埼玉独立戦争

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埼玉独立戦争

 何。埼玉について知りたい? なるほど良かろう良かろう。話してはやるが相当にくだらないものじゃ。退屈しても寝るのでないぞ。あれはまだ儂が若かったころじゃ。どのくらい若い頃かって? それはもうピッチピチじゃった。今も変わらんかガハハ。いやどうでも良いな次行くぞ次。

 その頃の埼玉は南にある東京合衆国の植民地じゃった。なんでもその国の力は絶大でな。軍事力はモチロンで人口から産業まで何から何まで埼玉よりも上じゃった。おまけにべっぴんが多いこと多いこと。いやいや素顔は埼玉人と大差ない。何が違うって化粧じゃよ。自分を着飾って美人に見せることへのこだわりが強かったんじゃろう。そのくせ埼玉の女どもときたら田舎臭さが丸出しで。化粧のケの字も知らん鈍臭いのばかりじゃった。男も男じゃひどいもんじゃ。メガネに出っ歯でガリかデブ。

 ともかくも埼玉人は東京人の支配下だったわけじゃ。けれども特にひどい仕打ちがあったわけでもない。東京は東京。埼玉は埼玉で社会が回っておった。むしろ埼玉人の東京への憧れが強すぎてみんな東京の真似ばかりしておった。あっちでタピオカが流行ったらそのタピオカなるものが何なのかよくわからないまま粗茶にジャガイモいれて飲んでおった。そうじゃ埼玉人は総じて東京もんよりオツムが弱かったんじゃ。

 しかしある時埼玉の植民地相に大野和裕という男が就任しおった。あまり人ができていたわけではないが頑なな意志はあった。東京からの独立。こんな馬鹿げたことを最初に言い出したのは此奴じゃったの。そりゃあ初めは相手にされなかった。そりゃそうじゃ埼玉は東京に憧れとったからの。むしろ支配されていることを誇りにしている節もあったの今思えば。けれどもしばらくしたら今度は東京にコウィキ・ユーリカという女が現れた。両親共々東京人でおまけに差別主義。じゃからユーリカは埼玉人が嫌いじゃった。大統領就任早々埼玉と東京の国境に壁を築きおった。そうじゃかの有名な『ユーリカの壁』じゃ。何。知らない。全く不勉強で困ったものじゃいますぐ見に行ってこい。いや行くな儂の話は終わっとらん。こら立ち去ろうとするな。まぁ座れとにかく座れ。

 でな。聞け。壁ができて埼玉人は大好きな東京に行けなくなったんじゃ。それだけなら我慢も出来よう。しかしあの女帝はさらに大幅増税までやりおった。南埼玉は本国に近いだけあって発展しつつあったからの。それが気に入らなかったのじゃろう。埼玉の物価は一夜にして一〇倍になった。百円のせんべいが千円に。馬鹿げた話じゃあまりに横暴じゃ。こりゃいかんとて埼玉側の猛抗議も簡単に弾圧された。あっちは海外製の戦車に鉄砲おまけに戦闘機。対してこっちはせいぜい鍬か鎌じゃ。ああそうじゃその鍬じゃ。田畑に使うアレ。そんなチンケなもので最新兵器と渡り合うなんて到底無理じゃ。打つ手なしかと埼玉人に絶望が広がりつつあった頃誰かが言った。今となっては誰かはわからん。とにかくそやつは言った。「そうだ、埼玉にはあの男がいる」と。「あの男」とは大野のことじゃ。やつならば。こうなる前から独立を掲げていたあの男ならば。皆一様に大野に期待を寄せた。物が食えなくてすっかり痩せこけても希望だけは捨てなかった。埼玉人は信じた。そして大野もそれに答えた。大野はユーリカ就任直後から埼玉が窮地に追い込まれることを予感していた。ずっと後になって判明したことじゃがな。

