ガラス越しのカタルシス

烏丸諒介

第1話

 人によって感じる辛さの尺度は違う。けれど、あなたの今までの人生はあなたなりにしんどくて仕方がなくて、死すら考えずには居られなかったんだね。

 そんなあなたに敢えて云おう。

「あなたが今生きていることがわたしにとっては嬉しい」

 そんなことを云われてしまったら、わたしは自ら死ぬという手段を失ってしまうじゃないか。

 救世主の言葉は時に残酷だ。

 暗闇に堕ちた人間に光のベールを浴びせかけるのだから。

 それでも融けない羽を有しているのは、その羽をくれたのがわたしの救世主たる黒井灯だったから、だろう。




 わたし、白河陽和が黒井灯と出会ったのは高校一年のゴールデンウィーク明けのことだった。

 新生活の、まだ馴染み浅いクラスに留年している生徒が居るのは知っていた。病気をして去年の秋口から休学しており、この年のゴールデンウィーク明けから復学するのだとゴールデンウィーク前のホームルームで担任が云っていた。

 歳は一つ上になるが、同じクラスメイトとして差別などしないように、なんてお決まりの文句は逆効果なんじゃないかなと思ったのを覚えている。

 ゴールデンウィーク明けには実力テストが行われることになっていた。

 とあることをキッカケに友人関係を築くことをやめたわたしはゴールデンウィークと云っても特に遊びに出る予定もなく、どうせなら上位を目指そうと実力テストの勉強に力を入れた。

 勉強は好きだった。余計なことを考えないで済むから。ただ、ある程度の要領の良さはあれど、わたしは天才ではなかったから、足りない部分は努力で補ってきた。

 常に一番で在ろうとする程の熱心さはなかったけれども、上位で在ろうというプライドはあった。

 わたしの父親はよく出来た人で、一言で表すのならばスーパーマン。完璧な人だった。仕事はもちろん、家事に育児。それらをスマートかつ完璧にこなす人だった。我が父親ながら、尊敬の念を抱かずにはいられないような、そんな人。

 そんな人に育てられたからだろう。決して強制された訳ではないが、わたしもある程度は完璧で在りたいと思いそれなりの努力をしてきた。

 無言の期待に応えるように。

 そんな、わたしだから、実力テストではせめて三位以内には食い込みたいと思って自己学習をした。

 ゴールデンウィーク明け。教室に入ると、空席だった窓際一番後ろの席に座って本を読んでいる人が居た。

 あれが噂の留年生か、とわたしは自分の机に鞄を下ろしながらそっとその人を注視した。

 短く揃えられた黒髪は艷やかで、少し眺めの前髪が目元に薄い影を作っている。

 わたしの通っている高校は私服校だから、その人もラフな黒のパーカーに細身のジーンズ姿だった。

 髪型と格好で性別は不詳。彼、と呼べば良いのか、彼女、と呼べば良いのか。迷いを晴らしたのは、実力テスト前に行われた朝のホームルームでの自己紹介だった。

「くろいともる、といいます。留年したため歳はひとつ上になりますが、気兼ねなく同学年として扱ってもらえればと思います」

 そう柔らかに自己紹介をする黒井灯の声は女子のものだった。

 顔は小動物のようで愛らしく、かといって可愛すぎる訳ではない。纏うオーラはクールさを孕んでいて、何だかミステリアスな人だな、というのがわたしの黒井灯への第一印象だった。

 そうしてホームルームが終わってすぐに行われた実力テスト。

 出来は上々だと思った。これなら父親も満足する結果が出せるだろう。

 実力テストの結果は学年掲示板に順位が貼り出される。結果発表の日、わたしは少しの緊張と期待を胸に掲示板を見に行った。上から名前を見て、いち、に、さん、四番目に自分の名前を見付けて、わたしは何とも云えない気持ちになった。

