと思った。
夜空の新月みたいに存在するわたしと灯は真逆の存在だと思ったから。
わたしなんかに構わないで欲しい。
わたしなんかに関わっても良いことなどひとつもないのだから。
空気だと思って見えないものとして扱って欲しかった。
その意を汲んだのかどうかは判らない。だが、灯はクラス内ではわたしに声を掛けることをしなかった。
その代わり、というのか。昼休みの特等席にはしばしば顔を見せて、わたしと一緒に昼ご飯を食べるのだった。
「陽和ちゃんのお弁当っていつも美味しそうだよね」
相変わらず購買の菓子パンを食べながらそう云われて、そうかなと曖昧に笑う。
「冷凍食品あんま入ってないイメージ」
「夕飯の残りとか詰めてるから」
「自分で?」
「うん。ウチ共働きで親忙しいから、お弁当は自分で詰めてる」
緩慢に箸を動かしながら応えれば、灯はひゅうと口笛を鳴らした。
「えっら!」
揶揄のない褒め言葉。
「はー、凄いわ。私料理出来ないから尊敬する」
「残り物だから自分で作ってるものだけじゃないよ」
「自分で作ってるものだけじゃない」
復唱されて、うんと頷く。
「だけじゃない、ってことは、自分でも作ってるってことだよね?」
「まぁ……週の半分くらいは夕飯当番してる、かな」
「ひぇー、すごー! えらー! 陽和ちゃんは良いお嫁さんになるねぇ」
「……どうかな」
また曖昧に笑って肩を竦める。
灯との会話は他の生徒を相手にするよりもスムーズだった。
ただそれは二人きりの空間で灯と喋る他ないからであり、積極的にわたしから関わろうとしている訳じゃない。
他人と関わるのは怖いし苦手だけど、まったくコミュニケーション能力がない訳でもないのだ。
多分、上っ面は悪くない。まぁそれもイジメられていた原因のひとつに当てはまるのだけれど、それは今はさて置く。
それにしても、と思う。
一人になりたいからここに来ていたと灯は云っていた。
では何故わたしが居ると判っていてここに来るのか。
「灯さんは、一人になりたいんじゃないの……?」
「ん? 何で?」
「前に、一人になりたい時にここに来てたって」
「あぁ、そんなこと云ったねぇ」
紙パックのストローを噛みながら、灯はあれだよと人差し指を立てた。
「一人になりたいっていうか、静かな場所に居たくなるんだよね」
「静かな、場所……」
「そうそう。ほら、教室とか中庭とか、どこ行ってもガヤガヤしてるじゃん? たまにそれが煩わしくなるんだよね」
「煩わしく……」
それは意外だ。どんなコミュニティにも気さくに顔を出している灯からは想像出来なかった。
「私さー、中学ん時にちょっとイジメられててー。だから決まったグループに居るのとか苦手なんだよね。派閥とか面倒臭いし、賑やか過ぎると人の視線気になっちゃって」
何と。太陽のような黒井灯もイジメに遭っていたとは驚きだ。
「だから適当にあっちこっちふらふらしながら当たり障りないコミュニケーション取って良い顔だけしてんの」
狡いでしょ? にっと唇の端を上げる灯に、そんなこともないんじゃないかなと僅かに視線を逸らす。
「それって、凄いことだと思うけど……」
わたしのようにシャットアウトするのではなく、逆にオープンに振る舞えるというのは一種の才能ですらあると思う。
「陽和ちゃんはさー、人付き合い、苦手?」
ズバリ訊かれて、ゆっくり瞬く。
「人付き合いは、怖いかな」
わたしもイジメられてたから、と付け足したら、灯は少しだけ神妙な面持ちになった。
「悲劇のヒロイン気取る訳じゃないけど、裏切られるのが怖いから」
だからあんまり人と関わりたくないんだよね。
別に誰かに明かす気などなかった事実をポロリと零してしまったのはどうしてか。
「裏切られるのが怖い、かー……」
そっかー、とこちらを向いていた顔を正面に戻す灯。
「人を信じ過ぎちゃうのかな?」
そう、だと思う。きっと。いつも失敗する時は入れ込み過ぎてしまう時だ。
「私のこと、信じなくて良いからね」
「……は?」
突拍子ない台詞に間抜けな声が出た。
「信じなければ裏切られない。私は陽和ちゃんを裏切るようなことしないと思うけど、裏切りっていうのは受け手の感情だから私にはどうにも出来ない」
私はね、と。灯の手がそっとわたしの膝に触れた。
「私は陽和ちゃんのこと好きだから、裏切りたくない」
好き……とは? そんなことここ数年云われたことのない単語だ。
「裏切りたくないから、信じなくて良いよ」
「……」
「でも、」
「でも……?」
「信じなくて良いけど、この二人の時間は出来れば無くして欲しくない….…かな?」
最後の「かな?」という部分でまたわたしを見詰めてきた灯にわたしは怯んだ。
何故彼女はわたしと過ごす時間に固執するのだろうか?