 ともかくもそれからの大野の対応は凄まじかった。埼玉中の地下に備蓄してあった食料を全住民に配布。世論を味方につけると東京からの独立を堂々と宣言しおった。周辺国への根回しも忘れてはおらん。北東の茨城共和国。北西のグンマー帝国。さらに北中央の栃木商業連合。北関東を抑える三つの大国と個別に同盟を結んだ上にそれを昇華させて北関東四国同盟なるものを立ち上げた。何。どうやって三国を頷かせたか? 簡単な話じゃ土地じゃ土地。茨城には久喜と幸手。グンマーには深谷。栃木には加須を。埼玉の完全な独立が果たされたその時それぞれ割譲する密約が結ばれたんじゃ。独立のためじゃ安い代償じゃった。それに市の数はたくさんあったしの。幾つか減っても大した問題にはならんかったんじゃろう。多分。

 で。いよいよ東京と埼玉の全面戦争が始まった。そうじゃかの有名な独立戦争じゃまさか知らん訳無かろうて。名前だけはうっすらと? たわけ馬鹿めが阿保ぬかせ。ならばよく聞け大事なことじゃ。先人たちの生き様を知れ己に生かせ。儂はそのために話すんじゃから。

 でな。独立戦争のきっかけはほんの些細なことじゃった。埼玉にはかつて越谷レイクタウンというとてもとても大きなショッピングセンターがあった。その昔東京人が埼玉南東部に手前勝手に立てたんじゃ。『ユーリカの壁』建設後であっても東京人はショッピングにそこへ出かけた。従業員はモチロン埼玉人じゃ東京への不満爆発寸前のな。それはまぁお察しの通りじゃ。ある東京からの客が言った。「いやねぇ全く、こんなに立派なものがこんな田舎くさくてダサい人たちに管理されてるなんて、豚に真珠だわ」と。埼玉人はいよいよ抑えきれなくなって手近な東京人を襲い始めた。店内は一瞬にして戦場となったんじゃ。通報を受けた東京軍が直ちに鎮圧部隊を派遣。対する埼玉側は北三国からの義勇軍と有志の埼玉人で立ち向かった。東京側が四四〇人で埼玉陣営は約千百人と数字の上では埼玉の圧勝のように思われるが実際はそうでもない。言ったじゃろうて何もかも東京が上じゃって。埼玉側千百人のうち有志の埼玉人約五〇〇人はまともな武器なんて持っとらんかった。鍬に鎌やら金属バットフライパン鍋の蓋エレキギターなどなど実に多様なものを振り回して戦ったんじゃ。残り六〇〇の義勇軍も大したことはない。オンボロの機関銃と錆び付いた戦車じゃ暴発も珍しいことではなかった。東京はといえば金にモノを言わせて嫌に磨かれた最新鋭のアサルトライフルに頑丈な装甲車を現地に投入した。ともかくもこうして独立戦争の初戦を飾る『越谷レイクタウンの戦い』は始まったんじゃ。

 結論から言うと埼玉側の勝利となった。いや東京側の根負けというべきかの。埼玉の人間は銃口を向けられても怯むことなく敵陣営へと突っ込んだ武器とも言えない凶器を持ってな。それは勇敢というよりも狂気じゃったキチガイじゃ。独立のために喜んで東京人を殺した。片腕がなくなろうと両足がちぎれようと。その埼玉人の異常な様子に東京はひるんだ。正確にいえば現地の四四〇人の東京軍の人間たちが。そりゃそうじゃ軍人とはいえ普通の人間であることには変わりはないんじゃ家に帰れば家庭があったり愛する者がいる。埼玉人を殺そうとすると足がすくむ引き金にかけた指が固まる。そういう者から順に死んだいや殺せない奴から殺された。そうして一週間も経たずに四四〇人が二百人を切った。本国に援軍を要請しても耳を貸されなかった。本国の彼らは埼玉人を侮っていたんじゃ。埼玉人の狂気的な覚悟を知らなかったんじゃ。結局その数日後にわずか数十人まで数を減らした東京軍は撤退を余儀なくされた。こうして二週間足らずの短い戦いはいったん幕引きとなった。  