 四位でも充分上位の成績だ。父親の期待を裏切ることにはならないだろう。

 しかし自分の期待は裏切られた。

 もう一度一番上から名前を確かめて、わたしは舌先を噛んだ。

 一番上に黒井灯の名前があったからだ。

 成る程。黒井灯が居なければ、わたしは三位以内に入っていたのか。

 込み上げたのは悔しさと多少の僻み。

 何せ黒井灯は去年も似たようなテストを受けている筈なのだ。余程勉強に興味がない限り、有利ではないか。

 これはノーカンだ、と思いながらわたしは教室に向かった。

 朝のホームルームで実力テストの答案を返却される。

 それを昼休みに問題と照らし合わせてわたしは苦虫を噛み潰したような顔になる。

 少ないバツ印の幾つかはケアレスミスだったからだ。

 こういうところが自分の嫌なところだ。

 完璧主義ぶっている癖に、完璧になりきれない。そんな自分がわたしは己のことながら嫌いだった。

 再確認しても正解が見付けられない問題の答えは放課後にでも教師に聞きに行こう、と答案用紙をしまおうとした時だった。

「あの、白河さん、かな?」

 背後から声を掛けられて、反射的に首を回す。

 斜め後ろには黒井灯が立っていた。

「そうだけど……わたしに何か?」

「いや、ちょっと訊きたいことがあって」

 キョトンとするわたしに、黒井灯はぺらりとわたしの机に実力テストの答案用紙を広げた。

「ここの問題の数式だけ解けなくて……私数学苦手なんだ。もし解き方判ったら教えて欲しいんだけど」

「はぁ……」

 そんなもの教師に訊いた方が効率的ではないだろうか、と思いながらわたしは黒井灯の答案用紙と自分の答案用紙を見比べた。

「ああ、えっとここは……」

 自分の答案用紙を見せながら解を説明すると、黒井灯は成る程、と小さく手を叩いた。

「凄い、判りやすい」

「それは良かったです」

「有り難う、助かった」

 顔を綻ばせ、じゃあと踵を返そうとした黒井灯をわたしはどうしてか引き止めてしまった。

「あの、」

「ん?」

「ここの問題、判りますか? わたし英語苦手で……」

 高校生活で誰かと親しくつもりはなかった。いや、この時のわたしは実際黒井灯とも親しくなろうと思った訳ではない。

 それでも何故だか、わたしはこの時黒井灯がそっと差し出してきた糸の先を握ってしまった。

「あ、ここはこっちの文法と同じ。似てるから判り難いよね。私も引っ掛かりそうになった」

 おどけるよう肩を竦める仕草に嫌味はない。

「あ、改めましてだけど黒井灯です。良かったら仲良くしてね、白河さん」

「あ、はい……というか、何でわたしのこと判ったんですか?」

 その問いは愚問だった。

「朝のホームルームの出席点呼で。パッと見、掲示板に貼ってあった名前で同じクラスだったの白河さんだけだったから」

「あぁ……」

 云われてみれば彼女が登校してきてから数日は経っている。何度か点呼を意識して聞いていれば判ることだ。

「てゆーか、白河さん、敬語じゃなくて良いよ?」

 気さくな声掛けに、じゃあお言葉に甘えて……と低姿勢で出たらカラカラと笑われた。

「陽和ちゃんって呼んで良い?」

「呼び方は何でも良いで……よ」

 変なところで言葉が詰まってしまって、間抜けな語尾になる。

「私のことも何でも良いから」

 わたしの間抜けさに笑う訳でもなく、黒井灯は笑顔を咲かせた。

「あー……じゃあ、取り敢えず黒井さん、で」

「んー、堅い」

 何でも良いと云ったじゃないか、という言葉は飲み込む。

「じゃあ、灯さん……」

「うん、同じ『さん』付けでもそっちの方が良いかな」

 よろしく、と微笑まれて、こちらも行儀の良い微笑を返す。

 この時手にした糸がわたしの人生を大きく動かすだなんて、この時のわたしは思ってもいなかった。

 