「どうして……?」
純粋な疑問として問えば、灯は柔らかく笑った。
「云ったじゃん。好きだから、って」
「……」
灯と出会ってまだ二ヶ月も経っていない。
それなのにわたしの何を見てわたしのことを好きだと云うのかが、わたしには理解不能で仕方がなくて。
「変わってるね……」
ぽつり。呟いたら、灯は今度は軽やかに笑って「よく云われる」と肩を揺らした。
「好き、ねぇ……」
深夜。ベッドを背もたれにして、わたしは部屋の電気も点けずに膝を抱えていた。
わたしにだって人の好き嫌いはある。
だけどそれは好きか嫌いか、という区分よりも嫌いじゃないか嫌い、という区分だ。
誰かを好きだと思うことはない。否、なくなった。
好きになったらそれこそ裏切られるのが怖いから。
好意が大きくなればなる程反動は大きい。
それにそもそも、だ。
「わたしなんかのどこが……」
それは本音。わたしはわたしの良さがひとつも判らない。
完璧主義ぶっている癖に完璧になれない半端者。
八方美人で偽善的な性格がイジメの原因になった。
そんな性質に加えて今は……。
「……」
そっと、右手に握った物で左腕をなぞる。
チリ、と痛痒さ。
薄闇の中で濃い色の玉がぷつりとふたつ、みっつ浮かんだ。
「こんなことしてるって知ったらドン引くだろーなー」
くすくすと声なく笑って浮かんだ玉を舌で舐め取る。
ほんのりとだけ、鉄臭い味。
「まず……」
呟いて眉間に皺を寄せる。それでも一線引いただけでは足りなくて。わたしは一本目の線と平行に、あと三本線を引いた。
「何で痛くないんだろ……」
左腕を右の指で撫でればぬるりとした感触。
暫くぼんやりしてから、消毒液を含ませたティッシュでそれを拭う。
「ばからし……」
馬鹿らしいと思うけれども、やめられない。
「リスカの中毒性は高いっすなぁ……」
そう。わたしはイジメをキッカケにリストカット(部位的には正しく云うとアームカットになるのだが、リストカットの方が浸透性が高いからそちらで通すことにする)を始めて、イジメられなくなった今も尚やめられないままなのだ。
初めてリストカットをした日のことはまあまあハッキリ覚えている。
イジメにより危害を加えられた鬱憤を晴らす為に何かを破壊したい衝動に駆られた。
だけど実際物を破損するのは気が引けた。
何かを壊したら代償が必要になる。
それは面倒臭い。でも何かを破壊したい欲は消えなくて。無意識に左腕に爪を立てた瞬間、ハッとしたのだ。
そうか。自分を傷付けるのであれば代償は必要ない。傷が見付かったらそれはそれで面倒臭いのではないか? それもちゃんと考慮した。
季節は秋。もう制服も冬服に変わっていたから、腕まくりなどをしなければ傷を見られる瞬間は着替えの際くらい。
全裸で家の中を動き回るような習慣もなかったから、長袖さえ着ていれば親にもバレる確率は低い。
理性的に。それはもう非常に理性的に、わたしは深夜の自室でカッターを握った。
初めての一本線は血さえ滲まなかった。
加減が判らなかったからだ。
だから徐々に力を込めて二本、三本と傷を増やしては滲む赤の量を多くしていった。
傷の深さは日によってまちまちだ。
ちょっとの衝動ならぷつぷつと血の玉が滲む程度。
だけど部屋の中をぐちゃぐちゃにしたいくらい情緒が乱れるともう腕をぐちゃぐちゃにした。
だらだらと腕を伝う生暖かい赤を見るとホッとした。自分の中の汚いものが出ていくような気がして。
自分に向けられた負の感情。それに対して込み上げる自分の負の感情。そのどろどろとした醜いものが体外に出ていくのを、疑似でも視覚的に認知することでわたしの心は少なからず平穏を取り戻すのだった。
高校に入ってからはまだ数回しかしていない。
今のところはまだ他人から負の感情を向けられていないから。
それでも切る時は、自分のことを到底好きだと思えない時だった。
灯に好きだと云われた夜にカッターを握ったのは、自分のことが好きじゃないから。
好きじゃない自分を好きだと云われても何にも嬉しくない。
だってほら、こんな風に自分で自分を傷付けて悲劇のヒロイン振ってるんだから、どうしようもない。
傷を消毒する行為も馬鹿馬鹿しいと思いながらもさっと消毒してガーゼをあてる。
パジャマの袖を直してベッドに転がった。
「くだんないな……」
何が、って。もう、自分の生き様が。
「しにたい……」
呻くよう、わたしは枕に顔を埋めた。
その夜久々に懐かしい夢を見た。
イジメられている時の、最悪な夢だ。
起きてすぐ、息が上手く出来なかった。
額に滲んだのは冷や汗なんだか脂汗なんだか。
脳裡に、網膜の裏に、鼓膜の内側に。残る音や映像に吐き気がした。
「死ね」
嘲笑たっぷりのその声はひとつじゃない。
両手の指を使っても足りない。
男女問わないその声の嵐は気を狂わせそう。
「そんなの、わたしが一番判ってる……」
死ね、って。そんなこと、わたしが一番わたしに対して思っていることだ。
だって、わたしが居なければきっとイジメる側の学生生活も平和だったのだろうから。
先にも云ったよう、わたしは八方美人さや偽善的な性質を大きな理由にイジメられ始めた。
目障りだったのだそうだ。
わたしの存在自体が。
だから排除対象となり、イジメの標的にされた。
成る程、と思った。わたしは目障りなのか。それもそうか。わたしもわたしみたいな人間が近くに居たら疎ましいと思うかも知れない。
疎ましい、というか、鬱陶しい、か。何にせよ目障りには違いない。
イジメはイジメられる側にも原因があるとはよく云ったものだ。
まったく持ってその通り。その通り過ぎて嫌になる。
「ウザい」
「死ね」
「消えろ」
浴びせられた言葉のメインはそのみっつ。
そうだね。わたしもそう思うよ。わたしなんか居なければ良かったのにね。
どうしてわたしは生きてるのかな?