 東京の人間たちは敗戦の報道にひどく驚き動揺した。「なんてことだ、我々東京人があの下賤な民に負けたなんて」とヒソヒソとサロンであーでもないこーでもないと話した。何より一番ショックを受けたのはユーリカじゃった東京の優位を信じて疑う発想すらなかった。ユーリカは報復として東京中の埼玉人を捕まえて拷問して処刑した。死体は『ユーリカの壁』に磔られた。次に隣国に同盟を申し出おった。南の神奈川王国。東の千葉ピーナッツ農場。西の山梨連邦。埼玉の北関東四国同盟に対抗する形じゃな。このニュースに世界各国は目を剥いた。当然じゃあのプライドの高い東京が手を組もうなんて言い始めたんじゃから。しかしこの提案はアッサリ断られた。それも当然じゃもしも埼玉の独立が果たされれば東京の領土は半分以上減ることになる。そうすれば強大な国力も大幅に削られると考えたわけじゃな。すぐに神奈川は『武装中立同盟』なるものを立ち上げて周辺各国へ加盟を促した。簡単に言えば埼玉を応援する会じゃ遠廻しながらもな。直接埼玉を支援すれば東京と完全に対立したことになるが『中立』ならば問題はない。ただし『武装』はしている同盟じゃ頭のいい立ち回りじゃ感心するのう神奈川の王である黒岩祐介には。とにかく東京は埼玉との戦争を一国でしなければなくなった。だが兵の数には困らなかった。差別主義のエリート思考のやつらや先の戦いで親を殺された息子などなど埼玉人を殺したい者たちはたくさんいたようじゃ。

 さて。二戦目は海戦じゃった。その前に何度か交戦しているがいずれも小さなものじゃひとまず省くぞ。でこれは東京側の圧勝じゃったそのままの意味じゃ埼玉側は手も足を出なかった。戦いの始まりは突然じゃったいきなり茨城の船が東京湾内にまでわんさか入ってきて港を襲った。茨城国籍の船と言っても乗っているのは埼玉人がほとんどじゃった。埼玉に海などないからな借りたんじゃろう。東京側の対応は迅速じゃったすぐに海軍が出てきて応戦した。こうして『東京湾の戦い』が始まったんじゃ。しかしすぐに決着はついた埼玉が弱すぎた。当たり前といえば当たり前で埼玉に海はなくほとんどの埼玉人が海を見たことがなかった。当然海戦なんて経験はない。おまけに泳ぎ方も知らないで船から落ちたやつらは皆溺死した。わずか数時間で埼玉側が全滅して終わった。なぜ海戦に打って出たのか今だによくわかっとらん。初めての海ではしゃいでしまったんじゃろう何せ彼奴ら根っこのところはアホのままじゃから。まぁ次行くか。

 そして三戦目は秩父で行われた。今度は埼玉が勝った。ここからはもう埼玉のペースじゃったな。埼玉の有志軍が東京側の猛攻をのらりくらりとかわし続けて西埼玉の山奥まで誘い込んだ。といってもそんな巧妙な戦術は埼玉人の弱い頭では無理じゃろうて大方グンマー帝国の参謀の策じゃろう。で。そこで待っていたのはグンマー帝国の精鋭と秩父の山の民たちじゃった。彼らは森を使ったゲリラ戦を得意としていた。攻めては退いてまた攻めてはすぐに退く。このとんぼ返りな作戦は東京の兵たちにものすごく有効じゃった。東京には緑が少ない。彼らは森の暗さと視界の悪さを知らなかった。遭難してそのまま帰ってこなかった東京人もたくさんいる。泣く泣く撤退を余儀なくされたが方角が分からずに迷って埼玉人に捕まった者もいた。そういうやつらは『ユーリカの大虐殺』で家族を殺された埼玉人の拷問を受けた後むごたらしく殺された。死体は『ユーリカの壁』に飾られた埼玉人の骸が括ってある側の反対に。