 東西と南へ、三方向に伸びる校舎。東西一直線には一般教室が並び、南校舎には特別教室が配置されている。

 その南校舎の屋上へ続く扉前の階段がわたしの昼休みの居場所だった。

 四月中に昼休みあちこちをふらふらして一人になれる場所を探した結果だった。

 屋上と云えば漫画などではよく生徒の溜まり場になっているが、現実はそうでもない。

 恐らく転落防止(或いは自殺阻止)の為に施錠されていて屋上に出ることは出来ない。

 だから、特別棟の最上階という埃っぽい空間などには誰も来ないという訳だ。

 高校に入って親しい友人を作る気がないのは、中学時代に痛い目に遭っていたからだった。

 有り体に云えば、イジメられていた、ただそれだけ。ただそれだけだけど、それはわたしの中で大きな傷として残り、いつまでもぐじゅぐじゅと癒えることがない。

 誰かと深い関わりを持つことが怖いのだ。

 だからわたしは高校では初から友人を作らずに居ようと思っていた。そう。思っていたのだ、が。

 昼休みに入るなりそそくさと居場所を確保しに行くわたし。

 定位置に座って膝の上にお弁当を広げる。

 玉子焼きを箸で摘もうとした瞬間、階下からパタパタとのんびり階段を上がってくる音がしてびくりと肩が跳ねた。

 一人きりの時間を過ごせる特等席を奪われたくなかった。

 思わず息を詰めて身を縮こまらせていたら、踊り場からひょこっと覗いた顔にえ、と目を丸くしてしまった。

「あれ、陽和ちゃんだ」

「灯、さん……」

 パタ、パタ。ゆっくりと階段を昇ってくる灯。

 どうして、とわたしが訊くより先に灯は悪戯っぽく笑った。

「私の特等席がいつの間にやら奪われていたとは」

「え……」

 ぱちり、ぱちり。目をしばたたいたら、灯は購買で買った様子の菓子パンと紙パックのコーヒー牛乳をそれぞれ手にぶら提げたまま「お邪魔しまーす」と、わたしの横に座った。

「ここ、良いよね」

「え、あ、うん……」

 反射的に頷いたら、灯は紙パックにストローを刺しながらわたしを見た。

「陽和ちゃん、びっくりしてる?」

 問われ、そんなことはないけど……と否定になりきらない否定をする。

「灯さんは、教室でお昼食べないの……?」

「普段は教室だけど、たまに静かなトコで一人になりたくなってさー」

 去年もたまにここで一人で昼休み過ごしてたんだよねー、と云う灯に、そうか先客だったのか、と無意識に軽く唇を噛む。

「灯さんより後に来て、邪魔になってごめん……」

「え、後から来たのは私でしょ」

「いや、時期? 的に?」

 眉尻を下げたら、そんな顔しないでよとコーヒー牛乳を啜る灯。

「陽和ちゃんこそいつもここで一人?」

「……まあ」

「じゃあ、私の方こそ邪魔かな?」

 これまた返し難いことを云うものだ。

 ここで「邪魔です」と返せる根性があったら、わたしは過去イジメになど遭っていなかっただろう。

「そんなことないよ」

 無難な返事を選んでみせれば、灯はそっかと菓子パンに齧り付いた。

「ね、たまには私もここでお昼食べても良い?」

 そんな問い掛けに、わたしは肩を竦める。

「学校だからどこが誰のものっていう訳でもないし……」

「それもそうだ」

 頷きながら、じゃあと灯はわたしの顔を下から覗き込んだ。

「他の誰かに見付かるまでは、ここは二人の秘密の場所にしよう」

 ね、と器用に片目を瞑って見せた灯に、わたしは波風を立てないようにと小さく頷いた。

「陽和ちゃんってさ、可愛いよね」

 唐突に、何の脈絡もなくそう云われて、は? と目を丸くする。

「可愛くは、ないかと……」

「いやいや可愛いよ」

 何か修道女みたいな感じで、という例えに、それは褒め言葉なのか? と一瞬考え込む。

「黒髪ロングが清楚に見えるのは美人な証拠!」

「短いのが似合わないだけだよ」

 逆にショートカットが似合う灯の方こそ美人な証拠じゃないかと云えば、灯は大きく肩を揺らした。

「私の場合はちょっと男っぽく見せたいだけ。だから陽和ちゃんみたいにスカートとか履かないし」

 持ち物もなるべくメンズ寄りにしてるというか、自然とそうなっちゃうんだよねと灯は笑う。

 そんな灯は確かにいつも男子生徒みたいな格好だ。

 今日は黒の半袖パーカーにスキニージーンズ。

 反して、わたしはオフホワイトのブラウスに小花柄の膝丈スカート。

「可愛い服は見るのは好きなんだけどね〜。自分が着るとなると違うっていうか……」

 それこそ陽和ちゃんとかに着て欲しいなって思う服は沢山あると灯は声を明るくする。

「メンズっぽい自分のこと嫌いじゃないけど、陽和ちゃんみたいな可愛らしい女の子は純粋に良いなぁって思う」

「そ、っか……」

 ここで会話を続けられないのがわたしの悪いところだ。これぞまさしくコミュ障というやつ。

「可愛いって云われるの、好きじゃない?」

 首を傾げられて、ううんと首を左右に振る。

「ただ、云われ慣れないだけ」

「うそー」

「ほんとだよ」

 本当だ。イジメられている時は散々に容姿を馬鹿にされてきた。中学時代、実はわたしもショートカットだったのだが、癖っ毛の所為で「しいたけ」という渾名を付けられて馬鹿にされた。短くしたらまたそう云われるのではないか、そう思われるのではないか、と心穏やかでは居られず、わたしは以降髪の毛を伸ばし続けているというだけ。

