謎の侵入者

 武田は自宅で春佳と日が暮れるまでゲームに付き合わされて、春佳がようやく帰ったところでドッと疲れが出てベッドで寝てしまった。


 夢を見ることもなく眠りに就いていた武田だが、時計が午後の十一時を回ったころに彼の部屋のベランダに紺色の忍び装束を着た侵入者が現れた。

 侵入者はカーテンを閉め忘れた窓越しに武田の姿を確認すると、口布の内側で悪意たっぷりにほくそえんだ。


「条件一はクリア、さて次は」


 夜陰の中、手に持っている巻物形のマニュアルを開く。


「ええと、屋敷に侵入後は屋根裏へと潜むべし。って無理じゃない?」


 そもそも屋敷じゃないんだけど、と侵入者は心の中で突っ込む。


「マニュアルに頼るのはやめよっ」


 呟き、ベランダから飛び降りて姿を消した。



 侵入者が次に姿を現したのは、武田の玄関ドアの前である。

 昼間に盗み出したスペアキーを装束の懐から取り出し、鍵穴に挿して回す。

 小気味いい開錠音がするのを聞き、侵入者あまりの容易さに、ふふふと微かな笑い声を漏らした。


 ドアを開き、チェーンを器用に外して中に入る。

 足音を立てずにそろそろと移動し、武田の寝室に到達した。

 寝室のドアを少しだけ開き、隙間からベッドの様子を窺う。

 武田はすやすやと眠っている。


「ふふふ、将吾ったら何も知らずにおねんねしてるわね」


 あくどい笑みを浮かべ、蚊の鳴くほどの声で呟いた。

 念のためにベッド付近の配置を目測し、昼間と変わりないことを確かめると、忍び足で寝室に踏み入った。

 武田のベッドへ足が近づくごとに、侵入者の胸の鼓動が興奮で早くなる。


「はあ、はあ」


 作戦の成功した後を想像し、息が乱れてくる

 それでも努めて呼吸を整え、ついにベッドの傍へ辿りついた。


「将吾、将吾」


 愛おしそうに頬を紅潮させて武田の名を呼び、音を立てぬようにしてベッドの上で武田に跨った。

 武田の穏やかな寝息と寝顔、そのどちらもが侵入者には愛おしい。


「はあ、はあ、はあ」


 無防備な武田を下に敷いて、侵入者の呼吸がまた乱れてくる。

 懐に手を突っ込み、竹筒を取り出す。竹筒の中で薄暗い照明の下怪しく光る桃色の液体が揺れている。


「もうすぐだよ、将吾」


 熱い吐息交じりに漏らし口布をずらす。

 竹筒の飲み口を唇につけた。

 筒を傾けて液体口にたっぷりと含ませると、ゆっくりと筒を離す。

 無警戒に眠る武田の寝顔を熱のこもった瞳で見つめ、目前にまで迫った大願成就に胸を高ならせる。


 武田の顔の横に手をつき、唇に視点を定めた。

 その時、侵入者の下唇から液体が雫となり、武田の喉仏に滴り落ちた。

 武田がもぞもぞと動く。


 ――ヤバい。


 思わぬ失策に侵入者の身体が硬直する。

 息詰まるような数舜が過ぎ、武田が動きを止めた。


 ――よかった、気づかれてない。


 そう安堵した途端、武田が寝苦しそうに眉をしかめて細目を開けた。

 不意に目覚めた武田に侵入者は仰天し、金縛りにあったように身動きが取れなくなった。

 薄暗い照明の下、武田の寝ぼけ眼のままで物を凝視するそれに代わる。


「……春佳か?」

「んっーーーーーーー!」


 液体を噴き出しそうになるのを必死に留め、見つめ合ったまま目を白黒させた。

 どうして正体を見抜けたのかわからなかった。


「こんなところで何してるんだ?」


 武田は幼馴染の顔が覆いかぶさっている状況を穏やかな声で問い詰める。


「んっーー、んっーー、んっーー!」


 人語になっていない呻きを発しながら、侵入者もとい春佳がのけ反るように顔を離した。

 勢いよくのけ反ってしまって、背中からフローリングに転げ落ちる。


「げほっ、げほっ」


 ベッドからの落下で背と肺が圧迫されるような衝撃が加わり、口から液体を吐き出して盛大にむせる。

 武田がゆっくりと起き上がった。


「春佳だよな?」

「げほっ、ごほっ、げほっ」

「ライト、点けるぞ」


 断りを入れて、武田はベッド傍のテーブルランプを灯した。

 ぼんやりとしていた幼馴染の姿が明瞭になる。

 途端に武田の目が驚きに見開かれた。


「は、春佳。なんでお前ここにいるんだ」

「うう、将吾」


 武田は慌てて自身の頬をはたいた。

 やはり幼馴染がいる。


「これは夢じゃないのか!」

「夢じゃないわ、げほっごほっ」


 またもむせた。

 武田は幼馴染を現実味がなさそうに見つめ、次第に彼女の格好に気になってくる。


「なんで忍装束?」

「……忘れ物を取りに来たのよ」

「その言い訳は無理があるだろ」

「……帰るわ」


 春佳はよろよろと立ち上がり、玄関へ足を向ける

 待て待て待て、と武田が呼び止めベッドから降りた。


「……用が済んだから帰りたいんだけど」

「その格好はなんだ?」


 春佳の胴を指さす。

 春佳は自身の身体を見下ろして鉄仮面になって答える。


「忍装束だけど」

「状況は理解できてないが、どうして春佳がここにいて、なんで忍装束なんだよ」

「……忘れ物を取りに来ただけなの。忍装束なのはコスプレの途中で忘れ物に気付いたから」

「なるほど。そうなのか、って納得する訳ないだろ」

 武田が厳しい追及の目でそう言うと、春佳はぶわっと泣き出した。

「だって仕方ないじゃん、忍だもん」

「訳わからん」

「もとは約束忘れてた将吾が悪い!」

「俺が悪いの?」

「悪い。七年前に私は約束したのに!」

「七年前……」


 武田は記憶を遡った。

 海外に移住する前だから、春佳と最後に会った日、約束――。


「あ」


 当時の情景が蘇る。

 春佳が武田と交わした約束――。


「忍者になる、ってそういえば言ってたな」

「やっと思い出したのね。そうよ、私は忍者になったの」


 膨らみの薄い胸を張るようにして言った。

 武田は呆れの表情になる。


「約束は思い出したが、忍者のコスプレはどうかと思うぞ」

「コスプレじゃないわよ。れっきとした忍者よ」

「はいはい、そうですね。そんなことより今何時だ?」


 ベッドサイドテーブルの置時計を見た。夜の十一時を過ぎている。


「帰らなくていいのか?」

「帰るわよ」

「なんなら送るぞ?」

「いらない」

「そうか、じゃあ気をつけてな。春佳のこぼした水も拭かないといけないからな」


 武田はあっさりと告げると、フローリングに広がった桃色の液体を指さした。

 春佳はバツの悪い顔になる。


「悪かったわね。汚しちゃって」

「気にするな。それよりほんとに送らなくていいか?」

「いらない。忍者だから大丈夫よ」

「そうか。じゃあな」


 無理に送る気はなく、タオルを取りに洗面所へ向かった。


 絶対に忍者だって信じさせて私に惚れさせてやるんだから、と春佳は胸の内で誓い、足音を立てず武田の部屋を辞した。

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