 そんなこんなで埼玉が優勢を維持したまま最終戦の幕が上がった。その名も『埼玉=東京戦争』じゃ。まさに一連の独立戦争を代表するにふさわしい戦いじゃった規模もこれまでの戦いとは比べものにならん。三郷から所沢まで横に約六〇キロメートル展開した塹壕戦で戦車から戦闘機まで互いに出せるものを出し切った総力戦じゃった。埼玉側の戦闘機は栃木から借りたものじゃがな。兵の数も文字通りケタ違いじゃ。東京側が九万五千人で埼玉側は約十二万にも上る兵士がこの戦いに参加した。最初の『越谷レイクタウンの戦い』から数年の月日が流れ東京側もすっかり埼玉を敵として認識していた。相手にするのもバカバカしい下民というレッテルはとうの昔に消え去っていた。彼らにとって埼玉は自分たちの生活を脅かし家族を危険に晒す討つべき悪じゃった。一方の埼玉も埼玉じゃ初めは東京からの独立だけをひたすらに願った戦いだったはずじゃ。けどもいつの間にか東京が圧倒的な悪に見えていた。いつからかなんてことはわからん誰にも答えられん気づいたらそうじゃった。自分が正義。相手は悪。戦争の常套句じゃないつの時代もこれだけは変わらんのじゃ。

 そうして双方が掲げる正義に則って敵を殺した。殺し合った。結果は埼玉の勝利ということで終わった。最終的に生き残った兵は東京側が五千人足らずで埼玉側は一万人と少しじゃった。総勢二〇万人が死んだことになる。しかし終戦直後の埼玉は歓声で溢れかえった。「独立だ! 埼玉万歳! 万歳!」という声が日が落ちても埼玉中で響き渡った。先の戦いで息子を失った老夫婦も一緒になって両手を振り上げた。愛する息子が死んだ悲しみよりも独立の喜びが勝ったのか息子の死に無理やりにでも意味を見出したかったのかそのどちらかじゃろうな。

 とにかく独立戦争の勝者は埼玉となった。埼玉臨時政府は終戦後すぐに独自の憲法を交付するとともに埼玉人民共和国としての独立を世界各国に通達した。東京に正式に独立を承認させたのは最終戦から数ヶ月が経って開かれた『横浜講和会議』で結ばれた『横浜条約』じゃった。ここでも神奈川がシャシャリ出てきたんじゃな。全く今回の戦争で一番得をしたのは神奈川に違いないわ東京の国力を圧倒的に削ぎさらに埼玉にまで恩を売れておまけに人的被害はゼロときた。役得すぎるわ是非とも見習いたい限りじゃ。

 で。その後の埼玉についてもすこし喋ろうか。何。別にいい? 待て待てこれがかなり重要じゃ現代へと繋がっておるんじゃたかが歴史と侮るな。とにかく聞いてけ。

 無事埼玉人民共和国の第一書記となった大野率いる埼玉政府は大胆な改革に乗り出した。言うなればそうじゃな名前などないがここでは平等主義とでも呼ぼうかのう。簡単に説明すると国民全員が平等に衣食住を手に入れてそこに差異を生まないことを目指す経済的な動きじゃ。隣の田畑の出来が悪かったらこちらの収穫を半分渡す。その逆もある。これを国全体で行っていこうというんじゃな。なんでも西欧でもてはやされていた考え方らしい。そこにはバツクスという男がいてな。その男は自らの考えを科学で立証された理論だとして各地でその理想を謳った。似たような思想を持つ先人たちを空想的だと揶揄したりもした。確かに一理ある。皆が平等で貧富の差はなく飢える者もいないそんな暮らしもありえたかもしれん。だが。だがバツクスは理論だけに注視して現実の人間の何たるかを分かっておらんかったんじゃ。埼玉人は始めその考えにいたく感動し大いに賛成し勤勉に田畑を耕した。しかしそのうち誰かが気づいた。自分独りが手を抜いても隣近所と同じ量の配給であると。一度気づいてしまったらもう戻れん。何もしなくても生きていけるというのはいかに人をダメにすることか。一人また一人と鍬や鎌を振らなくなり終いには握りもしなくなった。当然食料はあっという間に底をつく。それでも皆働く気にはなれんかった。一生懸命働いたところでその頑張りは自分だけのものではない。努力しても大して報われない。そこから先はひどいもんじゃった。たった数年で全人口の二割に当たる一五〇万人が餓死した。その後埼玉に大きな動きはなくゆっくりと腐っていくように滅亡した。 