 顔立ちだって決して可愛らしい訳じゃない。芋臭い、ダサい、キモいとどれだけ云われたことか。

「こーんな可愛い子を見て可愛いと云わない人間の目は節穴だな」

 ケラケラ笑う灯に、それならどこが可愛いのかと思わず訊いてしまう。

「えー、まずは目が大きい。ぱっちり二重。睫毛長い」

「それは灯さんも同じ……」

 事実。灯の言葉は鏡のように彼女の容姿を物語っている。

「鼻筋シュッとしてる。私はシュッてしてない」

 成る程、それはそうかも知れない。

「あと唇薄めなのが個人的に羨ましいかなー」

「灯さんみたいにぽってりしてる方がかわ……」

 可愛い、と云おうとしてやめたのは、彼女がメンズっぽく見られたいと云ったことを思い出したからだった。可愛いはきっと褒め言葉にはならない。

 口を噤んだら、灯は察したように肩を揺らした。

「この小動物顔が我ながら許せんのだよ」

 芝居掛かった口調に、つい笑ってしまった。

「ほら、やっぱり可愛い」

「え?」

「陽和ちゃん、笑顔の方がもっとずっと可愛いよ」

「そんなことは……」

「あるある。自分で云うのもアレだけど、私面食いだから」

 これは元同級生お墨付き、と人差し指を立てる灯。

「こんな可愛い子と友達になれて、私はラッキーだ」

「とも、だち……」

 呑気な灯の台詞に、わたしは口の中でそれを復唱する。

 友達……。わたしが? 灯と? いつからそうなったんだ?

 すっと背筋に走ったのは恐怖。

 友達なんて、要らない。わたしは誰かの友達で居たくない。だって、友達は裏切るから……。

 口の中で玉子焼きが砂の味になる。

 高校で友達を作らないと決めたのは中学時代にイジメられたから。そのイジメの主犯は小学校の頃から仲良くしていた親友だったのだ。また、別の機会にも友達として仲良くしていた子に裏切られた経験もある。

 ここまでくれば最早裏切られる自分に非があるのかも知れないと思わないでもない。

 どちらが悪いにせよ、友達、という関係性はわたしにとっては恐怖の対象だった。

 俯いてしまったわたしに、灯はどうした? と心配そうな声を投げ掛けてくるから。

「うぅん、甘いだろうなと思った玉子焼きがしょっぱくてちょっとショックだっただけ」

 なんて、下手くそな冗談でその場を濁した。

 喋りながらだったから、お弁当を食べ終えるのにいつもの倍以上の時間が掛かった。

 ちらりと華奢な腕時計を見れば昼休みは残り十分。

 さっさとお弁当を食べて、本を読もうと思っていたのにな。

 そろそろ戻ろうか、とお弁当箱の下に本を隠したけれど、灯はそれを目敏く見付けて、何の本?

と訊いてきた。

「純文学……」

「太宰治とか?」

「今は三島由紀夫」

「私は吉行淳之介が好き」

「え」

「私も本、好きなんだ」

 共通点発見。なんて云う灯の笑顔は薄暗い階段の踊り場でも酷く眩しかった。


 友達……友達……友達……。

 その晩わたしはベッドの中でぶつぶつとその単語を繰り返していた。

 友達って何だっけ。

 友達って本来どういう関係だっけ。

 携帯の簡易辞書で調べて出てきたのは『親しく交わる人』。

 親しい……。わたしは灯と親しいのだろうか?

 否、まだ親しくはない。

 何せまともに喋ったのは実力テストの答案を交換し合った時と、今日の昼だけだ。いや、もうファーストコンタクトだってまともに喋ったとは云えない気がする。

 黒井灯はきっと悪い人間ではないと思う。

 けれど、それが落とし穴だったりもする。

 信用して、結果裏切られる。そんな繰り返しはもう嫌だった。

 そっと、無意識に左腕を撫でる。

 微かな凹凸に吐き気がした。

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