リストカットに至った根源の感情は自己否定だった。
その自己否定を、わたしはずっと引きずって生きているのだ。
だから……。
「好きとか、意味判んない……」
わたしは誰かに好かれるような人間じゃない。
好かれて良い人間じゃない。
わたしは存在していること自体が罪なのだから。
はぁ、と大きく息を吐いてゆるりと壁時計を見遣る。
時刻は普段起きる時間より三十分早い。
このままベッドの上に居ても嫌な気持ちがぐるぐるするだけだ。
わたしはのそりとベッドから降りて、いつもより早い時間に家を出た。
早い時間に家を出たところで真っ直ぐ学校に向かう気にもなれず、わたしは学校の最寄駅からひと駅先の駅で電車を降りた。
ひと駅と云えども普段降りない駅前の土地勘はない。
それでも方向感覚はあったから学校まで歩いて行くことは可能だろう。時間がどれだけ掛かるかは知らないけれど。
改札を出て南方向にゆったりと歩き始める。
そんなに大きくない商店街を抜けた先に神社があった。何とはなし、一礼してから鳥居をくぐる。
短い参道を歩きながら鞄の中の財布を漁る。
生憎と五円玉はなくて、十円玉を取り出した。
それを賽銭箱に投げ入れて手を合わせる。
(どうか早く死ねますように)
自殺する勇気もなく神頼みだなんてこれまた情けない。
けれども願わずにはいれなくて。わたしは合わせた手を離すと、深々と腰を折った。
神社を出てまた南に向かって歩いていたら、今度は左手に水深の浅い川を見付けた。
腕時計を確認するでもなくわたしは小さな土手を下り水辺でしゃがんだ。
静かに手を水の中に浸して、生温いなと思う。
流れの緩やかな川の水は冷たくはなかった。
でもその生温さが逆に心地好い気がして、わたしはスカートが汚れるのも気にせず座り込んで暫く川の流れに負の感情を溶かすように水の中に手を浸していた。
そうして気付けば腕時計の短針がひとつ隣の数字に移動してしまった。
やってしまった、と思う反面、まぁ良いかとも思った。優等生で居るのも案外疲れるのだ。たまには不良になっても良いだろう。
水面から手を引き抜いてハンカチで水気を拭う。
ゆるりと立ち上がってスカートの汚れをはたいてから、わたしはのんびりと学校を目指した。
学校に着いたのは三時間目が始まってすぐくらいだった。
途中から教室に入るような目立つことは当たり前ながらしたくない。
四時間目から出るのも何だなぁと思って、わたしは真っ直ぐに特等席へと足を運んだ。
いつもの定位置に座って鞄から本を取り出す。
スピンを引っ張って読みかけのページを開き、活字を追う。
本は良い。裏切らない上に新しい世界を沢山見せてくれる。
半分くらい読んであった本だったから、四時間目が終わるチャイムが鳴る頃には読み終わってしまった。
チャイムの音と同時にお弁当を広げる。
呑気なものだ。朝はあんなに胸糞悪い気分だったのに。本当に川の中へ嫌なものを流してきたみたいだ。
三分の一くらい食べ進めた辺りでパタリパタリと階段の鳴く音がした。
誰か、など、もう確かめるまでもないだろう。
近付いてくる足音。その音が止むのと同時に、大層驚いた様子の声が鼓膜を打った。
「陽和ちゃんいつ来たの?」
「ん、少し前」
意味もなく小さな嘘を吐く。こういうところも自分が嫌になるところだ。
「体調悪かったりしたの?」
「んー、ちょっと」
ほらまた嘘。本当に嫌になる。
「休まなくて大丈夫だったの?」
「五時間目の化学は出たかったから」
これは本当。わたしは文系と理系のハーフだ。
「そかそか。でも大丈夫そうなら安心だ」
心配してたんだよー、なんて云われて、何でだろうなって思う。
わたしのことを気にするなんてとんだ時間の無駄遣いだ。
「気にしなくて大丈夫だから」
作った笑顔でそう返したら、良かったと灯の安堵顔。
灯は純粋だな、と思った。わたしとは大違いだ、とも。
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