 東京も滅亡した。と言っても埼玉のようにじわじわと滅んでいくのではなく内部からの崩壊という形じゃった。敗戦後の東京は埼玉とは真逆の動きをした。言うなれば競争主義といったところか。自らの頑張りは必ず自分に返ってきた富や地位や名声といった形でな。初めは良かった戦争に負けた分の経済的ダメージをすぐに取り返してさらに戦争前よりも成長を加速させた。しかし隣国埼玉が滅んでから数十年が経った頃その競争主義にもじわじわと限界が来ていた。あまりに競争性が高すぎて取り返しのつかないほどの貧富の格差ができてしまったんじゃ。政府からの補助金なんて一切なかった医療費も子どもの学費も何から何まで自分の責任で支払わなくてはならなかった。裕福な親の子どもは裕福になり貧乏な親の子どもは貧乏になった。貧困層から生まれた鬱憤は埼玉系移民たちへと向かった。仕事がないのは移民たちのせいだと叫びながら街を巡ったんじゃそれがストレス発散法じゃった。終いには自らを『純東京人』だとする者たちと様々な国からの移民の血を引く者たちの対立が鮮明になった。そしてある日どちらかもしくは双方が武器を手にして争い始めた。これが『東京内戦』じゃな。この日をもって東京合衆国は事実上の滅亡となったわけじゃとさ。さてこれで儂の話は全てじゃどうじゃ埼玉について少しは分かったか。 

 またジジイの昔話を聞きたくなったらいつでも来なさい。この博物館に。


「すっごい面白かったね!」「うん、来てよかった~」「えぇ? 私、あんまり話がよくわかんなかったや……」「そりゃ、途中から寝てたからね」「そんなことより、さっさと次の展示行くよー」

 ちょ、待ってよ! と中学生らしき三人組の少女たちがフロアを出て行った。散歩の途中でアシスタントAIに提案され、気まぐれで入ってみた博物館だったが、結構面白い。

 どうやら当たりのAIを買えたようだ、と満足しつつ、改めて正面の電子パネルに目を遣る。その横には展示物の補足として数行の文字列があった。

『斎藤啓介(東京暦二〇四五~) 

 本館の開館に当たって当時の貴重な体験を残したいと電子脳化を決意、以来本館で解説員として現在まで活動中』

 東京暦ってなんだ……。どのくらい前なんだろうか。少なくとも十年二十年くらい前、というわけではなさそうだ。まぁ、大事なのは何年前かじゃなくて、過去にはこういうことがあったんだって学ぶことなんだと思う。目の前の電子パネルもそう言っていたじゃないか。いや、そんな言い方は失礼か……、電子脳とはいえ生きてることに変わりはないんだし。

 しかしさっきの啓介さんの話からすると、僕が今生きている時代は相当いいものなんだろう。戦争は世界中どこにだってないし飢餓も貧困もない。というかそもそも人間はほとんど働かなくなったし。今や人工知能が労働の担い手だ。国なんてものも無くなった。あとお金っていう物体も。そんなのはみんな社会の教科書に載ってる歴史であって、現実の僕たちにはあんまり関係のないことだ、と思ってた。でもどうやら違うらしい。過去があって今がある、なんてカッコつけたことをつぶやいてみたけどすぐに恥ずかしくなった。チラチラと周りを窺ったけど、聞こえた人はいないみたいだった。良かった。その挙動不審な様子を、館内を巡回している清掃ロボットが怪訝そうに見た、ように感じて僕は勝手にバツが悪くなった。

 こほん。さて、次のフロアは、と館内図を展開してみたら、どうやら『ユーリカの壁』の一部が展示されているらしかった。

 僕は早くこの目で見たいという衝動に駆られ、たまらず一歩踏み出した。

  

 

 



























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埼玉独立戦争 rei @sentatyo-

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